No.1480  2015.07.16
何故仏法を聞くのかー人生何だったか(3)

●無相庵のはしがき
     日常生活(家庭生活、社会生活)と宗教生活(信仰)が一致しないことで、悩みから解放されたくて求めた信仰がむしろ、悶々とした現状を齎してしまうことがあります。 一般的に私たちは、良い人格者になりたいとか、物心ともに豊かな良い人生を送りたい、悟りを開いて、苦悩から解放されたいと、宗教団体や倫理団体の門を叩きます。 夫々の団体の主宰者(或は教祖)や先輩から教えを聞いたり、参加者同士の励まし合いに依って道徳的な生活習慣を身に付けようとします。 しかし、なかなか初期の目的達成に至ることは希であって、願い通りに安心な人生を全うされる人は少ないのではないでしょうか。
     それは、いわゆる新興宗教や疑似宗教に付いての評価だけではなく、昔から日本に根付いている仏教の正統な宗派、浄土真宗にも禅宗にも当て嵌まると米沢英雄先生はお考えでした。 特に、「自我は無くならないものだ」と説く私たち親鸞仏法の信者が「自我は無くならなくても良い」と受け取ってしまい、間違った道に踏み迷う結果になっていることを懸念されていたように思われます。

直近のコラムでご紹介している米沢先生のご法話も今日の法話も、日常生活に信仰(宗教)が生きて現れていなくて、毎日の生活の中で生じる様々な問題に悩まされ続けているようでは、仏法を聞いている意味が無いと、はっきりと仰っています。
今日のコラムを日常生活・信仰生活の一大転換点にさせて頂けるよう、耳を傾けたいと思います。

●米沢英雄先生の著作からの抜粋引用
 これもまた、手紙の紹介ですが、手紙を出して下さった方に非常に失礼ですけれど・・・。これは、われわれが算数の勉強をする。そして、算数の実力がついたかどうかということは、応用問題が解けるかどうかでわかる。 だから、応用問題が解けなかったら、いくら算数の勉強をしても、勉強した値打ちがないということです。それで、仏法を聞いたらどうか。毎日起こってくるのは応用問題だろう。その応用問題が解けなければ、仏法を聞いたということにならん。 仏法が身についたかどうかということは、この応用問題が解けるかどうかで決まる。

 真宗には特別な修行がないといって、昔から威張っていました。特別な修行、たとえば坐禅とか滝に打たれるとか、そういうことはないかもしらないが、毎日起こってくる家庭内の問題、人と人との問題、そういうものが修行でないかと思うんです。 その問題に対して、どう対処していけるか。そこで、こちらに重心が出来てるかどうかということが、ためされると思うんです。

私のところへ去年の一月か二月に、ガリ版刷りの印刷物を送って来られた方があった。名前から察すると、女の人ですが、若い人かお年寄りか、そういうことは分かりません。どういう職業の人かも分かりません。 そのガリ版刷りのを読んでみると、「死にたい」と書いてある。それからしばらく読んでいくと、「生きていて良かった」と書いてある。それで一番最後に、「死にたくなったら、必死になって祈ろうと思う」と、こう書いてあるんです。 それで私は、死にたいと思う心と、必死になって祈ろうと思う心は、同じレベルであって、この祈りは聞き届けられるということがない。つまり、成就することがないと考えた。 感想があったら、書き送ってくれということでありましたから、私はその方に書き送った。

人間というのは、自分のために生きているのではない。他人(ひと)のために生きるのである。私はもう死んでも良い年だけれども、生きてくれという者があるから、生きているのである。 なんて言って恩を着せている・・・・悪い奴だけれども、長生きしてくれという人もある。それで生きるのだ・・・と書いた。あなたが死んだりすると、両親が嘆き悲しまれるであろう。 だから、両親のためにもあなたは生きなければならん・・・と書いたんです。多分、反撃がくるであろうと覚悟して書いたんです。そうしたら。返事がきました。

「早速のお便りを有難うございます。見ず知らずの者の突然の手紙に、ご親切に応対して頂き、本当に有難うございます。何度も読み返しました。お手紙の中の『人間は、自分のために生きているのではなく、 他人(ひと)のために生きている』の言葉が、頭の中で行ったり来たりします。本当に死にたいと思った時に、私が死んだら両親は気が狂うほど悲しむだろう。そう思うと、とても死ぬことは出来ない。 それがいつでも、私を押し止め(おしとどめ)ました。(でも、ここだ)――私の存在が両親にとっては、生き甲斐の一つであることは、先生のお手紙でわかりました。ても、苦しくてたまらない時は、そんなことも忘れてしまいそうです。 そんな時は、きっと私の中の膿(うみ)みたいなものが、私一杯に広がって、目が見えなくなるものだろうと思います。膿で一杯になった私を、針でプツンと刺して膿を出して、またいつの間にか溜(た)まって・・・と、それの繰り返しのようです。 これからもきっと、死にたいと思うようなことがあるかもしれません。でも自分でどうすることも出来なくなったら、祈ろうと思います。ただ祈ろうと思っています。(こう手紙に書いておられる。そして・・・) 『感受性は失わずに、しかも強靭に』ということは難しいです。感受性が強いと云うことは、傷付くことも多いと云うことではありませんか。」とある。

ところが後になって、このことを分かってくれたんです。私が「3月の13日か15日、名古屋の教育館で講演をすることになっておりますから、もし良かったらおいでになったらどうですか」と書いておいたんです。 そうしたら、そのかたがそこへ見えておられたんですよ。そして、

「前略。二度目のお手紙を有難うございました。そして、その御礼に手紙を今頃書きますことをお許し下さい。今日名古屋の教育会館での先生のご講演を拝聴致しまして、やっと書くことが出来るようになりました。 正直に書きますと、先生の二度目のお手紙を頂いた時は、突き放されたようで、失望いたしました。」

「要するに、あなたはエゴだけで生きている」すなわち、先ほどのお百姓しておられる方(コラムNO.1473『何故、仏法を聞くのか-魂の重心(1)』で紹介されていた明治42年生まれの方のこと)も自我のかたまりである。 だが、「あなたが現在悩んでいられることは、自己に会いたいと云う〝もがき〟である。」人間は、自我と自己から出来ている。自我をエゴと言う。この自我のことを、罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫と真宗では言っている。

自己と云うのは、自分を超えたもので、仏法で言うと仏性と言うか、正確に言うと無上仏と云うように言われる、この上ない仏。「誓いの要は無上仏にならしめんと誓いたまえるなり。」の無上仏である。 本願と云うのは、真実の自己、この上ない仏を、一人ひとりの胸の中に誕生せしめようという願いである。そして、そこで誕生したものを信心と言うし、この信心がわれわれの重心になると云うことです。
みんな自己に会いたがっているんです。それが分からんから死にたがる、こう云うことになるんです。自暴自棄になるのも、自己不信になるのも、自分の中にある真実の自己が目覚めたがっている〝もがき〟である。

