No.1580  2016.07.11親鸞聖人の無碍の一道

   更新が遅れまして申し訳ございませんでした。
   私は無碍の一道を歩みたいと云う気持ちから、長らく仏法を求めていたように思います。しかし、最近、それは親鸞聖人が歩まれた無碍の一道では無いだろうと確信するようになりました。 と申しますのは、日常生活に於いて、無碍の一道を踏み外すことが再三再四あるからです。多分、親鸞聖人も無碍の一道を真っ直ぐに歩まれたのではなく、無碍の一道を踏み外されそうになった時に、 念仏一つで越えて行かれたに違いないと思うからです。それは、私の敬愛する先生方が、そのように仰っていたことを思い出したからでございます。
   だからこそ、親鸞聖人は、「あなたが一人で念仏する時は、その隣で親鸞も念仏していると思ってくれ」と言い残されたのだと思うのです。 そもそも、無碍の一道を真っ直ぐに歩める器では無い私だとも思うのてす。そう思って親鸞聖人と共に人生を歩めること、これこそが、本当の無碍の一道なのかも知れません。

   今週の後半は、母の30回忌のお墓参り等の法事がございますので、今週の木曜コラムはお休みさせて頂きます。悪しからず、ご了承の程をお願い申し上げます。

なむあみだぶつ


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No.1579  2016.07.07ダッカテロの犠牲者を悼むー神も仏も無いのか?

   バングラディシュで起きたテロで、日本人を含む20名の方が犠牲になった。特に日本人7名の方々は、バングラディシュの国と国民の生活レベル向上に貢献するために働いていたのに、 である。27歳の若さで犠牲になられた下平瑠衣さんのご遺族は、「大切な娘との突然の別れがまだ信じられない状況です。なぜこのような事件に巻き込まれたのか、何に対して憤りをぶつけていいのか、 分かりません。娘を含む日本人の犠牲者は、バングラディシュの発展のために日々努力していました。微力ながら志を持って尽力してきた娘に誇りを持っています。志半ばでこのようなことになり、 娘も無念でならないと思います。」とコメントされています。

   このニュースを聞いた時、私も「このようなことがあって良いのか!?人の為に尽くしている善い人たちが犠牲になるなんて、神も仏も無いのか・・・」と、心底思いましたし、 今もその気持ちが薄れることは有りません。

   ただ、こうも思いました。あの東日本大震災、阪神淡路大震災、そして今年の熊本地震でも、誰彼の区別無く無差別に多くの犠牲者が出ました。私どもは、神や仏は、善人を救い、 悪人を挫くものだと考えていますが、実際には、善人悪人と云う区別無く、 過去から現在までの無数の原因が重なり合った結果(仏法では縁と言う)として、どんな命でも奪うのが神であり、 仏なのだと考えざるを得ません。

   そうしますと、無防備な私たちに出来ることは、何故このようなことが発生したかの原因と対策を追求する一方で、犠牲になられた方の志を引き継ぎ、決して忘れず、 テロの無い世界を実現する為に、道は遠くとも、世界の一人一人が、自分の周りの人々と平穏で平和な生活を実現すべく、日々、努力することでしかないと考えます。
   かなりの辛抱と努力が要りますが、私は私的生活でもビジネスの世界でも、それをモットーにして参る所存であります。

なむあみだぶつ


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No.1578  2016.07.04『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第五章』詳細解説―(8)親鸞は露悪家か

●無相庵のはしがき
   『露悪家(ろあくか)』と云う言葉は耳慣れないのではないかと思います。『露悪(ろあく)』は、物事の欠点や悪い・醜い部分を意図的に表現することでありますから、『露悪家(ろあくか)』 は、露悪に表現する人と云うことになります。露悪は、謙遜では無いでしょうが、謙遜が過ぎれば、露悪になり兼ねないのかも知れません。 親鸞さまは、晩年に『愚禿悲歎述懐』と云う和讃で、 ご自分を徹底的に(謙遜を通り越して)卑下されているように受け取られる文言が並んでいます。これを引き合いに出して、浄土真宗では救われないのだと宣伝する他宗派が存在することは事実でございます。
   私も昔は、謙遜が過ぎる(露悪)ではないかと思ったことがございました。しかし今では『愚禿悲嘆述懐』に謳われているお言葉は全て本心から出たものだと受け取れるようになりました。 ひたむきに真実を求める人ならば、世間の風評が全く気にならないのだとも思いました。そして、真に勇気ある人、無碍一道を歩む人になるのだと思いました。

●『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第五章』詳細解説―(8)親鸞は露悪家か
   この間も1日出家で、本音と建前と云うことが問題となって、皆、本音は虚仮不実なんやけど、建前だけは格好良く見せたいと云うものがあるんやね。 親鸞と云う人は建前の皮をひんむいて、本音を出したと云うことに、親鸞さまの特色があると思う。その時言うたのは、親鸞さまが自分が仏を信じると云うのではなく、仏から信じられている身である。 つまり大菩提心の中に、絶対他力の中に生かされて生きておる自分であると云うことがはっきり分かっておったればこそ、自分の内面の建前から言うと、隠しておきたい様なところをさらけ出して言われた。
   親鸞さまがそう云うことを言われると、よく露悪(ろあく)と間違えられる。露悪と云うのは、自分の悪いところを、わざと人前にさらけ出して喋ることだ。誰かれの区別なく見せるのが露悪家。 露悪家と云うのは、一つの気取りがある。自分で意識せんでも気取りがある。親鸞さまは露悪家でない。親鸞さまは自分のことを信じてくれる人には話をされたでしょうけれど、 大部分が晩年に著述として書き残されたもので、後世の人が自分の書いたものを読んで、何か信じてくれるであろうと書かれた。
   現に親鸞さまは、「人倫の弄言を恥じず」と言うか、人から笑われてもそう云うことを恥ずかしいと思わんと、 こう云うふうに言うとられる。人が笑おうが笑うまいが問題でない。自分の正体ははっきりこうだと言われた。と云うことは素晴らしいことであると思うんですね。 名僧知識の中でこんなに自身の内面をさらけ出した人は他にない。露悪家ではなくて、さらけ出して語られたと云うこと。露悪家と云うのは、信心も何にも無いものが言うことなんで、 親鸞さまは仏から信じられていると云う深い確信があったればこそ、本音を出すことが出来たんだろうと思うんです。

   なぜ、本音と建前と云う問題が出たかと申しますと、座談会で誰かが言うたことがキッカケとなって、例の松本梶丸君の檀家のガンで入院しているお姑さんを看病しているお嫁さんの話を、 そこで紹介した。お姑さんがもうすぐ死ぬと医者から言われて、嬉しい、と。思い出されるのは、イジメられたことばかり、と。そして病院で、はじめて親鸞聖人にお会いしました、と、 梶丸君に告白した、あのお嫁さんの話です。
   親鸞の晩年に「虚仮不実のわが身にて、清浄の心もさらにない」と、こう言うた心境に初めて触れることが出来たと、そのお嫁さんが言うとるんやね。 人前に隠したいことをわざと言うのでない。この人なら分かってくれるやろうと思って、松本君を信頼して言うとる。誰にでもそう云うことを言うのだったら、露悪家と言うけれども、 私の気持ちをこの人だったら分かってくれると思って言うのだったら、露悪家でないと思うんですね。

   親鸞さまは、露悪家として言われたんやない。この私の言うことを本当やなあと感じてくれるものがあると確信しておられたからこそ、書き残されたと思うんですね。 親鸞さまはそう云う点で大変勇気のある人であると。勇気と云うのは人をやっつけるのが勇気があるのでなくて、真実と云うものにひたむきに向かうのが、勇気があるのであって、 虚仮不実を感じたらそれをあるがままに言えると云うのが、勇気のある人であると思うんです。

   日本の民衆が、先祖供養、あるいは先祖を大切にすることを醇風美俗(じゅんぷうびぞく;素直で人情の厚い、美しい風俗・風習)として信じてる時代に、 父母孝養(ぶもきょうよう;亡き親のために供養をして、ねんごろに弔うこと)のために念仏はせん、と言うのは破天荒(はてんこう;前代未聞)なことですよ。これは今日の我々が『歎異抄』を読んで、 親鸞さんは偉いなあ、と――そんなものでないんや。一般の民衆が親を大切にし先祖を大切にしている、それがいいことやと皆が信じてる時代に、父母の孝養のためにいっぺんも念仏せんと云うのは、 実に破天荒なことと考えねばならんと思うんですね。
   この浄土の覚りを開くことは、絶対他力の中に生きている自分だと云うことが分かりますと、一切衆生がいないと我々は生きられんのやから、草や木も虫けらもおらんと、 我々は生きられんのやから、一切衆生を拝むと云うことが神通方便になる。こう云うことであろうと思うんです。

   昔の人も蚊が来るとパンと叩いて殺した。しかし、その時に「今度生まれて来る時は人間に生まれて来いよ」と言って蚊を殺した。殺された蚊が人間に生まれて来ることありはせんけれど、 今度生まれて来る時は、人間に生まれて来いよと云う言葉を残すことが、本当の人間らしさと云うものであろうと思う。
   我々は蚊を殺さないと生きておられん。公衆衛生上、伝染病の媒介者であると言うて殺すのと、今度生まれて来たら、人間に生まれて来いよと云う心で殺すのとでは、 同じ殺すんでも大きな違いがあるんではないかと思うんですね。人間に生まれて来いよと云う庶民の時代には、仏法が浸透していたと思うんです。今日は科学技術の時代でありますけれども、 科学技術が発達したために、人間として持っておらねばならん感情まで無くなってしまったんでないか。科学技術が生んだ大きな不幸でないかと思う。
   それを回復するのは、仏法以外にない。仏法が今日まで地に落ちてきたその結果が、科学技術をのさばらせて来たのでないかと思うんです。それが幾分見直しがされて来ております。
   私はこの間、鎌倉へ行くのに横浜駅で降りまして、かねがねそう云うことを考えておりましたが、会社が沢山出来、煙突から煙吐いて仕事をやってるんです。 これが昔のような農耕社会だったら、とてもこれだけの人口は養っていけんと思うんです。科学技術、工業社会になったために、これだけの人間を養っていけるんだと思う。
   それから流通機構と云うのがありまして、メーカーの原価は安いけど、我々の手元に入る時にはその倍の倍にもなる。その流通機構で食ってる人間が非常に多い。 生産地から直接販売と云うことが全部行われたら、流通機構で食ってる人間が食えなくなると云うことがありまして、これは難しい問題だと思いますけれども、私の言いたいのは工業社会になったればこそ、 日本のこれだけの人口が養っていけるんだと思うんです。その工業社会になった弊害がだんだん出て来ております。弊害が分かったら止めることが出来るかと云うと、止めることが出来ない。 そう云うところに、現代こそ不安の時代に立っておると云うことが言える。その不安を解消するのにはどうするか。真実の法に会う以外にない。だから今こそ浄土真宗を要望されている。 要望される声は聞きませんけれども、工業社会になって、色んな不安が起こってると云うことが、浄土真宗を要望している証拠であろうと思うんですね。こう云う時に、浄土真宗の流れを汲む者は、 どう生きるべきか。そう云うことを深く考えねばならない時代ではないかと思うんです。

