No.1390  2014.05.26
西谷啓治師の『宗教とは何か』(引用:Ⅲ―10)

★無相庵のはしがき
自分の現世利益を求める人は疑似宗教の勧誘に心が動くことでしょう。そして、疑似宗教教団をハシゴするのでしょう。世の中にはそう云う人達よりも「自分とは何か、どう云う存在か?」と自分を見詰め直す人の方が多いのではないかと思います。 そして、そう云う人達は本物の宗教を求めるのではないかと思います。でも、なかなか本物(宗教、思想、考え方、人物)に巡り会えないままこの世を去ると云うのが現実ではないかとも思います。
斯く言う私はどうかと申しますと、「本物に出会えないまま死にたくない!」と、もがいている最中と云うところです。でも、何となく親鸞の存在と生き様が頼りになりつつあります。

「自分とは何か、どう云う存在か?」と云う命題に行き当たった時、人は哲学書を読んだり仏教書を読んだり、法話を聴いたりして、「色々なお蔭様に依って生かされて生きている存在だ」と自覚出来るようになります。 でも、一方で、「でも、何かすっきりしない!」と云う気持ちが却って強くなるのではないかと思います。その何かすっきりしないのは、いずれは必ず消えて行く我が身だと云う根本不安があるからだと思います。
幾何学での〝点〟は大きさ、つまり面積が無いと定義されていますが、私たちも宇宙に存在はしていますが、幾何学の点みたいな存在であるところから来る不安は哲学でも心理学でも解決出来ないのではないかと考える宗教家が居ます。

多分、「我考う、故に我あり」と云う自覚に至ったデカルトも、もがき苦しんだ挙句の果てに、少し安堵を得たかも知れません。でも、それは、自力に頼った人間の限界を表わす言葉ではないかと西谷師は考えられたのだと思われます。それは、 今回の引用部で明確に述べられていることで分かります。西谷師はデカルトの「我考う、故に我あり」は中途半端な自覚だ、浅い自覚だと考察されているように私は感じましたが、未だこの先に続くご考察でどうなるのでしょうか・・・。
そして、西谷師は、どのように根本不安と向き合われたのでしょうか。知りたいものです。

★引用部
デカルトが、自分に現前しているあらゆる事物は夢であるかも知れない、魔の仕業によるものかもしれない、と疑えば疑えるものとし、然もかく疑うというそのことのみは疑えないとして、 「我考う、故に我あり」に達した時、その疑いは初めから方法としての疑いという性格のものであった。それは大疑現前とは根本的に違っていた。自己と事物一切とが根底から一個の疑いに化し、 その疑いが自己や事物の根底的リアリティとして自己に現前し、自己自身がその実現になり、そういう仕方で自己と事物一切の根底的な疑わしさを自覚する(或は体認する)と云うような疑いではなかった。

同時にまた、デカルトの「我考う」は、まだ自我自身が事物一切と共に一個の大なる疑に化すという煉火を通っていない。「我考う」は単に我考うの場で考えられている。そのために、 そう云う「自我」の実在性は実は却って、実在性のままで、非実在に化さねばならぬ。そしてその煉火を通過した後に初めて、つまり、根底的に現前する虚無を更に突破して初めて、 「我考う」とか、「我あり」とかの実在性は、事物一切の実在性と相共に、真に実在的に現れ得る。

即ちその実在性が実現且つ体認され得るのである。デカルト哲学が近世的人間のあり方を最もよく表現したものであるとすれば、そこに近世的自我のあり方そのものに潜む問題性もあるといえるであろう。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1389  2014.05.23
仏の世界と娑婆世界の決定的な違いに付いて

中国が日本をGDPで追い越した2010年あたりから、私たちの人間世界は第2次世界大戦以来の大きな戦争勃発が現実味を佩(お)び始めたように思います。私がそう感じる現実味は我が国の隣国4ヶ国で、 2011/12に金正恩、2012/05にプーチン、2013/02に朴槿惠(パク・クネ)、2013/03に習近平が相次いで国家を率い出した事と無関係では無いように思います。

上記4か国の指導者は、揃いも揃って挑発的、攻撃的、排他的な人物です。これは共産主義国家(韓国は違いますが)を選択した民族の性癖と無関係ではないように思いますが、我が大和民族が『謙譲の美徳』を伝統的に大切にする性癖とは余りにもかけ離れており、 首脳外交がなかなか上手く行かない一因かと考えたりします。