●無相庵のあとがき
日常生活での応用問題が解けないのは、「あなたが現在悩んでいられることは、<真実の>自己に会いたいと云う〝もがき〟である。」、と云う米沢先生のお言葉は、応用問題を解く上において、大きなヒントになるのではないかと思います。
そこから、『真実の自己』に出遇う少々長い旅が始まるのではないかと思いました。
先ずスタートとしては、自分が宗教を求めた動機は「お金が儲かる、病気が治る事を目的とする人とは違う」と、高尚な動機だったんだと考えていたけれども、五十歩百歩で、それが自我から出ていたことに気付き始めるのではないかと思います。 また、特に親鸞仏法では、『自我』『煩悩』に焦点を当てた法話が中心となりますので、自分の『自我』・『煩悩』に眼が向けられますと共に、厄介なことに他人様の『自我』・『煩悩』により敏感になりかねません。 そうしますと、折角の聴聞が、他人を責める事態を引き起こすことは充分に考えられます。これは一番陥ってはいけない聴聞の姿勢となります(が、しかし、眼は生まれ付き自分の外を見る道具ですから、余程の努力を要します)。
余程の努力とは、聴聞を繰り返す努力に尽きるのだと思います。そして、聴聞を繰り返して、米沢英雄先生の仰っている『真実の自己』、『本来の自己』に目覚める時を待つしかないのだと思います。

本日のご法話の末尾に「みんな自己に会いたがっているんです。それが分からんから死にたがる、こう云うことになるんです。自暴自棄になるのも、自己不信になるのも、自分の中にある真実の自己が目覚めたがっている〝もがき〟である。」とあります。
これは全て他力の働きの事を申されていることであり、私たちが目覚めるまで働き続けられる他力にお任せする事だと思います。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1479  2015.07.13
何故仏法を聞くのかー人生何だったか(2)

●無相庵のはしがき
     前回コラムの〝無相庵のあとがき〟の最後で、「無相庵読者の方々の『生まれ甲斐』は如何でしょうか?」と云う問い掛けをさせて頂きました。 『生き甲斐』は、子供とか孫とかに接してその成長を見守る事とか、何等かの趣味や習い事を思い浮かべられたのではないかと思いますが、『生まれ甲斐』となりますと、さっと出て来なかった方が多く居られるかも知れません。 でも、それはそれと致しまして、これからもし、ご自分の『生まれ甲斐』は何かと気になり出された時、それは既に仏道を歩まれていると言えるのだと思います。

   そしてまた、私はこうも考えます。
     『生まれ甲斐』は、生れて来たこと自体は、自分の意思では無かった訳ですから、「私がこの世に生まれたのは、これをする為だった」とは理屈的に言えないことだと思います。 そう考えますと、『生まれ甲斐』と云うものは、自分が決めるものではなく、仏法的に申しますと、縁に依って(他力、或は仏様から)与えられるものだと思います。 それとは逆に、『生き甲斐』は自分の意志で始めたり止めたり出来るものであります。
そこで、このように考えました。
お尋ねした『生まれ甲斐』と云うものは信心獲得(しんじんぎゃくとく;浄土往生確定)へのキーワード(鍵)であり、思い切って申しますならば、「『生まれ甲斐』と『仏様』は、まさに〝同時に〟私の心に生れ住むのではないか」と考える次第であります。

●米沢英雄先生の著作からの抜粋引用
      これは、その奥さんだけに言っているんでない。皆さんの人生は何だったか。それに答えるものは、仏法以外にないということです。皆食べるために生きとる。 これは生きるために食べるのか、食べるために生きるのか問題がありますけれども、とにかく皆食べとる。それから結婚して子供をもうけて、子供を教育して、息子に嫁とって、娘を嫁に出し、こういうことをやるのが人間だと思っているでしょう。 でも、それくらいのことは動物でもやっとる。動物も餌を拾って、喰って生きとる。かたちは違うけれども、結婚して子供を生んで、子供を育てるということは、動物もやっとる。 しかし、犬が犬の人生は――犬は犬生か――犬生は何であったか、そんなことは問わないでしょう。猫は、猫の猫生は何であったか問わないでしょう。

   自分の人生は何であったかを問うのは、人間だけだと思います。それに応えられなかったら、動物といっしょでないか。人生の意味、人間の生きている意味、そういうものに応えるのが仏法ではないか。 こういうことになったら人間に生まれとるものは、みんな仏法を聞かねばならないのでないかと思うんですよ。そういう仏法を、学校教育の中で教えておらん。だから今日、自殺する子供達が非常に多くなっている。人間の命の尊さを知らん。 無量寿の命を、無量光の世界に生きとる非常に尊い存在である。そういうことを覚られた時に、釈尊が〝天上天下唯我独尊〟と言われたのでしょう。自分というものは、宇宙中で一番尊いものである。 釈尊だけが尊いのでなくて、人間一人ひとりがみな尊い存在だ。

 宇宙中が私一人を生かそうとして、全力を挙げて始終休まず働き続けていて下さる。大したことですよ。太陽は、私一人のために出るのだ。と言ったって、私が太陽を独占するわけでない。私一人のために出て下さると、有難く思うかどうかということです。 親鸞さまが「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、親鸞一人が為なりけり」と言われた。この言葉を訂正すれば、太陽は私一人のために出て下さった、雨は私一人のために降って下さった、と言えるんじゃないか。 しかも、それを恩に着せてない。これは大したことではないですか。

これを無縁の大悲という。皆、縁のあるものは大切にしますけれども、縁の無いものを大切にするということはない。ところが太陽は――太陽から見ればわれわれはうじ虫以下のものではないか――みんなに平等に日の光を与えて下さる。 空気も、みんなに平等に与えて下さる。しかも、それを恩に着せないというから大したことだと思うんです。それに較べますと、人間というのはケチくさいもので、少しのことを恩に着せるというところがありますね。 だから、空気に対しても、誠にお恥ずかしい。

だから、如来大悲の恩徳というのは、何処か遠いところにあるように思ったら大きな間違いで、太陽となり、月となり、星となり、雨となり、風となり、そこらの草木となってわれわれを生かし続けておられるということです。 如来大悲を、言葉だけで聞いてきただけで、そのダメ押しをしてこなかったんです。身を粉にしても報ずべしというが、身を粉にしたって報ぜられんでしょう。太陽の恩徳をどうして報ぜられますか。 有難いなあと、こう言う外に報じようがなかろうと思います。それを蓮如さまが、仏恩報謝の念仏と言われたのかもしれません。

仏法というものは、人間の生きる意味に応えるものだと申し上げました。そして、その教えというのは、人間が人間の尊さに目覚め、どんな困難にも耐えて生き抜く、いわゆる重心が出来る教えなんだと思います。 そうしたら、人間として教えを聞き、自分のものにするということは、非常に大事なことではないかと思います。

●無相庵のあとがき
      人間の命も、他の動物・植物の命も、何億年の時間を経て今存在していますし、、また無限の宇宙空間の中で無数の存在に支えられて今生きていると云う点では平等に尊い命であることは間違い有りません。 でも、そんな尊い命を今頂いて生きていることを認識出来、それを有難いと感じるのは、人間にしか出来ないと思うのです。そう云う意味で、やはり、私たちの人として生まれた命は尊いと言えるのだと思います。
私は「命って何故尊いのですか?」と質問されたら、そう答えようと思っています。

     そして、それだけで充分でありますが、更に尊い事は、親鸞聖人が「遠く宿縁を喜びたい」と言われた通り、私は母そして祖父との縁、そしてその祖父もまた遠き宿縁に依って、 仏法に出遇い得たと云う限りない遠い遠い宿縁こそが尊いのだと思います。そして、現実に、米沢英雄先生との宿縁に依って、この無相庵コラムを書いている今の自分がある事を喜ばねばなりませんね(そう言い聞かしている私です)。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1478  2015.07.09
何故仏法を聞くのかー人生何だったか(1)

●無相庵のはしがき
私は今年3月に満70歳になりました。私のこれまでの70年間の人生は何だったのか?今日の米沢先生のご法話をキッカケに自問自答してみました。

70年の間に、10数回の大きな岐路に立ちました。
二者択一の岐路に立って選択した方の道は、ある時は楽な道だろうと考えた方だったり、またある時は人から称賛される名利を求めての賭けに出た方の道だったように振り返っています。
そして、今、脱サラ起業して築き上げた負債の山に押し潰されそうになりながらも何とか踏ん張り続けられているのは、人生の最後に、人から称賛される名聞・利養の満足を勝ち取って、 何とか名誉挽回したいと云う一発逆転満塁本塁打を狙っている相変わらず凡夫らしい人生の終盤を迎えています。
しかしながら、ジタバタジタバタしながらも、瞬間的ではありますが、空しい思いに襲われてもいます。
そして、その空しさが、人間に生れながら人間としての『生(う)まれ甲斐』(生き甲斐では無くて)に出遇ていないからだと最近になって、気付き始めていたのも事実であります。そこへ来ての今日の米沢英雄先生のご法話内容は、改めて、それを問い掛けられたものでありました。

●米沢英雄先生の著作からの抜粋引用
 まだお会いしていない愛知県の方ですが、その奥さんが、一月に手紙を寄こされた。その奥さんは非常に恵まれた方で、またとないご主人と一緒になられた。こう申し上げると、大方のご婦人方は羨ましそうな顔をしておられますね。 皆さんのご主人も、またとない良いご主人でしょう。この方も良いご主人に恵まれて、男の子と女の子と、二人のお子さんがいらっしゃる。 そのお二人とも非常に頭が良くて、男の子は阪大の理学部応用物理の二回生、ところが良いことがいつまでも続かないですね。 その子供が卒業し、就職したら嫁を貰って、・・・と、将来の夢を色々とご主人と語り合っていた。ところが、その息子さんが去年の十月に、東北の方へ旅行した。旅行というよりも登山ですね。八甲田山へ登って下山した時に電話がかかった。

「今、八甲田山から降りてきた。これから鳥海山へ登ってから帰る」と。鳥海山というのは山形県でしょう。
その鳥海山へ登ってから便りがない。その息子さんは、鳥海山から落ちて死んだのだ。それで警察から通知が、大阪の下宿先へ行った。下宿先から実家へ通知が来た。そりゃ驚かれたであろうと思う。それで、夫婦して遺体の収容に鳥海山まで行った。 それから奥さんは、毎日が泣きの涙であった。誠にごもっともだと思う。娘さんがあるにしても、たった一人の男の子を事故で失くしてしまったということで、毎日悩んでおられたのである。 私は非常に不人情な人間ですから、その奥さんに、「どうかうんと泣いて上げて下さい」と返事を出した。
男は仕事があって、外へ出ていかんならんから、そうしょっちゅう泣いている訳にもいかん。だが、自分のお腹を痛めた母親だけは、その子供のために泣ける。だから、うんと泣いて下さいと手紙に書いた。

また、こういうこともある。去年知り合った方です。去年52歳と言われたから、今年は53歳かと思う(これ位の数学は私にも出来る)。その奥さんがね、10年前にご主人を亡くされたんです。非常に良いご主人であったらしいです。 そして、そのご主人を亡くされてから、自分は一生笑うことがなかろうと思った。そうだろうね。頼りにしてきたご主人を亡くされ、子供さんが3人もある。もうこれで楽しいことはないから、一生笑うことはなかろうと思ったんです。 だが、3ヶ月目に笑ったというんです。大笑いした。人間というものは、そういうもんです。これは決して笑うことは出来ない。われわれもそれと一緒だ。悲しみのどん底に落ちた時には、本当に毎日が泣きの涙だ。 しかし、それが続かんのですね。人間とは、それくらい情けない凡夫です。情けないですよ。

それで(22歳の息子さんが鳥海山で亡くされた方に)うんと泣いて下さいと申しながら、いつまで続くかなという思いもないではなかった。私はひどい奴ですよ。こんな者に手紙をよこすものではない。 ところが、奥さんの前の手紙の中に、「22年間勉強ばっかりして、そして山へ行って死んでしまった。この息子の22年間の人生は何であったでしょうか」こういうことが書いてあったんです。 それで、私は非常に皮肉な人間だから、うんと泣いてあげて下さいと書いたついでに、「奥さんの49年――(49歳ということが書いてあった)――の人生は何でありましたか・・・」と。

●無相庵のあとがき
米沢先生の「(22歳で亡くなった息子の22年間の人生は一体何だったかと言う)奥さんの49年の人生は何でありましたか?」と云う皮肉の籠った言葉は、私たちにも投げ掛けられた言葉なのです。
米沢先生は、この後に続く法話の中で、私たちにダメ押しをされます。

しかし、ダメ押しはされても、答えは示されていません。その答えは、自分が見付けるしかないからだと思います。 自分の生まれ甲斐は、自分自身が、「これだ!」と言えるものだからであり、勉強の様に教えて貰うものではないからです。 因みに、親鸞聖人の生まれ甲斐は「本願に出遇われた事」ではなかったかと私は推測していますが、残念ながら今の私がそれをそっくりそのまま頂戴出来るものではありません。 ただ、今歩んでいる道の先に何となく、仕事を含めた日常生活の中で、私の『生まれ甲斐』が見付かりそうな予感がする瞬間もございます。
さて、無相庵読者の方々の『生まれ甲斐』は如何でしょうか?

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1477  2015.07.06
何故仏法を聞くのかー念仏は領収書(2)

●無相庵のはしがき
昨日5日の日曜日の『こころの時代』は、「釜ヶ崎で福音を生きる~神は小さくされた者の側に~」と云う表題で、釜ヶ崎に住み「ふるさとの家」と云う住居兼布教所で日雇い労働者を支援するカトリック司祭、本田哲郎氏のお話でありました。 私はキリスト教の教えに付きましては本当のところを知らないまま、〝こころの時代〟のキリスト教版をあまり視聴して来ませんでしたが、この度は、キリスト教の司祭氏の社会の底辺での実践振りを知りたいと云う気持ちが動き、拝聴致しました。
視聴しまして、これまで私が抱いていたキリスト教とは全く立場、視点が異なる考え方に接し、深い感銘を受け、また、実践の無い私は大いに刺激され、本当に運が良かったと思っております。

本田氏は、平成20年7月13日の〝こころの時代〟にも出演され、その弱き立場の人々に学ぶ と云う番組記録がインターネットにございましたので、皆さまにも、何らかの、 ご参考になればと思いまして、ご紹介させて頂く次第です。
私は自分が救われる事が先決と云う思いから、仏教を学び、そして、その過程をこの無相庵コラムで記録として残している積りでありますが、人々を救う活動に依って、逆にご自分が救われたご体験を述べられている本田氏のお話は、実に新鮮でありました。

なお、「神は小さくされた者の側に」の〝小さくされた者〟と云う表現に違和感を抱かれる方もあると思います(私がそう感じました・・・)。〝小さき者〟〝弱き者〟なら分かると思うのです。でも、〝小さくされた者〟と表現するところに、 本田氏の深い思いがあります。小さくした側の者が居ると云う考え方です。弱者は〝弱き者〟では無く、〝弱くされた者〟であって、人々を〝弱き者にした〟側の人達、或は政治があると云う考え方でありましょう。
それから思いますのは、上述の本田氏のキリスト教の新しい視点の背景に、以下の米沢英雄先生の〝いのち〟の無量寿、無量光の世界がある事を仏教徒としては思い描きたいと思います。

●米沢英雄先生の著作からの抜粋引用
 地上に生命というものが現れてから、生物学者によっては20億年ともいうし、また40億年とか45億年という人もある(これは放射能を使って調べる)。そうすると、生命というのは、恐らく初期はアメーバーでしょう。 そういうものが地上に現れ、人間にまで発達・進化するのに、40億年かかっておると言うんです。だから、私が生まれるのには、40億年の歴史が必要であった。と云うことです。気の遠くなるような話です。 それが一秒一秒が重なって、一分一分が60集まって一時間。頭が悪いから計算は出来ないけれども、とにかく非常に長い時間の経過があって、40億年経ってやっと私が生まれることが出来た。

ところが真宗では、40億年というケチなことを言わないで、無量寿と言われる。だから、無量寿の中にわれわれが生きている。一人ひとりが、無量寿の命を生きているのだ。 そうすると、阿弥陀仏というのは、自分の外にあるものでなくて、阿弥陀仏の命をわれわれが生きているのである。無量光というのは、智慧と言われます。 確かに智慧ですが、無量寿を時間的に無限と考えると、無量光というのは、空間的に無限のことでないかと、こう私はダメ押しをする。空間的に無限というのは、太陽から月から、宇宙に存在する一切のものがないと、私が生きておられん。 私の命は、宇宙全体とかけ合う程の命である。無量寿の命を無量光の世界の中に生きとるのが一人ひとりの私たちである。

こういう事を言うと、お前精神病でないかと言われるかもしらんけれど、そういう真実を見る目を持たん人に、私は逆襲したいと思う。無量寿の命を無量光の世界の中に生きている。これくらいの真実はないのだけれども、こういう真実を見ようとしない。 人間の知恵では、目の前にあるコップに水を入れて飲む、これ位しか目に入らない。この水(米沢先生の目の前のコップの水)は、何処から来ているか。水道からか。水道の水源地は知らないけれど、大地に降った雨と関係がある。 とにかく、宇宙に存在する一切のものが無いとしたら、われわれが生きられんということは、真実すぎるほどの真実だと思うんです。その真実の中に生かされている。こういうことが南無阿弥陀仏であることを、この方に申したんです。

「南無」というのは。頭が下がること。そして、無量寿の命を生きとる。人生50年、まあ命が長くなったと言って70年とかいいますけれど、そんなケチくさい話ではない。40億年の命を生きとるんだ。 だから、阿弥陀仏が決して私の外にあるのではなくして、阿弥陀仏の命をわれわれが生きている。これは誇大妄想狂のようですが、あんまり真実すぎて、われわれが信じられんくらい真実です。 そして、そういうことがわかったということが、無限の中に確かに位置を占めたということだ。

私も明治42年生まれで69歳ですが、――やがてこの地上からおさらばしていくでしょうけれども――私の命は無量寿であるということが言える。永遠の中に、無限の中に、確かに位置を占めているということが分かる。 その自覚を南無阿弥陀仏という。その阿弥陀仏の命を生きていく私でありたい。でもその中で朝から晩までバタバタしている。そして、ジタバタしておる私であったと、私のほんとうの姿を受け取ったという領収書が、南無阿弥陀仏である。 みんなご馳走を食べるとごちそうさまと言うでしょう。そのように「無量寿の命を無量光の世界の中に生かされて生きている私でありました。それを忘れておりました。真に申し訳ないというのが、南無阿弥陀仏だ」こう私は思うのです。 それを蓮如という人は、仏恩報謝の念仏といわれた。

 この方(手紙の主)の南無阿弥陀仏は、恐らく今まで空念仏であるということに間違いない。われわれは宇宙のはたらきによって生かされている。私も北海道まで汽車の力を借りて――今は電車ですかね――あの力を借りました。 人間の知恵で生み出し組み立てたんでしょうけれども、材料は大昔からあったものを使って作り上げたんです。われわれの一挙手一投足でも、全宇宙と密接な関係があるということです。 そういう自分というものの尊さがわかったのを、南無阿弥陀仏というのであろうと思うんです。そうすると南無阿弥陀仏が生きてくるんじゃないか。 南無阿弥陀仏に命を吹き込むかどうかということは、私のほんとうの姿がわかるかどうかにかかっておるのである。それで、昨日この方の手紙が着いたんですけれども、今日お話しをするのに非常に良い材料をいただいた。 この方には大変失礼でありますけれども、こういうことをきっかけとして、本当の仏法が分かって頂けたら結構だと思うんです。

『大無量寿経』とか、『観無量寿経』とか、『阿弥陀経』とか、そんな難しいことを分からんでも良いのだ。自分の命が無量寿の命を生きている。無量光の世界の中に生きている。その自分の命の尊さに目覚めて頂くことが一番大事なんではないか。 そうすると南無阿弥陀仏が生きてくる。その生きた南無阿弥陀仏を称えなければならんのではないかと思う。身体は本来無量寿、無量光の中に在るのだ。それに宿っとる心が、それをなめとるのだ。 それを馬鹿にしとるのだ。自分の知恵才覚で分かろうとしているでしょう。そんな知恵才覚で宇宙中が分かるもんですかね。せいぜいが、目の前のコップが見える位のものだ。

●無相庵のあとがき
仏教は、縁に依って生かされている自分自身に気付くことを大切に致します。しかし、受け取り方を間違えますと、縁だから致し方ないと云う消極的な人生観に踏み迷うことにもなりかねません。 また、「縁に任せるしかない!」と、自力或は努力を軽んじることになりかねません。それは勿論、全く間違いだと思います。

私たちは、家庭生活でも、社会生活でも、「こう有りたい!」と云う願いや希望、夢を持ちます。それを叶える為に、自分で色々と考えて、行動を起こします。そしてその行動を起こした後は、縁に任せることは仏教徒としてのあるべき姿だとも思います。 逆に、どんな行動を起こすかも全て縁に任せ、成り行き任せは、仏教徒のあるべき姿ではないと私は考えております。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ

追記
本田神父に付いて、もう少し知りたくて、コラム更新後の翌朝(6日の月曜日早朝)、インターネットサイトGoogleで『本田哲郎』で検索しましたところ、ある浄土真宗のお寺のサイトに、 本田神父の〝とても素晴らしいお話〟が掲載されているのを見付け、驚きました。
私の焦点の呆けた、長々とした無相庵コラムを読まれるよりも、ずっと素晴らしい、この本田神父のお話をじっくりお読み頂くべきだと、私自身の目が覚めました。かなり長いお話ですが、真実の宗教、本当の救いを求められている方は、是非とも!


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No.1476  2015.07.02
浄土へ入る鍵

●無相庵のはしがき
米沢先生は、あまり『浄土』と云う言葉を使われていません。また、「浄土とは何か?」に付きましても明確な見解・説明をされていないように思っていました。 本当にそうなのかと、先生のご著書を調べてみましたが、やはり、その通りでございましたが、やっと見付けたのが、今日の『浄土へ入る鍵』と云う一節でした。今日の内容も米沢先生の著作集に載っているものです。 やはり、明確に「浄土とは何か?」に付きまして明確な見解を述べてはおられません。 これは、米沢英雄先生の「当に汝自身で浄土を体得しなさい」と云う深いお導きではないかと思うことでございます。

●米沢英雄先生の著作からの抜粋引用
〈自我〉というものが強力であり、抜きがたいことの一つの証拠にもなると思いますのは、自我を捨てようと努力しますと、その努力そのものが自我の立場で為されるといふうになり、しかもそれが自我の〝はたらき〟であることが分からない、 という厄介な問題が出てまいります。これを親鸞は〝自力〟と呼んでおります。自我の根源にあるこの自力をも捨てるには、自我の立場から申しますと、他者の力、つまり〝他力〟に依らなければならない訳で、 「何処まで行っても自我の中から抜け出せないで苦悩している。そういう者を何とかして開かれた真実の世界へ解放させてやろう」と云う、そう云う〝はたらき〟が〝法の深信〟の「弥陀仏の四十八願」となって出てくるのでございます

 こうなりますと、〝弥陀の誓願〟というのは、何も『大無量寿経』に書かれている話ではなくて、抜き難い自我に悩んでいる者にとっては、非常に身近な問題になって来るであろうと、こう思われます。 つまり、自我が苦悩をもっていると云う事は、自我というものを持て余している、真実の自己に会いたがっている、と云う事であります。 それが弥陀の誓願に依って、真実の自己に目覚めさせられる自我だけが自分だと思うていたが、実は本当の自分というものは、もともと広い世界の中に生れていたんだ、と云う事に気付かせられる。 〝法の深信〟というのはそう云う事を言う訳でございます。

 真実の自己に会うた時に、自我というもの、或は煩悩と云うものは無くなりませんけれども――死ぬまで無くなりはしませんので、死んで浄土に解放されることは間違いございませんでしょうが、 死ぬ時まで持っていたのでは手遅れで――生きている今、広い世界に生きているという自覚に依って、生き方が変わってくるのではないか。毎日自我の世界で起こって来る色々の事件やトラブルに、そう引きずり回されずとも済むのではないか。 われわれは色々の事件に引きずり回されて生きております。また、事件が起こるのではないかと、しょっちゅうオドオドしております。

 『歎異抄』にも「無碍の一道なり」(第七条)という言葉がありますが、これは念仏者は平々坦々たる高速道路をパァッと突っ走るという、そういうことではなくて、自分はやっぱり自我を持っております。 従って、いろんな煩悩が出てきますし、色んな障害が起こってきます。障害が起こっても、その障害を受け止めていく力、換言すれば、障害が起こっても、その障害を転じていく力というものは、真実の自己に会うて初めて生まれるのでございます。 障害を感じますのは、そのもとである自我が感じますので、「まだ自我ががんばっておるなあ」ということが感じられますと、障害を転じていくことが出来る。それが『無碍の一道』であろうと思うのでございます。

 真実の自己というものは、人間が皆平等にもっているもので、もしこの世に浄土が成り立つと致しますと、この真実の自己において成り立つわけで、自我がありながら、社会的地位とか財産とかの差別があり、さまざまな障害に悩みながらも、 そうしたものを越えて人間に生れた歓びを喜び合える。心を開いて語り合える、そう云う世界が開けてくると思うのです。

 こうした世界を生み出す根源である真実の〈自己〉――フランクルはそれを〈超越的無意識〉と名付けましたが、私は〈たましい〉と呼んでおりますけれど、或は〈精神〉と言ってもよいでしょう――、それを 目覚めさせることに依って、われわれは初めて人間に生れた意義を全うすることが出来るし、人類の滅亡を防ぐことが出来るのではないかと、こう思われる訳でございます。われわれの内面に埋め込まれたこの 〈たましい〉を目覚めさせる。そういう教育を自分も受け、人にも勧める(「自信教人信」)、それが親鸞の目指した宗教というものでございます。

 したがって、この宗教は、これを信じても、功利的なもの、金が儲かるとか、健康になるとか、家庭が円満になるとか、そういうことは絶対にありません。 親鸞は功利的な信仰――自分に都合のいいことを約束してくれるものを神・仏として拝むこと――を「罪福信」と呼んで、排撃しております。 しかしながら、「世福」――現世の幸福――というものがありまして、念仏には色々の利益があるということが経典に説かれてありますが、真実の自己が解放されますと、金がなかろうとも、病気をしていようとも、家庭が不和であろうとも 、たとえどんな不幸に見舞われても、世間的には不幸に見えるかもしれませんが、そのようなものを越えて人間に生れた喜びを満喫して過ごしていくことが出来るという、この上ない利益を得ることが出来る訳でございます。

このような利益があるから信仰するというのではございません。なにかの利益を目指して信仰するというのは、自我がまだまだ生きておるからで、 利益があろうがなかろうが、弥陀に救われようが救われまいが、抜き難い自我の中に囚われた真実の自己を解放し目覚めさせ、それによって自我を転ずる力を与えてくれたものに、ただひたむきに、頭を下げて随っていくという、 〝純粋な信仰〟に生きる身をもって示された人、それが親鸞であろうと思うのでございます。

●無相庵のあとがき
親鸞仏法は、浄土の真宗と親鸞聖人も言われています。お浄土は、親鸞仏法と一体のものであることを忘れてはならないと思います。浄土に関する説明を自分自身に出来るように信心を深めたいものです。
最近手にした『お浄土があってよかったね』を読ませて頂き、浄土に付いて色々と考えさせられましたし、浄土真宗の教えのほんとうのところは何かに付きましても、考察し、今回のコラムとなりました。

次回は、前回コラム『何故仏法を聞くのかー念仏は領収書(1)』の続篇に戻ります。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1475  2015.06.29
何故仏法を聞くのかー念仏は領収書(1)

●無相庵のはしがき
今回からコラム更新は原則として以前の月曜と木曜にさせて頂きます(どうもリズムカルではないように感じますので・・・)。

さて、米沢英雄先生にお手紙を出された方は、本日抜粋転載した中で、「私の信心のマトが違うのか、親鸞の信心の核のことが、あまり書いてないように思われるのです」と述べておられまます。 この方の信心がどのようなものだったか、私にも分かりませんし、『親鸞の信心の核』をどのように想像されたのかも詳(つまび)らかではございません。
親鸞仏法のキーワードは〝他力〟、〝本願〟、〝浄土〟、〝念仏〟だと思います。浄土真宗の教えを説く先生方が、親鸞仏法の要となる言葉を使わずして法話をされる事は無いと私は思います。 私の想像では、手紙の主殿は親鸞仏法のキーワードであるこれら四つの熟語を『親鸞の信心の核』と受け取れないままに、聴聞を重ねられて来られたのではないかと思います。 否、むしろキーワードを毛嫌いされていた可能性さえあると、同じ道を辿っていた私は思うのですが、これからお読みになられて皆さまは『親鸞の信心の核』である四つのキーワードをどのようにお考えになられるでしょうか・・・。

●米沢英雄先生の著作からの抜粋引用
「諸先生方のご本も読ませていただきましたが、親鸞の御(み)教えのことはだんだん分かられておりますが(⇒世間一般に知られるようになっているが)、私の信心のマトが違うのか、親鸞の信心の核のことが、あまり書いてないように思われるのです。 なかには、古田武彦氏の如くは、〈南無阿弥陀仏の声は消えるだろう。私はそれをいっぺんも称えない。宗教の役割も詮索しないだろう。けれど、親鸞の生きた真実、彼が生きた生の鍵は、今も未来も私たちの中に生き生きとよみがえり続けるのである〉 とさえ書かれているのです。南無阿弥陀仏が無くなって親鸞の教えが生きているのでしょうか。私には、あまりにも理解出来ないことなのであります。 私は、今は幸せな生活をさせていただいております。でも、迷いの中におりますから、南無阿弥陀仏も空念仏だと思います。これでは、いつ信心が崩れるか分かりません。 どのような信心をしたら、考え方をしたらよいのか、何かのご教授をいただけたら一生の幸いであります。ご多忙中のことであり、ご無理は申し上げません。私なりに仏の道をたずねたいと思います。 どうかご慈愛のうえ、ご布教下さることをお願い申し上げます。」

こういうことが書いてあります。話が無数に分かれておりますので、私もこの方に劣らず頭が悪いので、整理するのに非常に困った訳です。けれど、この方もやはりダメ押しが必要なんでないかと思って、とりあえず返事を出しました。
それは、近頃よくお話に使うんですが、「あなたの息は自分の力で出ていますか。」こういうことを書いたんです。 これは実は、以前桑名別院の暁天講座(ぎょうてんこうざ;暁天講座とは、早朝5時の勤行の後、午前6時から7時までの1時間、静かで清涼な朝の空気の中、僧侶法話による仏法のお導きを頂く夏の恒例講座です)に出た時に、 参詣されたおじさんから教わったものです。

そのおじさんは、この歳まで仏法を聞いてきたけれども、少しも分からん。このことを一つ教えてくれという。
私は、「おじさんの息は自分の力で出ていますか」と聞いた。そしたらそのおじさんは、「身体の丈夫なうち―(しばらく考えて)―丈夫なうちは自分の力で出ています」こう言われた。 病気でもすれば酸素吸入とか、機械の力を借りねばならんけれども、健康な時には自分の力で出来ると、簡単に考えて、簡単に言うわけなんでしょうね。
それでおじさんに「自分の力で出来るんなら、大変だ。吸って吐いて、吸って吐いて、自分の力で息しとったら、夜も寝る暇がないではないか。息がもうすでに自分の力で出来るのではないのだ。 それを為さしめているのを絶対他力、或は〝仏のはたらき〟、こういうのだ。」
〝仏のはたらき〟を何か遠いところに考えておるんではないかと思うんです。我々の息がすでに、我が力を超えている。それから「おじさんの身体の中には、血液が循環しているんですが、それはあなたの力で循環させているんですか。」何も知らんけれど、血液が勝手に身体の中を回っとる。勝手に回っとるというのは、回らしてるものがあるんだ。 それを〝仏のはたらき〟という。

だから、〝仏のはたらき〟を非常に身近に受けている。にもかかわらず、遠いところに〝仏のはたらき〟を求めているんではないかと思うんです。 最も身近な所に、〝仏のはたらき〟がある。むしろ、〝仏のはたらき〟のただ中に、われわれは生かされている。そういうことが分かるのが一番大事なことだ。この方にとっては、これがダメ押しだと思う。

 永遠とか今とか、無限と有限、そういうことを私は確かに本の中に書きました。それはたとえば阿弥陀さん。阿弥陀さんというと、みんな本堂に立っている仏像とか、お内仏に掛けてあるお姿とかを思い浮かべるので、非常に困ると思うんです。 親鸞さまは、帰命尽十方無碍光如来という名号を拝んでおられたということです。 皆さんはご本尊といって、あのお姿を非常に大切にしておられますけれども、あれがあるために阿弥陀仏を分かり難くさせてしまったんでないかと、私は思うんです。そこで、またダメ押しをせんならんということですね。

●無相庵のあとがき
米沢先生は、『念仏は、親鸞仏法の信心の核を受け取った領収書』だとして、この抜粋転載している法話として私たちに遺されたと思うのです。
私が最近読んでいる『お浄土があってよかったね』(宮崎幸枝さん著書;樹心社版)のお浄土の捉え方には今の私は若干抵抗感を覚えますが、「浄土は夢物語だ、作り話なのだ」と云う世間一般の受け取り方に頷く訳ではありません。 井上善右衛門先生の『浄土の真実』と云うご法話を、「浄土は夢物語だ、作り話なのだ」と思われる方には一度お読み頂ければと思います。

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No.1474  2015.06.25
何故、仏法を聞くのか-魂の重心(2)

●無相庵のはしがき
米沢英雄先生に手紙を出された明治42年生まれの方は、ご自分のことを〝無学だ〟〝自我の塊(かたまり)だ〟〝頭が悪い〟と申されていますが、文面からは本当にそう思っておられないのではないかと感じました。 そして、物言いが米沢英雄先生に対してかなり挑戦的だなぁーとも私は思ってしまいました。それは、この方の様な心持になった経験が私にもあったからだと思っています。
恐らく、米沢先生も〝親鸞聖人の真実信心にまで辿り着かしめられるまでには〟、私とかこの手紙の主と同じ経過を辿られたに違いないとも思いますし、真宗の仏道を歩む誰しもが、一度は遭遇する壁ではないかとも思います。 その壁を前にしている者に対して米沢先生は、丁度、歎異抄の第九章の中で唯円房に対した親鸞聖人の如く、実に懇切丁寧に、ダメを押して下さいます。

●米沢英雄先生の著作からの抜粋引用
 それで、
「おたずねしたいことは、信とは何かということであります。」(私の『信とは何か』という本を、この方は読まれたんです) 「先生のご高説は、ご本で何度も読ませて頂き、私ながら一歩一歩と仏道を歩ませて頂いておるのでありますが、頭の悪いのに自我のかたまりのため、なかなか自分の心にドンと落ち着かないのであります。」

 これは、鉄砲を一発ぶち込んだ方が良いのかもしれん。
「先生から見られたら、何を今更と思われることでありましょうけれども、私には一大事でございますので、お手紙を煩わす次第です。」

誠にもっともです。この方も仏法を聞いて来られたと思うんですけれども、どういう聞き方をして来られたか。またこの方に仏法を伝えられた方が、どういう伝え方をして来られたか。こんなことは、余計な詮索ですけれども。  「先生のご本の中に、親鸞の真実信心まで辿り着かしめられたのは、自分の自我のためだったと書かれておりますが、その先生が感得された親鸞の真実信心とは何であったのでありましょうか・・・」
それは書いてないんです。ですから私は香具師(やし)みたいな者だと思うのです。ですから、香具師をご存知でしょう。毎年の別院の報恩講には、昔は香具師がいたんでないですか。 薬か何かを売るのが目的で、非常に面白いことを言ってこれから先はこの次、と言って、薬を売りにかかる。そういうのを香具師という。私は香具師みたいなもんだ。 その本の中に全部書いたつもりだけれども、わからないようにしているから、私は香具師みたいな者だと思う。

「親鸞の真実信心にまで辿り着かしめられたのは、自分の自我のためだった。」
 私は、非常に自我の強いやつで、そこにどう書いたか知らんけれど。私がどういうふうに自我が強かったかと申しますと、人に騙されたくないという思いが強い。皆さまも騙されるのは嫌でしょう。だからたとえば。 女の人が「あなたが好きよ」というと、「本当か」と念を押すでしょう。本当に惚れておるかどうかということは、やっぱり確かめずにおれんでしょう。そのように、騙されたくないという意識が非常に強くて、何でも疑ってかかる。 それで、親鸞さまの言われた真実信心まで辿り着いたんじゃないかと思う。この方は、自我の塊だと、こういうことをおっしゃるが、本当に自我の塊だということが、分かっておられるかどうか。 自我の塊ということが分かったら、大したことなんです。誰も自分が、自我の塊だと思うておらんのだから。

「こんなことを言えば、『信とは何か』を読んでわからないのか、と言われることと思いますが、無才分の愚鈍な私には、人間としての生きていく道、親鸞が考えられたものの考え方・ 生き方を、ちょっとずつ分からせて頂くのでありますが、それが信心ということなのでありましょうか。私の単細胞の頭では、なにかの核・・・」

 核というふうに書いてある。これが問題だ。核兵器の核ですね。
「何かの核があって、その核の存在を信じ、それによる安心を得て生きていくことが、信心というふうに思うのでありますが、端的に申しますれば、〝鰯の頭も信心から〟というのが、信心というのではないでしょうか。」

 どうですか。〝鰯の頭も信心から〟と昔からいう。それが本当の信心でないかと言われるんですよ。あれはどうしてあのように言うのか、あれは民間信仰ですね。節分の晩に、ひいらぎの枝に鰯の頭を突き刺して門口へかけておくと、災いが来ないという。 これは迷信ですね。そこから、〝鰯の頭も信心から〟という言葉が出て来るわけなんです。 そうすると、ひいらぎの枝に鰯の頭をさして、家の門口へかけておくということは、親鸞さまが嫌われた罪福信ですね。 〝福は内、鬼は外〟、そういう考え方ですね。これこそ自我の塊のことなんです。ご承知のように、「念仏者は無碍の一道」と言われますように、何が来てもそれを引き受けて立つことが出来る。 腰が決まる。それこそ重心が決まるというか・・・・それが信心でございます。だから〝鰯の頭も信心から〟という信心とは、全然質が異なるものです。

 「信心というものは、そういうものでないと言われるのでありましょうか。そこのところがわからないのであります。」  こういうふうに、おっしゃっておられます。このように、鰯の頭を信じなくても、なにかそれに類似したものを信心だと思っておられる方が、非常に多いわけである。だから、決してこの方を笑うことは出来ない。
 「親鸞聖人の信心は、法蔵菩薩の御誓願の十八願・十九願・二十願が核になるのだと、受け取らせて頂いておるのであります。それをそのまま信じて念仏する事が、金剛の信心というのでしょうか。 それともたくさんの先生方のご高説のように、色々と哲学的な理解の上に立っての親鸞の教えを、もちろんその核になっているのは、弥陀の御誓願であろうと思いますが、それを信じて安心を得るのか。 同じ様ではあるが、私は何か違いがあるように感じられるのであります。先生のご本にも、信心というのは、今生きている有限な存在の私が、永遠の中に、無限の中に、確かに位置を占めているということが分かる。 その自覚であると示されておりますが、老人の私どもには、あまりにも難しい言葉であり、なかなかに理解出来得ないのであります。八百年の昔、無学の農民に、あの阿弥陀さまの存在、法蔵菩薩の御誓願をどのように説かれたのでありましょうか。 『大無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』のお話をそのまま説かれて、この話を信じて生活せよと、説かれたのでありましょうか。それなら無学の私どもにも分かるようにも思えるのでありますが、もっとも子細のほどは分かろうはずはありませんが。 分かっても分からなくても、それを信じる。これが私共凡夫の信心のようにも思うのですが、いかがなものでありましょうか。 ものの根源をさぐり、信を追及して、自分の心を納得して初めて、信心が得られるのであろうか。鰯の頭でも困るし、信心の追及をすればだんだん分からなくなって、迷いの世界をさまようのであります。しかし、信心とは何でありましょうか。」

●無相庵のあとがき
これから、有難いダメ押しは未だ未だ続きます。私の様な驕慢な者にとりましては、このダメ押しは本当に有難いことだと思います。

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No.1473  2015.06.21
何故、仏法を聞くのか-魂の重心(1)

●無相庵のはしがき
一週間休ませて頂きました。何とか体調も 回復致しましたので、コラム更新再開させて頂きます。やはり、コラム更新は私にとりましては無くてはならないものだと思いました。仏法と関係ない生活は送ってはならないと痛感致しました。 どうか、引き続きお付き合い下さい。

米沢先生のご法話を直にお聞きしましたのが、昭和60年(1985年)12月1日の垂水見真会での『何故仏法を聞くのか』でした。同じお題の法話記録を米沢秀雄著作全集の第8巻の末尾に見付けました。 私はその昔に自分が聴聞した内容を記憶しておりませんでしたが、著作集に見付けた『何故、仏法を聞くのか』は、25頁もあるとても長文です。 過去に、一部を法話コーナーに抜粋引用転載した記憶もありますが、とても大事な内容だと思いましたので、ここに全文を引用転載させて頂こうと思った次第です。 どなたに於かれましても「自分は一体仏法に何を求めているのか?」は、初心に戻る意味でも大切なことだと思っておりますので、お一人お一人ご自分で念押し(ダメ押し)をするお積りでお読み頂ければ幸いであります。

●米沢英雄先生の著作からの抜粋引用
初めておめにかかります。米沢です。えらいご紹介をして下さいましたけれども、私は仏法については素人でございます。

碁には、ダメ押しというものがあるようです。ダメ押しというのは、これは私の領分だということを、境をはっきりするためにやるらしいですね。 仏法を聞いたら仏法のダメ押しをしていくようなもので、私は皆さんが分かっておられる積りのところへ、本当に分かっておるのであろうかとダメを押していく、そういう男でございます。 今まで同朋会に参加されて、かねがね聴聞を重ねておられる方に対して「何故、仏法を聞くのか」という、今更こういうことを申し上げるのは失礼でありますけれども、一ぺんダメを押す積りでこういう題を出して頂いた訳なんです。

早速ダメを押す必要が出てきました。
と、申しますのは、これは昨日三重県から来た手紙です。私に宛てられた手紙をここで読み上げるのは非常に失礼でございますけれども、やっぱりダメ押しということは必要なもんだと感じますので、ご紹介致します。

「拝啓、先生にこんな手紙を差し上げることをお許し下さい。何度かためらったのでありますが、どうしても知りたくて、ご迷惑を省みずお手紙を書きました。幾重にもお許しの程お願い申し上げます。 私事で恐れ入りますが、私は明治42年生まれで、百姓をしていた無学の年寄りでございます。」
明治42年といわれると、私もどうもその年に生れたようで、同年の方ですね。

「百姓をしていた無学の年寄りでございます。」
この無学ということが非常に有難いと思うんです。学問の有る人は困る。
 「現在、子供や孫たちと同居して、無事に毎日を暮させてもらっております。病身ではありますが、不自由なところもなく、老妻と共に余生を送っている幸せな生活ともいえるでありましょう。 なおその上の贅沢(ぜいたく)を申しますと、いっそうの安心を得たく、先生のご高説を承りたくお手紙申し上げる次第・・・。」
 ここに、安心を得るということが、贅沢と書いてあります。それが問題だと思うんです。安心を得ることが贅沢なんでしょうか。

 福井県に若狭という所があるんですが、その若狭のお寺さんから聞いて、良い話だなぁと思ったことがあるんです。それをご紹介しておきますと、そこの漁師の人が言うとったそうですが、シケに遇うと船がひっくり返る危険がある。 その時に、船の重心というものが一番大事なものということが分かる。普段は船の重心なんか考えずに、魚を沢山獲ることしか思わん。 ところが、いったんシケが来て、船が転覆する恐れがある時に、重心がしっかりしておれば、転覆せずに済む。その時に重心というものが如何に大切かということを、痛切に感ずる・・・と。 それならば、船の重心は何処にあるかと、船の中を探してもないですね。信心というのは、人間の重心ですよ。だから、これが一番肝心〝かなめ〟のものだ。 何処を探したってない。身体中探したって、重心のある場所はない。ところがね、船でいうとシケですけれども、われわれが人生の困難に出会った時に、この重心がしっかりしておるかどうかで、苦境を切り抜けることが出来るかどうかが決まる。 するとですね、信心ということは、贅沢な問題ではないんですよ。私は、これが人間にとって一番大切なものだと思う。安心ということは信心の一つなんですけれど、この安心というものは簡単に手に入らない。

 信心の高売りをした人がおるんです。蓮如と云う人。
「国に一人、郡に一人なり」と言った。「そんな、国に一人、郡に一人のものを、自分が得られるはずがない・・・・。」と。そういうことになると、安心というものは実に高価なものだ。 だから私は、蓮如という人はひどい人だと思う。人間にとって一番大切なものを、国に一人、郡に一人だ・・・・と。
人間に生れたものは、皆重心をハッキリしていないと駄目なんだと、私は思う。こう言っても、蓮如さまはここに居られんから殴られる心配はない。

●無相庵のあとがき
本を読み、文章をキーを叩いてパソコンのワードに書き写すのは、手間は手間でありますが、一字一句を丁寧に読まざるを得ません。それがとても自分には良いことだと思っています。 そして、その作業が、無相庵コラムとなって、皆さまに何某かのお役に立てるならば、これほど有難いことはないと常々考えております。
今日の文章の中に『ダメ押し』と云う言葉がありましたが、私にとりましては、一週間に2回、我知らず仏法のダメ押しをさせて頂いていることになっています事、感謝しなければなぁーと思っています。

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No.1472  2015.06.16
今週のコラム更新はお休みします

先週の土曜日、3家族(10名)の泊り客があり、少々疲れが出ております。寄る年波には勝て無いことを思い知らされました。
今週一杯は反省の日々を過させて頂きますので、コラム更新はお休みさせて頂きます。

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No.1471  2015.06.10
竹部勝之進さんの詩と信仰―完

●無相庵のはしがき
私は、コラム1468の〝無相庵のあとがき〟で、「竹部さんの〝タスカッタヒト〟という題名の詩の心が正直なところ分かりません。」と申しました。

          タスカッタヒト

     タスカッテミレバ
     タスカルコトモイラナカッタ

その後、他の方々のご本を読んだりして色々と考察致しまして、『タスカル』と云う意味を私自身が分かっていなかった事に気付きました。

〝タスカル〟とは、〝救われる〟ことだと考えておりますが、具体的な心持は「今のこの現在が幸せだ、惑いは無い、苦悩も無くなった」と云うことだと思います。
竹部さんは、今既にタスカッテいるからタスカロウと考える必要が無かったと思われて出来た詩が、この詩であると考えた次第であります。

だから、今日ご紹介する『生き甲斐』という詩、『まことの人』という詩が出来たので有りしまょう。そして、虫と〝いのち〟を共有する気持が、『虫』という詩に顕われたのではないかと思いました。

●米沢英雄先生の著作からの抜粋引用

          虫に

     落葉に穴があいている
     まるい孔が二つあいている
     虫が食ったのだ
     虫よ うまかったか

落葉の穴、 われわれなら何気なく見すごしてしまうものに眼をとめて、虫が食ったことに思い及び、更に虫よ、うまかったかと虫の心に思い到る。十方衆生の中の虫であり自分であることを、身体で知った彼がこの詩の中に生きている。

          生き甲斐

     わがみがわがみにあう
     手の舞い足の踏むところを知らず

     わがみがわがみにあう
     これ わがみの生き甲斐

仏に遇うとは、わが身に遇うことであった。仏はわが身をわが身に遇わせるはたらきであった。多くは我執を、エゴを自分だと思っている。わが身、真実の自己は、そんなケチ臭い存在ではなかった。 宇宙と共に、大自然と共に、自然法爾に生きているものであった。 老少善悪を択ばず、人間はわが身を、真実の自己をもって生れてきている。財産とか社会的地位はエゴの所産で、これは人間各個の能力に応じて差があるだろう。だが、わが身は、真実の自己は、すべてが平等に与えられている。 またそれに遇う道も、ナムアミダブツとして廻向されている。ここに真に平等な世界がある。わが身に遇うことこそ、人間に生れた意義であろう、だからこそ、わが身に遇い得た彼が、手の舞い足の踏むところを知らずと喜ぶはずである。

          まことの人

     ムシロを下げてのくらし
     塩をなめてのくらし

     そのくらしがよろこべる人

高度経済成長は国民の物質生活を豊かにし、ある意味では贅沢した。一度贅沢をおぼえたものは、生活程度の切り下げは困難である。そこにはたらくのは、エゴであろう。懸け蓆(むしろ)の住居、塩采の食生活は人間らしい生活ではないかもしれぬ。 しかしそこに甘んじ得るには、それに倍する心の豊かさがあってこそであろう。 はたらきのない人間、甲斐性のない人間と人から笑われようとも、心豊かに生き得る人こそ絶対的生活者、独立者であり、仮令身止、諸苦毒中、我行精進、人終不侮底の、これこそ法蔵菩薩であろう。 (『在家仏教』第257号、昭和50年8月号所収)

注)『仮令身止、諸苦毒中、我行精進、人終不侮底』は、『無量寿経』というお経の中に有る「歎仏頌」と云う一節にございます。 そして、その意味は、「たとえこの身 苦渋を舐め尽くしても 精進・忍耐して 成し遂げよう」と云うものですが、詳しくお知りになりたい方は、「歎仏頌」サイト1をご覧下さい。

●無相庵のあとがき
前回のコラムで妙好人源左さんの廻心の心持を宮崎幸枝さんの言葉を借りて次の文章を紹介致しました。
『源左さんは、自分のお粗末さ、愚かさ、汚い欲が知らされ我が姿が見えたとき、世界がコペルニクス的転回をし、一変したのだろう。
「とても自分が人さまを許し、堪忍できるような立派な私ではない」「人さんがこらえて下さるので日暮らしができる」という結論に変わる。 自分が最下位に落ち着くと、恨みも、悩み、怒りも消え、お蔭さまだけが残るのである。』と。

私も考察致しました。
「今この瞬間に生きておられるのは、悠久の過去と、私が生れて生きている地球だけに限らず無限に拡がる宇宙空間に存在する人々、動物、山川草木等無数のお蔭さま、 無数のご縁が集積した結果であると思えたら、私の力なぞ、高がしれたもの」と云う謙虚さしか残らないのだと思われます。その時点で、「俺が、俺が」という自我はフッと消えるので有りましょう。

しかし、自我がその時点で完全に消えるものでは無いことも、一旦本当の我が身に出遇った人の心には染み込んでいるのだと思います。いえ、これは、仏様が心に棲(す)みこんだと云うべきでありましょう。

私はこれまで、凡夫同士が手を握り合うには、聖徳太子の『共に是凡夫のみ』と云う考え方に立たねばならないと申し上げて参りましたが、それは、どうやら、凡夫を甘く考えていたから出た言い分であったと思い直しました。 『共に是凡夫のみ』は、相手にも否が有るという上から目線の言葉です。源左さんのように「人さんがこらえて下さるので日暮らしができている」と云うお蔭さまの心、「ようそ、ようこそ」と云う私になりたいと思いました。

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