●無相庵のあとがき
   詳細解説文の中にある、『自分が仏を信じると云うのではなく、仏から信じられている身である。』と云う言葉は、実に米澤秀雄先生ならではのお言葉だと思います。 普通は、仏様は信じるものであり、仏様から信じられると云う考え方は出て参りませんが、「仏とは、真実そのもの、〝はたらき〟そのものを称して〝仏〟なのだ」、 と云う米澤秀雄先生のお考えから出たものだと思います。仏様から信じられましたら、その日常生活では常に真実を意識しての言動とならざるを得ません。 あの東京都知事の様な振る舞いはとても出来なくなるのだと思います。

   また、「科学技術が発達したために、人間として持っておらねばならん感情まで無くなってしまったんでないか。科学技術が生んだ大きな不幸でないかと思う。それを回復するのは、 仏法以外にない。仏法が今日まで地に落ちてきたその結果が、科学技術をのさばらせて来たのでないかと思うんです。」と、はっきり、仏法が現代の混迷世界を救う唯一の宗教であり思想だと仰っています。

   私もまことにその通りだと考えますが、一朝一夕に変えられるものでは無いとも思っております。そこで私達親鸞仏法者は、親鸞聖人の教えを我が身に体現した上で、先ずは、 自分自身の有縁の人々(親子兄弟の親族、地域近隣の人々)との平穏・平和な日常生活を実現出来る私でなければならないと思っているところであります。

なむあみだぶつ


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No.1577  2016.06.30『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第五章』詳細解説―(7)わが身をおさえる

●無相庵のはしがき
   今回の『わが身をおさえる』の〝身〟は、心とは別の〝我が身体〟を意味していると思います。そして、〝おさえる〟と云うことは、 「しっかり我が身、我が命を認識しなさい」と云うことだと私は受け取っています。そして、これは他の宗教、イスラム教ともキリスト教とも異なって、仏教の最も根本的、特徴的な教えであると、 米澤英雄先生が考えておられることであり、私も、改めて共感する教えだと思いましたが、更に、仏教の中でも親鸞聖人の浄土真宗は、米澤秀雄先生が結論として申されていますが、 『真宗の身のおさえ方が、身と我執とを密着させておさえたところに、真宗の優れたところがあるんじゃないかと私は思うんです。親鸞さまはどう云う形で、我執と密着した身をおさえたかと言うと、 晩年の『愚禿悲嘆述懐』ですか、「虚仮不実のわが身にて」――というのは、我執と身と云うものを密着させておさえた。』と云うことが無ければ、 親鸞聖人のご信心とは申せないのだろうと思ったことでございます。

●『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第五章』詳細解説―(7)わが身をおさえる
   仏というのはどういうものかと分かったのを現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)、現生不退(げんしょうふたい)と言う。生きてる今もわれわれは大菩提心、 絶対他力の中に居ると云う、自分の本当の姿に会うたのを、現生正定聚、現生不退と言うのであろうと考えておるのですね。

   六道を出る、六道を超える――天人、・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄を超える。自力聖道門では「竪超(じゅちょう)」と言うて、タテに超えると言うて、 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏と、一つずつ克服して、仏にまで到達する。これタテに超えると言うわけです。
   真宗では、念仏して横に超える「横超(おうちょう)」と云うことを言う。私はこの「竪超」と「横超」と云うことを考えて、よく言うでしょう。我々に親があって、 その親にまた両親があって、その両親にまた両親があって、その両親にそれぞれまた両親があって、ずっと上っていくと、無限に上があると思うんです。 こう云うのが竪超、竪(たて)に超えるのだと思うんです。

   「横超」と云うのはどういうことかと言うと、絶対他力の中から皆来ておる。大菩提心の中から皆、生まれてきておる。それが分かるのを、横に超えると言うのや、簡単に。 これなら、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間――こんなこと言わんでも、大体両親を持っておるものならば、それをずっと上がっていくのが竪超と言うて、その両親たちもみんな絶対他力から生まれて来た、 法身仏から生まれて来た、〝はたらき〟そのものから生まれて来たと分かるのが、横に超える。南無阿弥陀仏で横に超える。 横超の直道(じきどう)と言うのはこう云うことや、と言うと大体分かって貰えるんでないかと、こう思うんですね。

   分かると云うことは、難しいことを言うたってどうもならん。分かると云うことが大事だと思うですね。私は、体を持ってるものは皆分からねばならんと思う。 身をおさえたところに西洋と東洋の違いがあると思うんですわ。西洋は身をおさえておらん。と言うのは、西洋の文化と云うのは科学技術の文化で、これは皆、頭で考え出してきたんやから、 頭ばっかり強調して、身体と云うものをあまり重要視して来なかった。
   ところが東洋では支那の思想もそうですが、実践躬行(じっせんきゅうこう;理論や信条を自ら進んで行為にあらわしていくこと)と云うことを言う。これは東洋思想の特色で、 身をおさえていく。実践と云うのは身体で行うんですから。
   仏教も身を大切に考えておるところに、東洋思想、仏教思想の特徴があると思うんですね。身をおさえている特徴を言うと、禅ですね。坐禅すると云うことが、 体を重要視する考えから来たものやと思う。西洋はアタマ、考えばっかりで生きて来た。フランスのデカルトと云う哲学者が「コギトーエルゴースム」と言うのか、 「我おもう、ゆえに我あり」――こう云うことを言うて、そう云うことが西洋哲学の大きな根拠になってるわけですけど、私に言わせると、思う以前に身があるのでないか。 赤ん坊は何も思うておらんけれども、体を持っておる。思う以前に体があると云うことが非常に大事なんだ。身をおさえることで最も特色的なのが、禅です。アタマで行詰まった西洋が、 禅に飛びついたと云うことが言えるんですね。 昔、鈴木大拙先生がアメリカで禅の話をされた。それが人気があったと云うことは、禅が身をおさえているところであろうと思うんです。

   今、フランスへ渡っている弟子丸泰仙(でしまる たいせん、1914年 - 1982年)と云う曹洞宗のお寺さんがおられるけど、もとは実業家であって、 資格は何もないのに禅宗のお寺さんになって、シベリア鉄道をまわってフランスへ行って、倉庫の中で、酒だる一つ転がしてきて、その上で線香立てて坐禅していた。 そう云うことがフランス人の興味をひいて、フランスで弟子が一万人以上あると言う。フランスでも知性、頭で考えることで行き詰って、体って重要なもんだなあと考えたのが、 弟子丸泰仙がフランスでもてている所以であろうと思うんですね。

   真宗では坐禅はしないけど、「わが身は現に是」と、これは善導大師の言葉やけど、ちゃんと身をおさえてるんや。わが身は現に是れ、と云うのは、ただ、 体だけをおさえてるのでなくて、体にくっついている我執、密着してる我執をおさえた。身と云う言葉で我執をおさえたところに、善導の考え方の特色、浄土真宗と云うものの流れがあると思うんですね。 身をおさえたと云うところに、仏法の特色があると思う。西洋と、もし西洋思想と東洋思想と対立させるならば、身をおさえているか、身を忘れてるか、 そう云うところに特色があるのではないかと思うんですね。

   真宗の身のおさえ方が、身と我執とを密着させておさえたところに、真宗の優れたところがあるんじゃないかと私は思うんです。親鸞さまはどう云う形で、 我執と密着した身をおさえたかと言うと、晩年の『愚禿悲嘆述懐』ですか、「虚仮不実のわが身にて」――というのは、我執と身と云うものを密着させておさえた。

●無相庵のあとがき
   米澤秀雄先生が〝身〟を強調されるのは、〝いのち〟が宿っている〝身〟だからだと私は考えています。教育現場で能く「命を大切にしよう」と先生方は仰っているようですが、 その〝命〟は、ただ一つの命では有りません。遠い遠い祖先から受け継いで来た、そして、他の命を犠牲にして連綿として繋がって来た命です。また、今の命は、周りの人々、 周りの動植物の命に支えられている命です。そして更に、一つの私の命は、太陽と空気、海の存在あればこその命であることを認識しなければなりません。 身を大切にしない西洋文明は、浅知恵でしかない人間の頭だけを頼りにして発達して来たものだと思います。ですから、他人の命も、自分の命も尊いものだとは思えないから、 自爆テロに走るのです。それを米澤秀雄先生は、現代社会に頻発する自爆テロもなかった昭和30年頃に、指摘されているのです。 「自分は何故今、此処に生きているのか、自分の命は何なのか?」を問うのが仏教です。仏様とか神様を拝むのが真の宗教ではないと私も思っています。我が身を拝むのが、本当の宗教であり、 信仰だと思うのです。

