No.1510  2015.10.29
真実に生きる

横浜の傾いたマンション問題、日本の一流大企業数社が関与する、大クレーム(製品苦情)です。会社の存続問題にも発展しかねない大きな事案だと思われますが、 それよりも、不特定多数の一般家庭の一生の問題にもなりかねず、企業の存在目的から大きく外れる、有ってはならないクレームです。報道から深刻さを感じますのは、 報道するメディアも含めて、関係する組織群が、発生原因、発生責任を一人の現場責任者に被せている状況そのものです。仕事の仕組み、手順、仕事の出来栄えの確認方法等の問題点を 追及する姿勢が無ければ、これらの組織は、違った形でこれからも問題を起こし続けるのだと思います。テレビに出て来る組織の代表者は、自分を守るため、自分が属する企業を守るべく真実を隠します、 嘘も吐きます。
今、責任を被せられている一人の従業員に言い訳を聞けば、その言い訳の中に本当の原因が隠れているのではないかと私は考えます。 その従業員が真実を語れば、組織の信頼が大きく損なわれると考え、真実を隠すのだと、大企業に勤務した経験を持つ私は考えます。

私が現在経営する会社でも、実は約2ヶ月前の8月24日に、これまで滅多になかった製品納入先からのクレームがありました。納入している製品(厚さ1cm、外形12cmの円盤状の土木建築資材) の色(グレー)が濃い過ぎる、着色剤の配合ミスではないかという苦情です。
企業には、この種のクレームは付き物だとも言えますが、私の会社は零細企業ですから、製品の種類が少なく、数量も少ないので、これまでの10年間では、クレームは2件だけでした。

私の会社は、製造企業ですが、今回のクレームは、別の会社が原料調達から製品仕上げ、製品発送まで総て引き受けてくれている製品で発生した案件ですから、 我が社の立場はいわゆる品物を仕入れてお客さんに販売する商社みたいなものですし、10年前に販売してから、10万個を納入してクレームになったのは、これまで1個だけで、 今回のクレームのように、納入した製品が総て返品され、返品された数量を速やかに納入する事を求められた(代納と申します)のは初めてのことです。 納品した全数1000枚の色が濃い過ぎるというのですから、それは至極当然の事でありますが、先方が不良だという製品を、製造した企業が認めるかどうか、そしてまた、認めた場合、何故そのような色の濃い製品になったのかの原因が分からなければ、 代納出来ないという問題も抱えていましたから、厄介なクレームでした。

特に厄介なのは、この製品に関与する企業は、我が社と、不特定多数の客先(主として土木建築会社)に販売する企業を含めて5社(ひょっとしたら6社かも・・・)あることです (日本の特徴で流通経路が長い)。
今回のようなクレームが生じた場合は、世間一般には、製造した会社に責任があるとして処理しようとします。 でも、私は昔からの持論ですが、関係する企業の夫々に何らかの責任、つまりクレームを発生させる問題点(原因)があります。そして、各企業の担当者だけでなく、 社長に至るまでの管理職にも何らかの問題点(原因)が必ずあります【今回の一番の問題は、色に関する明確な規定(色の濃さに関する色見本とか、色の濃さ限度見本等・・・)をしていなかった事なのです】。

そういう考えから、私は、商社と云う立場で安易に取り組んできた我が社の責任、私の責任を重く受け止め、真剣に問題解決に取り組みました。そうさせたのは、 ここ最近の無相庵コラムで取り上げている〝真実を求めて生きるところに平安がある〟という事と、世間の評価ではなく、私の心に宿った仏様が願われている生き方から外れないで、 この世間を生きて行こうと思うようになったからかも知れません。

今週月曜日に関係者(4社)が集まった会議で合意した品質基準等を文書化し共有化しましたので、クレームの山場は越えたと考えております。
今日は、全く別件で、愛知県の企業が我が社の技術の詳細を知りたいとかで来られます。我が社の技術が世間の役に立てて、我が社が存続出来、我が家族が衣食住に困窮しない 事を願って対応する積りです。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1509  2015.10.26
神は弱さの中にあり

私は、NHK-Eテレの『こころの時代』(毎日曜日5:00~6:00;再放送が土曜日13:00~14:00)という番組を毎日曜日視聴しています。大学生の頃から殆ど毎回見て参りました。 しかし、キリスト教に関係する『こころの時代』を視聴するようになりましたのは、渡辺 和子(わたなべ かずこ、1927年2月 - )シスターが出演されてかなり後のことでした。 それでも、キリスト教関係で、私がお名前を存じ上げない講師の方々の番組でも視聴するようになりましたのは、極最近のことであります。

昨日の『こころの時代』には、木原活信(きはら・かつのぶ)と云う同志社大学社会学部教授で、社会福祉に力を入れておられる若い(50歳)男性キリスト教徒が出ておられました。 そしてそのテーマ名は『神は弱さの中にあり』でした。
このテーマ名だけでは、どういう内容かは想像出来ませんでしたが、視聴し終わり、年老いて、体力、気力、記憶力が弱ったことにショックを受けて、〝弱くなっている〟 私は、これまでのキリスト教の教えとは若干異なるニュアンスを感じました。

西洋の考え方の根本には二元対立的な認識があります。それが、現代の科学文明を発展させ、実らせたので有りましょうが、その二元対立的思考であるが故に、世界から争いごとを無くして、 平和な世界を齎すには至っておりません。本来人々の幸せを願う宗教でさえ他宗教、他宗派と争い、信徒間で殺し合いが尽きません。

木原先生は、社会福祉の現場に立ち入られ、施設に入居する所謂(いわゆる)障害者と、お世話する側の福祉士の関係は、世話される側と世話する側であってはならないと仰っていました。 それは、神と僕(しもべ)の関係に於いても、愛する側と愛される側では無いという表現をされていたと記憶しています。
それを、「神は弱きものを愛する」ではなく、「神は弱さの中にあり」と表現されたのだと私は受け取らせて頂きました。

今週の週末(土曜日)に再放送がございます。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1508  2015.10.22
歎異抄第9章の米沢秀雄先生の解説

●無相庵のはしがき
    井上善右衛門先生のご法話紹介コラムが続きましたが、久しぶりに米沢秀雄先生のご法話の世界に戻ってみたいと思いました。
    随分と雰囲気は異なりますが、本当の仏法とは何かを求められて、それを私たちにも知らせたいという思いは、両先生ご一緒なのだと改めて思ったというのが正直なところです。

    両先生共に、あまり、念仏を称える事を強要されないように私は感じています。井上先生は、人前では手を合わせられて、遠慮がちに口を動かして居られたことを記憶しています。 米沢先生とは、直接お会いしたのは1回だけですので、本当はどうだったのか分かりませんが、ご著書の雰囲気から、人前で大きな声で念仏を称えられ無かったのではないかと想像しております。
    一方、最近のコラムでテーマとしていました『浄土』に付きまして、米沢先生は、今回のご法話の中でも、浄土或いは極楽という言葉をお使いになられています。 私は、米沢先生が念仏と同様、あまり浄土を親鸞仏法の中心には置かれていないように感じて参りました。米沢先生が浄土をどのように位置付けておられるかは今回のご法話でも明確には分かりませんでしたが、 お浄土は、亡くなってから往く世界でもあるけれど、親鸞聖人のお考え通り、生きている間に、仏法に依って救われて目覚めた時に感じる世界を『浄土』とお考えになっていたのではないかと受け取っています。

今回は、米沢先生のご著書『歎異抄ざっくばらん』から第9章の解説部分から抜粋引用させて頂きましたが、読者方には井上先生の法話よりもかなり理解し易いのではないかと考えますが、ただ、 かなり長い抜粋引用になってしまいました。結論らしき箇所に行き着くまで抜粋引用した結果、このようになってしまいましたが、最後までお読み頂ければ幸いであります。

