No.1380 2014.04.21
嘘吐き(うそつき)は娑婆の始まり人間以外の動物は多分嘘を吐かないと思います。私たちは残念ながら嘘を吐かないでこの世を生き切ることは出来ないのではないでしょうか。「私はこれまで嘘を吐いたことは有りません」と言う人が居たら、 それは嘘だと言っても決して過言では無いと思います。
嘘には善意の嘘と悪意の嘘があり、そして更には悪意では無い嘘もあると私は考えます。「私は悪意の嘘を吐いたことは有りません」と言える人は少なからず居ると思います。殆どの人は善意の嘘か悪意の無い嘘を一日に数回は吐いているのではないでしょうか。
今回の韓国の海で沈没した大型客船の船長は、報道に嘘が無い限り、幾つもの悪意の嘘を吐いているのではないかと思われます。また、先週までマスコミを賑わして来た小保方さんのSTAP細胞問題では、 研究に何らかの役割で携わって来た理研の組織自体と、小保方さんの上司達の中の誰かが大きな嘘を吐いているのではないかと考えるべきでしょう(勿論現時点では小保方さん自身も完全に疑いが晴れている訳では無いと考えるべきでしょう)。
小保方さんに嘘があるとしたら、私は悪意のない嘘です。世間一般に分かり易い表現をすると、故意ではない嘘と言うべきでしょう。
悪意がある嘘と云うのは、自分の損得のみを勘定し、自分が得になるように吐く嘘と、自分の損にならないように吐く嘘だと私は考えます。小保方さんは、STAP細胞が無いのに有ると言っても結果的には自分の得にはなりません。 むしろ、嘘がばれたら人格を疑われて、研究者としての人生は成り立たず、結果として取り返しのつかない損をすることになりますから、小保方さんに悪意があるはずが無いと私は思うので、小保方さんに悪意は無かったとおもうのです。
一方、理研の野依理事長を含む小保方さんの全ての上司達、そして小保方さんに捏造と改ざんの研究不正があったと断罪した調査委員会の面々達の場合は、小保方さんを納得させ得る小保方さんの悪意の証拠を示せなかったことから、 寧ろ理研サイドに何らかの悪意があったと考えるのが妥当だと思います。理研側は否定していますが、国からの研究費予算を大幅にアップして貰うには、小保方さんの論文の過誤が、小保方さん単独の研究不正であって、 組織としての管理責任は無いと云うことにしたい悪意があったと考えるのが妥当ではないかと思います。
韓国の大型客船の船長の場合は、船長と云う身分を隠して一般乗客と名乗って乗客よりも早く船から脱出した訳ですから、「乗客は死んでも、自分さえ助かればいい」と云う悪意のある嘘を吐いたことは明らかです。
私たちの日常生活・社会生活では、悪意のある嘘を吐く人にも、悪意の無い嘘を吐く人にも実は毎日のように遭遇しています。反対に、善意の嘘を吐いてくれる人には残念ながらなかなか会えません。 善意の嘘は、嘘も方便と云われる仏様の慈悲にも似た嘘を吐いて幸せを心から願ってくれるお母さん、お父さんだけのものではないかと思います。
私は今ビジネス上で、悪意のある嘘を吐く経営トップに遭遇しています。多分、本人は悪意だとは思っていないと思っています。多分、ビジネスとはそう云うものだと云う感覚の持ち主ではないかと推測しています。 その相手に動かぬ証拠を突き付けることは簡単な状況にあります。そうすれば、ビジネスは表面的には次のステップに進むと考えていますが、しかし、そうする事で、その経営トップは失脚することは間違いありません。 でも、そんな事をしてビジネスを進めることが自他共の幸せを招くとは今は思えません。少し時間は掛かりますが、よく野球のピッチャーの投球に譬えられる『直球勝負』よりも『変化球勝負』をすべきではないかと、 今、どんな変化球が有効で且つ相手を凡打に終わらせられるか、知恵を絞っているところであります。
私のこれまでの人生では悉く『直球勝負』を挑んで来たように述懐しています。その『直球勝負』の結果に付いて全てを後悔している訳では有りませんが、今回は少し違う勝負球を投げて見たい気持ちになっています。結果は、 また数か月してお知らせさせて頂けると思っています。
今日の表題は、お互いの嘘が私たちの日常生活・社会生活を悩ましいものにし合っているような気がしましたので、『嘘吐き(うそつき)は娑婆の始まり』とした次第です。
帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま
No.1379 2014.04.17
社会の中の自己と宇宙の中の自己大峯顕師の『宗教の本質を問う』と云う文章の中に、下記に引用する表題のコラムがあります。