しかし、私たち人間社会の歴史を振り返りますと、対立・争いの無い時代は無かったと言って良いでしょう。恐らく、他の動物とは桁外れに発達した頭脳を持ち始めたヒト(ホモサピエンス)と分類される6~7百万年前から始まっているのだと思います。 そして、それは先ず、お隣同士の喧嘩に始まり、そして集落同士の争い、民族間の争い、異宗教同士の争い、国家間の戦争へ、そして世界大戦へと規模と犠牲者数を拡大させながら延々と現代に至っているのではないかと考えます。 この状態にある人間社会を仏教は娑婆(しゃば)世界と名付けています。

このように人間社会が対立と争いの絶えないものになってしまった真因は、妥協と云う言葉は知っていても、他者よりも自分が正しいと信じ込んで妥協する努力をせず、自分さえ良ければそれで良いとするヒト科動物の根本煩悩である自己中心性に在るのだと 考えています。

考えて見ますと、ラテン語のHomo sapiens(ホモ・サピエンス)とは「知恵のある人」と云う意味だそうですが、そもそも知恵は仏の智慧と異なり、自身の心から生じるものですから、自己中心性を免れ得ないと云うことかも知れません。
と云うことになりますと、人類の未来に希望が持てなくなりますが、やはり、これは仏の智慧で人類の未来を切り開かねばならないと考えます。仏の智慧とは、真実を大切にすることです。平等、対等の関係を重んじる心で平和な社会を実現することです。

それには、自らの心の奥底に巣食う自己中心の煩悩に目覚めることしかないと考えます。私は、上述で隣国の指導者達を批判しましたが、その批判を自分にも向けることです。むしろお互いに批判し合うのではなしに、 お互いにその批判を自分にも向け合う関係に成らなければ、永遠に平和な人間社会は来ないでしょう。

これは、国家関係も、企業関係も、労使関係も、夫婦、親子、親族、近隣の個人の関係でも同じだと思います。
ただ、対立や争いが起きないようにする為に大切な事は、対立や争いの全ての原因が自分に在ると思えと云うことでは無いと思います。「自分が変わらねば相手は変わらない」と古来から言われて来ましたが、それも見直す必要があると思います。
聖徳太子が十七条憲法の第十条で仰っている言葉、『共是凡夫耳(共に是、凡夫のみ)』、つまり、「お互いに沢山の欲を持って、しかも貪欲、そして何が正しくて本当のことかも知らない愚かな者同士ではないか」と云うことにお互いが気付くことが 大切だと云う事です。

私たちは相手から少しでも批判されるような事を言われますと、その時点で反発心しか起きず、相手の言い分を聞いていても、私の心に届かないのが普通です。逆もまた同じです。そうなれば、ドンドンお互いの心は離れ、 やがて修復不可能な深い溝を挟んだ関係に陥り、極端には心身を傷付け合い、殺し合いにまで至っているのが、現実の社会だと思います。

相田みつをさんが、「人間は感動する、つまり、感情で動く、決して理動しない、つまり冷静な理性で動くことは無い。」と仰いました。それも忘れてはならないと思います。対立と争いの人間社会は一気に直ることはないでしょう。 それで諦めることなく、地道に『共是凡夫耳(共に是、凡夫のみ)』の根本に在るお釈迦様の智慧を実践努力することだと思います。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1388  2014.05.19
人災ならざる事故・災害は無し

セウォル号の沈没事故から1ヶ月余り、人災だとして、船長以下乗組員達、船会社経営幹部、実質オーナー一族の取り調べが本格化しています。いずれ船会社を管轄する行政機関、 更には大統領(政府)の責任追及へと事故の再発防止問題は拡がっていくのではないかと思われます。韓国のズサンさを日本のマスコミが上から目線で報じていますが、 人命が大量に失われる大事故も地震や豪雨などの自然災害は同じく人災として日本は他人事で済ませてはならないと考えます。

韓国では、セウォル号沈没事故の死者数が「交通事故で死ぬ人の数を考えれば多くない」と発言したとして、犠牲者遺族から抗議を受けたKBSの報道局長が辞任すると云うニュースが流れたようですが、 不適切なタイミングの不適切な発言だとは思いますが、船舶事故も交通事故も人災だと云う考え方が真意ならば、一考を要するのではないかと私は思いました。