●米沢秀雄先生のご著書『歎異抄ざっくばらん』からの抜粋引用
    ーー日常の難行苦行ーー
    「煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば」、急ぎ浄土へ行きたいと思わん、と。娑婆がいい、と。これでいいんや、と。そういうことを親鸞が言うとるんやね。 で、急ぎ浄土へ行きたい、煩悩も起こらん、こういうことになったら、弥陀の誓願は必要ないんやないかと、こういう事まで親鸞は言うとるんですね。
    ついでをもって言うとくと、――これ、大事なことやと思うんやけど、外国の仏教学者がね。「浄土真宗は仏教ではない」と言うとるんやと。皆さん、どう思われるかな。 というのは、これは仏教というのは、悟りを求めて難行苦行するもの、それが仏教であるということになっとるんや。そういう目から見ますと、浄土真宗というのは仏教やないと言われても仕方がない。 例えば、これ後の方にあるんやけど、凡夫の身をもって悟りを開くというのは、もっての外やという。これは唯円の言葉やけど、そういう言葉が書いてある 。この、悟りを求めて難行苦行するのが仏教ということになったら、浄土真宗というのは難行苦行せんのや。南無阿弥陀仏と称えるだけで、浄土へ行かれるというので、易行ということになっとるのや。
    易行ということになっとるのです。だから浄土真宗は仏教でないと、外国の学者が考えるのも無理はないと思うな。悟りを求めて難行苦行するのが仏教ならば、浄土真宗はナンマンダブを称えるだけで浄土へ行かれるのやで、楽なもんや、と。

    親鸞は、仏法と言えば浄土真宗であると、こういうふうに言うとるんですね。私もそう思う。何故そう思うかと言うと、親鸞という人は、人間の裏の裏まで見極めた人で、それがどうしたら助かるか、 そういうことをはっきりさせたんやと思うから、親鸞こそ真の仏法者であると、こう私は考えております。

    私はよく言うのや。悟りを求めて難行苦行するので代表的なものをあげると、禅宗です。禅宗は座禅して、座禅して悟りを開くということになると、あの道元から反対が出て来るんやけど、 あの座禅もひとつの難行苦行であると思う。
私は公の席でも、禅宗のお寺さんがおっても、はっきり言うんやけど、禅宗のお寺さんでも今は皆、奥さんがあって、子どもさんがあるんですよ。だから私は言うんや。座禅しとると、 その最中に赤ん坊が泣き出す、と。奥さんがおらん、と。そういう事になったら、放っておかれんやろ、と。座禅どころでなかろう、と思うんや。

    在家仏法が本当やと思うのは、我々の日常生活が難行苦行である。日常生活が難行苦行であると、こう思うんや。奥さんのご機嫌は取らんならんし、旦那さんのご機嫌も取らんならんし、 子どもの機嫌も取らんならし、日常生活が難行苦行でないの。それからみたら、座禅なんか何じゃい、ちゅうんや。

    で、寒修行たらやっとる。滝に打たれるちゅうなことやっとる。法華宗で、ああいうこと、何んや、ただしばらくでないか。ところが日常生活の難行苦行ちゅうのは、 ずっと連続しとるんや。ちっとも休まんのやで。その日常生活の難行苦行を、法蔵菩薩の修行というんだろうと、私は思うんですね。

    昔の説教では、あの法蔵菩薩が五劫思惟(ごこうしゆい)、兆載永劫(ちょうさい・ようごう;物凄く永い)の修行をされて、南無阿弥陀仏を成就して下さった。我々はそれをいただくだけや。 それで易行や、と。何を言うとるんや。勝手な、自分の都合のいいことばっかり言うて、それで言うとる本人は助かっとるかというと、何も助かっとらんのやぞ。愚痴ばっかりこぼしとるんや。

    ーー極楽世界ーー
    私は、これはいつも言うけれども、五劫思惟と兆載永劫の修行は違うと。今までは五劫思惟、兆載永劫の修業と、こういうようにくっつけて、 法蔵菩薩が兆載永劫の修業をされて、南無阿弥陀仏を成就して下さった、こういうふうにいうてきたのや。私は、五劫思惟と兆載永劫とは違うという考えや。 兆載永劫というのは、無限です。五劫というのは長い。長いけれども、五劫という限(きり)があるのではないかと、こう思うのや。

    法蔵菩薩が、自分が助かると同時に、全人類が救われる道、そういう国を成就したいというて、あの世事自在王仏に申し出る。すると世事自在王仏は、「汝自当知」――汝みずからまさに知るべしと、 こういわれる。

    ところが、面白いことには、『大無量寿経』に、法蔵というのはもと王子さまやったけど、法蔵というのは高才勇哲というて、非常に頭のいい、勇気のある人間やと、こういうことになっとるんや。 それで私は法蔵菩薩とは、我々と同様、自惚(うぬぼ)れがあったんであろうと思うんや。自分の高才勇哲を頼む心があったのでないか。自分のような頭のいい者が考えて、 考えられんはずがなかろうと考え出して、五劫掛かったというわけや。法蔵菩薩の自惚れが崩れるのに、五劫掛かったということは、我々の自惚れが、容易に崩れるものでないということを物語っておるのや。

    それが五劫の果てに、――私ではかなわんと、悲鳴をあげた。それが南無阿弥陀仏や。そういう悲鳴あげたら、別に自分で苦労せんでも、ちゃんと浄土が出来上がっておったということを見つけた。 浄土が出来ておったということは、生かされて生きている自分を見つけたと、こういうことです。自分の力で生きているんでない。宇宙を成り立たしめる大きなはたらき、 それを私はいつも「はたらきそのもの」というとるが、難しく言えば「法性法身(ほっしょうほっしん)」とか「法身仏(ほっしんぶつ)」というものやけど、そういうはたらきによって、 生かされて生きとるのや。その生かされて生きとるということを、私が言うとね、それが気に入らん人がいるんや。生かされて生きているというのが、何か消極的に思えるんでしょう。

    しかし、みんな生かされて生きてるんで、自分で生きているものなんて、一人もありゃせんのや。血液の循環から心臓の動きから、皆、絶対他力なんや。法身仏のはたらきなんや。 自分で心臓動かしている者あるかって言うんや。あったらこれは珍獣、珍しいけものや。心臓は自分の力で動いているんでないで。はたらきそのものによって動かされておるのやね。 血液の循環から一切は、はたらきそのものによってまかなわれておって、それを借りて、少し自分で働いているのや、我々は。あまりロクなことやらんのやけど、 我々は。少しばかり働いているのを鼻にかけているのが、人間というものですね。

    だから偉そうなこと言っても、皆「法身仏」「法性法身」「はたらきそのもの」のお蔭を蒙っているんやて。それを忘れているんや、皆。それで自分の力で生きてきたように思うとるんやね。 それは思うているだけの話であって、私はそれを昔から、借金で人に奢(おご)っていると、こう言うんや。借金というのは、「はたらきそのもの」の力によって生かされながら、 それを自分のはたらきだと鼻にかけておる。それを借金で人に奢っていると、私は称しておるんやけど、これは間違いないと思いますね。

    こういう微妙なはたらきを、我々も身に受けておるということですね。で、それに深く感謝するかどうかといことが問題でしょうね。信心というのも、難しいもんでない。 私はその「はたらきそのもの」によって生かされて生きている私やな、ということに深く感動するのが信心というものであろうと、こう思うんですね。

    確かに『阿弥陀経』には、極楽というのは迦稜頻伽(かりょうびんか;上半身が人で、下半身が鳥の仏教における想像上の生物で、極楽浄土に住むという)の鳥が鳴いているとか、 百味の飲食(ひやくみのおんじき;色々な珍しい味の食べ物やおいしい食べ物のこと。)が食べられるとか、八功徳水と言うんか、 まあいい湯かげんのお風呂にん入れるとか、そういう色々ないいことが書いてあるんや。それに騙されて、難波に海へ当時は身投げしたんでしょうね。しかしそれなら『阿弥陀経』は嘘が書いてあるかというと、嘘は書いてないんや。本当のことが書いてある。

    例えば、我々が朝、目がさめて、雀が鳴いとる。雀が鳴いとるということで、どのくらい我々が慰められるかしらん。あれ、迦稜頻伽や。迦稜頻伽という特別な鳥が極楽におるように書いてあるけれども、 雀も蝉(せみ)もみんな迦稜頻伽やで。蝉はちょっとうるさいけど。ああいうものがないと、我々の生活はまことに索莫(さくばく)たるものになってしまうね。 だからそういう、この世が極楽であるという眼(まなこ)をもつということが、大事なことであろうと思うんですね。私は親鸞のいうている事は間違いない、お経に書いてあることは間違いないと思う。 それを誤解して伝えてきたところに、罪があるんでないかと思うんですね。昔はこの世は苦の娑婆や。苦の娑婆ちゅのは、幕府から、或いは明治になっても「税金納めよ」と政府からも責められるし、 地主からも責められる。この世は苦の娑婆や。だからこの世ではせっかく働いて、政府や幕府のお役に立って、そして死んだら極楽という、 〝ありがたい〟ところへ生まれて、蓮の〝うてな(台のこと)〟の上に乗って、百味の飲食をいただくのや、と。こういうことを昔の説教者がいうて、騙(だま)してきたんやね。