私たち人間は誰でも根本的不安を抱えています。何れはこの世から間違いなく消えると云う自分の運命を本能的に知っているからです。でも、意識的にか無意識的にか目の前の社会生活・日常生活で起こる変化や問題に取り紛れて、 根本不安が一番の問題になることは滅多に無いと云うのが人間存在の現実の姿ではないかと思います。宗教を求める人の中には、人生の幸せ、つまり現世利益をのみ求める人が大半だと思われますが、宗教の本質は、自己の現実に目覚めた人、つまり根本不安を抱いた人に解決の道を与えるものだと思うのです。 大峯顕師もそう云うお考えだと思います。
引用文:
人間はもちろん、社会や歴史の中に生きている。しかし、そういう社会や歴史もやはり無限な宇宙の中にあるわけである。それゆえ、人間存在は社会や歴史の中にあると同時に宇宙の中にある。人間存在は社会的・歴史的であるとともに宇宙的である。 しかし、社会的・歴史的存在としての人間のいとなみ、たとえば政治・経済・学問・科学技術・倫理などはすべて人間と有限者とのかかわりである。社会現象の一つとして見られたかぎりの宗教、つまり教団とその歴史は、やはり有限者との関係である。そういういとなみにおいては、われわれは能動的であり、自由の主体としての自分を意識しているわけである。
しかるに、そういう能動的な自己意識のもう一つ底に降りるならば、そこには自分の力のまったくはたらかない次元がある。それが宇宙と関係している人間存在のあり方である。そこではわれわれはただ、宇宙の力にまかせる以外にはない。シュライエルマッハーは、『キリスト教信仰』(1821-1822)の中では、これを「絶対的依存の感情」というふうに規定している。それは宇宙の中での人間のまったき無力の感情であり、同時にその無力な自己が宇宙の無限の力、 神によって支えられていることの直接な自覚である。
社会存在としてのわれわれは、いろいろな限定を身に付けている。いわば着物を着ているのである。たとえば学識、教養、才能、権力、財力、地位などはそういう着物であり、社会生活ではこれらはそれぞれに有効である。 しかし、宇宙との関係になると、これらの着物はまったく無力になる。社会の中ではどんなに力がある人でも、宇宙の中では一人の赤子にすぎない。宇宙にまかせることなしには、人間は生きることも死ぬこともできないのである。 宗教が社会的な存在としての人間の問題ではなく、宇宙存在としての人間の問題であるという大事な点を明らかにしたシュライエルマッハーの功績には注目すべきものがある。
―引用終わり
昨日、韓国で豪華客船が海難事故に遭遇し、300名近い修学旅行生達が行方不明になっています。乗客の多くのご家族が現場近くの海岸に駆け付けて居られます。全ての人が生活の全てを投げ打って駆け付けられたのだと思いますが、 正に、死を前にしますと上述の「たとえば学識、教養、才能、権力、財力、地位などはそういう着物であり、社会生活ではこれらはそれぞれに有効である。しかし、宇宙との関係になると、 これらの着物はまったく無力になる。社会の中ではどんなに力がある人でも、宇宙の中では一人の赤子にすぎない。」と云うことが私たちの現実であることを納得せざるを得ません。
でも、そんな目に遭っても私たちはまた時間と共に根本不安を棚上げして、社会生活・日常生活に没頭してしまいます。それもまた私たち人間の現実・真実でもありましょう。その私たちの姿を親鸞仏法では『罪悪生死の凡夫』、 『罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫』と称するのだと思います。
引用文の中に「絶対的依存の感情」と云うキリスト教信仰者の表現がありますが、これは親鸞仏法の『絶対他力』と同じことだと私は思います。全ては宇宙の沙汰に任すしかないと云う考え方ですが、私たちは、その『他力』になかなか任せられません。 任せられない真実の自己に目覚めさせてくれるのも『他力』なのだと思います。
その真実を親鸞聖人は『帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま』だと拝まれたと思うのです。帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま
No.1378 2014.04.14
西谷啓治師の『宗教とは何か』(引用:Ⅲ―6)★無相庵のはしがき
