No.1370  2014.03.17
西谷啓治師の『宗教とは何か』(引用:Ⅲ-2)

★無相庵のはしがき
日本の大乗仏教の禅宗では『自分』とは別に『本来の自己』を立てます。デカルトの言う『我』は『自分』の事を言うのであって『本来の自己』ではないと思います。デカルトは「自分とは何か?」また、「元々存在して居なかった自分、 そして何れは死んで消えていく自分と云うのは存在していると言えるのであろうか?」と堂々めぐりを繰り返すうちに、いやいや、「我考う、故に我あり」と自分を納得させたのかも知れません。でも、もしそうなら、 禅の考え方と比較する場合、その考え方は浅いと言うべきではないかとも思います。
多分、西谷師も、そこのところを言いたいのではないかと思うのですが、今日の引用内容では、デカルトの『我』は、『意識以前の生命』から説明されるものでもなく、『神』から説明されるものでもない と仰せなのですが、一体どのように考えられるかは、これから先で分かるのではないかと思います。難しく、これまた堂々めぐり的な文章が続きますが、非日常体験としてご辛抱下さい。

★引用部
併し実はそこに問題があるのではないか。「我考う」と云うことは、その自明性にも拘わらず、単に「我考う」の場から考えられるだけでは不充分なのではないか。寧ろ、その自明性と云うこと自身の成立が、 一層根源的なところから開示されねばならないのではないか。

そう云う意味は、例えばさきに言ったような、意識以前の生命とか、或は物質とか云うようなものから、何らかの仕方で「我考う」の成立が説明されるべきだと言うのではない。そう云うことは不可能である。 知るものが、それによって知られるものから発生するとか成立するとか云うことは到底考えられない。

知るということは常に、知られるものからの一種の超越を含んでいるからである。併しまた、「我考う」の成立が神という如きものから説明されるべきだと云う意味でもない。「我考う」がそれ自身以下の 或は以上の他の何ものかから説明され、結局そういう他のものへ還元されると云う仕方でではなく、むしろ「我考う」と云うその主体性自身の根底に向かって、その主体性の方向が一層徹底されたところから、 その成立が考えられなければならぬと云う意味である。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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No.1369  2014.03.13
西谷啓治師の『宗教とは何か』(引用:Ⅲ-1)

★無相庵のはしがき
煩悩に揺さぶられる日常を少しの間離れたいと云うことで、『宗教とは何か』の勉強に戻ります。無理にでもそう自分をコントロールしませんと、自分を見失ってしまうからです。
今日から勉強するⅢは、一般の方々も知っておられるであろう、哲学者デカルトの「我考う、故に我あり」を西谷師が考察された内容です。内省的な方なら誰しも「自分とは何か」と考えると思います。 そして、「自分はいずれ死んで居なくなり、存在しないことになるが、存在とは何なのか」と堂々廻りをするものですが、1600年代に生きたデカルトもそうだったのでしょう。 そして、「我考う、故に我あり」と考える自分が存在していることは間違いないと確信したのではないかと想像するのですが、自然科学的な哲学思考であって、宗教、特に日本に花開いた大乗仏教の考え 方とは少し違うな、と思ってしまいますが、西谷師のご批判をうかがって見たいと思います。

★引用部
現在我々の自己が、前に言ったデカルト的な自我として、即ち自己意識的に他のあらゆるものに対向するもの、世界とも向かい合ったようなものとして成立していると云うことは、動かし難い事実である。 生命、意志、知性等と言われるものも、そう云う自我の「能力」乃至は活動として、自我に内在し帰属している。

その自我は、それぞれ絶対的に独立的で、他の何ものによっても置き換えられ得ないと考えざるを得ない。それで初めて、個々の人間の主体性と云うものも考えられる。主体であると云うことは、 如何にしても客体化され得ない存在と云うことであり、他の何ものからも導き出せないような、むしろ逆に他の全てがそこから考えられる出発点であるような存在と云うことである。そのことを 言い表したものが、「我考う、故に我あり」であったと云うことは言うまでもない。併しながら、実はそこに一つの根本的な問題が伏在していると思う。