    で、私はお寺の坊守会(お寺の奥さん達の集まり)に引っ張られた時に、「あんたらのような尻のでかい者が乗ったら、蓮の茎が折れてしまうわ」と、こう言うて笑った。 そういう事を語っているのではないのです。百味の飲食というのは、我々が腹減っている時には、何食べてもうまいんや。で、お腹いっぱいの時に、すき焼き出されたって、 食べられんわ。だから我々のお腹が空いている時には、何食べても美味しいものです。百味の飲食なんや。だから仏法というのは、精神的に腹を減らすもんや、と。

●無相庵のあとがき
    西川玄苔先生が「在家は難行、出家は易行」と一般の捉え方とは異なる逆説をお述べになっておられましたが、米沢先生も、今回、 『日常の難行苦行』と云うテーマ名を付けておられます。
私は、失われた20年と言われる世紀の変わり目を迎えた我が国で、来年の1月22日に創業満25年を迎える会社を経営して参りました。経営して参りましたというよりも、 嵐の中の荒海を沈没しないように、耐えて来ただけだったのが、実状でございます。

    零細企業というものは、『お金は思うようには動かせない現実』、そして、取引する相手企業の殆どが相手企業の立場の方が上ですから、 なかなか此方の思うようには動いてくれないのが、これまた現実でありますから、仏法に説かれる『思い通りにいかない苦』が日常的に連続して来ましたので、 そんな中で、私が仏法に救いを求めるのは必然であったと思われます。
    「思う通りにはいかない、縁に任せるしかないのだ」と自分に言い聞かせても、なかなか、言う事を聞き入れない私の心でした。
ただ、70歳を越えて(今年の3月)、日常生活の中で記憶力がかなり低下している現実に度々行き当たる事が多くなり、頭の回転も明らかに遅くなり、根気も失せてきている事を実感する ことが常態化している上に、体も年齢相応に衰えている事も実感することになりますと、さすがに自力の限界を漸く認めざるを得ないことも残念ながら知りました。
    これまでの「自分なら、こうするから、相手もこうあるべきだ」という、これまで自分の心の奥底にデンとして構えていた驕慢心と過信に否応なく気付かされ始めた という訳であります。勿論、驕慢心は執拗に私の心の壁にこびり付いており、完全に払拭する事はなかなか難しいと思わねばならないんだろうな、と初めての壁を前にしているところでございます。。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1507  2015.10.19
生甲斐と仏教―浄土の真実―(完)

●無相庵のはしがき
    今回で、この法話『生甲斐と仏教―浄土の真実―』は完結とさせて頂きます。
さて、今回の法話内容の中に『ではどうして浄土の真実に触れることができるのか。』と云う文章があります。「それは是非とも知りたい!」と思い、心をより集中させて読み進みましたが、 「宜(よろ)しきにかなうて、大いなるものの活動が現われ真実と触れ合い交わる道が開かれるのです。」と結論付けられており、実は肩透かしを感じてしまいました。しかし、先に進みました。 そして、何回も何回も読み直しました。それでも、「結局はどういうことなんだろうか?」と分からないままでした。そして、何回か繰り返し繰り返し、「分かろう、分かろう」と読み直している間に、 やっと気付いたことがありました。

    私が『浄土の真実に触れることが出来た』訳ではございません。井上善右衛門先生はもうこの世にいらっしゃいませんので、正解を教えて頂く訳には参りませんが、 私なりの答えを〝無相庵のあとがき〟にてお示ししております。ここで、申し上げない訳は、無相庵読者の方々にも、法話を読んで頂いている間の公案として、 ご自分なりの答えをお出し頂きたいからでございます。

●井上善右衛門先生のご著書『生甲斐と仏教』からの抜粋引用
    浄土が辺際なき無限の世界であり、分別を越えた絶対界であるということは道理として頷けます。しかしその無限とか絶対とかいうことが、 ただそれだけでは結局我々の思念の中だけのものになってしまいましょう。そのような主観に描かれたものによって真実の浄土に触れることは出来ません。 人間の知能を唯一の根拠とする理性や学問の弊(へい;やぶれる事?破綻?)はここにあります。

    ではどうして浄土の真実に触れることができるのか。
    人間には人間固有の意識とかその制約というものがあります。そうした制約に応じ宜しきにかなう(和;適切な時節にという意味か?)て、 大いなるものの活動が現われ真実と触れ合い交わる道が開かれるのです。衆生を摂取するということは、かくて真実が我々の身のうち、心のうちに浸透し来(きた)ることであり、 これを親鸞聖人は満足大悲円融無碍と語られました。仏心の大悲がこのような摂取の活動を現じ、我々の心に通うて魂の眼を開かしめるのを大信と申します。
この信を通して仰ぎみる浄土の真実は最早や主観の影ではありません。西方浄土の荘厳が肌身に触れる真実の息吹となってこの世を生かしこの命を育てるのであります。

    仏と浄土とは本来一体であり、これを依正(えしょう)の二報(にほう)と申しますが(正報とは過去の業の報いとして受けた心身を言い、 依報とは正報の拠り所である環境・国土を言います)、聖人はその照育の光線を仰いで浄土を無量光明土と讃えられました。それは信体験にもとづく確たる真実世界の認識であり、 それを人間の幻であるというのは大きな顛倒(てんどう;道理に背くこと。煩悩のために誤った考えやあり方をすること)であります。
    その無量光明土から、現在ただ今この身の中に貫き通ってくる光明、それを思うと次のような光景を彷彿するのであります。

    雨後の秋の夜、澄んだ月が美しく天空に輝く、葉末にたまった露の一つ一つに、もれることなく月影が宿る。その葉末の露はやがて落ちて消えるべき運命のものです。
人間の肉体もいやがおうでもやがては死ぬべきものであります。しかもその露の中に天上の月の光が宿っていることにふと気づいてみると、たとえその露は地上に消えてゆくものであっても、 その中に宿っている光は永遠の月の光に返りつながっております。露が消えたら、中に輝いていた光も無くなるという人があるかもわかりません。 今日の人々は浄土とは人間生きている限りにおいて思念されたものにすぎない、人間が死んだら人間の思いも消える、思いが消えたら浄土も無くなると、 そのように簡単に考えてしまうのでありますが、果たしてそんなものであろうか。

    露の中に宿っている光は地上のものでありながら、そのまま天上の月の光に通うております。
    露は消えても光はなくならない。露だけが我が身なのではなく、そこに宿る光もまた我が命であることに気付いたとき、永遠を知る身となります。
そしてやがて我が命の還るべきところを偲び慕わずにはおられません。浄土への思慕とはまさにこの心情だと思います。

    親鸞聖人はまさしく光輝いた露であらせられました。そしてかくのごとく永遠の光に生きることの出来る恵みを、身をもって私どもに知らせて下さったのであります。
    闇から闇へただ果敢(はかな)く消えてゆく露の身であることに我々は腰を据えていることが出来るでしょうか。人間が自身の果敢さを覚えるということは、そのとき既に、 果敢なからざるものに強く心引かれているという証拠であります。虚仮の自覚もまた真実なるものよりの見えぬ返照なくしては生じません。
    これは仏教徒であろうが、なかろうが、人間にとっては避けることのできない根本感情です。そういうところに、仏と人間との関係が始まっているのであります。

    その我々の中に永遠の月光が貫(つらぬ)き来(き)たって命の軸となるとき、その光に摂めとられてその光に帰りゆく己れのいのちが自覚されてきます。 そして消えゆく己れというものは、己れの己れたるものではなくなって有漏(うろ;煩悩のこと)の穢身(えしん;汚れた身)として知らしめられてきます。 そして無量光明土がふる里として思慕されるのであります。我々はそういう浄土の真実を、おおけなくも(身の程知らずにも)この身にいただき、 その恵みにまことの生甲斐のしるしを知らしめられるのであります。

●無相庵のあとがき
    井上善右衛門先生が、喩(たとえ)として挙げられる〝次のような光景〟は実に見事なものであります。「浄土の真実に触れることができた」なら、きっと心の中で、このような光景が、 見られるのだと思います。白井成允先生が、お詠みになった、無相庵カレンダーの15日のお言葉『いつの日に、死なんもよしや、彌陀佛の、み光の中の、御命なり』も、 その様な光景を感じられてのお歌なのかと思いました。