先週、小学5年生の男児が通学の途中、と云うよりも、家を出て直ぐ、母親に見送られて横断歩道を渡り切った直後、これまた通勤途中の中学校教師の運転する車に衝突されて即死すると云う事故が有った。母親の目の前で起こった交通事故である。 母親は泣き叫んでいたと云う居合わせた目撃者の話を聞き、もし自分がそう云う目に遭えば絶対にそうなると、自分に引替えて胸痛んだ次第である。ひょっとしたら、私の場合には泣くことも出来ない位に立ち尽くすだけかも知れないとも思った。起こるはずの無いことが目の前で起こったら茫然自失(ぼうぜんじしつ)と云う状態になると言われるが、これは実際に自分がそのような目に遭わなければ分からないと思う。起こるはずがないことに遭遇することは滅多に無い。否、 本当は起こるはずが無いことに度々出遇っているのに本当のことを知らない我々が気付かないだけかも知れないが、上述のお母さんのような目に我々が遇ったら、その時初めて、全てが疑わしくなるのではないかと思う。我々は皆明日を信じて生きている。 こうすれば、こうなる、いや、あゝなるかも知れないと予見しながら生きているが、そんなことは一瞬の出来事(最悪の場合は自分の死)で瓦解するのである。
今日の引用文の中に『大疑現前』と云う禅の言葉がある。『大死一番』と共に使われる禅の四文字熟語であるが、「大いなる疑いが目の前に現れてきた。そこで、自己放棄を貫徹した。そしたら古い私が無くなって、新しい私が現れてきた。」と云う意味合いだそうであるが、 疑い尽くすことが出来るのかどうか私には分からないが、徹底して疑った先に、何か「はっ」と気付く事がありそうな気もする。デカルトの場合は、その気付きを「我考う、故に我あり」と言い表したのかも知れないが、それでは未だ自分が残っていると云うのが、 西谷師の言いたいことなのだろうか。
★引用部
上に言ったことを具体的に説明するために、デカルトが「我考う、故に我あり」に達するために採用したいわゆる方法的懐疑と、宗教に現れる懐疑とを比較してみる。宗教の門庭にも常に深い懐疑と云うものが現れている。 例えば、初めに言った自己の生死や、世界に於ける諸物の生滅流転に関する問題の如きである。愛するものを永遠に失ったと云う苦悩は、自他に於ける存在そのものに関しての根本的な疑いを含んでいる。そう云う疑いは、いろいろな形で現れ、いろいろに言い表されている。例えば「大疑現前」と云うこともそうである。その大疑の「大」と云うことは、一つにはその疑いの内容自身に由っているであろう。即ち、今言ったような、 世界に於ける人間の存在、自己の存在と他者の存在に関する根本的な不明白、そこから由来する苦悩と云うような、そう云う事柄自身が、最も根源的な重大な事柄だからである。
「生死事大」だからである。併し「大」と云うことは、他方、その重大事に相応した我々自身のあり方、我々の実存し方に関係した意識をも含んでいると言ってよい。そしてそのことが最も重要な点である。帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま
No.1377 2014.04.10
小保方晴子氏の記者会見で分かった事昨日(2014年4月9日)、独立行政法人理化学研究所の小保方氏がSTAP細胞のネイチャー誌掲載論文は悪意を持った捏造と改ざんと云う研究不正に依るとする調査委員会の結論に 関して記者会見を行った。
その記者会見で私に見えたことを申し述べると共に、小保方氏側に立って、全てをクリヤーに出来ない事情を説明したい。
真実を求めて学術研究を行う理化学研究所であるはずであるが、小保方氏の研究結果が悪意を持って捏造と改ざんを行ったと断罪したが、その調査委員会も悪意を持っての調査結果をまとめ上げたのではないかと感じた。それは、 調査委員会が調べた研究ノートを4~5冊あるにも拘わらず、たった2冊だけを持ち帰り、小保方さんに何の質問も確認もしないまま、不正と云う結論有きの悪意のある推測からの調査だった事が明らかになったからである。
本当に研究不正があったか無かったかを調査したいなら、小保方氏のSTAP細胞作製実験に立ち会い、つぶさに実験過程を調査し、STAP細胞が出来たかどうかを、調査委員会自身が確認(多分DNA判定だと思うが)すれば済む話だと思った。 そうしたなら、精々2~5日程度で結論が出たはずである。それは後に述べる、小保方氏が明言した「過去に200回以上もSTAP細胞が作製出来ている」と云う発言があるからである。
そんな簡単な調査もせずに、無意味な調査に時間を掛けたのは、理研に或る思惑があったからだと推察する。
