No.1360  2014.01.30
人生をポジティブに生きるために―メタ認識

今年に入ってから、NHK―eテレの番組『“幸福学”白熱教室』を視聴しています。金曜日の午後23時から45分の番組です。明日金曜日が5回目の最終回となります。『幸福学』と云う言葉は初めて聞いたものなのですが、最初は 底の浅い表面的な幸福を求めている新興宗教的なものではないかと想像し、斜め目線で視聴を開始しました。
結論としても、仏教とはやはり幸福の捉え方とが少し違うなと思うようになりましたが、参考にすべき姿勢とか考え方を知ることが出来、全く無駄ではなかったと今では思っています。この『“幸福学”白熱教室』に関しましては、いず れ内容をご紹介させて頂きます。

今日は、その番組の中で、これまた初めて聞いたのが『メタ認識』と云う言葉です。読者の中にも初めて聞いたと言われる方も居られると思いますが、言葉は新しいものですが、考え方は、以前からあったものだと私は思いました。
先ず〝メタ〟が気になります。そのメタですが、〝メタ〟は〝meta-〟と云う英単語をカタカナ書きしたものですが、その〝メタ〟の意味は、後から(after)、超えて(beyond)、共に(with)、変化(change)などのニュアンスを持つ接頭語だそうです。

そして、今日のテーマである『メタ認識』とは「一段高い視野に立って物事を認識すること」のようです。サラリーマンの場合、上司の立場に立って考えて見ることが大切だと言われることがあります。平社員は課長の立場で、課長は社長の立 場になって考えて見れば、仕事の目的を大きく捉えられて、仕事に向かう姿勢が変わることがあるようです。

また、最近の例では、稀勢の里が綱取りから一転して来場所は負け越せば大関陥落と云うカド番になりました。想定外の怪我もあっての天国から地獄への転落ですが、「何故こんな目に遭うのか?」と悔やむのではなく、「これから本当に強くな る為に天から与えられたプレゼントだ」と、今だから出来る事を見付けて精進しようと考え直すのが、『メタ認識』だと思います。

私たちの人生では必ず事件、自己、災難、苦難に遭遇します。その時、一呼吸置いて、そんな自分を天空から眺めて見ると云うのが『メタ認識』で、物事をネガティブに捉えず、ポジティブに捉えてみることも大切だと云うことだと思います。

ある方のブログ『メタ認識,なるほど』と云うのがありました。分かり易いかも知れませんので転載して紹介致しますが、テレビゲームをしている人や、スマートフォンの画面に見入っている人には、周りが見えていないどころか、その自分 を見失っています。『メタ認識』が欠落している最たるものです。

ブログからの転載ー

先週,たまたま朝のテレビ番組で,今話題の脳科学者,茂木健一郎氏の教育についての講義のようなものを見た。
とにかく,子どもはほめるべきだというのが氏の持論。叱るのはほめる時のためのものだ,という。ああ,なるほどと受け流す。

最後に,テレビゲームについての質問に答えて氏曰く(の概略)。テレビゲームはほどほどであれば害はない。ただし,テレビゲームには足りないものがある。それがメタ認識だ。メタ認識とは,自分から一歩下がってか自分の頭上からか(正確 には忘れたが),一段引いて眺められる能力のこと,要は自分の姿・行為を客観的に見ることができるかどうかということである。

これには,心の中で快哉を叫んでしまった。どうも使い古された言葉で言いたくはないが,最近の若い世代あるいはテレビゲーム世代の人の特徴を見事に言い得ているような気がしてならなかったからだ。ビジネスにおいても,若い人たちは,何 か問題が起きたときに,もちろん知力はあるのだから,こうすればよいと対応する。思えば,テレビゲームの攻略のように,こうしてああしてこうなってという道筋を立てる。

たぶんその通りに行けば問題は解決するのだろう。しかしである。そういうことをしている自分が,あるいは会社が一歩引いてどう見られるかという配慮がないと思える場合に多々遭遇する。自分の決断のために,どんな業者や担当者が大変な思 いをするか,問題は解決しても,そのような解決方法をとった会社としての印象はどうなのか,どうもそこまでは考えられないようなのだ。

それを,なんだろう・・・と思っている矢先に「メタ認識」というテクニカルタームが出されて,しかと認識させてもらった。おそらく現実の問題解決方法はテレビゲーム(のロールプレイング)とは似ても似つかぬ多重構造になっているはずだ。
その点,宰相たる人は「あなたと違うんです。自分を客観化できるんです」というだけの器量を持っていたんだということを改めて思いだした。