   我が身を拝むとは、そんな尊い我が身でありながら、「その心は如何に?」と自己を問い直されたところに、親鸞聖人の教えの尊さがあると言えるのではないかと考えます。 「自己中心であり続ける我が心をどうすることも出来ないなあ」と、親鸞聖人は、『愚禿悲嘆述懐』と云う和讃に吐露されています。それは、折角人間と云う尊い身を頂戴しながら、考えていることは、 最下級(下品下生;げぼんげしょう)の煩悩具足の私だと云う嘆きの和讃であります。でも、嘆きつつも、そんな真実の自己に出会えた喜びを謳われた和讃でもあるのではないでしょうか。 それが『横超』と云う信心だと思うのです。

   昨日の6月29日は、母の30回忌(生誕110年でもあります)を迎えた日でございました。私が親鸞仏法に遇う身を頂戴出来ましたのは、祖父・塩田萬市、母・大谷政子、 そして幼くして亡くなった、私の長姉・大谷公子有っての故でこざいます。
   昨日、改めて、我が身を大切にして、その遺志を後代に引き継がねばならないと思ったことでございます。

なむあみだぶつ


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No.1576  2016.06.27
大谷政子のことー神戸新聞記事(昭和61年1月21日 火曜日)から

●無相庵のはしがき
   私の母、大谷政子は明治39年(1906年)6月19日に生まれ、昭和61年(1986年)6月29日、80歳になった10日後、予兆もなく突然に亡くなりました。 死因は分かりませんが、糖尿病を患っていましたし、高血圧でもありましたから、心不全と云うところでしょうか。 この新聞の取材を受けた5ヶ月後に亡くなりましたが、取材記者に「この年になっても会を催すことで心が燃え上がるんです」と申しておりますから、未だ未だ頑張る積もりだったんだと思います。 垂水見真会を続けたことで、兵庫県から、日常見聞される善行を表彰する『のじぎく賞』を受賞しており、記念写真が残っておりますが、私が同席していないところから、〝のじぎく賞受賞〟は、 この取材の10年位前、昭和50年頃のことだったと思われます。写真が残っていることから、公に認められたことは嬉しかったのでしょう。


四郎・政子・公子公子・玲子   母が垂水見真会を主催するに至る機縁となりましたのは、長女の公子を幼くして亡くしたことですが、その公子を母が抱いて、父大谷四郎との家族写真が残っております。 また、公子(満4歳)と次女の玲子(109日)の二人で撮った写真(昭和9年10月29日)は、公子の4歳の誕生日だったのかも知れません。 写真の裏に二人の名前と撮影日と年齢を母が手書きしているとても貴重な写真です。

●大谷政子のことー神戸新聞記事(昭和61年1月21日 火曜日)から
   ★見出し記事―仏教講演会を主催して330回

山田無文師   月に一回の仏教講演会を三十五年間、一度も欠かさず主催してきた一市井の女性がいる。このほど三百三十回を迎えた。神戸市垂水区五色山2丁目4-30、 大谷政子さん(79)がその人。講師の人生観、現代人の心などについての法話を聴く集いで、宗教色を薄めている。過去の講師には亀井勝一郎、山田無文師らの名がある。 〝市井人の一灯〟ともいえる営みを支えてきたのは、五十年前に亡くした子への鎮魂からだった。


★本文記事

   昭和十二年、大谷さんは長女を病気で亡くした。小学校に入学して四日目である。どうにも自分自身を納得させることが出来ない。 「なんでこんな悲しい目に遭うのか」と自問を繰り返す日々が続いた。ふと、父の姿を思い浮かべた。実業家の父は大谷さんの兄にあたる長男を五歳で亡くして以来、仏教(浄土真宗)への信仰を深め、 立ち居振る舞いに、それが表れていた。大谷さんは近くの寺で開かれる法話に足が向くようになる。救いの言葉が聞けると思っていたが、そうではなかった。「炭団(たどん)はいくら磨いても炭団。 どうにもならない自分をまず見詰めなさい」。そんな分からない話ばかりだった。通ううち、自身の姿がおぼろげながら、見えてきた。病弱の娘を、よかれと思って大事に育てた。 だが、実は「あれはダメ、これはダメ」と不自然に接していたことに気付いた。それは、その子を生かすことへの執着心からだった。 お茶の水女大を出てからの教師時代、そして結婚後の妻、母としての自分の姿を振り返って冷や汗をかく思いがした。弱い子をますます弱くしていたことに気付き、以来、 他の子への接し方が自然で大胆になった。そして、人生の苦を知らずに去った娘は「私にとっての菩薩(ぼさつ)様なのだ」と思えた。戦時中、故郷の島根に疎開し、 五人の子供を抱えて食うや食わずの苦しい生活でも近くの寺へ法話を聴きに通い詰めた。 柴山全慶老師戦後、大谷さんは神戸に帰り、仏教講演会を主催する決心をする。「垂水見真会」の名前で、昭和二十五年の十二月、龍谷大学教授藤原凌雪師を迎えて第一回を催した。抹香臭い雰囲気を避けようと、 会場は公民館などを利用し、講師も法衣をまとった僧侶より、大学教授や文化人で、かつ仏教者でもあるような人物を選んだ。昭和二十九年に亀井勝一郎を呼んだときは、数百人が詰めかけた。 会の資金は参会者の寄付や一円玉貯金が基礎になっている。
暁烏敏講師には、犬養孝(文学者)、竹中郁(詩人)、梅原猛(哲学者)、ら文化人や学者のほか、山田無文師や、南禅寺官長だった柴山全慶師らの名がある。十年前から会場を自宅に移し、数十人の規模で続けてきた。
井上先生と政子井上善右衛門先生昨年十二月の集まりが三百三十回目。その日の講師を務め、登場回数が最も多い(六十九回)井上善右衛門元神戸商大学長(仏教哲学)は、 「本当によく続けてこられたと頭が下がります。他に例のない営みではないでしょうか」と話す。


   大谷さんは「会を催しながら、親鸞聖人の教えに目覚め、そして禅宗の素晴らしさを知りました。私自身、煩悩の製造機みたいなもの。生身の人間ですから、煩悩があって当たり前。 でも自己中心の見方から離れられるようになりました。いい煩悩もあるので、それを伸ばそうか、とぐらいに考えています。人間の命は授かりもの。みんな生かされている存在ですし、 講演会も、〝私が主催〟という大それた気持ちからではなく、開催させていただくという心境です。でもこの年になっても会を催すことで心が燃え上がるんです」と話している。 (糸野清明記者)

●無相庵のあとがき
疎開時の家族写真   母と五人の子供が疎開したのは私が生まれて間もない昭和20年4月初旬だと思われますが、いつ、どこで撮影したか不明です。母と五人の子供が写っている写真から推定して、 疎開先で、そろそろ神戸に帰る直前位ではなかろうかと思います。写真に写った人物の背丈と雰囲気から、母政子(39歳)、次女玲子(11歳)、三女圭子(9歳)、4女洋子(5歳)長男靖彦(3歳)、 次男國彦(1歳)と、特定できます。

   さて、現在、私は母の遺志を継いで、このホームページ『無相庵』を開設しております。本当は仏教講演会『垂水見真会』を何らかの形で再開したいと考えておりますが、 経済面での見通しが必要だと考えておりまして、その為にも、我が社(株)プリンス技研の事業の収益を大幅に上げられる様、一踏ん張りしなければなりません。お金儲けは仏法興隆の為だと割り切って、 頑張る積もりです。

米澤先生と政子   この度、親・兄弟姉妹が持っている写真を集めることが出来ました。そこで、一枚一枚確認しましたところ、最近の無相庵コラムに頻繁に登場する米澤秀雄先生が垂水見真会に出講された時 (昭和60年12月1日、演題は『何故仏法を聞くのか』)の写真が見付かりました。母が亡くなる7ヶ月前、母がもう少し、米澤先生が亡くなられる平成3年3月まで生きていれば、米澤先生には、 後数回は垂水見真会に来て頂けたのにと思って残念に思っています。

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No.1575  2016.06.23
無相庵のルーツ、祖父・塩田萬市のこと

●無相庵のはしがき
   私の母・政子の父親、つまり私の祖父は塩田萬市【1981年(文久1年)~1923年(大正12年)】と申しますが、塩田萬市は、 明治・大正時代において石膏鉱山事業でトップシェアーを占めていた経営者でした。私の母・政子が幼い長女の早世をきっかけとして親鸞仏法に帰依しましたが、 祖父・萬市も、五歳の長男を亡くしたことがきっかけで、親鸞仏法に帰依したようであります。
   母からは祖父・萬市が常念仏の信仰者だったと聞いてはいますが、その祖父・萬市の臨終を迎えた時、長女勢津子の夫(貞一)が義父・ 萬市に死に水を含ませようとした時、萬市は「ていいちゃへただのフ、フッ・・・(貞一は下手だの、フ、フッ・・・)」と、呟きながら息を引き取ったそうで、 私は、臨終往生ではなく、生きている間に往生を遂げていたと称される『現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)』を体現したと思われる、 その萬市の逸話がとても印象深く、忘れられないでいます。このコラムで、塩田萬市の曾孫である塩田直也氏が作成された『塩田萬市伝』を紹介させて頂きます。

●『塩田萬市伝』(塩田直也氏作成)を転載
   塩田萬市は、文久元年(1861年)、鷺浦の長島家に生まれました。とても利発な少年であったと長島のおばあさん(塩田萬市の姪にあたる人)から聞いたことがあります。
   その頃の塩田家では、一人娘のサダに鷺浦の安部家から伝四郎が婿として入っていました。伝四郎とサダとの間には、ツキ、ツマ、トヨ、イナ、トモ、 クニの六女が誕生しましたが、男児は生まれず、二代続いて婿を迎えることになります。長女ツキの婿として塩田家に入った萬市は当時塩田家の家業であった 海運業を手伝います。当時、鷺浦は、北前船の寄港地として栄えていて、安永八年(1779年)から大正八年(1919年)までの 140年間に残っているだけでも2772艘(そう)の入港の記録が現存しています。当時、塩田家も船を持って交易し、昆布や反物などの海産物問屋を商っていたそうです。私の子供の頃には、まだ蔵の棚に大福帳が積まれてあったりしました。現在も、堅牢な「舟箪笥」が名残として残っています。