「我考う」はもとより直接に明白な真理である。そこからデカルトは、それをあらゆるものを考える上に唯一の疑うべからざる出発点とした。「我考う、故に我あり」のその自明性の故に、 そのうちにそれ以上の問題を認めなかった。そのことは換言すれば、彼が「我考う」をその「我考う」自身の立場で考えると云うことで満足した、と云うことを意味する。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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No.1368  2014.03.10
生きる為に食べているのではないか

東京出張の目的は企業間の契約書が、特許法に照らして問題が無いかどうかと云う一点に尽きます。特許法に関する専門弁護士と言われる弁理士であり且つ弁護士である方を交えて 、弊社が特許実施権を供与している或る一社の経営者との相談協議と云う会議でした。

他社から特許権侵害とか契約違反で裁判問題を起こされる可能性があるかどうかがポイントです。未だ決着はしていません。ただ、会議後直後から冷静に会議内容を吟味しているところですが、 現時点では法律問題は生じないのではないかと云う結論に至っています。

契約書を詳細に読み直し、弊社が保有する5件の特許を読み直しながら思ったことは、お金を貪っている行為をしているのではなく、何が法律的に正しいかと云うことを突き詰め ていることは勿論ですが、契約書を取り交わした時の感情的な或は心情的な契約目的は何だったかと云うことでもありました。結果としては、契約目的から考えると契約書内容に 問題があったと云う結論に至った次第です。

前回のコラムで私は「私は生きる為に食べているのではなくて、食べる為に生きているのではないか?」と自問し、「どうも、私は自分がお金の為に生きているように思う。食べる為に生きて いるように思う」と自答したのでありましたが、お金だけが目的なら、上述の結論にはならなかったのではないかと思っています。

かなり前のコラムで、「生きる為に食べているなら、何の為に生きているかを考えるようになるが、食べる為に生きている人は、何のために生きているかは考えないものだ」 と云うどなたかの考察を紹介したことがありますが、その考察をその通りだと実感出来ましたので、今日のコラム表題になった訳であります。お金は実に生きる為にはとても大事 ですが、お金のためだけに生きてはいないからこそ、色々と思い悩み思い迷いながらも、どこかで、これから生じる結果を全て受け入れる決心が固まっているようにも思うのです。

それは世間的な諦めではなく、「現実は事実であり、事実は真実である」と云う仏法に導かれているからではないかと、お蔭さまを思う事です。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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No.1367  2014.03.06
食べる為に生きているのか

今日は今から東京出張です。昨年から続いている我が社の命運を賭けた、またそれは我が家の命運をも賭けた交渉事の最終局面での相手方からの要請に依るものです。

交渉事と云うものは、欲と欲のぶつかり合いです。今、TPP交渉が行われていますが、その交渉の場は国益と国益のぶつかり合いだと言われていますが、私が臨んでいる場は、社益と社益のぶつかり合いであるとともに、 個人の欲と個人の欲と言いますか、煩悩と煩悩のぶつかり合いだと強く感じさせられているところです。

自分の欲を放棄し、相手の主張をそのまま受け入れたなら即纏まりますが、欲を完全放棄することは出来ません。法律や商道徳、そして世間の良識を判断基準にしながら、自分の欲と煩悩を何処まで許容するか、なかなか 骨の折れる作業です。

そんな中で思うのは、「生きる為に食べているのではなくて、自分は、食べる為に生きているのではないか」と云うことです。この場合の〝食べる〟と云うのは、〝お金〟を言い換えたものだと思うのですが、お金第一主 義では無いと思いつつも、お金を忘れることは出来ません。今日も目が覚めて一番に頭に浮かんだのは、やはり、相手よりも自分の方が有利になる交渉の有り方、つまりは、お金をより多く稼ぎたいと云うことでした。

心の落ち着き処は「成る様にしか成らない、成る様になって行く」と云うことなのですが、それでも、なかなか落ち着き得ない我が心です。明後日に私は69歳を迎えるのですが、2014年3月は、人生の節目とまでは 言えませんが、経済生活の節目になることは間違いないと思っています。
脱サラ起業して23年です。「色々な方々に恩返しもしたい。そして、我が脱サラ起業を誇らしいものにしたい」と云うのが本音のように思います。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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No.1366  2014.03.03
西谷啓治師の『宗教とは何か』(引用:Ⅱ―9)

★無相庵のはしがき
今日は3月3日。桃の節句です。私には一人の娘と3人の孫娘が居りますので、2月はじめから3月末まで、小さなおひな様セットを飾ります。
さて今、「宗教とは何か」を考察している文章を勉強している訳ですが、文章に入り込んでしまいますと、何が何だか分からなくなってしまいます。著者自身がそう云う状態になって文章を綴ってしまっていることも無きにしも 非ずです。私たち読者は、そう云う客観性を持ちつつ、読む必要があると思います。私は、「宗教とは何か」は、「自分とは何か、人間とは何か、存在とは何か、宇宙とは何か」そして、「そのような問いを発してい る自分とは何か」と最初の問いに戻ってしまう堂々巡りに陥り易いのではないかと思いながら、難解な文章を非日常を経験する場として読んでいるところです。

★引用部
勿論その或るものをどう云うものと考えるべきかと云うことは別の問題である。従来のように魂と云う或る特別の実体を考える必要は必ずしもないかもしれない。つまり、それ自身恰も一個の物体のように独立した魂が、 身体の「内」に宿っている。と云うような考え方は出来ないかもしれない。そう云う考え方は、逆に身体をもそれ自身で独立な、生命のない物体、つまり「魂」とは別個な存在と見なして、魂と身体と云う二つの違った 実体を考え、更にその結び付きを考えると云うことになる。

そう云う考え方に対して、それと反対の方向の考え方も可能である。例えばショーペンハウウェルが「生きんとする意思」を物自体と考え、有機体としての身体はその意思が眼に見える形をとって現象化したもの、その 意思の客体化であると考えたような考え方も出来る。

ベルグソンが身体の物質面を、創造的に進化する生命の弛緩面と考えたのも、同じ方向の考え方である。いづれも、「意思」とか生命とかを、個体がそこからそれの個別化として現れて来るようなものとして考え、そし てそう云うものが固体のうちに働いていると考えている。

「魂」というものをそう云う方向から考えると云うことも可能である。古人もそう云う考え方から、同じ魂がつぎつぎに種々異なった種類の動物的肉体をとり得るとすら想像して、輪廻転生の思想を発生せしめた。そう云 う思想は単なる空想ともいえるが、その背景には、上にいったような霊魂観が見られるのである。

併しながら、如何に意識―自意識の場に於いて実在に実在的にふれ得ないからと言って、今言ったような意識以前の生命や感応の場に立つと云うだけで止まることは出来ない。宗教には、そう云う場に帰ると云う方向の 上に成立している形態が、少なからずあることは事実である。併しそれでは実在に深く触れると云うことは出来ない。我々はむしろ、意識―自意識の場から、それ以前(又は以下)の場に帰る代わりに、意識の場を 通して然もそれを突破したような、そしてそこから振り返って意識の場も見られ得るような、一層高く新しい地平を求めねばならないのである。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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No.1365  2014.02.27
西谷啓治師の『宗教とは何か』(引用:Ⅱ―8)

★無相庵のはしがき
久しぶりの西谷啓治師の『宗教とは何か』からの引用です。そして今日の転載する箇所は前回のⅡー7と同様に『魂』が〝実在〟と考える立場からのものだと思われます。是非、コラムNo.1361から読み直して頂き、引き続いて、 今日の引用部をお読み頂きたいと思います。

★引用部
その感応(Sympathie)は意識以前の一層直接的な触れ合いとも云うべきもので、感情や意欲や思考などの底にひそむ衝動的・本能的なものに於ける、人間と人間との間の最も直接的な出会いの場とも云うべきものである。
然もそれは、人間と人間との間ばかりでなく、生けるものすべての間に考えられた。生命的な連なりは、個体と個体との間に於けるそう云う「魂」の感応の場として現れると考えられたのである。もとより、そう云う見方は、 近世の機械論的な自然観によって殆ど消されてしまったようである。

併しそれは果たして科学以前の自然観として無視されるだけでよいものであろうか。例えば夏の夜に外から一匹の蚊が飛んでくる。恰も獲物をみつけて歓呼しているかのような、快活な、元気な鳴声をたてて飛びかかってくる。 併し手で掴まれて手の中につぶされる一瞬、彼は甲高い、悲鳴のような鳴声を出す。それは悲鳴としか言いようのない声である。

例えば犬の悲鳴や人間の悲鳴と、声はそれぞれに違うが然も悲鳴と云う「本質」に於いては同じだ、と言うような声である。それらの声は、みな空気の振動で、それぞれ別な波長のものであるかも知れないが、我々にはそれを 悲鳴としてしか理解できないような同じ質を、或は同じ「本質」を、持っている。我々がそれらの声の中から悲しみを直接感じ取ると云うこと、それがかの感応の場で成立するものではないか。

そう云うところに古人が動物も魂をもっていると考えた理由も見出せるのではないか。魂と云うものを抹消しようとする現代の機械観的な生理学者や、機能主義の心理学者がなんと考えようと、今言った意味では、動物にも これまで魂と呼ばれる外ないような或るものがあるといえる。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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No.1364  2014.02.24
『五木・親鸞』のココを読んで欲しい

少し長く無相庵コラムを休ませて頂きましたが、今日から再開致します。

昨年の夏から始まった五木寛之氏の新聞連載小説『親鸞』を毎日読んでいます。『歎異抄』と『末灯鈔』等の御消息通から想像したいわゆる作り話ですので、私はあまり興味津々ではなく、斜め目線で読んで来たのですが、 神戸新聞の2月23日掲載分(197回目)に親鸞聖人に語らせている『業』に関する場面は一読しておく価値があると思いました。

その場面は、歎異抄第13章の唯円と親鸞聖人のやり取りを写し取ったものですが、その文言は、親鸞聖人が唯円に「私の事を信じて、私の言う事なら何でも聞くと言うなら、人を千人殺して来なさい」と言ったのに 対して、唯円が「それは無理でございます。私の器量では、人ひとり殺すこともできそうにありません。まして、千人なんて・・・」と答えた。「それは、そなたが善人だからか。人を千人殺すほどの悪人ではないからか」 と追い詰めた後に、『業』に付いて語らせた次のものであります。

引用―

「人ひとりも殺せぬ、というのは、そなたが善き心の持ち主だからではない。人は自分の思うままにふるまうことはできぬのだ。人はみずからの計らいをこえた大きな力によって左右されることがある。こうしようと願って そうできるとか、ああはしまいと決めて避けられるとかいうものではない。絶対にこれだけはやめようと誓いつつも、そこへはいりこむこともある。だから、善人、悪人などと人を簡単に分けて考えてはならぬ。そなたとて 、人を殺すなど決してしまいと思っていても、本当はわからないのだ。いつ人殺しをするかもしれない。それは業のせいである、という。しかし、業とは、世間でいう宿命ではない。結果には必ず原因がある、ということだ 。人は決してわが計らうままには生きられない。その願うとおりにならないことを、業をせおっているというのだよ。そなたも、わたしも、大きな業をせおって生きておる。そのおそれと不安のなかにさしてくる光を、他力 、という。救われる、というのは、そういうことではないか。わたしは、そう感じているのだ」

―引用終わり

世間では、「業が深い」とかいう言葉があり、『業』にはマイナスイメージがコビリ付いていますが、言い換えると『縁』だと思います。『過去の縁』と言ってもいいかも知れません。歎異抄第13章の中に、『故聖人のお おせには、「卯毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの宿業にあらずということなしとしるべし」とそうらいき。』と、あります。「全ては縁に依って生じる」と云うお釈迦様の『縁起の道理』そのものを表現を変え て親鸞聖人が言われた言葉ですね。

ここまで読まれても、皆さまも「いや、私は絶対にストーカーもしないし、殺人なんてとんでもない。絶対にしない!」と仰ることでしょう。私もそう思っています。でも、決してそうでは無いと云うことです。日常生活で 私たちは自分の思う通りにならないことが殆どではないでしょうか。思う通り、願う通りになることもありますが、全てがその通りにならないことには誰しも頷かざるを得ません。

『業』とか『縁』に依ると聞かされますと、私たちは、「どうせ頑張ったところで、仕方が無い」と考えてしまいますが、それでは『果報は寝て待て』と言って、寝て待てるかと言いますと、これまた〝人間の業〟で、じっ と寝てはいられません。

それを親鸞聖人は、「卯毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの宿業にあらずということなしとしるべし」と仰ったのでしょうが、「はい、そうですね!」と素直に頷けません。
でも、私の今の心の落ち着きどころは、色々と生じる問題・課題に対しまして、精一杯の知識と知恵を働かせて対処して行き、結果を受け入れて、また先に進んで行くしかないと云うところにあります。そして、一番肝腎なの は『何を願うか』と云うこと、つまりは何を価値観として生きていくかと云う自問自答を続ける事、即ちは仏法を聴き続けることだと思います。そして、その仏法に出遇った『縁』を有難き『業』と考えている次第です。

無相庵コラムを休んでいた間、会社が保有する特許の扱いを巡る交渉事に忙殺されていました。今も続いており、今週末には決着すると思っていますが、要するに、お金儲けのことです。会社に取りましても、私個人に取 りましても、大きく変化する局面です。人生を賭けた交渉事なのですが、頭に有りますのはお蔭様で「成る様にしかならない、結果に応じて、またその後に最善の道を選択することだ」と云う考え方です。これで人生が決ま る訳では無く、一つ一つが人生の途中の出来事の一つだと受け取ろうと云う考えです。勿論、こう成って欲しいと云う強い希望は持っています。そうなるように努力はしていますが、相手がある事ですし、相手にも周りとの 縁もあります。私にも相手にも分からない様々な縁に従って成る結果を、私一人ではどうしようも無いことも確かだ、と仏法に依って導かれた結果だと私は思っております。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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No.1363  2014.02.13
お断り

先週土曜日から今週火曜日まで3泊4日で2家族8人をお持て成ししまして少々疲れております。古希を迎えた身には少し過ぎた事だったと反省しているところでございます。
会社の仕事も乗り越えなければならない局面を迎えてもおりますので、体調が戻るまで無相庵コラムをしばらくお休みさせて頂くことに致しました。悪しからず、ご容赦の程をお願い申し上げます。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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No.1362  2014.02.06
ありがとう、いただきます、もったいない、ごちそうさま、おかげさま、はずかしい

『日本の心』、『日本人の心』、『日本の情緒』を端的に表す『日本の言葉』を並べました。まだ他にもあるでしょうが、残念ながら、私たちの日常会話から失われて久しい『昔の日本の言葉』でもあります。

これらの言葉の底に流れているのが、鈴木大拙師が言い遺された『日本的霊性』ではないかと私は思っています。即ち、私たち人間は他の命を戴いて始めて命を繋ぐことが出来ています。この心を失ってしまうと、 最早人間ではなくなるのではないか・・・こう云う考え方が『日本的霊性』ではないかと私は思います。また、これが仏教をお開きになられた『お釈迦様の心』でもありましょう。

月曜コラムに連載している西谷啓治師の『宗教とは何か』には難しい言葉が並んでいますが、『ありがとう、いただきます、もったいない、ごちそうさま、おかげさま、はずかしい』と云う言葉を忘れたところには、 「既に宗教は無い」と言っても過言ではないと思います。

食前食後に、この日本の心を、日本の言葉を噛み締めたいものです。
今週末、名古屋から娘の友人の母子とその友達計4人が二泊三日で来ます。娘の子供二人を合わせて、年長さんから小学3年生まで、5人の子供達を〝お・も・て・な・し〟致しますが、「いただきます、ごちそう さま」を〝いのち〟への感謝、手間への感謝と云う事を教えたいと考えています。

日本の政治家、日本のリーダーが上述の『日本の心』を取り戻した時、日本は世界の国々から共感され、愛され、尊敬される国になるのだろうと思います。
日本のリーダーにこの『日本の心』が無くなってしまったのは、私たち国民がこの『日本の心』を失ってしまったからです。『日本の心』を取り戻すには何百年かはかかると思いますが、 「先ず隗(かい)より始めよ」ですね。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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No.1361  2014.02.03
西谷啓治師の『宗教とは何か』(引用:Ⅱ―7)

そう云う実在の自己矛盾とも云うべき立場は、特に近世に於いて自我の主体的自立と云う立場が生起して以来、我々を強力に支配している。その情況を最もよく表しているものは、近世哲学の祖といわれるデカルトの思想である。 周知の如くデカルトは思惟(或は意識)を本質とする「思惟するもの」(res cogitans)と拡がりを本質とする「延長するもの」(res extensa)との間の二元論を立てた。

そこでは、一方、自我が如何にしても疑うことの出来ない実在として、然もあらゆる他の事物に対して中心的な位置を占めつつ、確立されて来た。かの「我考う、故に我あり」は、そのような自我のあり方、自己中心的に自らの実 在性を主張する自我のあり方の表現である。それと共に、他方、自然界の事物は、自我との生ける内面的聯關(れんかん/連関)をもたないもの、生命のない、言わば冷たい死の世界として現れて来た。動物や自己自身の身体さえ も機械と考えられた。デカルトは延長を物質と同じに考えているが、そう云う延長が事物の「本質」であると云う考えのうちには、自然界が死せる世界となり、機械論的な世界観が成立して来たと云うことが含意されている。

それによって、近代自然科学の世界観が成立し始め、科学的技術による自然支配の道が開かれ得たことは事実であるが、他面に於いて、世界は、自己中心的な自我としての人間にとって、単なる素材の如くなり、自然支配の強力な 権力を握った自我が、冷ややかな死せる世界に取り圍(囲)まれるものとなったことも事実である。

それぞれの自我は、いわば死せる物質の海に浮かぶ孤島のようなものになり、且つ必然的に自己自身のうちに閉じ籠もったものとならざるを得なくなった。生命は自然と自然的事物のうちから消え去り、もはや人間と事物との底を 流れる生ける紐帯(ちゅうたい;二つのものをかたく結びつけるもの)ではなくなったのである。

科学以前の世界観では、そういう生ける紐帯としての生命の観念が中心であった。生命はそれぞれの個体のうちに個体の生命として生きていると同時に、親と子の間、兄弟の間はもとよりひいてはあらゆる人間を実在的に結び付け ているものでもあった。例えば一本の樹の一つ一つの葉が、別々に散っていくにも拘わらず、同一の生命に生かされているように、個々別々の人間も同一の生命から生まれて来るものと考えられた。否、人間ばかりではななくあら ゆる生き物が、一層大きな一つの生命の樹に属しているものであった。

そして魂(psyche)といわれるものも、そう云う生命が或る形相をとって現れたものに外ならなかった。人間として現れた生命は人間的な魂と云う形相をとるが、動物や植物として現れた生命も動物的又は植物的な魂と云う形相を とる。即ち動物や植物もそれぞれの魂をもつと考えられた。また個体と個体の底を結ぶ生命を基にして、或る人間の魂と他の人間の魂との間に感応関係が成り立つとも考えられた。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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