人類は、お金儲け、スピードアップ、効率向上を第一として突き進んで現在に至っています。交通事故は、高速道路を一切撤去するとか、スピードを時速10km以下に規制すれば死者数は限りなくゼロに近付くでしょう。 一つの命も交通事故で失ってはならないなら、自動車をこの世から無くすことです。また、飛行機事故は滅多に起こりませんが、起きれば必ず多くの人命が失われます。一人の命も落としてはならないと云うことならば飛行機を飛ばさないことです。

人類は暗黙の裡(うち)に多少の犠牲者が出ても致し方ないと云う前提で国家を運営し発展して来たことを私たちは率直に認めねばなりません。お金儲け、スピードアップ、効率向上は、人間の煩悩から生じていることですから、 これからもそれは是正される事は極めて難しいと云うのが現実ではありましょうが、全ての災いは煩悩から生じていることに世界の識者、大国のリーダー達が目覚めて、舵を大きく切り直さないと人類は沈没しか待っていないのではないかと思います。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1387  2014.05.16
高校の古希記念同窓会がありました。

昨日は高校の古希記念同窓会(於、ホテルオークラ神戸)でした。昼からでしたので、朝からバタバタしてしまい、木曜コラムさぼってしまい、まことに申し訳ございませんでした。
同窓会は、同じ学年だった414名の中、物故者が約1割の44名、住所不明者が32名で、同窓会参加者は104名でした。前回は3年前、88名でしたから、やはり古希記念と云うことで、少し参加が増えたのではないかと思います。

我が兵庫県立長田高校は1921年に第三神戸中学校としてスタートし、1948年に長田高校になり、私たちは15回生です。15回生ですから、5月15日と云う日を選んだようです。因みに、今年の入学生達は66回生。 私たちは卒業してから51年になりました。私たちの時は、兵庫県の県立高校ではトップクラスの進学校ではありましたが、村上春樹氏(私よりも4歳下)が卒業した神戸高校と兵庫高校の後塵を拝していました。 しかし現在は1番手に出世し、神戸大学、大阪大学への進学者数は全国第一位になっているらしいです。また、スポーツではロンドンオリンピックのマラソンに出場した山本亮君(55回生では?)も卒業生ですが、母校が名を挙げてくれると嬉しいものです。

母校自慢はこれ位にさせて頂きます。
丁度この日、安倍首相は集団的自衛権行使の限定容認に向けて記者会見して、憲法解釈変更の基本的方向性を表明し、政府・与党に検討を指示したと云うことです。しかし、限定容認と云うことは、 今後も限定の枠が広がると云うことになるのではないでしょうか。

もし朝鮮半島で南北の戦争が生じたら、韓国の同盟国のアメリカ軍は当然参加します。日本に在るアメリカ基地も含まれる戦争になります。その時、日本は静観出来るでしょうか?周辺の情勢が変わったと云うことで、 日本も参戦することにならざるを得ないでしょう。
結局日本は自国の意思を持った国家ではなく、自国国民の生命と財産の安全・安心を先ず第一にする国家ではなく、アメリカの意思を尊重する事が第一の国になっているのではないでしょうか。

集団的自衛権は、本来は核保有した国連の5大常任理事国以外の弱小国に認められるべき自衛権であり、5大常任理事国の国を守る為の集団的自衛権であってはならないと思います。日本がアメリカを守る能力も無いし必要も無いと云うのが、 そもそも日本国憲法制定時のアメリカと日本両国で合意していた考え方ではなかったかと思います。
その為に、アメリカに基地を提供し、駐留経費を一部肩代わりして来たはずではなかったかとも思います。日本国民は、この際、自立した国家を目指す意思を示さねばならないと思います。世界平和の為にはアメリカに利用されるよりも、 アメリカを利用しなければならないと思います。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1386  2014.05.12
西谷啓治師の『宗教とは何か』(引用:Ⅲ―9)