つまり、このSTAP細胞に関して理研が為して来た、この3年間にわたる一連の処置・対応は、これは私の悪意を持った推測ではあるが、理研は政府からの認定により、独立行政法人理化学研究所から特定国立研究開発法人理化学研究所に格上げして貰い、 私たちの税金から多大な研究費を勝ち取りたいと云う悪意(?)から為して来たとしか思えないのである。だから、論文提出も小保方氏に急がせ、論文の調査結果発表も急ぎ、今日の事態を招いたのだと思うのである。理研は約2年前の4月頃に、このSTAP細胞に関する国際特許を申請している。理研は、出願人の一組織である。また、発明者は小保方氏の指導者の一人であるハーバード大のバカンティー教授が筆頭発明者であり、 小保方氏と今回論文の撤回を主張している山梨大学の若山照彦教授も名を連ねている。STAP細胞の論文が捏造なら、特許も捏造と判断して理研は出願人を降りる手続きをしても然るべきだと思うが、それをしない。
何故しないかと言えば、特許出願は組織としては莫大なお金を得る為にどうしてもしておくべき手段である。だから、ひょっとしてSTAP細胞の存在が事実なら、得られるべき利益を逃してはならないと云うことから、 出願人の取り下げをしないに違いない。取り下げをしないなら、直ちに小保方氏の研究に寄り添って、本当にSTAP細胞が出来たのか、理事長自ら実験に立ち会って事実を把握して然るべきではないかと思う。私が組織の長なら、 組織の為にもそうする。
小保方氏は、200回以上STAP細胞は出来ていると明言した。そんなに簡単に出来るならば、これから1週間と云う短い時間で、STAP細胞の存在を理研全体で共有出来るのではないか。先日、 1年かけてSTAP細胞の実証実験をすると理研が発表したが、小保方氏の言う200回以上が本当なら、たった1日でも実証出来るだろう。
実は、私には200回以上の成功と云う事を信じ難い訳が有る。少々疑問があるのだ。理研の広報が1月に発表したSTAP細胞がiPS細胞よりも優れると云うデーターの中に作製成功確率が7%と云う数字があった。 この数字を信用するなら、小保方氏が200回成功したとするならば、200÷0.07≒2857回の作製実験をしたことになる。一日一回の作製実験とすると約8年も年月を掛けたことになるのである。それは有り得ないから、 ひょっとしたら、もっと作製確率は高いのかも知れないのである。小保方氏が記者会見の中で言っていたように、小保方氏に確かめることなく、理研広報が勝手に算定した数値だった可能性が高い。
もう一つは、第三者に依ってもSTAP細胞が出来ないとSTAP細胞が有ることにはならないと云うのは間違った考え方だと言いたい。
特許には専門家でないと理解出来ない位の実に詳細な説明がある。実施例としても詳しい手順や条件が記載されているが、第三者が特許出願人と同じ結果を得られることは極めて稀なのである。それは、 記者会見で小保方氏が言っていた『コツ』があるからである。 工業の世界では、『製造ノウハウ』と云うものである。つまり、料理の世界の『門外不出の秘伝』と云うべきもので、特許には詳しく書かない本当は一番大切な技術条件のことである。ひょっとしたら、当事者も、これが一番大切だと分かっていない場合もある。 小保方氏が記者会見で「これから最適条件の研究に取り掛かるところだった」と言っていたが、多分、その事だろうと思う。それに、質問者達が分かっていないことがある。現段階で、詳しいSTAP細胞の作製法を公開したくないはずである。それは、これから沢山の追加特許を出して行かねばならないからである。未だ、基本特許を出しただけで、 しかも特許が認められていない段階で詳細を公開すると、世界中の技術者が自分なりに研究してSTAP細胞作製技術を高めて条件を特定した特許を出願することは間違いないのである。その特許は、 基本特許の権利者の許諾を得ないと臨床現場で実施出来ないのが法律(特許法)で決まっているが、基本特許の権利者も、その有効な特許をやはりその特許権者に許諾を貰わないと実施出来ないのである。 だから、現段階で小保方さんは、全てを公開出来ないのである。特許出願行為は利益を出来るだけ独占しようとする経済行為なのである。純粋な学術研究だけではないことを記者たちは知るべきなのである。
私も生命科学には全くの素人であり、私のこれまで述べて来た事以上に複雑な問題があるだろう。記者会見で全てがクリヤーに成らなかったと批判的な意見がマスコミで言われているが、 読者にはクリヤーに出来ない事情がある事を多少とも知って頂きたいと筆を取った次第である。
帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま
No.1376 2014.04.07
西谷啓治師の『宗教とは何か』(引用:Ⅲ―5)★無相庵のはしがき
西谷啓治師は、1900年生まれで1990年に亡くなりました。私の母が1906年生まれで1986年に亡くなりましたから、同じ時代を生きたのだと最近知りました。
母は、仏教講演会『垂水見真会(神戸市垂水区)』を1955年、私が10歳の時に立ち上げました。それは母が当時の仏法の現状を切実に憂うる気持ちからだったことを後になって知りました。当時は既に仏教は葬式仏教に成り下がっておりましたから、母は黒染めの衣を着たお坊さんを講師にお呼びせず、積極的に大学の教授を招聘していたことでも分かります。そして、お坊様を招聘するにしても、葬式仏教の象徴とも言える浄土門系の方よりも、 一般的には知的と考えられていた禅宗のお坊様が多いことに母の想いが現れていると思うのです。
そう云う時代ですので、西谷啓治師が『宗教とは何か』を一般に問うたことも自然の成り行きだったと思います。 でも、仏法は知識人の為に有るのではなく、一般庶民の為にあるものです。それを考えますと、西谷啓治師のこの『宗教とは何か』は一般向きではありません。多少とも読み解ける私たちが理解した上で、宗教を、仏法を一般の方々に分かり易く紹介しなければならないと思います。 鎌倉時代の法然上人が文字も読めない一般庶民に対して、仏法をどうやって届けるかに苦労されたことを今思うことであります。今は文字も読め、テレビで世界の事、宇宙のこと、知識を十二分に持っている一般庶民、そして私を含めて、 お金第一主義に洗脳された一般庶民に本当の仏法を届けるのは至難の業であります。
今日の引用部分も、前回を読み直されることをお勧め致します。西谷師も哲学的考察の限界に行き着かれたのではないかと推察致しました。ただ、それを宗教がどのように解決してくれると云うのか、これから先に解答があるのでしょうか。
★引用部
それ故に、「我考う、故に我あり」の自己意識は、その主体性のままで、その自己意識の場より一層根源的な場から考えられなければならない。もとより、考えるといっても、普通の場合のように対象的に考えると云うことではない。 自我を一層根源的に考えると云うことは、自我自身が主体的に自我のうちに一層根源的な存在の場を開くと云うことである。その意味では、自我自身が一層根源的な自己自身になること、一層根源的な自覚と云うことと別ではない。我考うを一層根源的に考えるとは、そう云う意味の「実存的」思惟であり、その根源的な思惟そのものが、 自己の一層根源的なあり方そのものでなければならない。
その意味でデカルト的な「我考う、故に我あり」は、その自己意識の場が一層根源的な自己の場へ突破されて初めて、その真理性を真に確保することが出来る。そのことなしには、その自己意識の自己は、 自己自身にとって却って一つの虚偽或は迷妄にすら化す。
そう云うことは古来の哲学において、特に何よりも鋭く宗教において、自覚に上った事柄である。そう云う意味からいえば宗教は、通常の自己と云うあり方そのものの含む問題性に対する、実存的な摘発であり、 そこに宗教のみがもつ独自な意義もあるのである。宗教はその意味では「我あり」と云うことを究明する大きな、根源的な「我考う」の道でもあったといえる。
帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま
No.1375 2014.04.03
捏造(ねつぞう)と改ざん(かいざん)STAP細胞を発見した理研の小保方晴子さんを、同じ理研のネイチャー論文内容の調査委員会が捏造と改ざん行為をしたと断罪した。この断罪は、調査委員会の面々がSTAP細胞は作製されていないと思っているからこそ成り立つ断罪であり、 STAP細胞を作製し得たと確信している小保方さんの確信通りになれば、調査委員会は名誉棄損の罪を負う事になるのだと思う。
ここで、捏造と改ざんの言葉の意味を確認しておきたい。