ー転載終わり

『メタ認識』の欠落、これは決して他人事ではありません。私たちは往々にして、人生を歩みながら、歩むことに熱中し過ぎて、一番大事な自分を見失っていないかと、フト考えて見る必要がありそうです。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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No.1359  2014.01.29
西谷啓治師の『宗教とは何か』(引用:Ⅱ―6)

★無相庵のはしがき
先週一週間苦しみましたのは、やはりノロウィルスでした。体重を5㎏ダイエットとなりましたが、今朝はほぼ元通りの食欲に戻っております。
さて、宗教とは何かと云うことで、西谷啓治師の論文『宗教とは何か』をこれまで数回に渡って読み進んで来ているのでありますが、哲学的な言い回しに辟易されている方もいらっしゃるかと思います。 斯く言う私自身がそうなのであります。しかし、私は今しばらく頭の訓練、ボケ防止の積りで、頑張って勉強しようと思っておりますので、少々難しい月曜コラムではありますが、お付き合いをお願い致します。
だだ私は現在、この論文を勉強する傍ら、市井に生きながらも仏法の真髄に迫られた親鸞仏法の継承者のお一人だと確信している米沢英雄師の『宗教とは何か』と云うテーマで語られている法話の数々を勉強していると ころでございます(米沢英雄著作集 補巻・第一巻)。米沢師は親鸞仏法を、と云うよりも仏法そのものを信仰としてではなく、思想として捉えておられまして、その米沢師は西谷師のような難解な表現ではなくて、 「宗教とは自分の本当のところは何なのかを知る事だ」と言われているのです。つまり、これを西谷師流に言い換えますと、「自己の真実在が自己自身の内に現前化する事だ」と云うことになるのではないかと思いまして、 お二人の表現は全く趣きを異にするけれども、全く同じ事を言っておられるのだなと気付けるのです。
難解な事を勉強する事が目的になっては全く自分の為にもならないと思っておりますが、難解な言葉にはその中に馴れるのかも知れないと思いつつ、辛抱強く続けたいと考えています。

★引用部
我々は我々自身の自己及び我々の感情、意欲、思惟などをも実在的と考えている。併しその場合も、我々自身が我々自身に本当にリアルにふれているのかどうか、我々の感情や意欲などが我々自身に於いて、本当に実在的にその感情や意欲 自身として現前しているのかどうか、その感情がその感情自身のもとにあるとも云うべき、ありのままの有り方で現前しているのかどうかと云うことは、やはり同じように疑問である。

我々が事物との離隔の場で事物に対していると云う、まさしくそのことによって、そのことに対応して、我々が我々自身からも常に離隔しており、我々自身にリアルにふれていない。逆に言えば我々が事物自身の中で事物にリアルにふれる と云うそのことに於いて、即ち我々のそう云うあり方に於いて、却って我々が我々自身にリアルにふれていると云うことも起こり得るのである。

もちろん普通には、我々が「内」として「外」に対するそのところで、我々は我々自身のもとにあり、我々自身にふれている、と考えられている。自意識と言われるのがそれである。併しながら、「外」に対する「内」として、「外」への 関係に於いて自己中心的である自己は、事物から遊離して自己自身の内だけに閉じこもった自己、常に自己に対している自己である。

そこでは自己は自己自身を常に自己の前に置いて、事物から離れた「自己」と云う「もの」として見る。それが自意識の自己である。そこには自己と云う「もの」の形で表象が介在している。自己は真に実在的には自己自身のもとにはない 。自意識に於いては、自己はリアルに自己自身にふれていない。感情、意欲等が内に「意識」される場合も同様である。

事物も自己も感情も意欲等もすべて実在的ではあるが、併し通常それらが実在的として受け取られる意識の場の上では、それらが真にその実在性に於いて現前しているとはいえない。むしろ「内」と「外」との離隔の場が突破され、そこか ら転換が起こらない限り、先にも言ったように、実在的と考えられるものの間に不統一や矛盾が付きまとわざるを得ない。

その矛盾は例えば思想的には唯物論と観念論の対立として現れているが、併しそれは、そういう思想の段階に現れる以前に、既に我々の日常的なあり方、ものの考え方のうちにも潜んでいるのである。我々の日常的な生活の根底にある場は 、自己と事物の本質的な離隔の場、意識の場であり、そこではすべて実在の実在的な現前は起こり得ない。実在は切断されたバラバラの姿、自己矛盾を強いられた姿でしか現れていないのである。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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No.1358  2014.01.23
人間の真実