★無相庵のはしがき
『実在』、『虚無』、『無化』、『疑』と、非日常の熟語に接していますと、ともすれば、無意味な言葉の堂々巡りになってしまい、結局何を求めているのか分からなくなってしまいます。
「自己とは何か?」と云う『疑い』を持つと云うことは、人に生れてこその目覚めであり、尊いことである事は間違いないと考えますが、忘れてはならないことは、今、こうして生きている自分は、 あらゆる『お蔭』に依って存在している現実だと思います。あらゆるお蔭と云うことは、空間的には宇宙全体、この世全体に在るもの一切のお蔭と云うことと、宇宙と地球と生命そして人類の歴史のお蔭と云うことであります。 こうして、無相庵コラムを書けているのは、人類が何代にも亘って言葉を作り出してくれたお蔭です。言葉が無かったら、何も考えられません。
考察すると云うことは、言葉が無ければ成立しません。当たり前の事が当たり前でなくなることが、日常を生きる私たちには哲学以上に大切なことではないかとも思うのです。

★引用部
「大」といったのは、自己意識の孤立的な自己ではなく、事物一切の存在と相共にだからであり、従ってまた意識としての疑いではなく、自己と事物一切の根底から自己に現前するような、リアルな「疑」だからである。 その「疑」は、自己と世界との一つなる根底である處から、一つのリアリティとして現れる。それが現れる時は、自己の意識や恣意では如何とも出来ない必然性の性格をもって自己に現れて来る。そしてその自己への現前によって、 自己が実在的に「疑」そのものになる。リアリティたる疑のリアリゼーションになる。それが大疑現前と云うことである。

そしてそう云う仕方で、自己と事物一切の根底にある疑わしさが自己に体認されるのである。それは自己が疑うことともいえるが、「自己」が疑うのではない。仏教的にいえば、「三昧」としての疑である。勿論そういう事態が純粋な、 徹底した形で現れると云う場合は、少ないかも知れない。併し自己がなにかに付いて疑うと云う疑いが自己自身へ反射して来る場合、例えば自分が正しいものとして信奉して来た思想や生き方に疑惑を感じ出すとか、 愛人の誠意が疑わしくなるとかして、不安や苦悩に取憑かれたような場合、自分が或るものを疑うと云うことは、自己とそのものとを相共に根底的に一括したような「疑」、その疑の自己に於けるリアルな現前と云う状況に移って行く。

疑いが何等かの程度で実在的に真剣なもの、自己にリアルなものである場合には、その程度に於いて何時も大疑現前と云う意味が含まれて来るのである。また、そのように疑いが自己にリアルなものとなり、 リアリティとして自己に現前すると云う、そういう方向をあくまでリアルに押し進めて行くところに、宗教的な生き方の独自性、宗教と哲学との根本的な相違もあると思う。 哲学的な懐疑に於いて疑いがそう云うリアルなものとして現前して来ることがあっても、哲学は、そこから理論的反省に移り、理論の領域で問題の解明と解決を探求して行くからである。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1385  2014.05.08
集団的自衛権問題に付いて

ゴールデンウイーク中も含めて連日集団的自衛権が新聞紙上を賑わしています。これまで、国連憲章に依って集団的自衛権は保有しているが、日本国憲法9条に依り、その行使は認められていないとされて来ました。 しかし、安倍内閣は、歴代内閣の憲法9条の解釈を変更して集団的自衛権の行使を認めようとしているので、与野党間、識者間等で賛否両論が渦巻いている訳です。

集団的自衛権の行使云々に付いての賛否は別として、私は、国家に取って一番大事な国民の生命と財産の安全と安心に関わる事柄を、一人の総理大臣の発案とその時の政府与党だけの解釈に依り変更出来るとすることには問題があると思っています。
政府与党の中にも賛否両論があるようですが、安倍首相は、「日本を取り巻く東アジアに於ける安全保障上の環境が大きく変化しており、個別的自衛権だけでは国民の生命と財産を守れなくなっている」事を一番の理由にしています。そしてまた、「同盟国アメリカとの集団的自衛権を保有している我が国が、同盟国アメリカが危機に遭遇した際に我が国が何も役に立てないと云うことではアメリカの理解を得られない。そう云う意味でも同盟力を強化する必要がある。」とも考えているようです。