捏造とは、広辞苑では「事実でないことを事実のようにこしらえて言うこと」とある。インターネットの用語説明では、「事実でないことを本当らしく作り上げること。でっち上げ。」とあり、これは故意、悪意で為す行為である。改ざんとは、広辞苑では「字句などを改めなおすこと。多く不当に改める場合に用いられるようになった」とある。インターネット用語説明では、「文書、記録等の全部又は一部が、故意もしくは過失により、本来なされるべきでない時期に、 本来なされるべきでない形式、内容に変更されることをいう。悪意の有無を問わない。」とあるが、「悪意をもって不当な利益を得たり不利益を回避したり、あるいは不利益を与えることを意図して、 本来許容されないことを知っていながらあえて行われる変更を指して改竄と呼ぶこともある。」と追加説明がある。
私の頭には、改ざんも悪意が混じった行為と云うイメージしかない。恐らく世間一般の捉え方も私と変わらないだろうと思う。私は工業技術者であり、生命科学は全くと言っていい程の素人であるが、Aと云う物質(細胞)にBと云う条件を与えてCと云う物質(細胞)を作ると単純化すれば、同じような仕事をしていることになると思うのである。
ただ、工業の世界と生命科学の世界で大きく異なるのは、Cと云うものが出来無い確率(工業では不良率と言う)である。工業の世界での一般的に許容される不良率は高く見積もっても3乃至5%以下だと思われる。自動車業界では0.1%以下であろう。 極端な表現をするならば、工業の世界の良品率が万能細胞作製の場合の不良率なのである。前にも世辞雑感ブログ『STAP細胞の真偽は静に見守ろう』で説明した事があるが、STAP細胞の場合は多分未だ正確な不良率は把握出来ていないと思われるが、iPS細胞の当初の不良率は99.9%だったのである。もし、 STAP細胞の不良率が今のiPS細胞の80%位であれば、小保方さんは即刻STAP細胞の再現実験を繰り返して何回か成功させて見せるであろうし、他の外部の研究者達からもSTAP細胞作製成功の報告が次々と寄せられているはずなのである。
私の取り組んでいる工業技術では、Cを得るBと云う条件は把握し易いが、生命科学では、Bと云う条件がなかなか再現出来ない、と言うよりも、STAP細胞が出来るしっかりとした条件Bが未だ分かっていないのだと思う。 それは生命を扱うからである。我々の〝いのち〟は、微妙な幾つもの条件が揃っているうちは生き続けられるが、例えば、空気中の酸素濃度が変われば生きられないし、 太陽と地球の距離が今より長くなっても短くなっても直ちに死滅するような儚(はかな)い〝いのち〟である。正に生きているのは奇跡と言ってもよいのである。
そう云う生命の不思議を扱う生命科学は〝いのち〟そのものである人間に取っては簡単なものではないのである。そう云う〝いのち〟への謙虚さを持った生命科学技術者ならば、小保方さんを、ああも簡単に断罪出来ないと思うのである。 小保方さんは反論記者会見を検討しているらしい。言うべきことは言うと云う姿勢も分からないではないが、真に有効な反論は、STAP細胞の存在を誰にも分かる方法で証明するしか無いと私は思う。
帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま
No.1374 2014.03.31
西谷啓治師の『宗教とは何か』(引用:Ⅲ―4)★無相庵のはしがき
先週末は、孫達の学校春休み中でもあり、孫達5名(高3男子、高2女子、中2女子、小4男児、小2女児)が二泊三日我が家に逗留しました。妻が3月14日を以って11年半勤めたパート勤務を辞め、 妻が専業主婦に復帰してくれましたので、私は仕事中心の生活に戻る事が出来ました。
考えて見れば、私は、中2の孫が生まれてから今日までずっと主夫業を続けて来たことになります。今は、私に代わって妻が朝食を準備してくれています。有難いことです。早速、土曜日の午前中は取引先の役員との重要な話し合いがありました。遠い取引先ですので、その役員と顔を合わせるのはかれこれ10年振り位になりましたが、信頼感が有り、率直かつ真摯な話合いが出来、今も気持ち良さが続いています。 ビジネス社会では、なかなかこう云う信頼関係に遭遇出来ることは無いものです。それだけにこの気持ち良さは有難いものであります。
さて、今日も難解な文章に挑戦です。出来ましたら、前回の西谷啓治師の『宗教とは何か』(引用:Ⅲ―3)の末尾から読み返されることをお勧め致します。 今日の内容からして、やはり西谷師は、デカルトの「我考う、故に我あり」は、自我そのものだと捉えて居られるのではないかと推察したのでありますが、まだまだ先を読まなければ結論は出せないとも思っています。
★引用部