今週、一昨日から食欲が無く、体調がすこぶる悪いです。ひょっとしたら流行のノロウィルスが原因かも知れないですが、漸く快方に向かいつつあります。

米沢英雄先生が常々、「我々が夜安心して眠りに就けるのは、眠りこけても呼吸は何故か止まらないし、心配しなくても心臓も勝手に動いてくれるからや。この当たり前の事に気付くことが大事なんだ。」と言われていましたが、 食欲も排便排尿も同じこと、知らない間に護られて生きていることを実感しているところであります。

人間の身体の真実と心の真実に気付くことが、親鸞仏法の救いだと思います。特に、自我と本来の自己と云われる仏性が私たちの心にあることに気付くことが親鸞仏法の救いであり、そのことに気付くには、それを具体的に体現さ れた善き師の教えを聴くことでしかないと、親鸞聖人も言われています。

仏像とかに表現されている仏様が何処かに在って、それに向かって手を合わせれば、私たちに救いの手を差し伸べてくれる訳ではありません。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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No.1357  2014.01.20
西谷啓治師の『宗教とは何か』(引用:Ⅱ―5)

我々は通常外界の事物を実在的と考えている。併しその場合、我々が本当に事物の実在性に触れているのかどうかは疑わしい。むしろ我々は通常、事物を実在的と考えつつも、事物そのものに実在的に触れていない。 「自分を忘れて」事物そのものを「凝視」する、或は事物そのものになって視る、と云うことは極めて稀である。そこに、神自身の世界とか、無限者としての宇宙とかを直観すると云うことは、更に稀である。我々 は通常、自己から物を見ている。いわば自己と云う城郭の中から物に対向している。或は自己と云う洞窟の中からと言ってもよい。

既にプラトンは、我々が通常事物に対してある関係を、洞窟の中に繋がれているその壁に映る影像の去来を見ている人間、然もその影像を実在と考えている人間に譬えた。自己から見ると云うことは、いつも事物を 単に対象的に見ること、自己の「内」から「外」のものを見ることである。自己と事物との根本的な離隔の場で事物に対すると云うことである。
内と外、主観と客観との対立・離隔の場は、「意識」と言われる場である。我々は通常その場にあって、表象或は観念を通して事物に関係している。従って如何に事物の実在性と言われても、事物はその実在性を真 に実在的に我々に現わして来ることはない。

我々が事物のありのままの有り方に触れると云うこと、つまり事物が事物自身に於いてあると云う事物のもとで、実在的に事物に触れると云うことは、意識の場では不可能である。意識の場は何処までも自己が中心 に置かれている場である。

★無相庵の註釈
今回の内容も前回と同じく、私たちは私たちが認識している積りの実在は、本当の実在ではないと云うことを延々と述べているのだと思います。 「自己と云う洞窟の中から」物事を見ていると云う表現がありますが、もっと分かり易く言い換えますと、色眼鏡(いろめがね)で世の中を見ていると云うことではないかと思います。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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No.1356  2014.01.16
完ー自己愛と劣等感

『自己愛』は「自己を愛する心」です。ただ、その自己とは往々にして「自分の心の裡に住みついている欲望」であり、この場合に『劣等感』を生じざるを得ないと思います。欲望とは『名利(みょうり)を求める心』です。〝名誉心〟と〝 お金欲しさ〟です。この二つを追いかけると、上には上がありますから、どれ程努力しても『劣等感』との闘いになるのだと思います。

この『名利心』を自分の問題だとされたのが実は親鸞聖人です。「是非知らず邪正も分からぬこの身にて、小慈小悲も無けれども、名利に人師を好むなり」と和讃に歌われています。つまり、「自分の心をよくよく見てみると自分は有名にな りたいし、師匠と仰がれたい思いがある」と。

しかし、その親鸞聖人こそが、本当に自分を愛した人ですから、自分の『名利心』に気付かれ、その『名利心』に負けることが無かったのだと思います。親鸞聖人は「本来の自己を求めねばならない、それには、お釈迦様の教えを自分のもの にしなければならない」と云う『使命感』に燃えられて『自己愛=名利心』であったと気付かれ、私たちに親鸞仏法を遺されたのだと思います。

今日はこれから東京出張です。名利を求めての出張ですが、技術の進化を求めての出張だと言い聞かせて出発したいと思っております。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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No.1355  2014.01.13
西谷啓治師の『宗教とは何か』(引用:Ⅱ―4)