こう云う安倍首相の考え方を同盟関係の前提条件とか、そもそもの日本国憲法制定の経緯とか考え方などの事情を何も知らずに聴けば、国民の中には尤もな考え方だとする人も多いと思いますが、我が国が軍隊を保有しない代わりに、 アメリカに基地を提供し、そのアメリカ軍の運営費を国民の税金から毎年6000億円超(計上する項目に依るらしい)とも言われる負担をしていることを考えると、 アメリカは我が国を守ることに異を唱えるべきものではないと云う国民も少なからず居るのではないでしょうか。
そう云う意味で、賛否両論が在る限り、国民投票を経て、憲法を改正するかどうかを決めるべきだと私は考えます。

参考までに、憲法9条を引用致します。

1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

私の集団的自衛権に関する現時点での考え方は、下記に引用する改憲派の櫻井よしこさんと金 美齢さんに極めて近いです。或る法律学者が、自衛権は個人の正当防衛権と同一に捉えたら良いと云う見解を述べていた事に共感しており、 先ずは正当防衛権たる個別的自衛権を高める事が出来るように改憲すべきだと私は考えています。

櫻井よしこさんの見解
『「護憲派には国際社会を見る目が欠落している。戦後体制は180度変わった。私たちは戦後最大の危機にある。」と安全保障環境の悪化を挙げ、憲法を改正して防衛力を高めるべきだと主張した。』

金 美齢さんの見解
『「日本人は国際社会の信頼もあるのに、いまだ自虐史観にとらわれている。それは憲法が〝自家製〟でなく、敗戦後に〝二度と悪さをしないように〟と与えられたものだからだ」と改憲の必要性を訴えた。』


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No.1384  2014.05.05
西谷啓治師の『宗教とは何か』(引用:Ⅲ―8)

★無相庵のはしがき
今年の連休も今日と明日となりました。故郷帰りした人達も、旅行に出かけた人々も非日常から日常生活の場の我が家へ向います。我が家に帰り、 サラリーマンはいよいよ仕事かと重たい気持ちとやはり我が家は落ち着くなと云う気持ちがハーフ・ハーフではないでしょうか。私のサラリーマン時代にはそんな感じでした。

連休中は皆さまも仏法どころではない、哲学どころではないと想像しますので、難解な哲学文章をお届けするのは如何かと考えましたが、続きものですので、少し進めておきたいと云うところです。
前回、前々回あたりから読み直して頂きませんとさっぱり今回の内容をご理解頂けないと考えますが、この辺りの内容は、存在とは何か、自分とは何かを考察しつつも、 自己中心が根底にある人間の頭で考えだした結論は宜しく無いと云うことを西谷師は言いたいのではないかと思います。

文章の中に、『虚無』とか『無化』と云う熟語が出て来ますが、これはやはり、仏教の『無常』と云う考え方に行き着くと言いますか、『無常』故に『虚無』とか『無化』と云う考え方が出て来るのではないかと私は思っています。 ただ、宇宙一切のものの『無常』は難なく受け容れられますが、誰しも自分の『無常』を認めらないと私は思います。でも、頭では認められないのですが、現実的には刻々の無常を受け容れつつ生きている、私は矛盾の存在なんだなぁーと思うことです。

★引用部
そう云うような虚無の現前は、単に一つの意識現象と云うものではない。また一つの特別な心理現象と云うものでもない。自己と世界の事物一切の根底に実際に潜むもののリアルな現前である。意識の場ではそれは蔽い隠され、リアルには現前し得ない。 然もそれが現前する時、意識の場で外的実在、内的実在とされていたものが、いわばその実在性のままで非実在的となる(無くなるのではないが「無化」される)。

即ち自己の存在と事物一切の存在とが相共に一個の疑問符に化し、一つの問題に化する。そしてそのことが、単に「内」として自らのうちに閉じた、自執的な自己意識の自明性よりも、一層根源的な主体的自覚である。それは実存としてのみ現成する。 それは総じて心理学が捉え得るものの彼岸(或はむしろ一層此岸)である。

そのように自己意識の場を突破し、存在だけの場を踏み越えた虚無の場に於いて、つまり「内」「外」の区別の彼方(或は一層此方)で、自己と事物一切の存在が、一括して一個の疑問符に化すると云う場合、それは自己が疑うこととも言えるが、 併し通常、自己が何ものかについて(即ち或る客観的な事柄について)疑うと云う、意識としての疑いの場合とは、根本的に別である。

ここでは、自己と事物一切の根底にリアルに潜む虚無がリアルに自己に現前し、その現前に於いて自己と自己の存在そのものが事物一切の存在と共に、一個の疑問符に化するのである。疑うものと疑われるものが別々なのではなくして、 その区別の場を踏み越えたところで自己が大なる「疑」そのものになる、と言うべきである。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1383  2014.05.01
褒めて育て合おう!

4月26日(土)のNHK・eテレ番組『SWITCHインタビュー 達人達』で、歌手・石川さゆりさんと日本画家・千住博さんの対談を視聴しました(お二人は共に昭和33年1月生まれの56歳)。 私は千住博さんをこの番組で初めて知ると云う絵画芸術には極めて疎い人間ですが、滝を題材にした彼の斬新な技法に依る日本画は世界的にも有名だそうです。その作品を拝見して、素人の私が「これは凄い!」と思う程のものでした。

お二人の対談内容の中で非常に印象に残ったのが、千住さんの母親が3人の子供を兎に角褒めて育てたと云う話です。千住さんには作曲家の弟・明さんとバイオリニストの妹・真理子さんが居るそうです。 それぞれ子供の時から、博氏は絵を描くのが好き、明さんは楽器いじりが好き、真理子さんは2歳からバイオリンを習い出したそうですが、母親は夫々の出来栄えを確認する度に「すごい!」と褒めてくれたそうです。
父親も母親も工学研究者と云う血の為せる業とも言えると思いますが、褒められて調子に乗り、もっと褒めて貰おうと3兄妹は一生懸命になり、夫々の道を究めたと云うことでしょう。

対談相手の石川さゆりさんも、お母さんが石川さゆりさんの歌のファンで、『津軽海峡冬景色』に出遇うまでの、なかなかヒット曲に恵まれない5年間「絹代ちゃん(本名)の歌の良さが何故皆分からないのやろうか?」と褒め続け、 支え続けてくれたそうです。

これまでも、「褒めて育てる」と云う子育て方法は能く説かれて来ましたので、珍しいことでは有りません。でも、なかなか難しいことです。殆どの母親は、叱って育て、否定して育てていると云うのが現実ではないでしょうか? 子供に努力させようと思えば、親自身も諦めずに褒める努力をしければいけませんね。

千住博さんと石川さゆりさんの対談を視聴して私は、子育ての事も然ることながら、前回コラムで紹介した、昨今増え続けている離婚、シングルマザー問題を抑制する為にも、夫婦間でお互いが褒め合い、褒めてお互いを育て合う関係構築に努力することが大切ではないかと考えました。 勿論、親子間、夫婦間だけでなく、職場でも、ビジネスの上でも、心掛けたいものです。

ただ、褒めるのは、むやみにではなく、本当にその相手の一番優れた点に絞って褒めることが大事だと思います。また、叱ることも大事でしょうが、そう云う場面はスルーして叱らず、褒める事に徹底すれば、叱るべき点も自然と是正されるのかも知れません。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま

追記:
今朝の神戸新聞の〝正平調〟に、やはり褒めることの効用を記した内容がありました。 『休み時間、担任の弾くオルガンに合せて、クラスの友達と歌った。すると先生がこう言った。「佐渡君は音楽得意なんやね」。「佐渡君」とは兵庫県立芸術文化センター芸術監督を務める佐渡裕さんのことだ。ご本人の弁をそのまま書けば、 「体が大きいだけで勉強ができるわけでもなかった」小学3年生にとって、この一言が音楽の道へ進むきっかけになったそうだ』


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No.1382  2014.04.28
西谷啓治師の『宗教とは何か』(引用:Ⅲ―7)

★無相庵のはしがき
今年ももう早や4月末、ゴールデンウィークが始まっている人々も居る。新神戸駅近くに住む私の長女とその子供二人(小4男児、小2女児)も、先週の金曜夕方から明日火曜日まで、4泊5日神奈川県川崎市の友人宅に逗留中である。 東京タワー、ディズニーランド、横浜観光と関東満喫中である。家計に余裕が無いととても出来たものでは無い。もっと上も居る、海外リゾート満喫する裕福な家族も約50万人(因みに国内旅行は2千万人)も居るらしい。

そう云う景気のいい話題の一方で、昨夜のテレビ番組『NHKスペシャルー緊急ルポ貧困連鎖社会▽女性たちを襲う危機、一日一食▽出稼ぎ少女の夢』を視聴した。
現在、シングルマザーは120万人を超えるらしい。そして、その年収120万円以下が半数近くに迫っていると言う。番組では東京の同じインターネットカフェの3室(一室一畳月額6万円)に寝泊まりする母子3人の生活状況と、 病弱なシングルマザーに代わって家事と朝五時からのコンビニ勤めと夜のバイト稼ぎで妹を含む家族を支えながらも保育士資格取得に希望を持つ19歳の女性と、愛媛から学費を稼ぎに来ている女子大生(母親は愛媛で二つのバイトを掛け持ちしてギリギリの生活)の状況を紹介していたが、朝早くから夜遅くまで働きながら、 それでも保育士の資格を取ろうと専門学校に通い出した19歳の女性の「明日のご飯の心配をしなくてもよい普通の生活が理想だ」と云う言葉と、保育士の資格 を取っても経済的には苦しい人々が居る現実を思う時、 アメリカ大統領を銀座の高級寿司店で〝おもてなし〟しながら数万円の寿司を摘まむ安倍さんの顔が浮かび、日本の現実である貧困連鎖社会ぶりに暗~い気持ちになった。そして。

今日はまた小難しい哲学の勉強なのであるが、貧困連鎖社会を思う時、哲学なんて贅沢な老人の暇潰しではないかと云う想いを正直なところ抱いたのである。だがしかし、我が家の経済状況も現実は一歩間違えれば、 否、間違い無く有り得ることなのだが、私が死ぬと妻は路頭に迷うかも知れない不安を妻は切実に、私も常に抱いている。一寸先は闇であると云う現実は、私たち夫婦はシングルマザー家庭と五十歩百歩なのだと思うのである。 また、誰しもシングルマザー家庭と五十歩百歩なのだと思うべきなのである。そして、やはり、食べる為に生きているのではなく、生きる為に食べる生活をし、何のために生きているかが頭を過(よぎ)る人間でありたいと思い直したところである。

今回の引用:Ⅲー7は難しいです。文章自体も難しいし、理解は更に難しいと思います。哲学を専門に勉強している方は何とか理解出来るのかも知れませんが、自分が存在しているとして、 毎日自分中心に社会生活を送っている者には極めて難解であります。 ただ、「その虚無が開かれると云うことが、一つの根源的な主体的自覚なのである。」と云うところは、全てを虚無と実感する体験が無ければ理解不可能だと思いますが、私の素人考えですが、無常だから虚無だと云うことではないかと。 つまり、無常な存在である私が、これまた無常である周りの存在や現象を「これこれはこうだ」と認識しても意味が無い、全ては虚無だと云うことではないかと考えてみたのです。 無常を感じる、または観じると云う事は禅の悟りのようなもので、悟らないと禅の悟りが分からないと云う事と同じではないかと私は思います。西谷師は、デカルトの自覚は、その無常即ち虚無に至ることなく、「我考う、故に我あり」と自覚したのは真の自覚では無いと言いたいのかも知れないと思いました。

★引用部
前にも言ったように、死とか虚無とかは、自己自身のうちに自己の生成は存在の根底をなすものとして自覚される。然も単に主観的なものとしてではなくて、あらゆる存在物の根底に潜むもの、世界そのものの根底に潜むもの、 その意味でリアルなものとして自覚される。その際それは単にそう云うものとして眺められ観想されるだけでなくして、自己が自己自身の存在を、その存在の根底にある虚無から、つまり自己存在の最後の限界線から自覚するということである。 その限りでは虚無の自覚は自己自身の自覚にほかならない。

つまり虚無というものを客観的に見るとか表象するとかではなくして、いわば自己自身が虚無そのものになりきると云うことであり、そのことが自己の存在の限界からの自覚なのである。この自覚は自己意識ではなく、 寧ろ意識―自意識の場の突破である。意識の場は、自己という存在と事物と云う存在との係わりの場であり、要するに存在だけの場、存在の根底にある虚無が蔽い隠されている場である。 そこでは、自己も、主体でありながらなお自己意識的に自己として表象される。即ち一種の客観化を受け、「存在」として捉えられる。

併しその意識の場、存在だけの場を破って、その根底なる虚無に立つ時、自己は初めて客体化を受けぬ主体性に達し得る。それは自己意識よりも一層根源的な自覚である。主体的に虚無に立つことは、自己が一層根源的に自己自身となることである。 そのことに於いて、自己自身の存在が事物一切の存在と一つに「無化」される。無化といっても勿論無くなると云うことではなくて、存在するものの根底に虚無が現れること、つまり、 意識の場、「内」と「外」との離隔的な係わりの場が主体的に踏み越えられて、「内」と「外」との根底に一つの虚無が開かれると云うことである。
然もその虚無が開かれると云うことが、一つの根源的な主体的自覚なのである。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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No.1381  2014.04.24
他人の所為にするな

韓国で起きた大型客船沈没事故は未だ150数名の行方不明者の捜索中です。一方、事故の原因、責任を追及する報道が過熱しています。
そして、色々な事実も明らかになってきております。朴槿恵(パク・クネ)大統領が船長以下乗組員を殺人に値する行為だと断罪したり、船会社の資産家オーナーの安全より利益を優先する経営姿勢が新たに問題視され出したり、 韓国は経済発展して来たが、今回の事故で、実は三流国家だったんだと云う国民の声も聞こえて来ている始末です。

何か大きな事故や事件が起こると、韓国だけでなくどの国でも、国全体の砂上楼閣っぷりが露呈してしまうものですが、それが人間社会の実態ではなかろうかと思ったりします。
昨日、軍事問題を始め政治問題などに詳しく、独特の評論をテレビの報道番組で発信している青山繁晴氏が、「他人の所為にするな!」と云うキャッチコピーで、韓国の客船事故や外交問題を評論していましたが、 人間は誰でも、何か問題が発生しますと他人を含めて、他の所為にするものです。明らかに自分が悪い場合でも、瞬間的に言い訳が口を衝いて出たり、他に原因を求めるのがオチです。

仏法では、そう云う人間の言動を、私たちの心の実態である自己愛に依るものだと考えます。誰よりも自分が可愛いと云う心です。そう言われてしまいますと返す言葉は有りません。
浄土真宗の仏法ではその自己愛とか自我、煩悩は無くならないと考えます。でも、だからと言って、他人の所為にしてしまう心は治らないと言ってしまうことは問題だと私は思っていますが、そう云う事を含めて、 「煩悩は無くならない。他人の所為にしても致し方ない」と説いている訳では無いと考えます。

それでは、それはどう云う事なのかと考察しますと、仏法の教えに依って、自分を本当に愛すると云う事、つまり自分の人間としての〝いのち〟を大切にする事と、仏法が問題にする自己愛とは同じ愛は愛でも次元が異なる愛ではないかと考えます。 つまり、仏法の教えに依って愛が変質するのではないかと考えます。 煩悩を生み出す自己愛は、自分を苦しめ悩ましますが、自分の人間としての〝いのち〟を大切にする〝自己愛〟は、自分以外のものへの愛にも満ちているはずでありますから、苦悩とは縁の無い人生を齎すのだと考えます。

韓国の大型客船事故で、アルバイトの女性乗組員が、乗客の高校生達に自分のライフジャケットも脱いでまでも居合わせた全員にライフジャケットを配って船を出なさいと指示し、心配する高校生達に 「自分は後で行くから」と言って他の乗客のところへ走り去り、結局は帰らぬ人になったと云う報道がありました。片や、乗客よりも早く船から脱出した船長も居ます。亡くなった彼女を韓国では、 船長よりも船長らしい女性乗組員だと賛美されていると云うことです。
彼女は〝いのち〟を失いましたが、人間としての尊い人生を失いませんでした。一方、船長は〝いのち〟を失わなかったが、人生(人としての生命)を失ったのではないかと思います。

乗客を見殺しにして生還した船長始め十数名の乗組員達も船会社のオーナを含む組織そのものが何か問題が起こったら全て他人の所為にする体質ではなかったかと思いますが、 亡くなったアルバイト女性は他人の所為にして生きて来なかったんだろうと想像しています。

『他人の所為にするな!』これは他人事ではなく私自身の生き方を総点検する必要があると思う次第であります。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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