即ち、自我と云う有り方の本質に結び付いた倫理的、哲学的、宗教的なさまざまな疑惑、苦悩、要求などである。例えば、エゴイズムや人間性の善悪の問題、根本悪や罪の問題、孤独性及び社会へのうちへの自己喪失と云う問題、 認識の可能性の問題、救済や解脱の要求等々である。そう云う問題は、自己が自己中心的に自己を捉えたと云う「自我」のあり方と結びついている。然も今言ったようないろいろな問題から、自我のあり方そのものが遂には自我自身にとって一つの問題に化して来るのである。
「我考う、故に我あり」と云うことは最も直接的に明白な真理ではあるが、それが再び同じ「我考う」の場から見られる結果、その真理が却って問題的になり、より根本のところで一つの疑問に化する。
自我は自分自身の根源が分からなくなる。そしてその自明性が自らにとっても一つの自己欺瞞、虚偽にすらなる。そう云う必然性が、自我自身の成立そのもののうちに含まれているのである。
帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま
No.1373 2014.03.27
今を生きると云うこと無相庵カレンダーの29日のお言葉は、『この秋は、雨か嵐か、知らねども、今日の勤めに、田草とるなり』(二宮尊徳師)です。先の事を思い煩うことなく、ただ今なすべき事を為そうと云う、正に〝今を生きよう〟とのお言葉です。
仏法は「今を生きよ!」と申します。でも、普通、私たちは今を生きられません。極端に言えば、常に今を取り逃がしながらただ生きているようにも思えます。
私は、ほぼ毎日1万歩を超えるウォーキング致しますが、頭の中は、仕事の事や、 ちょっと先の予定に関する事だったり、子や孫達の行末を思い遣ったり、食事のメニューを考えたり、目まぐるしく駆け巡っていまして、歩いている周りの景色や私と同じようにウォーキングしている人々に意識を向ける瞬間は少ないように思います。 時々、「今を生きないと・・・」と思い直すことはありますが、それでも無意識のうちに、あれやこれやと頭の中は忙しくなると云うのが正直なところです。で、最近考えたのですが、今を生きる事が無意識的に出来ているのは、知能的に我々よりも下等と言われる動物達であって、人類はそれが出来ない唯一の動物だと云うことです。
そもそも仏法が四足動物のようになれと言うはずが無いのではないかと考えた訳です。そして考えました。仏法が説くのは、今とは過去の全て、極論すれば宇宙の始めから今までを背負っている瞬間であり、そしてまた、私の案ずる将来をも決めているのが、この今の瞬間、瞬間なのだと。そんな大事な、 やり直しの効かない今なのだと云うことを仏法は説いていることに思い至りました。そして、今の大切さを説くのは、即ち縁の大切さを説いていることなんだと思い至りました。
考えて見れば、仏法は真理を説く教えであり、出来そうもない事を出来ると教えるはずが有りません。疑似宗教と言われる宗教は、○○を拝めば病気にならないとか、お金が自然と廻って来るとか、長生き出来ることを売り物にしている宗教です。 もっと厳しく言うならば、寄付をすれば、ボランティアをすれば、幸せになりますよと説くのも、神様を拝めば天国に往けますよ、仏様を拝めば極楽へ往生しますよ、と、説くのも疑似宗教でしょう。坐禅をして無我になり、煩悩が消えて、 悟りが開けますよ、と説くのも疑似宗教と言うべきかも知れません。
否、それら疑似宗教を宗教と言い、仏法は宗教では無くて、心理学ならぬ、真理学と言うべきかも知れません。
そんなことを考えながら、偶には私、今朝を生きていると云うことでしょうか。でも、ちょいちょい仕事の事が頭にふっふっとシャボン玉のように浮かんでは消えて行ったりしているんですよ。帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま
No.1372 2014.03.24
西谷啓治師の『宗教とは何か』(引用:Ⅲ-3)★無相庵のはしがき
先週の木曜日の東京出張は、将来振り返った時に、私のビジネスの方向を大きく変えた分岐点だったと云う事になるのではないかと今は思っています。
少なくとも、仏法を人生の指針として生きる者として、駈け引きが渦巻くビジネスの世界に有っても、相手の駈け引きは駈け引きとして受け止めつつも、自分自身はそうでは無くて、 自他共に結果として良かったと思える結論を導き出すのが正しい有り方だと思えるようになった事で心の落ち着きを得られたことは私自身としては大きな変化でした。
〝駈け引きには駈け引きを〟と云う姿勢は今の国際政治の世界そのものを現出しているものであって、地獄へ真っ逆さまに堕ちて行く姿です。智慧の無い動物達の世界だと思うのです。