   海上交通が中心であった時代には、鷺浦は「下駄履きで大阪まで行ける」と言われたほど交通至便に開かれた場所で、 往時は1700人以上の人口で溢れかえっていました。加藤貞文著「北前船~寄港地と交易の物語」には、「海辺の平地に密集した鷺浦の集落を歩くと、 どの家にも本来の表札のほかに、屋号の表札が掛かっているのである。」とありますが、加賀屋・備前屋・大坂屋・堺屋・丹後屋・但馬屋・大和屋・播磨屋・因幡屋・ 讃岐屋などと、北前船の航路の国々の名をつけた屋号が掛かっています。交易で鷺浦を訪れ、そのまま住み着いた人々が故郷の国名を屋号として伝えたのだと思われます。 ちなみに我が家の屋号は苗字と同じで、「塩田屋」といいます。萬市の生家の長島家は「釜屋」です。塩田姓も長島姓もあまり出雲地方には少ない姓ですので、 何代か前にどこか別の場所から移り住んだのではないかと思われます。

   明治23年(1890年)、伝四郎が亡くなりますが、その後くらいから萬市の兄の長島力之助の勧めもあって、鉱山の経営を手掛けるようになります。 事業は成功を収め、明治の末には萬市は母屋を増築しています。その際、二階の壁面に大鶴の「鏝絵」を作らせています。 渡部孝幸著「鏝なみはいけん」には次のように書かれています。
   「塩田萬市は、大阪藤田組の長島力之助の弟で、大田市大屋町の石こう鉱山を採掘した。鷺浦に居宅を新築(正しくは増築)したのは、明治の末頃で、 石見にいた縁で、職人を呼び寄せ作らせた。鏝絵は馬路の左官が施したそうで、ここにしか鏝絵(こてえ)は残っていない。 平入りの母屋に鈎の手に立つ離れの二階の壁にある。 古い港町の風情を残す町並みの路地から掘越しに『大鶴』を見ることができる。」

   事業は順調でしたが、萬市が33歳のとき、妻のツキが亡くなります。母親のサダは、六人姉妹の一番末で唯一まだ嫁いでいなかったクニを 萬市の後妻にすることにします。義理の兄である萬市の妻になることをクニがどう思ったか分かりませんが、「家」のために、 当時としてはそんなに珍しいことではなかったのかもしれません。 結婚すると、クニは長男英一を出産します。女系の血筋で、二代続いて婿を迎えていた塩田の家にとっては、待望の男子でした。 萬市が英一を可愛がったであろうことは想像に難くありません。ところが、愛息英一は五歳で早世してしまいます。萬市はたいそう嘆き、 この頃から仏教を深く信仰するようになります。鷺浦の寺には萬市の寄進した記録が今でも残っています。

   過去帳を開くと、ツキと英一の戒名が見開きの一頁に並んで記録してあります。そして、その頁がとりわけ煤けて黒くなっています。想像するに、 萬市はいつもその二人に名が記された頁を開いて供養の読経をしたのではないでしょうか。私の小さい頃、お盆やお彼岸以外のときでもよく家族が仏間に集まり、 読経をさせられました。あれは誰かの月命日だったのかもしれません。 英一の死後に生まれた政子を萬市はとても可愛がった、と私の祖母の勢津子はよく言っていました。萬市にすれば、 政子は英一の生まれ変わりのように思えたことかもしれません。ですから、萬市は女に学問などいらないというような風潮の時代に、 娘二人に高等教育を受けさせたのだと思います。勢津子は松江の島根県女子師範学校(現島根大学)に、政子は東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)に進学させていますが、 とても先進的な教育方針だったと思います。

   萬市は事業を拡大させていきました。「大田市webミュージアム」のHPには次のように記されています。「大正7年(1918年)、 鉱山所有者の塩田萬市氏が大阪石膏株式会社を大阪に創立し、鬼村鉱山、松代鉱山、出雲市の鰐淵鉱山、鵜峠鉱山の経営を行うようになった。 島根県の主要な石こう鉱山を一手に経営していたことになる。昭和初期には島根県の石こう生産量は全国の7割に達していた。」

   しかし、株式会社創立の5年後、萬市は身体の不調を感じ、自身は鉱山事業から撤退を決断します。 その当時のお金で五万円という巨額な財産を残しましたが、それらはほぼすべてを大阪石膏株式会社の株にかえて保有していました。 ところが、第一次世界大戦後の不況などのために株は暴落してしまい、 さらに同業者や知人の借金の連帯保証人となっていたために、「出雲大社の裏から鷺浦に行くまでのすべての山は塩田家のものだ」と言われるほどあった山林も手放すことに なりました。 萬市は背中の痛みを訴えるようになり、松江の日赤病院に入院しました。治療の甲斐もなく、関東大震災の起こった大正12年(1923年)、 12月22日に62歳で永眠しました。萬市の長女勢津子には大社町荒木の中山家から貞一を、塩田としては三代続けての婿として迎えていましたが、その長男、 弘一がまだ喪も明けていない大正13年(1924年)の1月6日にわずか1歳で亡くなっています。 父萬市の死の15日後に長男を亡くした勢津子はあまりその時の心境を語ることはありませんでした。 萬市の戒名は、尊命釋順香進士です。

   今、祖先の鉱山経営の証として残っているのは、鬼村鉱山算出の地球儀ほどの大きさの球形の石膏石だけで、鷺浦の家の客間の床の間に鎮座しています。 萬市の写真がその石膏石を見下ろすように壁に架かっています。 昭和55年(1980年)頃、萬市の孫である塩田功は鬼村鉱山のあった場所を訪ねています。そして、その時の印象を次のように書き記しています。 「私は祖父の経営していた大田市大屋地区の旧鉱を訪れ、あらためて祖父の偉大さに驚きました。地区の古老は今でも塩田萬市の名前を憶えています」

   幕末に生まれ、明治、大正に激動の時代を生きた萬市という人物を父祖(ふそ;父や、それより前の祖先のこと)に持つことを、 誇りに思って忘れないようにしなければならないと思います。 平成25年(2013年)
塩 田 直 也

●無相庵のあとがき
   塩田直也氏が末尾で、「明治、大正に激動の時代を生きた萬市という人物を父祖に持つことを、 誇りに思って忘れないようにしなければならないと思います。」と述べておられますが、私も、親鸞仏法に支えながら、大事業を起こした祖父を、改めて誇りに思い、 親鸞仏法を後の世に伝える責任を果たすことで、塩田萬市、大谷政子に恩返ししたいと切に願っております。

島根県大社町鷺浦の地図↓

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No.1574  2016.06.20
御法の網を広げてー垂水見真会のこと、大谷政子のことー

●無相庵のはしがき
   先週の月曜コラムで、私の母の生まれ故郷を訪ねたことを申し述べました。母の生まれ故郷は、この無相庵のルーツでもあります。そこで、これから、 その所以を皆様にお知らせ致したく、まず、今回は、私の母政子の仏教との関わりを、母が七十七歳の時(亡くなる3年前)に受けた、 臨済会の取材記事を転載させて頂き、 ご紹介させて頂きます。そして、この無相庵は、私の祖父から母へ、そして母から私へと血脈と共に法脈として生まれたものであることを、次回、 鉱山経営者であり、念仏者でもあった祖父・塩田萬市をご紹介させて頂きたいと思います。祖父は、毎月親鸞聖人の御命日には工場を有給休暇とし、僧侶を招いて工場の人達に法話を供養していたと申します。 その祖父を誇りに思いつつ、私も、これからもこの無相庵を続けて参りたいと思っている次第でございます。

●御法の網を広げてー垂水見真会のこと、大谷政子のことー
   昭和25年以来今日まで、ほぼ毎月一回のペースで法話の集い(仏教講演会)を開催し続けている女性が、神戸市垂水区に住んでいらっしゃいます。現在も御自宅を開放して、 仏の言葉に接する機会を多くの人に提供しているその人、大谷政子さんの三十余年にわたる御活動の概要を紹介させていただきます。

   大谷さんが主催する会の名は、垂水見真会。「見真」は、浄土真宗の人なら誰でも知っているが、親鸞聖人が明治天皇から賜った大師号「見真大師」のお名前から頂いたものである。 このことから判るように、大谷さんは真宗の門徒の家庭に育ち、真宗の信仰を持ち続けてきた人である。大谷(旧姓、塩田)さんの家では、朝食の前と夕食後に家族全員が仏前に集まり、 お父さん(塩田萬市)を導師として『正信偈』(正信念佛偈;親鸞聖人の著書『教行信証』の「行巻」の末尾に所収の偈文。)と『御文章』(蓮如上人のカナ書き法語集)をお唱えするのが習慣になっていた。 お母さん(塩田クニ)は、機会が有れば大谷さんを連れてお寺のお説教を聴きに行っていた。大谷さんも小さな時から自然に仏様に手を合わせる生活が身に付いていたし、上京して女子高等師範学校、 今のお茶の水女子大学に学んでいた頃にも、当時の著名な仏教学者である高楠順次郎博士や紀平正美博士等の講演を聴講に出かけたりしていた。 「信仰を持つことができたのは両親のお陰です。そういう家庭に生まれたということが今日の私を育てていただいたと思います」と大谷さんは自らに語られるように、 大谷さんの生まれ育った環境が、後年「垂水見真会」を主催することになる大きな「芽」であったことは間違いない。だが、その「芽」が後に開花するきっかけは、一つの悲しい出来事だった。

   大谷さんは、明治三十九年に出雲大社の近く、現在の島根県大社町字鵜鷺という、〝海があって素敵な島がある〟戸数約百軒余りの港町に生まれた。 毎朝どこの家からも『正信偈』を唱える声が聞こえて来る土地柄だった。 大谷さんが松江の高等女学校を卒業し、両親の勧めもあって、東京の女子高等師範学校に入学したのは大正十二年、大震災の年だった。幸い二学期の始まりが九月十日であったために、 地震の日は未だ上京しておらず、直接被害には遭わずに済んだものの、まともな校舎で学んだのは一年の一学期だけで、以後は焼跡に建てられた仮校舎で学んだ。 「だからバラック育ちの札付きの先生だったんですよ。」と大谷さんは笑う。
卒業後希望して赴任したのは彦根の女学校だった。その直接のきっかけは、その学校を卒業した女高師の同級生に勧められたという事もあるが、 彦根に居ればお母さん(塩田クニ)を本願寺さんにお参りに連れて行かれるから、というのも理由だった。彦根で三年間教師を勤めた後、神戸でご主人の四郎(大谷四郎)氏と結婚された。 ご主人は、後には製粉会社(増田製粉株式会社)の専務取締役工場長を勤める方で、〝煩悩があるのかしらと思う程〟常に穏やかな人柄の、責任感の強い人だった。大谷さんは神戸でも二年程教職に就いたが、 その後は主婦としての仕事に専念する毎日だった。 ところが、三十歳の時、大きな悲しみが大谷さんを襲った。小学校に入学したばかりの七歳の長女(公子)が亡くなったのである。「なぜ自分が?」という思いが大谷さんを衝き動かした。悲しかった。 しかし、「こんな悲しみを受けるのは自分の生き方が間違っていたのではないか?」と思い、〝悲しむよりも、法話を聴きたくなった〟大谷さんは、夢中で幼い子供(1歳)を背負い、 もう一人の子供(3歳)の手を引いて、あちこちのお寺のお説教を聴聞しに歩いた。その頃の神戸でも、真宗寺院では盛んに法座が開かれていた。

   「この世ははかない、だから未来の救いを求めようという気持ちで聴き始めたんです。ところが聴いてみるとそうじゃなくて、現実の心を直していただく話ばかりでしてね。」 と大谷さん言う、その〝現実の心を直す話〟が、〝吸い取り紙がインクを吸うように〟若い心に染み込んで行った。初めのうちは、自分なりの自負もあり、〝判ったような気になって〟いた。だが、 聴き続け、話が心に染み込むに従って、何かが、大谷さんの自我を一つ一つ砕き始めた。不思議なことに、娘さんの百ヶ日をむかえる頃には、〝広々とした世界〟に抜け出して、 法話を〝聴かせていただいている〟自分自身に気が付いていた。そしてそれからは、精神の〝空腹感〟を満たそうとする思いで、〝一層聴かせていただくように〟なった。

   やがて、戦争が始まった。当時大谷さんのご主人は会社の工場建設の責任者という重要な仕事に携わっていた。大谷さんは五人のお子さん達を連れて島根県の実家に疎開した。 その地での三年間は、お金を使い果たし僅かに持ち帰った衣類も売り払う〝やっとこさの生活〟だったが、ここでも大谷さんとお説教との出会いが在った。土地の浄土真宗の名刹・乗光寺に、冬は雪の中を、 毎朝五時半に子供たちを連れて朝参りを続けた大谷さんは、乗光寺の先代住職・北島陸啓師の情熱溢れる法話を〝燃えるような気持ちで〟聴聞した。乗光寺の仏教青年会にも仲間入りした。 これらの人々の中で更に大きく、大谷さんの〝心〟が育てられた。

   戦争が終わり、神戸に帰る大谷さん親子を、北島師と仏青の人達全員が駅のホームで見送ってくれた。列車が動き出し、仏教唱歌がホームに流れた時大谷さんは、 「これがお浄土だ」という強い思いに満たされ、あふれる涙を禁じ得なかった。
   昭和二十年、島根から神戸にお浄土を〝もらって帰った〟のだった。
   敗戦で混乱する神戸の街では、法座もあまり開かれなくなっていた。聴こうとる人も少なくなっていた。 「一人でも多くの人と共に法話を聴きたい」と願う大谷さんは、ご主人の深い理解もあり、とうとう四、五人の仲間の人達と仏教講演会を始めることとなった。昭和二十五年、垂水見真会の発足である。 初めは、年四回開催の予定だった。それでも、始めてみると何とか財施も続き、間もなく月に一回のペースで開かれるようになった。 そして以後、社会全体が何か大事なものを置き去りにし始めた日本の一隅で、まるで脈拍のように正確なテンポで講演会は開かれ、今年で三十四年目、今年二月十一日の例会で第307回目を迎えた。 その軌跡は、昨年大谷さんが会員に勧められてまとめた「三百回の歩み」に一目瞭然である。その間に大谷さんの身近にも様々なことが在った。会を初めて五年目にご主人が亡くなられた時も、 「生活が出来ないようでは、このような会のお世話はできない」と大谷さんは思った。しかし、生前のご主人の功績に報いるべく、 会社(増田製粉株式会社)が遺族にできる限りの援助をしてくれることになり、会も続けることができたのだった。 大谷さん自身も、今日振り返ってみて、財政的にどうしてこれだけのことが出来たのか、と思うそうである。 「法の活動は知らぬ間に仏様が何とかして下さるんでしょうかしら」。と、さり気なく語る大谷さんだが、しかしそこに、大谷さんの精進があってのことは言うまでもない。
   もう一つ大きな問題が、人集めである。お寺なら、因縁の有る人が来ることもあるだろうが、法話会だけの結びつきなのだから、別の形で自ら因縁を作り出さねばならない。 法話を聴きに来る人は大谷さんには「菩薩さん」に見える。一人でも多くの「菩薩さん」に来てもらうための工夫や努力をしなくてはならない。「三百回の歩み」を拝見してすぐ気付くことだが、 発足当初から講師は龍谷大、京大、東大などの教授をはじめとする、いわゆる文化人が非常に多い。これは、大谷さん御自身はお寺でお年寄りと一緒に聴聞して来たのであるが、当時既に若い人が、 お年寄りと一緒にお寺で坊さんの話を聴くのを恥ずかしがることを、大谷さんは知っていたからである。従って、場所も敢えてお寺を借りずに、小学校の講堂や、公民館を借りた。 一番多く借りたのは農協の椅子席の会館だった。小学校を宗教的色彩のある催しのために使用することは、当時既に問題とされていたのだったが、理解のある校長先生の裁量で借りることが出来た。 亀井勝一郎氏の講演に千人の人が集まったのも、神戸市立垂水小学校の講堂だった。

   昭和二十年代、東大教授で巣鴨プリズンの教誨師を勤めた花山信勝師や、モンテンルパの教誨師の加賀屋秀忍師の話に、千人の聴衆が集まった事も、 時代を反映していると同時に、そのような講師を選ぶことによって、一人でも多くの人に会との法縁を結ばせようとする大谷さんの工夫の現われだと言える。また、講演の題目の選定にも、 同じことがうかがえる。一人でも多くの人に知らせようと、毎回街中へのビラ貼り、新聞広告の依頼もした。会員になった人には直接ハガキで通知した。因みに、これらのうち現在も行っているのは、 ハガキによる会員への通知が主である。ビラ貼りを止めたのは、電信柱に貼ったビラを見てやって来る人がこの頃は殆ど居なくなったからである。「それに、ビラを貼る板塀も無くなりましたからね。」 と大谷さん。新聞広告も、効果が疑問の上、しばしば新聞社の都合で、削除されるようになった。実は、昨年の九月に地元の神戸新聞が、地域の様々な集いの一つとして垂水見真会の特集を組んでくれた。 それは有難かったのだが、問題は、それを見て訪れて来た人がたった三人、という効果の薄さだった。だが、それでもこりずに毎回新聞社に通知している。新聞を見てやってくる人には、 真実を求める心切なる人が多いからだ。

   もっとも、法話を聴こうとする人が時代と共に減って来たのも確かで、それを大谷さんは、「豊かになるにつれて道心が鈍りますね。」と言い切る。 一方、既に会員になっている人に連れられて参加する人も居るし、どちらかと言うと、そう云う人は〝一回限り〟ということが少なく、次第に会に根をおろしている。そんな理由で、 現在は、印刷した〝ご案内〟を定期的に会員に郵送している。これも大谷さん一人の仕事である。ただ、二年前から宛名書きをしてくれる人が居て、助けてもらっている。 紆余曲折はあったが、現在の会員数は約百名である。会場は、十年程前から、大谷さんの御自宅の、南側の庭に面した二間続きの座敷を開放されている。 毎回三十人から五十人の聴講者が座るには十分なスペースがある。

   このように会は続き、その中で大谷さんは沢山の出会いを体験した。その一つが、〝禅の修行の力〟との出会いだった。 実は、幼い頃から聴聞した真宗の教えの中で大谷さんは、「禅宗では救われぬ」と教えられ、その事を格別に疑いもせずに過ごしてきた。三十年程前のこと。会を主催する傍ら、 機会があれば様々な人の話を聴きに出かけていた大谷さんは、ある日、大倉山の夏期講座で、祥福寺の山田無文老師の法話を聴いた。そして、初めて禅の修行の力を眼の当りにした。 親鸞聖人の「御和讃」も「歎異抄」も、すべてを禅と一つに包み込んでしまう老師の法話に、いっぺんに〝ほれこんで〟しまった。講演が終わるや、大谷さんは老師の控え室に飛び込んだ。 もちろん、講演をお願いするためである。大谷さんの依頼を快く承諾された老師は、以後毎年出講されるようになった。少し後に南禅寺の柴山全慶老師のお話を同じ場所で伺った時にも、 やはり大谷さんは老師のお部屋に〝飛び込んで〟お願いした。全慶老師も以後講演にみえるようになった。 禅宗の僧侶を招くからと言って、大谷さんの真宗の信仰が変わったわけではない。「念仏も禅も究極の境地に相違はない。」と大谷さんは考える。「修行しないで仏様に会わせていただいたのは、 真宗のお陰です。」とも言う。だが、初めて無文老師をお願いした頃は、〝大谷さんは異安心だ〟と言われ、〝街を歩いていても、罪人のように白い眼で見られた〟こともある。 もちろん今日ではそんな人は居ない。法を求める大谷さんの姿勢の中に在る、一貫して変わらぬものが、誰の目にもはっきり見えてきたからであろう。

   祥福寺で坐禅をさせてもらった時のこと。戦争中にさんざん物不足を体験した大谷さんだったが、僧堂の食事を戴いて、改めて、物を大切にせねば、 と肝に命じたそうである。しかし一方、〝禅宗は言葉が難しい〟から、易しい言葉で説く工夫をしてほしい、と大谷さんは言う。もちろんこれは、禅の眼目が修行にあることを厳しく踏まえた上での、 要望である。だから同時に、〝もっと若い時に禅に回り会っていたら〟と大谷さんは残念がる。「修行するには、この年では遅いです。」と。そして、 最近講演された曹洞宗の青山俊董(あおやましゅんどう)尼のように、〝修行の力で光っている〟方に〝憧れているんです〟と、熱っぽく語る。 講師を依頼し、場所を確保し、少しでも多くの人を集めようとする仕事を続けることは、大変苦しいものである。大谷さんも、〝誰に頼まれたわけで無いのに〟と思うことはしばしばあった。 しかし不思議なことに、〝こんなに苦労して。もうやめよう。〟と思う度に、「支え」が出た。「会のためにこんなに尽くして下さる方が居るのに、やめるわけにはいかん。」と思った。 「仏様のお働きですね。目に見えないお働きに支えられて来ました。」と大谷さん。
   初めにも触れたが、大谷さんのお父さん(塩田萬市)は、日常生活の中でも、「無我の念仏」―自然にわき出るようなお念仏―をお唱えしている人だった。 石膏の鉱山を経営する実業家だったが、毎月親鸞聖人の御命日には工場を有給休暇とし、僧侶を招いて工場の人達に法話を供養していたし、近所の人達と、ご法話の本を読み味わいながら、 信心を語り合う集いを楽しんでいた。お父さんのこのような報恩感謝の日常底こそ、垂水見真会の原点だったのであり、今神戸の地で、お父さん譲りの大谷さんの報恩行が続けられているのだ、と言える。

   三百回を越える仏教講演会を開いてきて大谷さんが思うことは「真実を求める人はなかなか居ない」ということだ。大勢の人が聴きに来ても、〝その講師だから〟という、 一回限りの人が多い。むろん大谷さんはそのことを百も承知の上で、〝御法の網〟を投げ続けるのだが、〝網〟にかかってくれる機縁の人はやはり数少ない。また、ご自身を振り返ってみても、 「無限人(むげんにん)」「無耳人(むににん)」という言葉の重みが、現実のものとして判って来た、と語る。いくら聴いていても、「聞き流し」「上の空」ということが誰にでもある。しかし、 聴くと聴かないとでは、大いに違う。それを大谷さんは、「長くお聴かせいただいているうちに、仏様の誠だけは届いて下さるんです。それが有難い。」と表現する。

   「七十七歳になって、あまり燃えるものもありませんが、御法のことだけは、まだ燃えます。私の気持ちは、一人でも多くの人に、この会にご縁を結んでいただきたいという、 その一言です。」と意気込みを語って下さる大谷さん。
   今年最初の会は、今までの法話の中から選んで、そのテープを聴く〝テープの会〟で、新年懇親会を兼ねた。会の案内状には、次の一文を書き添えてあった。
   ―お出来になる方かくし芸ご披露下さい。
                              (取材 向井真幸 ほか)

     今回の取材に際しまして、大谷さんと臨済会とのご縁を結んで下さった、神戸は、南禅寺派・恵林寺様に厚く御礼申し上げます。

●無相庵のあとがき
   母は、昭和12年4月25日(母が30歳)に、7歳の長女を亡くしたことが機縁となって、仏法を真剣に求めました。相当のショックだったことは、30年前に遺産として 母から譲り受けた数多くの仏教書の中の一冊、『真宗聖典』(島地大等師編集)の裏表紙に、次の書き込み(現物は縦書き)を見付けた極最近、44年も経ってなお、幼くして失った子供のことを忘れられない母の気持ちを重く、 胸痛く感じた次第でありました。

釈尼智晃   昭和十二年四月十五日
              大谷公子
               行年八才
 贈  昭和五十六年四月十五日
             大谷政子

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No.1573  2016.06.13
『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第五章』詳細解説―(6)身障者のあくび

●無相庵のはしがき
   今週の月曜コラム、お知らせすることなく、中止しました。実は、先週の金曜日夕刻から今週の月曜日夕刻まで、亡き母の、 30回忌(命日が6月29日)と、生誕110年(1906年6月19日誕生)を迎えるこの6月中に、と云うことで、 島根県出雲市にある母の生家を兄夫婦と訪れていました。 この無相庵のルーツと申してもよい、親鸞仏法の念仏者だった祖父(1861年~1923年)のお墓参りをし、140年前に建てられた生家の仏間に座れて、 今も出雲市に在住している従兄弟の長男と集合写真を撮れたこと等、感動の日々を過ごしていた次第でございます。

●『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第五章』詳細解説―(6)身障者のあくび
   だから、人間はそう云う求道的存在であると言えることは大事なことで、道を求めると云うと、この場合仏道ですが、 仏道と云うものはどういうものか。我々仏道を求めるのは特殊な人でなくて、皆が仏道を求めておると思うんですね。 自力聖道門で難行苦行して仏になろうと努力するのと、他力浄土門とはどこが違うのかと言うと、これもご承知の方がいらっしゃるでしょうけれども、 親鸞さまの師匠の法然上人と云うのは、菩提心を否定したんや。菩提心で仏道が立ってるにもかかわらず、菩提心なんか起こさんでもいいと法然上人が言うたので、 旧仏教からの風当たりが非常に強くなった。菩提心を起こす必要がないと言うたら、仏法を否定したことになるんじゃないか、と言うので、 法然上人の書かれた『撰択本願念仏集』に対する抗議が集中したわけですね。 法然上人は我々が起こす菩提心でなくて、大菩提心の中で生かされておる。これが法然上人の言いたかったことなんですね。大菩提心の中で生かされておると云うことは、 人間に生まれたものは、みんな人間として生きる意味を持っておると云うことを、大菩提心と云う形で表されたもので、 今さら自分が一人一人てんでばらばらに菩提心を起こさんでも、仏の大菩提心の中に生かされて生きておる、その大菩提心に目覚める、 そう云うことが人間にとって大切な事やと云うことが、法然上人の言いたかったことなんでしょう。大菩提心と云うのは仏法を全然知らんもんでも、 生かされて生きてると云うことで、大菩提心と云うことは証明されてるわけなんで、我々の起こす菩提心と、大菩提心と違いがあるかと言うと、 我々が起こす菩提心と言うのは自力ですから、他力の大菩提心は、我々が此処に生かされて生きてることが、大菩提心が働いている証拠であると云うのが、 他力浄土門の立脚点であろうと思うんです。

   それは、赤ん坊を見ると一番分かります。赤ん坊も空気を吸って生きとると、心臓が動いて生きとるし、血液が体中循環して生きとる。 大人の我々と赤ん坊と少しも変りがないわけですね。そういうことが我々にとって大切で、見過ごしておる。大菩提心の〝はたらき〟 であると云うことを見過ごしておる点であろうと思うんです。そう云うことが、大菩提心の中に我々は生かされて生きておる。大菩提心と云うのは、 絶対他力の中に生かされて生きておると、言葉を換えてもいいですし、それが我々の本当の姿。赤ん坊も我々も大菩提心の中に生かされて生きておる。 絶対他力の中に生きておるのが間違いないにもかかわらず、赤ん坊と我々とどこが違うかと言うと、悪知恵が発達してるところが違うわけですね。 赤ん坊は何も知らんのですから。

   赤ん坊は何も知らんと申しましたけど、余談になるけど、非常に面白いと思うのは、私の知っとる愛知県の小頭症の、 頭の小さい子どもを二人持ってる母親。今年三十八か九になっとるんやけど、上の女の子は五年生相当か、下の男の子は三年生やけど、立って歩かれんし、 言葉もしゃべられんし、頭小さいから脳の発達が遅れて、当然知恵遅れで、今でも立って歩かんから寝たきりやで、おむつしとる。 毎日母親はその子どものおむつの洗濯と子どもに食べさせること。それに追われておるわけなんです。食べるだけは食べますから、噛む力がないので、 今でも流動食らしいけど、それでも体はどんどん大きくなるんやね。風呂に入れるのに困る位に体は大きいんやけど、脳の発達は遅れる。ご承知のように、 身障者も今年から義務教育になったんです。学校に行かねばならんけれど、歩かれもせんし、しゃべられもせんから、学校へ行くことが出来ない。それで、 家庭訪問の先生と云うのがあって、そう云う学校へ行かれん子どものための先生があるんやね。この小頭症の子どものところへ来るんやね。 上の女の子に本を読んで聞かせるんやと。読んで聞かせるけど、あくびばかりしとる。義務教育なもので、そう云う障害児にも通知簿と云うのがあるらしいんや。その通知簿に、この子は勉強が嫌いで、あくびばかりしてると。ところがそれは職業的教師だから分からんのや。子どもは知恵遅れやけど、ちゃんと分かるんやね。その先生が、お義理でやってるか本気でやってるか分かるんや。お義理でやってることが分かるから、あくびするのや。

   その父親が夕方帰ってくると、足を動かして喜ぶと言う。自分の喜びを体で表現するのやね。智慧遅れなので、 バカで何も分からんと思うとるのや、その職業的教師と云うのは。その母親は、県の障害児の会から依頼されて、十一月に意見を発表せよと言われているんやけども、 自分はしゃべるのが下手やから、発表せんと言うたから、これは是非発表しなさい、その職業的教師のことも言え、と。そう云うものを教えてる先生方にも、 一つの警鐘を鳴らすことになるから、智慧遅れやから物が分からんと思うたら、大きな間違いやと云うことを教えるためにも、そのことを言うた方がいいと。 そしたら、原稿書いたらしい。その原稿を聞いてやるから読めと言うた。そしたら電話かけて来て読んでましたよ。それを聞いとると、聞いた私は非常に感動しました。 と言うのは、その母親と昭和四十五年に初めて知り合うたんかな。自分で手を下して殺すわけにもいかんから、肺炎になって死んでくれんかなあと祈ったこともある。 まことにもっともやと思う。ただ育てるだけで、育て甲斐の無い子どもやで、死んでくれんかなあと祈ったこともある。こんど発表する中で、 「この子を何べん殺してきたか分からん」と云うことを言う。そういうことは人前で言えんことや。その人前で言えん事が言えることは大したことや。 この二人の子どものお陰で、自分が自我の強い人間であることを教えてくれた、と。そう云うことを考える障害児の親と云うのは、なかろうと思うんですね。