    さて、『ではどうして浄土の真実に触れることができるのか。』に関して私の至った結論は、親鸞聖人の教えは、他力本願でありますから、 「こうすれば、浄土の真実に触れられます」と云う自力的な表現を求めていた私が根本的な間違いをしていたという事であります。他力の教えを聞き学びながら、 全く理解出来ていなかった事、まことに恥ずかしいと思いました。つまり、頭で分かろう分かろうとしていた自分の愚かさを知らされた思いが致しました。結局は、科学に洗脳され切っているのだと思います。 しかし、それは、私にとっての制約(後にご説明致します)だと思います。その制約も含めて、南無阿弥陀仏するしか無いのだと、これも私の頭だけの覚りでございます。

    井上善右衛門先生が「宜(よろ)しきにかなうて、大いなるものの活動が現われ真実と触れ合い交わる道が開かれるのです。」と結論付けられているのは、 その事(他力のこと)だったのではないかと思いました。
    また、その前の文章「人間には人間固有の意識とかその制約というものがあります。そうした制約に応じ宜しきにかなうて・・・」の『制約』と云う言葉の意味も、 個人個人が祖先から受け継いだ能力であるとか素質、生まれ育った時代や環境、土地柄、出遇い等の事を総称しているのではないかと想像した次第でした。

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No.1506  2015.10.15
生甲斐と仏教―浄土の真実―(5)

●無相庵のはしがき
    井上善右衛門先生は、官立神戸高等商業学校(現在の神戸大学経済学部、経営学部)の学生の時(昭和4~7年;20歳頃)に、白井成允先生(倫理学博士;44歳頃)に出遇われ、 卒業後、京大文学部大学院哲学科に進学されましたから、文章はどうしても哲学的表現が多いご法話になっています。従いまして、哲学言葉に慣れていない私たちには、どうしても分かり難いのだと思います。
それに加えまして、自覚の深さが井上先生は私たちよりも深くていらっしゃいますから、未だ自覚が深まっていない私たちにはなかなか理解出来ないのだと自覚すべきだと思うのです。

今日の内容の詰まるところの結論は、次にお示しした末尾の2行にあると受け取ってよいと思います。
『そのような自分が浄土の真実を仰ぎえたとき、始めてそのままに落ち着くことが出来ます。それは不思議な二つの世界の照応の関係であります。このようにして浄土を我々の世界とは、 切っても切り離せない関係におかれています。虚仮の世間は真実の浄土に照らされてその存在の意味を全うすることが出来るのです。』

私の理解では、この世(娑婆)と浄土は、相対関係にある事を理解致しますと分かり良いと考えます。つまり、善と悪、長いと短い、遠いと近い、男と女、無限と有限は反対言葉、相対する言葉です。 悪があるから善がある。長いものがあるから、短いものがある。有限な存在があるから、無限な存在があると云うことだと思います。そう云う考え方から、差別・区別のあるこの世(娑婆)があるからには、 必ず無差別・無分別の世界(浄土)があるはずだと云う哲学的考察、或いは認識論に依って、浄土が実在すると確信出来るようになると云うことだと考えます。

より分かり易くなるには、人間の視覚、聴覚等の五感で感じ取れる喩話(たとえばなし)が私たちには有効だとも考えます。幸いにも、このご法話の最後の章となる、生甲斐と仏教―浄土の真実―(6)の中に、 井上先生が、仏様、浄土、本願、或いは〝いのちの故郷〟。〝魂の故郷〟を天空のお月さんに喩えられ、地上に生きる私たち生きとし生きる衆生の一つ一つの命を、樹木の 葉末にたまった一つ一つの露(しかも月影が映った露)に喩えられた見事なご表現がございます。私は、その喩話のお蔭さまでお浄土が近くなったような気が致しました。

●井上善右衛門先生のご著書『生甲斐と仏教』からの抜粋引用
    このように考えると浄土という世界が、今まで思っていたような夢物語りの世界ではないことが頷(うなづ)けます。 『維摩経』には「衆生のたぐいこれ菩薩の仏土なり」という言葉がありますが、これは菩薩は衆生の存在する処そこに浄土を打立てるというのであります。 この意味において聖徳太子の『義疏(ぎしょ;経典の意味・内容を解説した書)』には、「仏には本来己(おの)れの土(ど)無し」と徹底した釈がほどこされています。 これだけが自分のものだとする世界は仏の世界にはないということです。これに対し、私どもが人間的意識を以って描く仏の世界は、人間の世界があるごとく仏の世界もやはり何らかの区切りと領域をもって、 これは仏の世界であり、それ以外は人間の迷える世界であるという風に頭の中で描くのであります。

    しかし仏典に語られている浄土という世界はこのように限られた世界ではありません。『浄土論』には「究竟(くきょう;究極のところ)して虚空(こくう)の如く、 広大にして辺際(へんさい;限りとか果て)無し」と説かれ、和讃(親鸞聖人の浄土和讃)には「妙土広大超数限(みょうどこうだいちょうすうげん;固定した相や数量のない広大無限の妙なる如来の浄土)」 と雄大な言葉で語られてあります。しかしそれは単なる雄大ではなく、私どもの今いるこの世界とのもっと深い関係を語っているようです。仏の世界と我々の世界とは二つであって一つに重なっている。 重なっているということは通いの道があるということであり、有限な人間の世界がそのまま無限なる真実の国に裏付けられ、浄土からの果てしない働きかけが現に今、私どもの胸に迫っている。 人間の親でさえその心には常に子供のことが念頭にかかっている。念頭にかかっているということは子供の中に入り込んでいるということです。

    子供の中に入り込んでいるということは、即ち子供を立派に育て上げなければならないという働きでつつんでいることです。 つつむという言葉は何かすでに空間的な感じがしますが、それは空間的な包摂(ほうせつ;一定の範囲の中に包み込むこと。)ではなく、 質的な同化作用の摂取が絶間なくいとなまれているということです。あるべからざる殻をかぶって真実の世界から我々の上に迫ってくることは当然の事柄でありましょう。 このことに気付くとき、二つの世界の対応と緊張とが人間の世界をして真に生きた輝きを放たしめることになるのであります。 しかもこの二つの世界は決して遊離しているのではありません。しかし仏の世界が人間の十重二十重(とえはたえ;幾重にも)に鎖(とざ)している固執の殻を脱ぎ捨てているということは、 その意味において人間からは遥かなる世界であると申さねばなりません。

    また仏の覚りの前に顕現する世界相も我々の想像を絶したものでありましょう。しかしその遥かさとは、人間が描くごとき空間的な距(へだた)りではありませんが、 ただ人間の意識の上に表現するとき「十万億土を過ぎて」と語られるのであります。

    けれども一方その仏国は決して遠くかけ離れた世界ではない。我々の世界と一時も相離れることの出来ない国であります。 だから『観無量寿経』には「ここを去ること遠からず」と示されている。まことにこれほど近い関係は無いのであります。 またそれは「衆生のたぐい是れ菩薩の仏土なり」という関係において、我々はその真実なる世界の中に現に摂め取られておるのでありまして、 それほど近く切実な相互の関係はないと申さねばなりません。

    同時に仏の世界は絶え間なく我々に働きかけています。その働きかけこそが浄土の存在の根本本質であると申すべきです。本来、本願と浄土は離すことの出来ないものです。 本願によって浄土が打立てられ、その浄土が本願の具体的活動態として我々の上にいま働きつづけている。そういう思いを以て『浄土論』や『論註』を繙(ひもと)くとき、 いかに浄土の真実が我々に対して悲心あふれる活動をいとなみ続けているかということに今さらの如く胸打たれる思いがするのです。

    限られた殻の中に住んでいる人間は、この閉ざされた世界の中で事柄を始末しようとしますが、右に置いても、左に置き換えても、けりの付くものではありません。 これは人間がある年齢に達して、人生の限界を体験し苦悩を経験することが、その意味では人間にとって大変貴重なことであり、それによって自己を真に知らしめられるのです。 そのような自分が浄土の真実を仰ぎえたとき、始めてそのままに落ち着くことが出来ます。それは不思議な二つの世界の照応の関係であります。 このようにして浄土を我々の世界とは、切っても切り離せない関係におかれています。虚仮の世間は真実の浄土に照らされてその存在の意味を全うすることが出来るのです。

●無相庵のあとがき
    この世間を表現して、遷流(せんる)破壊(はえ)界畔(かいはん)だと申します(コラム183で説明させて頂いております)。
遷流(せんる)とは、激しく変化して行く事。
破壊(はえ)とは、壊れて行く事、また、破壊し合う事。
界畔(かいはん)とは、縄張りの事。
浄土は、それとは逆に、常住、無変化、一如、無差別の世界であります。娑婆があるかぎり、きっと浄土は実在すると云う考え方が背景にあっての、下記ニ行の上述の結論ではないかと考えます。