今年1月のコラムで『メタ認識』と云う耳慣れない言葉を紹介致しましたが、メタ認識が出来るのは人間だけです。 メタ認識が出来ない人間は最早人間では有りません。実際には難しいことではありますが、私は人間らしく生きたいと思います。さて、非日常の世界を求めて、今日も西谷師の哲学に挑戦します。お付き合い下さい。 表現がまことに難解であり、スッと頭にも心にも響きませんが、「我考う、故に我あり」と言ったデカルトは自我から脱却出来ていなかったのではないかと云うのが、 西谷師の見解ではなかろうかと今日の引用部分で推察したのですが、まだまだ読み方が足らないのかも知れません。
★引用部
主体は客観的なものからは出て来ない。故に、「我考う、故に我あり」と云うことは、最も直接的な明白な真理である。併しその我が考うと云うことを考える場が再び同じ「我考う」と云う立場でなければならないと云うことは、 それほど自明な事柄ではない。それは、我考うと云う明白な事実を開示する仕方として唯一のものではない。それは寧ろ、その事実に対する或る一つの見方、或る一つの哲学的な立場である。然もそれは、同時に、自我そのものの或る特定のあり方、即ち自己中心的なあり方の表現でもある。そのように「我考う、故に我あり」を「我考う、故に我あり」から考えると云うこと、 即ち自己意識とその自明性が同じ自己意識の場に写されて見られると云うことは、そういう「自我」にとっては最も自然なことである。
寧ろ、自己意識がどこまでもそれ自身を写すと云うところに、「自我」といわれるものが成立すると言える。そしてそこでは、自己意識がもつ自明性、自己が自己自身にとって明白であると言うこと自身が、 返ってその明白な事実をそれ以上の場から見る必要を感ぜしめない。実際にまた、前に言ったように、生命、物質、或は神などなどのような、自我とは全く別なものの場からは、「我考う」の自明性は導き出されないのである。
併し「自我」と云うものがそのようにして、自己意識がどこまでも自己意識に写されたものであり、「我考う」が「我考う」の立場自身から考えられたものであると云うことは、自我と云うものが、 自己自身のうちに閉じ籠もった自己の有り方だと云うことである。自己自身への執着に於ける自己ともいえる。そこにまた、自我的なあり方の本質に根差した種々の根源的な問題が、自己のうちに生起して来る所以でもある。
帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま
No.1371 2014.03.19
争いは絶えない明日はまた東京出張です。それで、木曜コラムを前倒し更新致します。
今、国際情勢が不安定になりつつあります。クリミア半島をロシアが共和国として繰り入れました。そのロシアにアメリカとEUが経済制裁を含めて猛反発し、四半世紀前の冷戦時代に戻るのかと思わせる状況です。 日本にしても中韓との外交がストップしたままです。国と国の間で対立・争いが絶えません。読者の皆さんにおかれましては、個人と個人(親子、夫婦、上司と部下、隣と隣など)の間で何らかの思惑のすれ違い、対立があるはずです。私の場合は企業と企業の争いと言いますか、 思惑と思惑のぶつかり合いですが、対立の根底には、法律や一般の常識、ルールに反しているとか、人道上とか商道徳上に反しているとか、夫々の基準の違いがあります。
そして、厄介なのが、或る時は法律上の問題で攻めて来たりする相手が、別の或る時は、倫理的にとか人道上とか商道徳上の問題として攻めて来たり一貫しない者同士が争う訳ですから、ますます対立は深まります。
集団的自衛権問題も、憲法解釈で認めようとするグループと、やはり憲法そのものを変えるべきだとするグループに分かれます。最終目的は、世界の平和と日本の領土、領海、国民の生命と財産を如何にすれば守れるかと云うことで 敵味方は一致しているはずですが、お互いの歴史認識と方法論が大きく異なりますから平和を求めながらも争うのでしょう。
こんな場合に仏法は「共に是、凡夫のみ」、つまりお互いにそれぞれが自分こそが正しいと主張し合わず、お互いの考えが煩悩から発していることにお互いが気付こうではないかと云う立場です。なかなか難しいことですが、 そう云う冷静さに立ち還る努力を忘れないことが大切です。
私はそう云う気持ちを持ちながら、相手との交渉の場に赴く積りであります。でも、冷静に出来るかな?
帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま