No.1440  2015.02.18
やはり、戦争してはいけないーインパール作戦大敗に関する新聞記事から

昨日の神戸新聞に、1944年3月8日(私が生まれる丁度1年前である)に開始したインド北部の街インパールを制圧すべく10万人の兵を作戦に動員したと記事が載った。私は、これまでその作戦すら知らなかった・・・。 詳しくは、記事(記事①記事②記事③記事④)を読んで頂きたいのであるが、 この作戦が始まるまでの経緯と作戦失敗に終わるまでの経緯を知って、ここで申し上げたい事は、司令官と云う者たち、結局は、個人的欲求とメンツから大切な多くの兵の命を無駄にし、国を間違った方向に導くものだと云う事である。

現在の日本国の司令官は、安倍首相である。彼の心の奥底は、アベノミクスがどれだけ多くの国民を経済的困窮に陥らせても,国民の中の1%の、金儲けに頑張った富裕層が報われれば良いと云う考えであることは間違いない。 アベノミクス作戦が失敗しても、安倍政権、その他与野党の議員は、議席を失う事が有っても、経済的に困窮することは無いからだろう。 安倍首相は個人的には、自分の立てたアベノミクス作戦が失敗だったと受け取られて政権を追われる事を最も恐れていると云うことではないか。インパール作戦の司令官と同じ思考に違いないと私は思うのである。

アベノミクス作戦の失敗は、多くの国民も困るのであるが、それ以上に困るのは、これまで歴代内閣が決して認めて来なかった集団的自衛権の行使を容認し、行使が出来るように法制化して、 海外で生じた何らかの事態をキッカケとして、自衛隊に国外で武器を使用した事実を作り出させて、世界の国々から日本が普通に戦える国だと評価されるようにし、ご自分は歴史に残る宰相になりたいと言うと言い過ぎであろうか。 こんな、個人的欲望の満足とメンツ維持に私達国民が付き合わされ、またしても理不尽に若い命を失うのは堪らないではないか。

安倍首相の記者会見で喋る言葉から、心の奥底にある目的を私が正しく読み取れているとは思っていない。しかし、人類の歴史からも、また現在の各国のトップの言動から見ても、武力を行使したがるものなのだと思えるのである。 70年前の敗戦を国内外に向けて幾ら謝罪しても、過ちを繰り返さないと声高に叫んでも、日本国憲法の改訂を目指す限り安倍首相の安全保障政策を是としてはいけないと思うのである。

多くの人々を無残にも見殺しにした敗戦後70年を契機にして、本当の積極的平和外交が出来る政権の出現を、国民の総意で実現したいものである。それは、これから日本国民として生れて来る者たちへの義務であり責任があると思うからである。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1439  2015.02.16
救われると云うこと

竹部勝之進と云う妙好人の詩をご紹介致します(カタカナ文字はそのまま転記致しました)。

      クラサ

ハズカシイコトデアリマシタ
クラサハ
ワタシノクラサデアリマシタ

      懺悔

ハズカシイコトデアリマシタ
ハズカシイママデイカサレテイマシタ
ハズカシイコトデアリマシタ

      ザンゲ

ワタシハナガイアイダ迷ッテオリマシタ
迷ッテオリナガラ
迷ッテイルトシリマセンデシタ
罪ナ男デシタ

      タスカッタヒト

タスカッテミレバ
タスカルコトモイラナカッタ

      拈華微笑

ワタシワ
コノママデヨカッタ

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1438  2015.02.11
スピード信仰世界一

●無相庵のはしがき
『スピード信仰世界一』と云う言葉は一般的では有りません。皆様も初めて接しられたと思います。そして、何だか、インスタント信仰のようで、有難味が無く、抵抗を覚えられたものと思います。 実は、私の尊敬する米沢英雄先生の『スピード信仰』と云うご法話から拝借致しました。

後に紹介致します米沢英雄先生の法話の内容の結論が、「親鸞仏法がやがてスピード信仰世界一と認められる日が来る」と云うものですし、私も「そうではないのかな」と考えておりますので、 今回のコラムの表題を『スピード信仰世界一』とさせて頂いた次第であります。 これは、世界の宗教の中で、信仰に至るまでの期間、言い換えますと、本当に救われたと実感するまでに要する期間は、親鸞仏法が世界で一番に短い、つまり信仰に到るスピードが速いと云う意味でございます。

●米沢英雄先生のご法話『スピード信仰』(昭和35年1月法話)の転載


「道徳(みちのり)、いくつになるぞ。念仏もお(申)さるべし」これが蓮如上人の、信徒道徳に対する新年のあいさつでありました。死人に対して念仏は唱えても、めでたい席、出産や結婚の時に念仏して祝うことは少ないようであります。 念仏はあまりに死の儀式と結びつきすぎました。考えてみれば、死ぬことがわが力でないならば、生れることも、念々に生きていくことも自分の力ではないはず。 すべてが因縁によることであれば、ことごとく念仏の世界の出来事であります。死が厳しい現実なら、生れることも、只今の一息もまた厳粛な事実であります。只今の一息を、おろそかに出来ないと見直させられた驚きが、南無阿弥陀仏ではないでしょうか。

現代はスピードの時代と言われます。高速度電車、〝かみなりオートバイ〟、ジェット機、世界早まわり、ニュース速報、スピードくじ、それらが一度走りだし、明日は今日よりも更に早いスピードでと、現代人は眼の色が変わるほど、 スピードに憑(と)りつかれております。それにもかかわらず、たった一つだけ、このスピードのさかんな時代に、大へんのんびりしたところがあるのです。

それは信仰の世界と言われるものです。一刻一秒を争う現代人が、こと信仰の問題となると実にのんびりとしているのが、私には不思議でなりません。 皆さんは、いつになったらご利益(りやく)が現れるのか分からない神仏を、毎日せっせと拝んでいられるのです。家運が栄えますように、宝くじが当たりますように、世界が平和になりますように、死んだら極楽に行けますように・・・。 なかなか気のながい話です。中には何度期待を裏切られても、自分の信仰の足りないことを責めて、今度こそはと、こころがけと期待を新たにして夢中になっておられます。私が神さまなら、見ていて気の毒でたまらん程であります。 ひょっとしたら、まじめに、熱心に待ち呆けを楽しんでいられるのではないでしょうか。日参とやらで真心を示される人もあり、野球の内野席でも買うようにプレミアムを奮発するすべてが因縁によることであれば、ことごとく念仏の世界の出来事であります。

私はそんな人々の気の長いのに驚かざるを得ません。私は生まれつきせっかちで、思い立った只今、目前にはっきりと真実の利益がみられる信仰、それこそスピード信仰でないと、どうしても満足出来ないバカ者であります。 信じたらすぐ利益があるというスピード信仰でなければ、今死んだら間に合わないではありませんか。

有難いことに世界は広い。こんな虫のいい願いにこたえて、今すぐ最勝真実の利益の与えられるスピード信仰、南無阿弥陀仏が恵まれました。ロケット、電子計算器、それらが造られるまでには永い研究の月日を要したことでしょう。 しかしたった六字の名号が生み出されるのにかかった五劫思惟という時間の長さに比べれば、ものの数ではありますまい。

現代のスピードは十年先のスピードに追い越されるでありましょう。ですが、南無阿弥陀仏する今、ただちに病気がどうの、身代がどうの、その他一切の問題に先立って、私自身が明らかにされるという真実の救いが齎(もたら)される、 このスピードを追い越すようなものは決してないのです。念仏こそスピード信仰であることが、これから時間をかけて証明されてくるでありましょう。

●無相庵のあとがき
スピード信仰世界一と申しましても、「「南無阿弥陀仏』を称えると救われますよ、と教えられて、念仏を称えると、即日、救われる」と云うことでは無いと私は考えています。でも、南無阿弥陀仏の意味する事、謂(い)われを知り、己れとは何かを知って行くに従って 、やがて、救われる時が来るのだと思います。但し、逆説的ですが、救われたと思った瞬間、救われていない自分に気付くはずです。そして、ドンドン、地獄の底に堕ちて行く自分に気付くと云うことではないかと、私は思っています。 親鸞聖人がご自分の行く先は「地獄に決まっている」とおっしゃったそうですが、「救われ難い己に出会って行く道が親鸞聖人が歩まれた仏道ではないか?」と考えます。そこまで卑下するのは面白くない、おかしいのではないかと言われるかも知れませんが、 地獄の一番底に私の坐り場所を指定されますと、失うものは何も無くなり、それが無碍の一道の風景ではないかと考えます。

また、私たちは生かされて生きている存在だと申しますが、生れてから、寝ていても呼吸しています。寝ている間も血液が身体中を循環しています。私が呼吸したり、血液を循環させているのではありませんね。宇宙に働く、何らかの意思在る働きがあるからでしょうね。 しかも、吸う酸素は無尽蔵とは言え、私たち個人個人に請求書は来ません。無料で頂戴しています。更には、私たちが吐く炭酸ガス排出にも苦情は来ませんし、排出権利の奪い合いも有りません。自然界の植物が炭酸ガスを酸素に変えてくれているお蔭です。 でもそれには、植物が光合成に必要な太陽光が恵まれているからです。考えてみますと、宇宙に存在する総ての存在との関わりが有って、私の〝いのち〟は、守られています。しかしそれを知っても、私たちはそんなに感動しません。 そんな事考えていたら、生活出来ないと・・・・。
実に、罪悪深重・煩悩熾盛、地獄必定の凡夫です。しかし、そう自覚出来ても、自覚したことを己れの手柄にする、何処何処までも、救い難い私です。

「念仏こそスピード信仰であることが、これから時間をかけて証明されてくるでありましょう。」と米沢英雄先生が申されています。この心は、「世界平和を実現出来るのは、人類が、『共に凡夫同士なのだ』と云う誰もが認め合わざるを得ない共通の意識に目覚めるのに、 ある程度の時間が必要だからである」と云うことではないかと推察しています。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1437  2015.02.08
イスラム教の事

●無相庵のはしがき
私たち日本人は、外国に比べて宗教に関心が薄い国民だと言われています。神社にはお宮参り(生後30日)、初詣や七五三に参詣したりしますので日本の宗教としての〝神道(しんとう)〟があることは知っていますが 、さて神道とはどういうものかは知らないのではないでしょうか。
また、お寺やお坊さんは能く見掛けますので、日本の宗教としての仏教は知っていますし、開祖であるお釈迦様も知っていますが、どんな教えか詳細を知らない人は、これまた多いのではないでしょうか。 一方、海外の宗教としてキリスト教は誰でも知っていますが、イスラム教に付いては、イスラム教徒の方と日常出会うことも殆どございませんので、その教えがどんなものかを知っている人は極めて少ないと思われます。 私も今回の『イスラム国』の人質事件が起こっても、イスラム過激派がイスラム教のどの教えを過激に捉えてのものなのかを知りませんでしたし、イスラム教の教えの真髄に付きましても殆ど知らなかったと云う有様です。 この日曜日の神戸新聞にイスラム法に関する記事が出ていましたので、やっと概略を知リました。そこで、皆様にもご紹介することに致しました。「イスラム国問題」の報道を考察する上での参考にして頂ければ幸いです。

●神戸新聞の2月8日朝刊の記事『イスラム法』の転載
人口約70億人といわれる世界で、キリスト教に次いで信仰されているのがイスラム教です。「ムスリム」とよばれる信徒は世界で5人に1人の割合(21.0%)に上ります。
イスラム教は7世紀初め、ムハンマド(モハメッド、マホメットとも言われていた)によって開かれた宗教で、唯一絶対の神アッラーを信仰します。 ムハンマドはアッラーの教えを伝える「預言者」で、アッラーが語った言葉を記したものが聖典「コーラン」です。

「コーラン」には、信仰に関する教えだけでなく、結婚や相続、商取引、刑罰などが定められています。コーランの内容をはじめ、ムスリムとしての義務や禁止されていることなどを整理したものが、「シャリア」とよばれるイスラム法です。 法とはいえ、日本の憲法や法律とは質が異なり、宗教、道徳と一体化した社会生活のルールです。
例えば、毎日5回の礼拝や毎年一定期間の断食が義務で、酒を飲んだり豚肉を食べたりすることは禁じられています。

「イスラム国」に人質の日本人が殺害されたとする画像が流れましたが、日本のムスリム団体は「無実の人を殺すことは禁じられている」「コーランに反する」などとして批判しています。(監修:細野敦弁護士)

●無相庵のあとがき
日本にも、宗教と倫理が一体化した宗教団体があります。殆ど倫理や道徳を共有するだけで、信仰と云う面が無さそうな団体も多く見受けますが、それらに属している人々の結束状態は強いものがあると感じます。 多分、イスラム教も、イスラム法がある故により結束が強くなり、その中から過激に走るグループが出ても不思議は無いと思いました。
それにしましても、我が仏教徒の少ない事.世界の人口の5.8%ということは、約4億人でございます。イスラム教の15億人、キリスト教の24億人と較べますと何故なのかと考えてしまいます。 日本では日常、宗教を話題にすることが無いからだと思いますが、イスラム教徒と同様、隣近所に仏教徒の匂いがする方には出会えません。キリスト教は、戸別勧誘活動を散見出来るからか、キリスト教の33.3%は納得出来ます。 まぁ、宗教の繁盛は、人の沢山集まる事を言うのではない、教えの真髄がどれだけ理解されているかである、と言われた先師もいらっしゃいます。が、しかし・・・。
キリスト教も、日曜礼拝等が日常生活に取り込まれていると思いますが、仏教、特に在家仏教徒には義務はございませんので、それが良い面でもありますが、信仰が日常生活に生かされていないと感じさせる面もあるのかなと思いました。 仏教界の課題かも知れないと考えた次第であります。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1436  2015.02.05
神様と仏様の違い

●無相庵のはしがき
自称ーイスラム国の人質事件は、イスラム教の過激派組織が為したものだと言われていることに、イスラム教徒は「あれはイスラム教でも、イスラム教徒でも無い!」と困惑され、憤っておられます。20年前のオウム真理教のテロ事件の時、 オウム真理教は仏教のグループであると云う報道があり、私は「とんでも無いことだ」と心穏やかには居られませんでした。ましてや、『仏教国』とでも名乗られていたら、猛烈な反発、抗議をしただろうと考え、今回の日本在住のイスラム教徒の方々の 立場は能く理解出来ます。

私はイスラム教の教義を存じません。キリスト教と共にユダヤ教から派生したものと云う位の知識です(これも間違っているかも知れません)。ただ、一神教であることは間違いないと思います。 なお一神教に付いては、ある辞典では『 唯一の神を信仰する宗教形態。ふつうユダヤ教,キリスト教,イスラム教の3つがその典型とされる』と説明されています。
仏教は仏様を拝みますので、宗教に関心を持たれない方は、仏教が一神教ならぬ、一仏教ではないかと思われるかも知れません。でも、それは私が幼い頃から教えられている事とは異なります。 この機会に、私が教えられて来ました、神様と仏様の大きな違いを、知って頂きたい思います。

一番の違いは、仏教でも勿論仏様を拝みますが、むしろ、仏様の方が私たち衆生を拝んでいると。私たちは仏様から拝まれている存在だと云うことであります。一神教には、神様が僕(しもべ)を拝むと云う発想は無いと思います。 卑近な譬えですが、それは親が自分の子供の幸せを願って、子どもの後ろ姿を拝むように、仏様は私たちに、「人間に生れて良かった。」と、生まれ甲斐と生き甲斐を持って貰いたいと云う願いを持ってずっとずっと拝んで居られると云うことであります。 それは、直接的に仏様が私たちに声掛けされるのではなしに、その仏様の願いが私たちに強く感じられると云うことであります。 その辺りの事を米沢英雄先のご法話『住所不明の神』の中で説かれている箇所がございますので、以下に転載させて頂きます。

ただ、今からご紹介する捉え方は、親鸞仏法を信奉する立場からの一つの考え方であるとお断りしておきたいと存じますと共に、一神教を知り尽くした立場からのものではなく、一神教を全否定するものではないこともお断りしておきます。 むしろ、これを機会に、ご自分の求めるべき宗教とはどうあるべきかを真剣に考察して頂ければ誠に幸いに思う次第であります。

●米沢英雄先生のご法話『住所不明の神』の転載


     われはこゝに 神はいずこにましますや
            星のまたゝき 淋しき夜なり

ある日往診先で見付けた歌であります。二枚折りの張交ぜ屏風、その短冊の中のこの歌であります。心にしみる歌であります。歌としては結構でありますが、信仰告白ということになりますと、これは困るのであります。
問題は「神はいずこに」と、神の在り場所が不明なことにあると思います。もし作者が祈りを捧げるとしましたら、何処にいられるかわからぬ、住所不明の神に向って祈るのでありましょうか。 住所不明の神に如何にして祈りが届くのでありましょうか。住所不明の神が、如何にして私たちの祈りを聞きとどけ、それに応えることが出来るのでしょうか。
神は遍在し給う(何処にでもいられる)と言い逃げしてはいけませぬ。遍在し給うなら、ここにもいられるはず、ここにいられる証拠を見せて下さい。ここに、あなた方のところにいられるのなら、淋しくはないはずではありませんか。

世の中に、神仏を語る人は多いけれども、ほとんどがこの住所不明の、頼りない神のことを語っているのであります。世の中に神仏多しといえども、所在の明かである証拠をはっきりと示すことの出来る方は、たった一人、阿弥陀仏しかないのであります。 その所在は十万億土の先の西の国、つまりこの世の中に社や寺をつくって、その中に囲っておくことの絶対に出来ない存在であります。またこちらの祈りが絶対に届かぬところにおられます。 こちらから自分勝手なことを祈っても、断じて聞かれることはありませぬ。「天にまします神」と、住所の明かな神があると言われますか。天への祈りはどうして聞かれるのですか。 存外こちらが勝手に聞かれたつもりであるのではありませんか。人間の中には気の早い者が多くて、みんなひとり合点で聞かれたつもりでいるのであります。阿弥陀仏だけは阿弥陀仏の方から祈っていられるのです。 人間よ、その分限を知れよ、お前の一切の悩み苦しみ、それは己の分限を知らないという、その一点から起こされているのだ。南無阿弥陀仏(阿弥陀仏のまえに自己の一切をなげだす)、それを知れよ。 それによってのみ汝は救われるのであると、南無阿弥陀仏という深い心をこめた言葉を人間の手元へ送り届けて下さっているのです。 神は遍在し給う(何処にでもいられる)と言い逃げしてはいけませぬ。遍在し給うなら、ここにもいられるはず、ここにいられる証拠を見せて下さい。ここに、あなた方のところにいられるのなら、淋しくはないはずではありませんか。

南無阿弥陀仏という生きた言葉のあることが、阿弥陀仏の実在(本当にある)証拠であり、南無阿弥陀仏することによって、幾多の先輩が救われて阿弥陀仏の実在を証明され、私たちも諸先輩に倣い、念仏することによって、 阿弥陀仏の実在を証明すると共に、それが私たちの救いになるのであります。
いつでも誰でも何処でも、念仏によって阿弥陀仏にお遇い出来るのであります。されば、初めの歌は、

        われはこゝに 仏もこゝに    ましませば
               星のまたゝき 嬉しき夜なり

となり、一人いても淋しくないのであります。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1435  2015.02.01
凡夫の眼の前に浄土が現れる時

●無相庵のはしがき
仏法に人生の有り方を学び、何とか仏さまに救われたいと願っている私でありますが、「浄土往生を願っているか」と問われて、「はい、願っています!」と即答出来かねます。それは、浄土というものを本当のところ分かっていないからだと私は考えています。 浄土に往(ゆ)くということはどんな事なのか。その答えを、『犬は跣足(はだし)なり』と云う丸山薫と云う詩人の詩を紹介されながら、浄土の顕現に関して説明されている米澤英雄先生のご法話に見付けましたので、以下に紹介させて頂きます。

●米沢英雄先生のご法話

       犬は跣足なり・・・丸山薫

    ある日 みんなと縁端にいて
    ふいに はらはらと涙がこぼれおちた
    母は眼に埃でもはいったのかと訊(き)き
    妻は怪訝(けげん)な面持ちをして私をみた
    私は笑って紛らそうとしたが
    溢れるものは隠す術もなかった

    センチメンタルなと責めるなかれ
    実につまらぬことが悲しかったのだ

    愛する犬 綿のような毛並をふさふささせ
    私たちよりも怜悧で正直な小さな魂が
    いつも跣足で地面から見上げているのが
    可哀そうでならなかったのだ

平和な家庭、暖かい陽射しの縁側、何も悲しいことがないのに、詩人の目からはらはらと涙がこぼれた。お母さんならずとも、奥さんならずとも、変に思って訊(き)かずにいられない。詩人は何で泣いたのか。 犬が跣足で地面に坐って、主人である私を見上げているのが悲しかったのだという。こんなことで大の男が泣いたとしたら、大方の人は頭にきたのではないかと思うでしょう。しかし、この時の詩人の心の中を考えてみたい。 もし正直ということが本当に尊いのなら、犬と人間とどちらが正直か。 犬は自分が欲しいと思ったら、相手に食いついてでも、奪いとる。ところが人間は、たとえ咽喉から手が出るほどに欲しくても、欲しいとまっすぐには言わぬ。相手が、それを私に寄越さねばならぬように、しむけていく。工作をする。 それでは相手が、それをくれる気になったら、喜んでお礼を言うてそれをいただくかというと、咽喉から手が出るほどに欲しかったにもかかわらず、自分はそう欲しくはないのだが、そんなに貰ってくれというのなら貰っておいてやろうかと、 恩に着せてうけとる。こういう狡(ずる)いのが人間である。
また犬はどんな御馳走でも、自分の胃の腑が一杯になれば、それで満足して、あとは見向きもしない。ところが、人間はどうか。腹一杯よばれた後、ソロッと懐中から風呂敷をとり出してきて、包んでもって帰る。 それを大事に戸棚に仕舞って、他人に分けようとせぬ。翌日になって、腐ってしまって、ごみ箱へ捨てても、他人に分けようとせぬ。そういう狡いのが人間である。 つまり人間は犬のもっていない地獄を内面に隠しもっている。そして表だけは綺麗に着かざり、紅、白粉(おしろい)をつけてごまかしている。あさましいにも程がある存在である。 詩人は飼犬を見ていて、自分の中にある地獄に気付いたのでありましょう。

では自分の努力によって、この地獄を捨てられるか、実はこの地獄は自分の肉体に密着していて、息のあるかぎりこの地獄とは絶縁出来そうもない。絶縁出来ぬ地獄を抱えつつ生きていかねばならぬ人間の悲しさ。 それが詩人の涙となってこぼれたのでありましょう。この時、詩人は犬を鏡として、自分の内面を照らし出されたのでありましょう。 お母さんや奥さんは、ただの人間だから、犬は犬としか見えない。詩人は犬を犬と見ながらもその背後に、犬を通じて自分に照らしかける光を、仏を見たのでありましょう。 仏とは、紫の雲がたなびいたり、金ぴかの光が拝まれたりするのではなくて、実に当たり前のものを通じて、その背後から自分に照らしかける光のことなのです。その光に遇(お)うて、詩人の頭が下がったのです。

それでは、人間は犬にも劣った奴だから、人間が地面に坐って、犬を座敷に上げるかという話ですが、犬はただそれだけの存在であるけれども、犬を見て犬にも劣った奴と自覚して、自分の全存在を恥じた詩人は、その時、地獄を超え、犬を超え、 またこうしたことの分からない無自覚な人間、お母さんや奥さんも超えているのではないか。詩人の最内面に隠れていた〝たましい〟、仏性が、犬を通じて目覚めてきて、成仏したのではないか。 この時詩人は、犬も己も、一切が差別のない平等である涅槃の境に立たしめられたのではないか。浄土とはこういう〝かたち〟で私たちの前に現前するのではないでしょうか。

私たちに懺悔の心が起きる時、私の〝たましい〟は、人間を内に超えて、浄土にいるのであり、浄土にいる私の眼前には、今更往くまでもなく、浄土がひらけてきているのではないでしょうか。 よく往相(おうそう)、還相(げんそう)という言葉が語られますが、往相とは、私の最内面の〝たましい〟が目覚めることではないか。〝たましい〟が目覚めた時、私の眼前には浄土が開けるのではないか。 別に往(ゆ)くの、還(かえ)るのという話ではありますまい。 娑婆即寂光土(しゃばそくじゃっこうど)という〝ことば〟がありますが、娑婆がそのままでは寂光土にはなりません。娑婆は、あくまでも自我で虚構している世界であります。それがどうして真実の世界となりましょう。 自我が虚構している世界と自覚されて初めて、その自覚において真実に触れしめられるのであります。念仏を媒介として、念仏の力(本願力)で娑婆におりながら浄土を拝むことが出来るのであります。 拝むと申しますのは、人間を超えた世界が与えられるからで、この時初めて人間に全身心を挙げての喜びがあるからであります。この喜びというのは、今の私に何かプラスされるのではなく、今の私の〝ありのまま〟が有難いという感動であります。 浄土はこういう〝かたち〟で私たちに顕現するようであります。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1434  2015.01.28
『二河白道と人間』の著者の註釈―東岸の人(4)

無相庵のはしがき
法然上人も親鸞聖人も善導大師の存在があればこそ、本願の念仏に帰依されたと申しても良いと思います。それは、善導大師が立派な言葉を遺されているからでは無いと思います。 二河白道に言い表されていますように、善導大師を、なかなか白道に足を踏み入れることが出来なかった先輩だったことに気付かれたのだと思います。それは丁度、善導大師が白道を渡るか渡らないかに迷っている時に、善導大師が、お釈迦様は 自分と同じように、悩まれた揚げ句に白道を歩まれて悟りに至られたことに気付かれたのと同じ事だと思うからであります。
二河白道は、煩悩具足の凡夫だけが渡れるのだと思います。否、自らを煩悩具足の凡夫であることに目覚め得た者だけが渡ることが出来、浄土の西岸に行き着ける唯一の王道と言っても良いのではないかと思います。 浄土門は、易行道と言われますが、肉体に鞭打つ苦行を必要としないと云うことであって、本願を本当に信じ切るのは極めて難しい事を、此の二河白道の比喩に依って、善導大師が私たちに言い遺されて居らっしゃるのではないでしょうか。

『二河白道と人間』からの抜粋転載ー

彼は貪瞋煩悩の無辺なるを見、浪と炎の中間にこそ、「白道」の開けることを知らしめられ、しかも「二つの岸の相去ること」遠からずという事実まで見ているその上にはじめには彼岸の世界へ「何に由ってか行くべき」と言いながら、 後には「正しく西に向いて去かんと欲すれば・・・」と言うている。

「行く」ということは未知の世界へ行くということである。すなわち出発の地を主として到着の境を向うに見ての言葉である。「去かん」という表現は、出発の地がみずからの居るべき境ではなくして、彼の本国を指してこの地を去らんとするこころである。 これは僅か一瞬時のうちに生ずる「旅人」の内面の変化を語るような表現となっている。

それにも拘わらず「今日定めて死せんこと疑わず」と言い「時に当って惶怖(おうふ)すること、また言うべからず」という情態(ありさま)である。 およそこれらの文字は、この二河比喩が「外邪異見の難」を防ぐために書くと言いながら、一面にはおのずから作者善導大師その人の長年の求道の経路(みちゆき)がいかに険難であったか、またいかに命がけの態度であられたかを語っております。 比喩がそのまま作者の事実であり、事実がそのまま比喩の文字に現れていることを、また新しく感ぜざるを得ないのであります。

ここに忽然として旅人に一つの想念が湧き上がる。「我れ今迴(かえ)らば亦(また)死せん、住(とど)まらば亦死せん、去(ゆ)かば亦死せん。 一種(いっしゅ)として死を免かれずば我れ寧ろこの道を尋ねて、前に向うて去(ゆ)かん。既にこの道あり、必ず應(まさ)に度(ど;渡ること)すべし」という思念(おもい)である。

この念を作(な)す時、東岸に忽ち人の勧むる声を聞く。仁者(なんじ)但(た)だ決定してこの道を尋ね行け、必ず死の難無けん、もし住(とど)まらば即ち死せん、と。

わたしは二河白道の文字を誦(よ)んでここまで来ると、いつも一大宗教劇の檜舞台をここに思い浮かべるのである。これは田舎まわりの旅芝居ではなく、「人類」そのものを観客とする大舞台である。 われわれはここで舞台裏を覗いたりせずに、この輝いた檜舞台そのものを見るべきである。一体この東岸の「声」とは何であろうか。 二河比喩の作者によれば東岸には更に「人物」の見えない世界である。群賊、悪獣、毒蟲のすみかであって、群賊はただ人の姿をしているだけで「人物」ではありません。 「人」の無い空廣の東岸の世界に、旅人ははじめて「人」の声を聞いたのである。旅人の驚きは「忽ち人の勧むる声を聞く」という文字によって十分にあらわれている。 この「忽ち」は「忽然として中路に二河あり」と同一の語法であります。

旅人の驚いて聞いた声とは何であるか。作者善導大師は二河比喩の「合法」の文に、
東の岸に人の声勧め遣(つか)わすを聞いて道を尋ねて直ちに西へ進むというは、即ち釈迦已(すで)に滅したまいて後の人見たてまつらざれども、由(なお)教法ありて尋(たず)ぬ可きに喩う。

と示されてあるので、東岸の人とは釈迦牟尼世尊であることは明らかである。「ひと」の無い空廣の世界に旅人ははじめて「人」の声を聞いたのである。 「釈迦如来かくれましまして」2500年後の現代にわれわれは生きているのであるが、作者善導はその中間の時代に世に出られ、そうしてこの「東岸の声」を聞かれたのである。 釈尊のご時代に生れて生身の釈尊金口(こんく;尊い言葉)のご説法を聞くことが出来ないのは、古来の多くの高僧方の涙ながらの恨みの声でありました。作者善導は今生ける世尊のみ声を、東岸の世界に聞かれたのである。 それは大森林の中に迷うように、八万の法蔵(一切経)をたづねまわられたこの作者善導の耳に『観無量寿経』の南無阿弥陀仏の名号の文字が法雷の震うように響き、作者の魂を打ったのである。 作者が聞かれたということは、即ち東岸の「旅人」が聞くということである。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1433  2015.01.25
イスラム国の人質事件に接しながら思う事

今、テレビも新聞も『イスラム国の人質事件』がトップニュースです。私たち国民の多くも、一番関心を持っているものと思います。
私も今朝、テレビをつけて、「イスラム国」によって、一人の日本人の人質が殺害されてしまった事を知りました。 しかも、もう一人の人質の後藤健二氏が、その殺害の証拠写真を掲げながら、国民と日本政府に向けてのメッセージを発表しているのを朝食を夫婦で摂りながら見ました。 深刻な状況です。
でも思いました。他人事だから、私は食べ物を口に運びながらテレビを見て居られるんだと・・・。家族ならきっと食欲は無く、食事を作る気もしないし、食事も喉を通らないはずだと。テレビも見ないかも知れないと。

親鸞聖人が、「小慈小悲もなけれども、名利に人師を好むなり。」と言われましたが、他の人の悲しみが私の悲しみにはならない人間の悲しさと人間の罪悪深重さを思わずには居られませんでした。
「いちいちそんな事を思っていたら、生きていられないよ」と云う立場もあるでしょう。永遠に、他の人の悲しみが私の悲しみにはならないし、他の人の喜びを私の喜びとして喜べないのかも知れません。

一方、テロで他国の国民を殺害するのは言語道断の非人道的行為で、戦争で他国民を大量殺害するのを正義だとして、欧米の諸国やその同盟国が一致団結することが当たり前のように考えられていますが、本当に人類はそれで良いのでしょうか。 そのような人間の有り方に駄目出しされた故米澤英雄先生の『一文不知』と云うエッセイがございます。以下に紹介させて頂きます。私は、知識も有り、正義も持っていると思って来ましたが、脱帽です。

一文不知(いちもんふち)
人間は数えきれぬほどいます。ですが、この私という者は世界中にたった一人しかおりません。私も人間です。しかし人間という符牒(仲間うちだけで通用する合言葉・・・)では尽くせないものをもって生きております。

人間や人間に関係したものを研究する学問はいくらでもあります。しかし人間の中の私という、たった一人しかいないものを問題とするものは真実の宗教、阿弥陀仏の本願以外にないのであります。 人間がいくら明らかにされても、それで「私」が明らかになるということはありません。人間が明らかになれば、人間の中の「私」も明らかになると簡単に考えているのを学問と言います。 学問で私が明らかになるのなら、学者ほど尊いものはないはずでありますが、その学者先生が、「私としたことが、どうしてこんな・・・」と思わずため息をつかれることのあるのは、学者でも自分のことがわからないからでしょう。

いざ自分のこととなると何もわからないというのが一文不知で、これは恥ずかしいどころか、一文不知になってかえってよろこべる世界があればこそ、世界に平和の訪れる可能性もあるのです。 差別をなくしようという社会科学や民主主義では真の平和はやってきません。平和がほんとうに平等無差別の上に築かれるものなら、サイフの中味を等しくしたり、人権尊重のスローガンをかかげることによってではなくて、 人間を平等に一文不知にする智慧(これを阿弥陀仏の智慧の光と言います)こそ、真の平和の土台となるのでしょう。一文不知にされたところに、人間という符牒で尽くせないほんとうの私が生き生きとしてくるから不思議であります。

私たち、形のあるものの悲しさには、形あるものしか見ることが出来ない。しかし人間であることの有難さには、形によせて形のないものを見ることが出来ます。親切な行いを通して、親切という形のないものを知るように。 私たちが一文不知と教えられて頭を下げさせられる、その形を通して、そこに頭を下げさせた姿なきものの存在、阿弥陀仏を感じることが出来るのです。 この時、阿弥陀仏から「汝(なんじ)」と呼びかけられたのです。たった一人の私が、阿弥陀仏に認められたのです。たった一人の私も、心細くなくなるのです。はっきりしなかった私がはっきりとされてくるのです。

どのようにして、一文不知にさせられるか。人間の小賢しい(こざかしい)知恵にうぬぼれないで、自分の手もとをあらためてみるがよい。台風の行方も分からないではないか。 自分の住んでいる地球を壊(こわ)すような研究に血まなこになっているではないか。平和のためと言って争っているではないか。離婚するために結婚しているではないか。 明日泣くために今日喜んでいるではないか。何という愚かさ!一文不知!

これが人間一人一人に対する決定的な評価だ。この評価をありがたく自分に受ける時、これを知らせた阿弥陀仏を感得することが出来るのであり、全世界が一文不知となって手を取り合うことを教えて下さる。 私にとっても全世界にとっても、たった一つの親切な力を感得することが出来るのです。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1432  2015.01.21
自我と法との戦い

●無相庵のはしがき
二河白道の註釈をご紹介している最中でありますが、先週から、3年振り位になりますが、米沢英雄先生の『米澤英雄著作集』(全部で10巻ございます)を読み直そうと思い、現在、第1巻を読んでいる途上でございます。 その中にあります、Ⅳ章『一人いて』の中の「念仏申せども」という歎異抄第9章に関わるお話の中に、二河白道の善導大師註釈にあります『三定死』に深く関係のある箇所に出遇いました。

出遇うと云う大袈裟な言葉を使いましたが、それは、正に私が今陥っている状況そのものだからであり、そしてまた、その状態から脱出を試みようとして、『米澤英雄著作集』を読み始めた私に向けての、大鉄槌と申しますべきものだからでした。 でもそのご叱責は、且つ誠にタイミング良い、また強い力、本願力のお導きだと思いました。

私は、何回か、歎異抄第9章の解説も試みて参りましたが、誠に浅い読み方でありました。恥かしながら、お詫びしつつ、ご紹介させて頂く次第であります。

●『米澤英雄著作集』第1巻からの抜粋・転載

『歎異抄第9章』は、唯円の質問に始まります。唯円は先生である親鸞聖人のご指導によって、念仏の信心に目覚められた時、その大きな感激と共に、この念仏さえあれば独立者として天下に闊歩し得るとの大自信に燃えて、 師のもとを離れていかれたのでありましょう。私たちをもっとも謙虚ならしめるはずの念仏が、かえって驕慢ならしめることは、念仏自身の罪ではなくて、実に私たち自身の自我が如何に根強いものかをあからさまに物語っているのであります。

私たちが心から念仏するということは、私たちがひそかに命と頼んでいる自我、私の自信、私のうぬぼれ、私のおもうようにしたいという野心、それが徹底的にうちくだかれた告白に他ならぬのでありますが、うちくだかれたはずの自我が、 その瞬間からまたうまく元どおりにつぎ合わさって、そしらぬ顔をして私たちの心の中におさまっているのです。私はうちくだかれたはずだと思うている。 しかも不死鳥のようによみがえって、心のなかにすでにおさまりかえっている自我に気付かないのであります。これは誠にとらえどころのない、影法師のようなものであります。 見ようとすれば、くるくると私の後へ後へとまわってかくれ、容易に見ることが出来ません。

他力の信心、本願の念仏に目覚めるまでの悩みは、自我と世間との戦いでありました。この我(が)は自我の存在と性質を知るために必要な我(が)でありました。本願の念仏に目覚めれば、自我はなくなるか、決してなくなりは致しません。 かえって、今までより強くなったようにさえ思われる。強くなるわけではないが、今まで見えなかったのが、いよいよはっきりと見えてくるというのでありましょう。

本願の念仏に目覚めてからは、自我が世間と戦うかわりに、自我が法と戦うのではないでしょうか。第9章に語られているのは、この法と自我の戦いではないかと思います。 法を得ますと、その法が法執(ほうしゅう)となってその人をふりまわし、自己を、社会を傷付けると共に、法自身をも如何に傷付けているかは、今日いくらでも見受けられる事実であります。 悲しいかな、自己を最大の盲点とする私たちには、それが気付かれません。己の愚を悟らしめられた瞬間、己の愚を悟り得た賢者に早変わりして、世の愚者たちのまえに、指導者面をして立ちはだかるのであります。 その上、あつかましくも、これを世のため、法のためであるとの看板さえかかげるのであります。さればこそ、この盲点を照らし出す光が求められねばなりません。 この光を示し得る人は、この光に照らされている人のみであります。

さて唯円のことでありますが、天下無敵、万能薬としての念仏を手に入れたと誇ったのもつかの間、それは酔い心地にも似た一時の感激と消え去って、念仏を疑うわけではないが、どうも仏になったはずの自分が以前ほど心おどらぬ、喜べない。 浄土という平安のよき世界を願うのだと人に説きつつ、自分はどうも煩悩に明け暮れて、ついぞ平安がない。真に浄土を願うているのかどうか疑われてくる。念仏して大満足を得べき身に、日夜わき起こるこのもの足りなさは、何処からくるのであろうか。 何処かが間違っている。しかも自分にはその何処であるかが明らかに出来ない。こうしたところに低迷(ゆきき)して、進みも退きもならないのが、唯円の心境でありましたでしょう。

●無相庵のあとがき
私は、自分が救われるとしたら親鸞仏法でしかないと考えて参りましたが、念仏は私の口から素直に出て来ない状態が続いていました。従いまして、「念仏一つで救われますよ」などと云う事を、この無相庵コラムでも申し上げられないままに参りました。 また、救われるのは親鸞聖人の本願他力の念仏でしか有り得ないと強く申し上げる自信も持てないままの自我一杯の私です。
従いまして、政治に不満を持ち、ビジネスに於いても、取引先の有り方に不信と不満を持って愚痴にまみれています。しかし、それは自分の煩悩から来ているものと知りつつも、我が煩悩をどうすることも出来ない状態であります。 つまり、或る時は世間と私の自我との戦い、また或る時は法と私の自我との闘いに明け暮れている私であることを米澤先生に指摘された思いであります。それは有難いことでしたが、それも観念で分かった事であるとも指摘された訳でありまして、 未だ実は心すっきりしている訳ではありません。

でも、一つ気付かせて頂きました事は、米澤先生も、唯円が辿った同じ道を辿られたと云うことであり、それはまた親鸞聖人が辿られ、またお釈迦様も含めて全ての先師方が辿られた茨の道ではないかと云うことであります。
そして、有難くも、忝くも、これからも法との戦いが延々と続くに違い無い私もまた、同じ道を歩ませて頂くに違いないと云うことであります。

引き続き次回、続きを書かせて頂きます。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1431  2015.01.18
ノーベル賞作家、大江健三郎氏の言い分ー「安倍さんに日本を任せる訳にはいかない!」

●無相庵のはしがき
昨年末の衆院選(12月14日)で自民党が圧勝してからの安倍首相や政権の言動、国を治める有り方や姿勢に不信感と危うさを感じて来ました。 沖縄の知事選で、自民党政権が進めようとしている普天間基地の辺野古移設に反対する新しい知事になって(12月10日)から、あからさまに、沖縄への予算を削ったり、知事との面談を未だに持たないとか、また、 衆院選で全4小選挙区での自民党敗北と云う沖縄県民の民意を無視する発言をしたり、沖縄を冷遇する安倍政権の有り方に、子供っぽささえ感じ、こんな政権、こんなリーダーに日本国を任せられないと思い始めていました。
そこへ、1月14日の神戸新聞に、ノーベル賞作家の大江健三郎氏が安倍首相に危機感を抱いて国民に訴える大事なメッセージが掲載されました。 これは是非紹介し、私たち国民がこの大江氏の批判を共有しなければならないと思い、コラムにさせて頂くことに致しました。

民主党政権(2009.9.16~2012.12.26)から自民党政権(2012.12.26~)になって、最も変わった事は政権与党の纏まり具合だと思われます。民社党政権では小沢さんが居た所為か、首相の力が弱かったように思います。 自民党政権では、大臣に重大な失言や不祥事等の問題が生じても政党内部であからさまに安倍さんを批判する動きや声は上がりません。おそらく、自民党の国会議員、地方議員、全国の党員サポーター、そして長老達も、安倍さんに自民党を導いて貰お うと云う意見で一致しているのだと思われます。自民党が安倍さんに自民党の命運を任せる事に私たち外部の者が文句を言う必要は有りません。しかし、安倍さんに私たち国民が、日本国を任せて良いかどうかに付いては、 国民はもっと真剣に考えなければならないと思います。
大江健三郎氏の「知性が健全であるためには『おまえは間違っている』と、常に批評する人が必要です。人間に、過ちを犯さない地盤があると考えることはできない」と云う発言はとても重いものがあると思います

戦後70年間、戦争で一人の命も失わず、また奪わずにも来た日本がこれからの70年も同じ国であり続ける為に、今こそ、日本国民ひとり一人が安倍さんに日本国の行末を託して良いものかどうかを考えねばならないと思い、 大江健三郎氏の見解のコラム化を決めました。

以下は、各項目【(1)~(4)の例えば、憲法改正等)】に続く〝―・・・・〟は、共同通信記者(上野敦氏)の質問、それに続く「  」内が大江氏の回答、と云う形で新聞記事から転載させて頂きました。 また、1月15日の神戸新聞に『安倍首相、改憲「自然なこと」(維新の協力にも期待)』という見出しの、これまた安倍首相が招く日本の危機を思わせる記事が掲載されましたので、合せて、紹介させて頂きたいと思います。

●大江健三郎氏へのインタビュー記事転載

(1) 憲法改正
―安倍晋三政権が〝信任〟された昨年末の総選挙をどう見ますか?

「安倍首相は昨年、集団的自衛権の行使容認を閣議決定だけで決めてしまった。明らかな国会軽視であり、民主主義に反することです。今年はこれを法制化していく。さらに憲法改正を言い出さないはずがない。 そうなれば国会の中でも外でも大いに討論されることを期待いたしますし、民主主義、平和主義を守るためには、今の憲法を持たなければいけないと私は言い続けます。もし日本がどこかで戦争に踏み出してしまったら・・・。 これほど大きな危機は曾(かつ)て無かった」

(2)時代の精神
―大江さんにとつて「戦後」とは、どのようなものですか?

「私は森に囲まれた四国の村で生まれ、終戦のときは10歳でした。それまでは国民学校で軍国主義的な教育を受けていた。2年後に新しい憲法が施行され、教育基本法も出来て、新制中学に通うことになった。 憲法13条の条文「すべて国民は、個人として尊重される」を先生が黒板に書いたことに強い印象を受けた。戦争に行かなくてもいい。質問すれば先生は答えてくれる。民主主義の時代というものはいいなあと思いました。 戦争が終わって10年ぐらいが戦後らしい時代。私にとっての『時代の精神』は『戦後の精神』です」

―安倍首相は「戦後レジーム(体制、制度、政治形態のこと)からの脱却」を掲げていますが、如何お考えになられますか?

「平和主義、民主主義を真っ直ぐに立てていたあの時代のことを、良くない時代だったと言っているわけです。大きな被害を受けた後、民主主義の原則にのっとった教育や社会精神をつくった。 日本が国際的に注目されている中心にあるのは、平和主義の憲法を持ち続けたことへの尊敬です。憲法を守り、平和だったこの70年がどれほど大きなことだったか」

―安倍首相の「積極的平和主義」という言葉をどう感じますか?

「安倍氏は言葉を自分流の意味で使い、それが正しい言葉として受け止められるように演出している。その例が『積極的平和主義』。いったん戦争が始まってしまえば積極的も消極的もない。平和主義か戦争主義のどちらかです」

(3)本質的なもの
―大江さんの最新の長編小説「晩年様式集(イン・レイト・スタイル)」で、大江さんの分身である主人公が「次の世代が生き延び得(う)る世界を残す、そのことを倫理的根拠としてやっていく積りです」と表明されていますが?

「作家ミラン・クンデラが評論の中で、人間が生きて行く上での一番人間らしい『本質的なもの』として『モラル』という言葉を使い、私は感銘を受けた。今この世界に生きていることが本質です。 次の世代が生きていけるように、この環境を渡すことが根本的なモラルなのです」

―近く、九州電力川内原発の再稼働が予定されていますが?

「福島からは多くの人が避難した。原発は『本質的なモラル』に反するものです。人間には核分裂を完全にコントロールする能力はない。安倍氏が汚染水の問題で『状況はコントロールされている』と言ったのは根本的な嘘(うそ)です」

―それは、東京五輪招致の場での表明でしたね・・・。

「あれは日本的な誇張法だといわれて、世界が日本のやることを信用しなくなる危機だと思います。日本人は間違った言葉の使い方で自己主張をする、本質的にモラルに欠ける人間だと・・・。 今後、いつどういう原発事故が起きるか、さらに日本が世界中の信頼を完全に失うのかという二重の危機にあります」

(4)健全であるために
―知性というものが危機を回避することに役立つでしょうか?

「いま、知性主義が軽んじられ、信用されなくなっているといわれています。ただ知性というのは本質的にもろいものを含んでいる。高い知性があるはずの人間が歴史上、広島や長崎への原爆投下をはじめ、大きな過ちを犯してきました。 知性が健全であるためには『おまえは間違っている』と、常に批評する人が必要です。人間に、過ちを犯さない地盤があると考えることはできない。知性は本質的に信用できないというところから始めなくてはいけないと思っています」

―希望を見い出すことは出来るでしょうか?

「今年、もし日本政府が方針を根本的に転換して、全ての原発の再稼働を断念し、長い時間をかけて破棄していくと決めることがあれば、僕が死ぬまでに感じる一番大きな喜びになる。 戦後70年で人間が行った最も悪い決定というのが原発。今年、日本人ができる大きな決断は、原発の再稼働をやめるということでしょう」

●神戸新聞記事―『安倍首相、改憲「自然なこと」(維新の協力にも期待)』の転載

安倍晋三首相は14日、関西テレビの番組に出演し、憲法改正に強い意欲を表明した。
「21世紀における日本の理想の姿を込めた新しい憲法を自らの手で書いていくべきだ。憲法を変えていくのは自然なことだ」と述べた。改憲に前向きな維新の党の協力に期待も示した。 昨年の衆院選期間中や投開票直後は国民理解の必要性を強調する発言が目立っていた。この日の発言は自民党が党是とする自主憲法制定を追及する姿勢を明確にした。現行憲法について「成立して70年近くになる。 占領下でできた経緯があり、日本人が自らの手でつくったとは言い難い。私たち自身の手で書いていく精神こそ、新しい時代を切り開くことにつながる」とも指摘した。

改憲の国会発議には、衆参両院でそれぞれ総議員の三分の二以上の賛成が必要となる。これを踏まえ、首相は「改憲は自民党一党や与党だけでできるものではない。維新の党やほかの党にも賛成してもらえれば、ありがたい」と語った。

環境権新設などが取り沙汰される憲法改正項目の絞り込みに関しては与野党の議論を見守る構えを見せた。 改憲に必要な国民投票の投票年齢を「20歳以上」から施行4年後に「18歳以上」へ引き下げる改正国民投票法が昨年6月に成立した経緯から「必要な手続きは整っている」とも訴えた。 首相は自民党が大量の議席を確保した衆院選直後の記者会見で「最も重要なのは過半数の国民の支持だ」と述べていた。

●無相庵のあとがき

昨年末の衆院選に自民党が掲げた選挙公約『日本再生には、この道しかありません』を是非ご覧下さい。雇用創出、女性が輝く社会、地方が主役、復興の加速等、 国民が喜びそうな公約が満載です。その中に、日米同盟の強化、2017年の4月から消費税10%への引き上げ、原発再稼働、法人税減税、憲法改正等、私たち一般庶民にしわ寄せが来るであろう公約を紛れ込ませています。 憲法改正などは一番末尾に書き添えている程度です。
そして、安倍さんは大勝した選挙後の記者会見で、「全ての公約が国民に信任された」と言い放ったのです。これ等は、どの政治家にも有り得ることで、許す事と致しましょう。

でも、決して許してならないのは、アメリカやイギリスに同調して、テロリスト集団との戦争に巻き込まれることです。
数日前にフランス・パリで起きたテロ事件は、イスラム教過激派が、預言者ムハンマド(私はマホメットと習いましたが・・・)を侮辱する風刺画を掲載した週刊誌を発行している「シャルリー・エブド」本社を狙ったものでしたが、それに対しまして、 西側諸国の大統領や首相等のトップ達は、「言論の自由を守らねばならない」「テロに屈しない」と声を揃え、抗議デモにも参加しています。
安倍首相も「言論の自由、報道の自由に対するテロを断じて許さない」とシャルリー・エブド社襲撃事件を非難するコメントを発表したとされます。 私はテロを容認する積りは決してありませんが、テロに屈しないと云うことは、テロリスト集団を武力で鎮圧すると云うことです。この姿勢では、人類から、世界から、永遠に戦争は無くなりません。

現実的では無いと言われる事を承知で申します。今こそ、大江健三郎氏の言われる人類の転換期です。G8等先進国が、弱者の言い分、後進国の言い分、テロリストの言い分、価値観の異なる相手の言い分を聞ける、 〝智慧のあるヒト〟ホモサピエンスの真価を発揮する転換期にしなければならない時ではないかと思うのです。その為に仏教国日本が果たすべき責任があると私は思うのです。その役割を果たしてくれるリーダーの出現を心待ちしたい思います。 大江さんが感銘を受けた『モラル』を果たすとは、〝いのち〟を後代に繋ぐ為に、この転換期に、為すべき事を為すことだと思います。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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