即ち、『そのような自分が浄土の真実を仰ぎえたとき、始めてそのままに落ち着くことが出来ます。それは不思議な二つの世界の照応の関係であります。 このようにして浄土を我々の世界とは、切っても切り離せない関係におかれています。虚仮の世間は真実の浄土に照らされてその存在の意味を全うすることが出来るのです』

無差別、一如平等の浄土に住んでいては、差別、不平等、無常の娑婆世界を知ることは出来ません。娑婆世界に生きている私たちは、逆に、差別・区別の世界に住んでいますから、無差世界の浄土の実在を 認識出来るわけでありまして、逆に、差別、無常の世界に居る喜び・楽しみも初めて感じられるようになると思うのです。そういう理屈から、井上善右衛門先生は、 「そのような自分が浄土の真実を仰ぎえたとき、始めて娑婆世界に居るそのままで落ち着くことが出来ます。」と仰ったのだと思います。 少し難しい理屈でしょうか・・・。何回か、ご法話を読み返して頂ければ、お分かりになるのではないでしょうか。また、〝はしがき〟で申し上げた、 井上善右衛門先生の次回の喩話にご期待頂きたいと思います。また、井上先生の別のご法話『宗教的真理の実験の場』を加えて、理解の一助になれかしと思います。

●ご法話追加
    宗教に対する一般の思いというものが、もう一度どうも出直してみなければならないという感じが致すのです。よく申されますのに、宗教というものは何か夢物語を聞くようで、 幾度聞いても同じところをぐるぐる廻っているような気がすると、こんなことを申される方があります。これはどうも少し的がはずれているのではないかと思います。
そのように何時までも遠い彼方の夢のような話しを追うているのが宗教ではありません。宗教の踏み出しというのは、まず科学に取り残されておりますところの自己というものが問題になるということです。 その自己というものを尋ね求めて、自己の根本問題に迫って行く道というもの、これがすなわち宗教的自覚への道だと思います。

科学というものの答えてくれない、人間としての己れ自らの問題、その問題の急所急所を押えて参りますならば、、そこに必ず一筋の道が私どもに開かれてくると申さねばなりません。
よく科学は実験出来るけれども、宗教は実験出来ないというようなことを学生などが申すことがございますが、これも取り違いです。科学というのは、先ほど申すように外を見る目ですから、 科学の実験の場所は私どもの外にあります。その外側の場において科学的に追及した法則を実際の場に確かめてみる、これが科学的実験というものでありましょう。
しかし宗教的心理というものは、私どもの外側にある心理ではありません。私ども人間として、生きる主体として、私どものなかに見出されてくる真理ですから、宗教的実験の場は、 この生きる私の胸の中、これがまさに宗教的真理の実験の場だと申さなければなりません。その実験が出来ないような宗教的信条なら、それは空しいドグマ(宗教上の教義) であると言われても致し方ないことではなかろうか。

親鸞聖人の教えは、決してそのような空しいドグマとか、夢物語ではない。真の人間として生きる道、私どもが人間として生まれてきました生甲斐を全うするかしないか、その岐路に立って、 私の「いのち」そのものの問題を、自身の「いのち」そのものの中に実験された。そこに親鸞聖人の教えの確かさというものを気付かねばなりません。
よく法蔵菩薩が修行されたと言っても、一体どこで修行されたのかというようなことを、何か空間的な気持ちで問おうとするような考え方がありますけれども、空間の場で尋ねられるのは科学の問題です。

法蔵菩薩の修行された場所は明らかです。この私のこの胸の中で修行されたのでありまして、その事実を私どもが踏み外して宗教的真理というものを追っかけておりますと、 全く的外れのものを把えるときなく空しく駆廻わることになりましょう。それは、折角人間に生まれて、まことに残念なことであります。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1505  2015.10.12
生甲斐と仏教―浄土の真実―(4)

●無相庵のはしがき
    この土・日・月の三日間、孫達5名が二泊三日で集まりました。孫たちの親(つまりは私たちの子供)を入れて総勢9名の食事出しは、やはり老体にはかなり 堪えますが、寄って来てくれる事、世話出来るという事は私たち2人共に未だ元気にしている事です。どちらかが病気や認知症になれば、出来ないことですので、有難く思って、 これからも頑張ろうと夫婦して思い直すことです。
そんな事情で、コラム更新が遅れてしまいました。申し訳ございません。

    さて、今回のご法話内容は私も詳細を理解するのは難しいです。仏様の実在(哲学的な意味での)を信じられ得た方である事が前提のように思います。
今回の法話内容は、仏様は私達人間の誰をも分け隔てなく、自分の一人子(ひとりご;一子地)として慈悲をお掛け下さるのだと、それは丁度、私達人間の親が子の幸せ無くして、 親の幸せは無いと思う事を喩(たとえ)として説かれています。その事を実感として受け止められ得た時、仏様を実在として信じられ、また、浄土の真実をも信じられ、 お念仏も自然と称えられるのだと思います。

●井上善右衛門先生のご著書『生甲斐と仏教』からの抜粋引用
    仏教では世界を大きく分けて、十の世界に区別します。即ち、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、仏ですが、 この仏教の世界観を前述したように共通の単なる平面に還元してしまって、 空間の中にあるもの以外は見ないという立場をとるのは、真にあるべきリアルな世界を見る所以(ゆえん;理由、根拠)ではありません。抽象の平面で見るのに対して、奥に掘り起こされるべき世界、 即ちこれを自覚の世界とか、行の世界とかいう言葉で示すべきかと考えますが、要は知の世界ではなしに、もっと深い次元の世界に働く自覚の道が現代の教養の中では忘れられているのです。

    犬にも人間にも映るという抽象の認識に釘付けしてものを考えようとする。その意識が今日我々の周囲にいろいろな問題を起こしていると思います。 原子爆弾を科学的法則を以って造ることは出来ても、その原子力を真に生かす世界を開く知識が無い。即ち前述したマルセルの「主音の欠けた音楽の如き文化である」といわれる所以でしょうか。
    外を見る眼があっても、内には欲と怒りと自己中心の世界だけがあって、他に世界があることを認めない。それで真実の世界を主張しえましょうか。

    浄土という世界が仏の目覚めの前に顕現する具体的な世界であることは『維摩経(ゆいまきょう)』仏国品(ぶっこくぼん)にも明快に示されています。 では一体その仏の世界即ち浄土という世界は私どもが現在生きている人間の世界と如何なる点において根本的に異なっているのかを省みたいと思います。

    まず、我々人間は五尺の肉体に区切られた自己が存在の中心になっています。従ってこの肉体的な自己の外側のものは自己に対する他者になります。
自己中心とはすべての行為の目的が自己自身の満足のためであると考え、自己以外のものがどうなろうともそれは自分に関係が無いとする生き方です。 そうした意味において自己がすべてだという意識が固定してくると、いわゆるエゴイズムというものが人間存在の本質に結び付いたものになります。それは考え出された思想ではなくて、 人間そのものの原点に結び付いた根深いものです。社会的組織制度が人間の意識を規定すると言いますが、それよりも更に根源的なところで人間のエゴイズムは成り立っています。

    そしてそれが様々な思想や行動になって現れるのです。我々においても身体的な自己のみが自己であるという意識の大前提に立って、 それを当然のこととして生きている自分をふり返ることができます。 そしてそれ以外に自己がないということを疑う余地のない明白なことと思っているのです。ところが人間の経験上不思議なことが起こるのです。それは子を持った誰もが体験することですが、 我々が親となってみると、「子供の幸せを離れて親の幸せは無い」ということを体験するのです。親である自分が一個の人間として如何程恵まれた能力があり、地位があり何の不足のない生活をしていても、 もし自分の子供が世の落伍者で世間から白眼視され、所知らずさまよっている哀れな人間であったら、親は果たして幸せという感情が持てるであろうかということです。

    では何故そうなるのでしょう。子供は私からすれば外側の存在であり他者です。子供が死のうが、私がそれによって死ぬのでも殺されるのでもない。 だとすれば親になるまでの意識の前提からすれば、五尺の身体に包まれた自分が自分であり、それ以上を求める必要はないはずであるのに、親になると不思議にも 「子供の幸せを離れて親は幸せを感じられない」のです。即ち子供というものは身体の上では、他者として自分の外側にあるけれども、親の側からすると、その子供は最早他者ではない。 親は子供の中に自分を発見しているのであり、子供を包む自分に自分が拡大しているのです。即ち以前の自己とは自己が変わってきているのに気づくのであります。そうした事実を私どもは否定できません。