   そう云う点で、この母親の発表は、発表者が何人あるか知らんけれども、その中で一番優れた発表になると思うんです。 その母親も本当にその二人の子どもを可愛がって育てておるんや。

   ずっと以前ですけど、教育を受けねばならん年齢になったら、施設に入れねばならんだろうと書いてやったら、大変怒って書いてきてね。 このように可愛がって育てているのに、施設へ入れよとは何ごとかと怒ってきた。そう云うことを怒るほど、子どもを可愛がっておる。感心することはその二人の子どもを、 歩かれんのやから乳母車にのせて、外に連れて行くんでしょう。そうすると「あんな変な子」と言うて、近所の子が笑うと言う。 ところがそう云うことを言われても、少しも腹が立たんようになったと言う。その母親と云うのは大したもんやと思う。我々、とても真似のできるもんでない。 そう云う点で我々は如何に間違った考え方をしているか。 その子なんか、本当に文字通り両親にお任せしてるわけや。我々は、なかなかそう云う子ども程任されんと思う。子どもが却って我々に教えてくれるんでないかと。 その母親が教えられ、その母親が私のところへそう云う報告をしてくれるので、私も教えられる訳ですね。

●無相庵のあとがき
   米沢秀雄先生は、身障者の義務教育に当たった教師を職業的教師と云う表現で、その非を責めておられますが、これは他人事ではないと、 私は思います。日常生活に於いて私たちも、相手によって、対する心の姿勢、態度を変えていないだろうか・・・振り返る必要があるのではないかと考えました。
   目下の人と目上の人では、接する態度を変えていないか、自分が売り手と買い手の場合、買い手には不必要なまでに下手に出て、 売り手に対しては、横柄な言葉や態度をしていないか等など、日常生活の場面場面で、誠心誠意、真摯な言動を大切にしなければならないと、今回の法話から教えられました。

なむあみだぶつ


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No.1572  2016.06.09
『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第五章』詳細解説―(5)不安に立つ人間

●無相庵のはしがき
   不安を持っていない人は居ないと思います。もし、「私は不安を抱いたことは無い」と云う人が居れば、その人は、 人間を生きていないと云うことだと思います。人間以外の動物、犬も猫も鳥さんも、その時その時を本能のままに生きているのだと思われますので、 そのように言われます。米沢秀雄先生は、今日の末尾で、「日常の生き方はこれでいいのかと自分の生き方に疑問を持つ。 そう云うことが実は仏法の問題であると云うことになります。」、そして、「人間は求道(ぐどう)的存在であると云う言葉がありますが、 道を求めると言うと非常に難しく考えられますけれども、自分の生き方はこれでいいのかと云うのが、実は求道的存在である証拠やと思うんです」と仰っています。 不安を持つことは、人間である証拠なのだと、むしろ誇りを持つべきだと仰っておられるように思います。

●『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第五章』詳細解説―(5)不安に立つ人間
   「わがちからにてはげむ善にてもそうらわばこそ、念仏を回向して、父母をもたすけそうらわめ。ただ自力をすてて、 いそぎ浄土のさとりをひらきなば」 ――浄土のさとりをひらくと書いてあるだけで、浄土のさとりはどうなのかと云うことは書いてないですね。浄土のさとりと云うことは、 今の宇宙中の〝はたらき〟によって生かされて生きておる。無量寿無量光の中に生かされておる自分であることがはっきり分かった時に、浄土のさとりを開いたことになるので、 「六道四生(ろくどうししょう)のあいだ、いずれの業苦にしずめりとも、神通方便をもって、まず有縁を度すべきなり」 六道四生と云うことが出ておりますが、六道と云うのは地獄・餓鬼、畜生・修羅・人間・天上、これが六道ですね。四生と云うのは、 湿生(しっしょう)・卵生(らんせい)・胎生(たいせい)・化生(けしょう)、これを四生という。湿生と云うのは、湿ったところから生まれてくると云うので、 小さな虫でしょう。ぞうり虫、みみず、魚を釣るエサにするみみずとか、ああ云うものが湿った地面から湧いて出て来るので、湿生と言うのでしょう。 それから、卵から生まれてくるのが卵生。胎生と云うのは、我々人間も胎生やね。動物は母親の胎内から生まれてくるから胎生。化生と言うのは化ける。 毛虫が蝶になるようなもんや。毛虫がさなぎをつくって、それが破れて蝶が生まれる。毛虫が蝶になるのを、化生と言いますね。虫と全然違った美しい蝶になるので、 化生と言います。 胎生、化生、この二つ『大無量寿経』の中に取り上げておられます。胎生と云うのは、自分が信心を得たと云う中にこもっているものを言う。 そこにも自分で信心を得ていると云う、自分の殻を破って出てくるのを化生と言う、と『大無量寿経』に書かれてあるですね。 湿生と卵生のことは『大無量寿経』には取り上げてないけれども。

   「六道四生のあいだ、いずれの業苦にしずめりとも、神通方便をもって、まず有縁を度すべきなり」 ――神通方便と云うと不思議な超能力のように考えられるけれども、南無阿弥陀仏することが神通方便やと思うんですね。皆を拝むことが出来る。例えば、我々は、 湿生・卵生・胎生・化生、そう云うものを食って生きとるやで。卵を食べてるし、卵から生まれて来た鳥も食べてるし、胎生では、牛とか豚とか食べるし。 神通方便と云うことは南無阿弥陀仏することや。それによって、有縁を度すべきなり。そのお蔭で我々の〝いのち〟がつなげた。 そして自分が仏になることができたと云うことで、自分が一切を拝むことが出来れば、神通方便を以て有縁を度すと云うことになると思うんです。 六道と云うのはご承知のように、地獄・餓鬼、畜生・修羅・人間・天上ですけれども、私は修羅と云うと普通は闘争、あのうちは修羅場(道)や、 と言うのはうち中けんかばかりしてるのを修羅場と言うてるようですけれど、私は、闘争と云うものは『往生要集』をみますと、畜生のところに書いてあるんですね。 修羅と云うところは『往生要集』では非常に短い。修羅と云うのは、不安であると、こう思うんですよ。この『往生要集』には修羅と云うのが二つあって、 一つは大きな修羅で地球の外にあると書いてある。小さな修羅はそこらの山の谷あいにあると書いてあるんですな。争うなんてことは一つも書いてないんです。 地球の外におる大きな修羅と云うのは、死の不安ですね。これは我々は絶対抵抗出来ないものです。死の不安を修羅と言う。それからそこらの谷あいにある修羅と云うのは、日常生活に起こる不安ですね。交通事故に遭うんでないかと云う不安。あるいは物価が上がるんでないかと云う不安。生活が出来んのでないか、インフレになるんでないか、我々の感ずる不安を谷あいの修羅と、こう云うふうに『往生要集』に書いてあるんで、不安のことであると私は解釈した。

   修羅をそんなふうに解釈することは、今までにないと思うんですよ。あまり読んでおりませんからよく分かりませんけれども、 修羅をそんなふうに解釈しておるのは寡聞(かもん;勉強不足、知識不足)にして私はみておらん。ところが、 そう思いますと興福寺の阿修羅像と云うのは解釈出来ると思う。 阿修羅像と云うのは若い青年の姿で手が六本かな、額に眉根(まゆね)を寄せてる。二本の手だけが、合掌してる。眉根を寄せてると云うのは、 闘争の姿を現しているのではなくて、不安の姿を現しておるのであると、私は思うんですね。私の解釈にピッタリの像だと思うんです。人間だけでしょう、 健康でおる時も死の不安に襲われるのは。人間の下に不安がある。修羅があると云うことは非常に面白い。地獄・餓鬼、畜生・修羅・人間・天上と、 人間のすぐ下に修羅がある。人間と云うのは不安に脅(おびや)かされておると云うことを語っておるのが、六道輪廻で人間の下に修羅があることだと思うんですね。 その不安を超えるにはどうしたらよいか、と言うと、念仏して、つまり自分自身は不安に脅(おびや)かされる、弱い存在であると云うことが分かると云うことが、 大事なことだと思うんですね。皆威張っておるけれども、不安を持っておるのでないか。たまたま今、 安田理深先生【(やすだ りじん、1900年〈明治33年〉9月1日 - 1982年〈昭和57年〉2月19日)、兵庫県美方郡温泉町(現:新温泉町)生まれの仏教学者。 真宗大谷派の僧籍を持つ】と、茂田井教亨【(もたい きょうこう、1904年10月12日 - 2000年5月11日)、日蓮宗の僧、 仏教学者】と云う日蓮宗の教学の最高の人やと言われる人の対談が『不安に立つ』と云う題で中日新聞と東京新聞かな、に出たのを貰って今読んでるんですけれども、 それを読むと面白いのは、不安を持ってることは大切なことやと言っておられる。皆、不安なしに、例えば信心決定と云うと何も心配ないと思っておられる。 信心と云うものはどこまでも深まっていかねばならんのに、自分は信心決定したと思ってる、おめでたい人間がおるんやね。

   不安を持つと云うことが非常に大切だと云うことを、安田先生が言うておられる。日常生活の中に不安がなければ。信心にかりたてるものは、日常生活の中の不安、 ことに死の不安である。死と云うことが問題になって、仏法を聞くことがよくありますように、私は死と云うことにおいて、 お前本当によく生きておるかと問われれるんだと思うんですね。皆、漫然と生きておるんやないかと思うんですよ。惰性的に生きておるのでないか。 昨日の続きを今日生きておる。こう云うのが一般の人間の生き方でないかと思うんですね。