    しかし悲しいかな、さらに一歩進めてみようとしても、人間の自己拡大はそこ迄です。自分の子供と他人の子供とはどうしても一つにならない。
自分の子供に対しては夜も眠られない事があっても、他人の子供に対しては夜も眠れないような同情をしようと思っても出来ない。そこに人間のどうにもならぬ自己拡大の限界があります。

    ところが仏の境界というのは、我々がとじ込められているような自己中心の殻を無限に脱ぎ捨てていかれたものといえましょう。 そしてその究極に仏の覚めと仏の世界とが顕現してまいったのであります。
    その世界とは『法華経(ほけきょう)』譬喩品(ひゆぼん)に語られている有名な言葉、「いま此の三界(さんがい;欲界・色界・無色界の三つの総称。三有とも言う。 なお、仏陀はこの三界での輪廻から解脱している。)は皆な是れ我が有(う)なり、その中の衆生は悉(ことごと)く是れ吾が子なり」という大自覚の境地であります。 その境地は我々のささやかな親子の体験を通しても窺(うかがい)い仰ぐことのできる世界であると思います。

●無相庵のあとがき
    なかなか難しいお話の内容だったと思いますが、次回以下をお読み頂いた後で、また読み返して頂ければ、成る程と思えますので、懲りずにお読み頂きたく思います。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1504  2015.10.08
生甲斐と仏教―浄土の真実―(3)

●無相庵のはしがき
    前回コラムの井上善右衛門先生のご法話の末尾に『実在の視野を科学の視野に閉じ込めることがはたして正当かどうかという問題であります。』というお言葉がありました。
    それは、「実在の視野を科学の視野に閉じ込めてしまうのは、信仰の世界では正しくない」というご見解だと思います。 その理由を今回、お示しになっておられると思いますが、犬と人間の視野を比較をされた説明をお読みし、私は成る程なと納得出来ました。
    一方、対象が何にせよ、信じるということは簡単なことではないと今も思っております。浄土の実在を信じる心、仏様を信じる心、神様を信じる心が信仰心だと思うのですが、 その信仰心は、一体どのようにして持ち得るのかを考察し続けているところです。金子みすずさんは、前回の〝無相庵あとがき〟でご紹介したその詩の「仏さまはさびしいの」という言葉から、仏さま の実在を信じていらっしゃったのだと思っております。

    また、神様の実在を信じておられるキリスト教徒のお一人を、先週の日曜日の『こころの時代』で知りました。下稲葉康之(しもいなば・やすゆき;76歳)という牧師であり、 且つ永年ホスピス医を続けていらっしゃるお方です。番組は『最後のおもてなし』という表題でしたが、私は昨年9月20日にも視聴し、録画もしていましたが、内容を記憶していませんでしたので 、それ程印象深く無かったのだと思います。でも今回は、実に深い感銘を受けました(今週土曜日の午後1時から再々放送がございます)。
    その下稲葉医師は、九州大学の学生の時に、ドイツ語の先生(キリスト教を広めるために日本にドイツ語の先生としてやって来ていた)の人格に影響を受け、 ドイツにも留学し、洗礼も受けたということでした。

    井上善右衛門先生も、白井成允先生のお人柄とその信仰心に打たれて、信仰心を持たれるようになられたことは間違いないと思います。
多くの先師方もまた、善き師に巡り合えた上で得られた信仰心のように思います。

●井上善右衛門先生のご著書『生甲斐と仏教』からの抜粋引用
    では一体、仏教で浄土とは如何なる世界を語ろうとするのであるかということになりますが、この問題に入るのに喩えを一つ申し上げたいと思います。

    私は神戸で六甲山の山裾に近いところに住んでいます。運動とてとくに心得もないので、秋のすがすがしい晴れた日に閑があると、 犬を連れて裏山を一時間ばかり散歩するのですが、山裾(やますそ)の小高い丘を登って行くと六甲の峰々が色づき、目の前に大阪湾が澄んで見えます。海の向こうには河内の山々が見え、 西の方を見ると淡路島がぽっかりと浮かんでいる。神戸は非常に景色に恵まれたところであります。

    こういう美しい景色を見ていますとフト連れている犬に、まぁそう走り回らずに一寸(ちょっと)ここへきてこの景色を見るがよいと言いたくなるのですが、 犬には全く見ようとする気配もない、ただもう道端をクンクンと嗅(か)ぎ廻って行ったり来たりするだけです。そういう姿を見ますと、人間に生まれてよかったなあと感じるのです。
そんな時にふと犬の目玉をのぞいて見ますと、人間に映ってるのと同じ山が映っております。 山が映っているのだからきっと海も映っているに違いない。私の見ているのと同じものが映っているのですが、しかし犬には美しい世界というものは映っていないのであります。

    人間は美を感じます。人間は価値を意識します。人間は自由を知ります、その故に人間は責任を感じます。人間は真実を求めます。 人間は果敢(はか)なさに対して永遠なるものを憧れます。そして理想の世界を持つのです。
しかしこのような事は犬にはない世界でしょう。犬にはない世界だからと言って、人間の前に顕現(けんげん;はっきりと姿が現れること)しているその世界を嘘だといえるだろうか。 芸術的な美に接した時それを幻想だと思えるだろうか。犬に映っている世界と人間の前に顕現している具体的な世界といずれがより真実に近い世界なのであろう。

    この事を思えばこそ、人間に生まれて良かったと思うのです。もしそうでなければ犬になっても良いはず。しかし犬になろうという気は起らない。 何かそこに人間たる我々の前に顕現している具体的な世界のより深い真実性をすでに認識しているのではなかろうか。

    犬のまえに現れている世界は犬にとってはそれより他にあり得ない世界です。人間の前には人間の世界が厳然として存在している。それを疑うわけにはゆきません。 それは決して単に空間的な存在としての世界のことではありません。ただ眼の水晶体に映っているという限りでは犬と私と同じものが映っているので、決して世界が二つ並んでいるのではない。 けれども世界が一つだとはまた決して言えない。
    竪(たて)に重なっているというか、あるいは私はこれを見るものの前に現れる世界の奥行きとでも言い表してみたいと思うのですが、 その世界の奥行きにわけ入る認識というものがあります。犬にも映っている、人間にも映っている一つの共通した平面で、奥行きを無視して見ている。 即ちこれは物質の世界というものです。これも確かに一つの世界の姿ではあるが、しかしそれは極めて抽象的な世界の一面でしかありえない。 そのように申すことが勝手な言い分であるか、あるいはそれを認めないことが勝手であるのか。
その点をもう一度ふり返ってみる必要があると思うのです。

●無相庵のあとがき
    帝塚山大学文学部の西山厚教授は日本仏教(西山先生は〝私が考える日本仏教〟と遠慮深く強調されてました)の到達点は、 「心満たされて心安らかに生きてゆかれ、心満たされて安らかに死んでゆける事」だと番組の中で仰っていました。
しかし、私が思いますのには、人間、そういつもいつも四六時中、心満たされて生きていくことは到底出来ないのではないかと思います。人間というものは、社会生活の中(夫婦関係も含む)で 「他の人から、貧乏だとか、学歴が低い、社会的地位が低いとバカにされたくない。顔形・容姿を少しでも良く見られたい。自分の命が惜しい。自分の時間が惜しい、自分のお金が惜しい、 自分の財産が惜しい」という自己防衛本能が根底にありますし、「自分は尊重されて当たり前だ。自分が不幸になるはずが無い。自分には良いことが待っているはずだ」 という自己肯定本能も根底にあると思うのです。しかも、その自己防衛本能が「そんな事を思っている」本心を他人に見せないように努めます。 生きている限りその努力を続けざるを得ません。
また、信仰心を求める一方で、一番頼りになるのは結局はお金だと云う、これまた人類が築き上げて来た守り本尊を拝む心を払拭(ふっしょく)出来ないときています。

しかし、そんな自己の正体を見極め公表した方が居ます。親鸞聖人です。親鸞聖人は、次のようにご自分を悲しまれました。

☆「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえずと、…
☆悪性さらにやめがたし  こころは蛇蝎のごとくなり  修善も雑毒なるゆゑに  虚仮の行とぞなづけたる
☆煩悩にまなこさへられて  摂取の光明みざれども  大悲ものうきことなくて  つねにわが身をてらすなり
☆是非しらず邪正もわからぬこのみなり小慈小悲もなけれども名利に人師をこのむなり
☆悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証(さとり)に近づくことを快(たの)しまざることを。恥づべし、傷むべし

しかしその親鸞聖人は「私たちは生きている限り、四六時中心が満たされて、心安らかに生きてゆくことは不可能である。しかし、心身が弱り疲れて、命を失った時、お浄土に往き生れるのだ。 しかし、本当の自分に気付けば、生きている間に往生が決まるのだ」と、『現生正定聚の位』を 考案されました。
聖道門(禅宗、天台宗、真言宗)のように、様々な修行を通して、自力によって成仏することを説く宗旨では、私達、娑婆社会で生活するしかない一般庶民は、悟りを開いたり、 信心獲得することは極めて難しいと思われますが、この親鸞聖人の他力本願の念仏の教えのお蔭に依って、救われる道が開かれたのでした。

また、この親鸞聖人の教えを井上善右衛門先生のお師匠であられる白井成允先生は、これまでも何回かご紹介して参りました『召喚の声』という詩を詠われて、現代の私達に呼び掛けられて下さいました。
その詩をご紹介して、コラムを締めくくりたいと思います。

―招喚の声―

              業風吹いて止まざれども
              唯聞く弥陀招喚の声
              声は西方より来りて
              身をめぐり髄に徹る
              慶ばしきかな
              身は娑婆にありつつも
              既に浄土の光耀を蒙る
              あはれあはれ十方の同胞
              同じく声を聞いて
              皆倶に一処に会せん
                            南無阿弥陀佛

7行目の『既に浄土の光耀(こうよう;輝き)を蒙る(こうむる:身にたまわる)』の句の心は、「浄土に往き着いているのでは無いが、浄土の輝く光を、この世に居ながらにして、 身に賜わっている」と白井成允先生は感じられて、そのお気持ちを詠われたのだ思われます。そして、そのお気持ちの背景には親鸞聖人の、浄土往生が約束された『現生正定聚』 という信心獲得の人のご心境がお有りだったのだと私は理解しています。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ

追記
このコラムを仕上げる日々、世間では、月曜日・火曜日と、日本人のノーベル賞受賞ニュースで持ち切り状態でした。何れもコラムでテーマとして取り上げられている『信仰と科学』の科学分野での受賞です。
井上善右衛門先生も、科学を否定されている訳ではございません。やはり、井上先生が仰せの通り、科学は人類がここ数百年で築き上げて来た大切な財産であることは間違いございません。 日本国民として、明るい話題として、共に喜び合いましょう。


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No.1503  2015.10.05
生甲斐と仏教―浄土の真実―(2)

●無相庵のはしがき
    浄土を私たちが還り往くところだと信じるのに科学は役に立たないと言われます。科学を生業に利用している私が考えますに、科学の世界では〝信じる〟と云うことは有り得ず、 ある新しい現象や物質に遭遇した場合には、何故か何故かと疑い、想像推測し、それが正しいかどうかを実験検証して事実を確認してゆくのが基本姿勢だと思います。
一方、宗教とか信仰の場合の〝信じる〟というのは、科学とは全く次元の異なったものです。しかし、それでもやはり、信じる根拠としての何らかの知識も必要でしょうし、 何らかの実体験が無ければならないと思うのです。

    井上善右衛門先生が、この法話の末尾で、「ではどうして浄土の真実に触れることができるのか。人間には人間固有の意識とかその制約というものがあります。 そうした制約に応じ宜しきにかなうて、大いなるものの活動が現われ真実と触れ合い交わる道が開かれるのです。」と仰っています。浄土のお話を全く聞かずに、浄土の真実に気付くことはあり得ません。やはり、 法話とか、仏教書から何らかの知識を得て、何れは、何らかの働きに依って浄土の真実と触れ合い交わる時が来るのが、自然の成り行きではないかと仰っているのだと思います。制約という言葉がありますが、 これは、私がどんな両親から生まれたか、男か女か、何処に生まれたか、何時生まれたか、どんな環境で育ったか、と云う、自分では如何ともし難い諸条件の事ではないかと考えます。 私に関して申すなら、浄土門仏教が伝わった後の日本に生まれ、親鸞聖人の教えである他力本願の念仏者だった祖父と母を持って生まれたことは、結果として私は良い制約だったと言えるのだと思います。 もし何時の日か、浄土の真実を確信することがあると致しましたら、これからの縁に依って、時節が到来したということになるのだと思います。

    また、今日の法話の末尾に、「実在の視野を科学の視野に閉じ込めることがはたして正当かどうかという問題であります。」とあります。この『実在』とは、哲学上の意味するところであります。 「実際に存在する」と云うことではございません。同じ眼の前に在る景色を見ても、人間の描く世界と、犬の認識する世界は違うであろうと云う事で、実在を説明されています。

●井上善右衛門先生のご著書『生甲斐と仏教』からの抜粋引用
    科学の根本性格は外界を、すなわち私どもの外側にある世界を正確に観察、把握する認識であります。 従って私どもの外側に何が有るかということを対象的に把握するという点においては科学に信頼をおいてよいのです。
    しかし働く人間の主体の内的自覚の世界の深さや心情そのものは科学の対象にはなり得ない。 何故ならそれを科学の対象としようとした途端にそれは外側に持ち出され、生きた姿を失うたものにすり替えられてしまうからです。

    ところが今日の教育というものは科学的合理的知性を身に付けることに集中されているので、若い青年諸君の心の中には何処か言わず語らず科学がものを見る目の総てであり、 科学の窓を通して見ないものは総て偽りであり幻であり夢でしか有り得ないという先入主的(=先入観)な科学至上の意識が産み付けられています。
    もし科学的認識が真理への唯一の通路であって、それ以外のものは絶対に認めないという立場を取るならばそれまでです。 けれどもその根源へ我々がもう一度立ち返って、一体科学の対象的な認識が真実を見る総てでそれ以外に道は無いのかと問うてみる必要がある。
    ここに私達に残された問題があります。浄土の問題についても常に上述のようなある先入的意識(=先入観)がいつも頭をもたげているように思います。

    よく聞く言葉ですが、科学的に浄土という世界はどこにも無い。天文的にもこの宇宙にそんな世界があろうとは信じられるものではない。 それは結局淡い人間の感情の描いた影にすぎないのではないか。 こういう思いが浄土にたいする根本的な疑念になって心の奥に動こうとする。しかもそれを正当に超える道を今日の教育の中には与えられていないのであります。
    しかし浄土というのは今さら申すまでもないことですが、 太平洋の向こうにアメリカがあるというように空間的な延長の広がりの中で存在する世界として語られているのでは決してありません。 いま浄土を仏典を通してたどるならば浄土の真実ということが必ずや明らかになるでありましょう。我々は常識的な実在という視野をもう少し深めてみる必要があります。
    実在の視野を科学の視野に閉じ込めることがはたして正当かどうかという問題であります。

●無相庵のあとがき
    8月23日放映のNHKe-テレ『こころの時代』(帝塚山大学文学部の西山厚教授出演、テーマ『仏教に学ぶ、悲しみの力』)を視聴しました。 NHKのアナウンサーとの対談の〝しめくくり〟として、「金子みすゞの作品〝さびしいとき〟が日本仏教の到達点である」と話されました。 到達点ということは、仏法を求めた結果として私達に何が起こるかということです。 普通は、悟りとか信心獲得と捉えられがちでありますが、そうではなく、「心満たされて心安らかに生きてゆかれ、心満たされて安らかに死んでゆける事」だと西山教授は仰いました。 そして、心の安らぎは、金子みすずさんの詩に歌われている、仏さまといつも隣り合わせであることの安らぎだとも仰いました。その詩『さびしいとき』を下記にご紹介致します。
お浄土は、亡くなってから還る心安らぐ処ですが、生きながらにして、お浄土の安らぎを感じ取れるということは、生きている私たちの心からの願いでもあります。

                私がさびしいときに、
                よその人は知らないの。

                私がさびしいときに、
                お友だちは笑うの。

                私がさびしいときに、
                お母さんはやさしいの。

                私がさびしいときに、
                仏さまはさびしいの。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ

追記
親鸞聖人のご遺言として、「御臨末の御書」に次のように記されています(「御臨末の御書」は、「親鸞」という存在への、人々のそのような実感から生まれた伝説だと言われていますが・・・)。