   犬が生きとるのと、猫が生きとるのと全然変わりないじゃないか。不安に脅かされて、自分は本当に生きておるのかどうかと云うことを自分自身で確かめる、 と云うことが大事だと思うんですね。これは名古屋の人で、名古屋市の医師会に勤めている男の人らしいんですけど、手紙をよこして、 四十近くなって自分の生き方はこれでいいのかと近頃考えるようになった、と言うとるんです。 自分の生き方はこれでいいのかと自分の生き方に疑問を持つ。それに書いてやったのは発菩提心と書いてやったのですが、菩提心を起こすと云うのは、 一般に自力聖道門では仏になろうと志を立てて、仏になるべく修行を続けていこうと決意することを、言うておる。そう云う仏道の問題でなくて、 日常の生き方はこれでいいのかと自分の生き方に疑問を持つ。そう云うことが実は仏法の問題であると云うことになりますと、 名古屋の人は普通のサラリーマンですけれども、仏法と云うものに行かねばならんようにさせられておると言うのかな。 そうしますと人間は求道(ぐどう)的存在であると云う言葉がありますが、道を求めると言うと非常に難しく考えられますけれども、 自分の生き方はこれでいいのかと云うのが、実は求道的存在である証拠やと思うんです。

●無相庵のあとがき
   しかし、普通私たちは、不安から解放されるために、仏法を求めるのではないでしょうか。 不安があるから、苦悩がある、そして苦悩から解放されたいと思い仏法を求めるのではないでしょうか。一体どう云うことなのでしょうか。

   私は最近思います。自分の心の中に起こった気持ち、感情を自分に偽らない、素直に受け止める、 自分に嘘を吐かないことが、真実信心に至る上でとても大切な事ではないかと考えるようになりました。他人に嘘偽りの言動をとることは、 精神的にキツイことですが、自分を偽ることは、それ以上にキツイことだと思うのです。犯罪をおかした人は、その苦しさに顔が歪むのだと思います。 「ありのままの自分であり続けることが、無碍の一道を歩むことではないか」と、最近、しきりに思うのです。そして、ありのままの自分で有り続けるためには、 お釈迦さまが説かれた「この世のことは、全て縁に依って生じるのだ」、親鸞さまのお言葉に言い換えますと「この世のことは、全て絶対他力に依って生じるのだ」、 と云う絶対真理に気付かしめられて初めて為し得ることだと考えます。しかし、そう気付かしめられるのも、自分の努力ではなく、他力に依るのですね・・・。 親鸞さまが信念で辿られた険しい道、しかし、易行の道なのだと、 私は米沢秀雄先生から学ばせて頂きました。

なむあみだぶつ


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No.1571  2016.06.06
『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第五章』詳細解説―(4)寺門経営の必要

●無相庵のはしがき
   今日のお題は「寺門経営の必要」と云うものですが、内容は、「寺門経営は必要ではあるけれど、浄土真宗のお寺なら、親鸞聖人の教え、 親鸞聖人の真実の信心を伝えて行かねばならない」と云うのが、米沢秀雄先生の仰りたいことでございます。

●『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第五章』詳細解説―(4)寺門経営の必要
   先般、私のところへ来た若いお寺さんがおって、その門徒の人が亡くなって、 初七日まで一週間は毎日お経あげにお寺さんが来ることになってるんやと。福井の習慣ではそうなっておるのかな。その若いお寺さんは考え方が進歩的なもんで、 「毎日お経あげんでもいいやろ」と言うたら、「あなたのお父さんは丁寧にお経あげてくれた」――お経は毎日あげると云うことは丁寧と云うことになってるんやね。 それが民間信仰か知らんけれども、そう云うことをしてあげることは悪いことではないと思うんですよ。相手の希望に沿うて、 向こうが毎日お経をあげることが丁寧なことやと思ってるのやから、そう云う要求を受け入れてあげると云うことは、悪いことではないと思うんです。 ただしそれに付け加えて、法話をして親鸞さまの教えはこういうことやと云うことを教えておくことが大事なことや、そう云う点を今まで怠ってきたと思うんですね。 怠って来たから、子どもたちの自殺が多くなって来てるのでないかと思うんですよ。

   今の浄土宗の大寺は、ずいぶん遠いから、怒られるはずもなかろうから言うけれども、 その大寺のようなやり方ではお寺は繁盛するかも知らんけど、と言うのは、お寺の案内の二枚折りの小さなパンフレットがある。それに開運のお守りとか、開運の何とか、 運が開ける、そんなことが書いてある。そう云うことがもう間違いですね。開運とか運が開けるとかは、救いでもなんでもないんや。そう云うのは民間信仰と云うもんです。 そう云うことを書いておくのは、寺門経営でもまずい寺門経営である。 そう云うことをやらんのは真宗だけやと思うんや。一般の寺でも開運のなんとかやっとる。真宗だけがそう云うことをやっとらん。それでも霞食って生きる訳にいかんから、 寺門経営と云うか、月忌参りをするとか、門徒の要望に応えて死後一週間は毎日お経あげるとか、それは家族が喜ぶんやからそう云うことをして、 同時に親鸞さまの教えはこう云うことやと云うことを伝えることが大事なことやと思うんですね。

   それで、民間信仰と純粋な親鸞の信心とは、はっきり区別しておかねばならんと、こう思うんです。だから親鸞と云う人は、 ことに信心の問題になると、絶対に妥協しなかった人やと思う。そう云う点も学ぶことが大事や。そう云う厳しさと云うのが、現代失われておると思うんですよ。 親鸞さまの教えは厳しいものである、と。純粋な信仰、親鸞は信心と言われましたけれど、純粋な信心と他の信仰とはどこがどう違うか、厳密にされた方ですから、 浄土真宗の寺である限りは、寺門経営も大切であることを力説しましたが、自分の内心には、信心と云うことを明確に保つことは大事なことであろう。 それが親鸞さまのご苦労に応えることであろうと思うわけなんです。

   それで順次生と云うのは、生まれ変わると云うので、一度死んでそれから次の世界でと云う話ではなくて、 自分が仏になって――仏になるとは具体的にどういうことかと言うと、その後に書いてありますでしょう。 「ただ自力を捨てて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば」――自力を捨てる、自力と云うのは自分の努力ですね。人間の努力を自力と言うんです。 桑名の寺へ引っ張られた時に、御遠忌を勤めるので、どういう関係か私が引っ張られた。そうすると私の話するのがこま切れになるんや。お寺さんで組んだ日程が大事で、 私の話なんかつけ足しや。今、お稚児さんが出ますから待ってくれと言う。お稚児さんが済んだから直ぐ出てくれと云うわけで、こま切れの話をしたんやけど、 この寺で前回言うた、他力と云うが、その中に自力も必要なのでないか、と云う門徒の質問状を、前以て住職から送ってきた。そこで私は、 子どもがハナをかむことを母親から教わる話をしたわけです。自分の力で出来たと思っとることがみんな他力のはたらきのお陰やと、こう話したわけです。 だから根底には絶対他力があることは間違いない。だから他力他力と言うけれども自力も必要なんでないかと云うことは成り立たんのや。絶対他力の中で、 人間は自分の努力を鼻にかけたがる。そういう性格があって、他力他力と言うけれども、自力も必要でないかと云う言葉が出てくるんやね。 自分ではたらいたと云うアタマがあるんやで。はたらかせていただいたと云うことでないかと、私は思うんですね。

   絶対他力と云うことは清沢満之(きよさわ・まんし)と云う人が言われたんやけど、うまいこと言われたもので、 絶対他力のことを仏と言うわけだね。仏と言うと困るのは、この後ろにある阿弥陀さんとか、そう云うものを我々は想像しがちなんで、他力と云うのは〝はたらき〟や。 仏と言うのは〝はたらき〟や。そう云うふうにはなかなか思われん。だから、仏と云うものはどういうものか、概念規定が大事やと云うことを申したのは、 我々、仏と言うと仏像を思い浮かべるので、〝はたらき〟であることまでなかなか思い至らん。 阿弥陀仏と云うのは自然のようを知らせん料である――よくも、思い切って料と――材料と言うと語弊がある。これは方便であると親鸞さまは言うておられる。 『自然法爾章』において初めてでないかと思いますね。そう云うことを言われたのは。 それで親鸞さまの『自然法爾章』は短いけれども、大切な親鸞さまの最晩年の円熟された深まった思想を、端的に述べられたものと思うんですね。

●無相庵のあとがき
   米沢秀雄先生も、なかなか言い難いことをはっきりと申されますが、それは親鸞聖人がそうだったからであろうと私は思っております。
   仏様、仏様と仏像やお仏壇を大切にして拝むのは、民間信仰だと云うことだと思います。むしろ、今の私は〝はたらき〟に依って、 お蔭様に依って、生かされて生きている我が身をこそ拝む自分にならないと民間信仰になってしまうと云うことだと私は思います。

   それと、絶対他力と云うことも、この世のこと、私の周りで生じていること、世界の動きも、私の人生さえも、 全て他力に依って起こったことであって、自分の努力で生じるものではないと云うことであります。自分にとっての逆境も順境も、自分の努力が足りないからとか、 自分が頑張ったからとかで起きるものではないと云うことであります。
   自分の努力も含めて全ての縁が寄り集っての結果が事実として現れたことを現実と言うのだと捉えたいと思います。 そう云うことに目覚めますと、他の人の順境を妬むことは無くなり、むしろその順境を讃えられますし、逆に、逆境にある他の人に対しては慰め励ましたいと云う気持ちが 芽生えるようになるのだと思いますし、私はそのように有りたいと思います。

   しかし、親鸞聖人の信心は、その目覚めに止まって、悟りを開いた禅僧の心境ではないかと想像している無私、無念、無我の心境ではなくて、 久遠劫より重ねて来た宿業に依って、自己中心の罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫から目覚め得ることのない我が身をこそ拝むと言うか、悲嘆すると言うか、斬鬼すると言うか、 「遠く宿縁を慶(よろこ)んで」、親鸞聖人が称えられていたお念仏で心が決着することではなかろうかと想像しております(否、私の想像を超える、 もともっと深いものかも知れません・・・)。

。 なむあみだぶつ


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