                『一人居て喜ばは二人と思うべし、二人居て喜ばは三人と思うべし、その一人は親鸞なり。』

伝説だと言われているそうですが、私は、念仏する人が悲しい時も、苦しい時も、嬉しい時も、独り黙って励んでいる時も、 その隣にはいつも親鸞が寄り添っているよと云う、念仏者への切なる想いと願いを言い遺されたのだと受け取っております。 そして、上に転載した金子みすずさんの詩は、親鸞聖人のお心を言い当てておられるとも思ったことであります。


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No.1502  2015.10.01
生甲斐と仏教―浄土の真実―(1)

●無相庵のはしがき
    引き続き、井上善右衛門先生のご法話『生甲斐と仏教』から抜粋引用しご紹介させて頂きます。
    この『浄土の真実』という法話は、井上先生が神戸商科大学の学長をされていた昭和47年頃に、 東本願寺系の大谷大学(西本願寺系は龍谷大学)で先生方や学生達にご講演された時の収録テープを筆録されたものだそうです。
    親鸞聖人は浄土真宗の開祖でありますから、教えは『浄土』を抜きにして成り立たないにも関わらず、『浄土』という浄土真宗の最も大切なキーワードを避けて教えを説く傾向があり、 それは、「浄土の真宗」と強調された親鸞聖人のご遺志に反するのではないかという日頃からの想いを思い切って述べられたものではないかと考えております。

    確かに、私もごく最近まで『浄土』を避けて参りました。科学的に説明が出来ない架空の世界『浄土』は、非科学的、非現代的だと考えて参りましたのが正直なところでございます。 皆様の中にも、『お浄土』という言葉に抵抗感を持つ方もいらっしゃるのかも知れません
    井上先生は、本当は「浄土は実在する」と訴えられたかったと思うのです。しかし、〝実在〟という言葉の哲学上の意味するところは、「意識から独立に客観的に存在するもの。 われわれがそう思うからそこにあるように見えるというのではなく、われわれと離れて別に、客観的に存在するもの。」なのですが、 一般的には「実際に存在するもの」という意味で使われていますので、誤解を招くということで、「浄土は実在する」とは言われなかったのだと私は考えています。

今回の法話紹介は、少なくとも5、6回にわたることとなり、かなり長く、また理解することが難しい点もあるかも知れませんが、是非、最後までお読み頂きたく思います。私も、「浄土は実在する」 と明確に思い至った訳ではありませんが、この『浄土の真実』を読み終えて親鸞聖人や井上先生のご心境に浸るまでになりたいと思うようにはなりました。 そして、浄土の真実を求め続ける楽しみを感じていることを嬉しく思っています。

●井上善右衛門先生のご著書『生甲斐と仏教』からの抜粋引用
    親鸞聖人の魂を私どもに伝えて下さった著述はご承知のように浄土の真実を顕わす『顕浄土真実教行証文類』(略して『教行信証』)であります。 従って申すまでもなく浄土は聖人の教えの土台であり、その信の依り処だと申して差支えないでしょう。

 ところが今日、この浄土という問題が私どもにどう受け取られているであろうか。最も大切な、それなくしては総てが崩れるであろう根本の浄土という問題が、 実は最も曖昧(あいまい)に取り扱われておるのではないかという感じがするのであります。またさらに浄土という問題を避けて通ろうとする動きさえあるかと思います。 今日、青年達の真宗に対する躓(つまづ)きは何よりも浄土に対する疑念にあると言ってもよいでしょう。

 浄土は夢にすぎない、あるいは幻想であって〝本当にあるもの〟としての実在ではない。そうした疑念が根本的に青年達の心を躓かせているという問題点を感じるのです。 しかも現代の青年達の問いに応える用意と努力は十分になされていない。この問題に道を開くのでなければ、親鸞聖人の教えの面目を明らかにすることは出来ないと思うのです。

    最近『歎異抄』の受け取り方一つにしても、様々な理解が語られ書かれています。しかしその根本である浄土という問題への曖昧さがいろいろな解釈に尾を引いているのではないかと思われます。 こうした点から親鸞聖人の信の土台をなしている浄土という世界を現代に生活するものとして如何に受け取るべきであるか。そういう気持から『浄土の真実』と題したわけであります。 もしこのような点に皆様が同意して下さるならば、私の申す事をお受け取り下さるのか下さらないかは別として、皆様一人ひとりの心の中にもう一度浄土という問題を噛みしめて、 それがどれだけ己れの命に触れている、殊に宗門大学ではその言葉に慣れて何とはなしに語ってはいるが、しかしここから生きた息吹がどれだけ私どもの命をうるほしているであろうか。 こういう反省が私どもに必要な時代ではないかと感じられます。

    このような特に若い方々の浄土に対する疑念というものが現れてきた背後には、当然、時代の精神というものが動いていると思われます。 その時代の精神とは何かと言えば、その一つは何としても西洋に勃興(ぼっこう)した科学です。現代の青年諸君は兎にも角にも科学の洗礼を受けて教育され、 その科学的知性というものが浄土に対する大きな一つの問題を提起する動機となっていると思います。また現代の文明というものは科学を離れては考えられないものであります。 これ(科学)を機械技術という言葉で言い表す場合もありますが、そうした科学文明のなかで生活している我々に浄土という問題が素直に受け取りがたい状態におかれているということです。

    科学というものは人類に大きな効用をもたらしました。だから私どもは現代に生きるものとして科学を尊重しなければならない。しかし科学というものを通して見る世界が世界の唯一の見方なのであろうか。 先年フランスの文化使節としてマルセルが来日しましたが、そのマルセルが東京の講演で「科学の進歩による人間の智慧の堕落」と題した話をしましたが、 その中に「現代の文明というものは、主軸をなす主音の欠如した音楽のようなものである。 しかしそれは決して科学の罪ではなくして科学至上主義あるいは科学主義哲学というものの責任と言わねばならない」と語っておりましたが、 これは現代の文明を批判する当然の問題点だと思います。科学は尊重しなければならない。 けれどもはたして現代の青年諸君が正しく科学を尊重しているのか、あるいは盲目な科学の心酔者なのか、ここのところが問題だと思われます。 認識論的な根拠にまで一度おり下って、そして科学の正当性と同時に科学の持つ限界をしっかり踏みしめた上で、科学を尊重しているのか、 あるいはマルセルの言葉にもあるように哲学さえもが科学主義的哲学に形を変えつつあるのではないか。そこには私どものもう一度振り返って見なければならない問題があると思います。 換言すれば、科学がここ数百年間に示した長足の進歩に人類が魂を奪われているのではないか。まずこうした点から反省の歩みを進めてみる必要があると思うのです。

●無相庵のあとがき
    私が親鸞仏法を深く理解する上で大変お世話になって来た米沢秀雄先生は、今振り返りますと、あまり『浄土』に言及されていないことに今回初めて気付きました。 そして、『浄土』という言葉に抵抗を感じていた私だったからこそ、米沢秀雄先生のご著書で親鸞仏法の理解を深めることが出来たのかも知れないと思うことでございます。 一方で、米沢先生は現代に受け入れられ易く親鸞聖人の教えを説かれることに努力されたのだと思っていますが、これから著作全集(8巻)を読み直し、 米沢先生の浄土観を知るきっかけを得られた事を嬉しく思っています。

    ここで、井上善右衛門先生が『生きがいと仏教』 というテーマでNHKの『こころの時代』(平成3年4月4日放映)に出演された時の内容を筆録されたサイトが見つかりましたので、 『浄土の真実』を読まれる上での参考になり理解が深まる手助けになると思い紹介させて頂きました。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1501  2015.09.27
コラム再開

約10日振りのコラム更新になりました。
ご心配をお掛けしたのかも知れません。実は、前回のコラム更新した翌日の9月18日に突然、パソコンが起動しなくなりましたので、皆様に、ご連絡出来ないまま、今日に至ってしまいました。基本ソフトのwindows7から、無償でwindows10グレードアップ出来ると云う甘言に乗ってしまい、その基本ソフトが私のパソコンと相性が悪かった所為で、2週間経過してから起動不可となってしまいました。パソコンの操作の仕組みの詳細を知らないために、パソコンを使用出来ないまま8日間、世間との情報やり取り遮断と云う事態に遭遇した次第でございました。

専門業者に依頼して、元の基本ソフトに戻して貰えたのですが、想定外の後遺症に未だ見舞われており、コラム更新も難しいままの状況ですので、今回は長女にワード文章を送信して、更新を代行して貰いました。しばらく、この状況が続くかも知れません。

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