併し今まで言ったような実在のいろいろな意味とは、質的に全く違った意味の実在感であり、実在性の意義がある。例えばドストエフスキーの『死の家の記録』には、囚役に服していた彼が、或る河の畔で煉瓦運びをやりながら、 その土地の風物にうたれた時の感慨を記している箇所がある。荒涼たるステップ地帯、天空の無限な青のうちに輝いている太陽、対岸から聞こえて来るキルギス人の遠い歌声などを語った後、彼は次のように言っている。「じっと 長いこと眺めていると、やがて遂に貧しいくすぶった乞食小屋らしいものが見分けられる。小屋のほとりに立ち昇る煙、その辺りで二頭の羊を相手に何か忙しそうにやっているキルギス女などが見えてくる。それ等は凡て見窄(みすぼら)しく 野蛮めいているけれども、その代わり自由である。鳥はさっと水面を掠(かす)めたかと思うと、忽ち空の紺青の中に消えてしまう。と、またもや僅かにそれと見分けられる小さな点となって姿を現し、ちらりと見え隠れする。・・・早春 の頃、岸の岩の裂け目にふと見つけ出した貧しい惨めな一輪の花でさえ、何か病的に私の注意を惹くのであった」。

彼はその地点のことを、「我々が神御自身の世界、即ち一つの純粋な輝いている地平、自由な曠野(広野)、を見た唯一の地点であった」と言い、その川岸で広大な、人気のない空間の上に視線を送っている時、自分はみじめな自 分を忘れることが出来た、とも言っている。
ここでドストエフスキーが語っているのは、立ち昇る煙とか、羊の世話をしている女とか、貧しい小屋とか、飛んでいる鳥とか、全て我々が日常触れている事物である。われわれはそれを日常的な意味で実在的と言っている。そして そこから科学や哲学の理論へ入って行く。併しそういうありふれた事物に対して、それを凝視するとか、それが殆ど病的なまでに自分の注意を惹くとかいうことは、決して日常的ではない。化学や哲学の理論によるのでもない。そ こには我々が日常に実在的といっている物が、質的に全く別な次元で彼にリアルに迫って来ているのである。我々が見るのと同じ実在的な事物ではあるが、その事物の実在的と受け取られた時の実在性の意義、また実在感は、質的 に全く違っていたのである。それ故にこそ彼は、そこに「神御自身の世界」を見ることが出来た。またみじめな自己を忘れることが出来た。

彼はその後にも、『未成年』や『カラマーゾフの兄弟』のうちで、夜明けの一枚の木の葉や日光の光線のうちにも、或は赤子の泣声のうちにも神をみる、と言っている。
宇宙万物の間には一切か相依り相俟って成立しているという大きな調和があり、或る神秘的な秩序が支配している、そこから見ればどんな些細なもののうちも神が見られる、と言うのである。そういう背景の上で、日常的な事物に ついての深い実在感が成立したと言える。それは、『死の家の記録』の場合には、自由を奪われた獄舎の生活と結びついているが、しかしその実在感そのものは、そういう特異な事情がなければ生れ得ないような特異な経験なので はない。むしろ誰もが経験し得るはずのもの、また実際に古来多くの詩人や宗教家が経験して来たものなのである。

★無相庵の註釈
私たちが事物や現象を見たり感じたりする時、その事物や現象の認識内容は個々人の間で大きく変わります。極端な例で言いますと、同じ人でも、余命数か月と云う癌告知を受ける前と受けた後では、周りの景色も、周りの命、つまり周りの動植物を見る眼、 感じ方は大きく変わるのではないかと想像出来ます。かなり前のことですが、山田無文老師のご法話の中で紹介された、確か島秋人と云う死刑囚の詩の中に「死刑囚、蟻となりても生きたしと思う」と云う表現があったと記憶しています。 多分、獄中に迷い込んで来た蟻ん子を見付けて、感じた切なさを歌ったものだと思いますが、死刑囚でなければ感じとれない『蟻ん子』の実在性、命の実在性、〝いのち〟の尊さと云う実在性ではないかと、思い出したつつ考察した次第です。
そして、文中に在る『神御自身の世界』とか『神を見る』は、キリスト教を知らない私の勝手な想像ですが、法然上人や親鸞聖人が覚られた『自然法爾(じねんほうに)の世界』ではないか、『如の世界』つまり『ありのままの世界』と云うことではないかと 読み取りました。大きな間違いかも知れませんが・・・。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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No.1354  2014.01.09
続―自己愛と劣等感

物心つけば誰でもその時点で自己愛を持っているのではないかと考えます。仏法が説く煩悩の源である「自分が一番可愛い」と云う〝自己愛〟と云う程のものではないとは思いますが・・・。その自己愛から『使命感』が生まれるか 『劣等感』が生まれるか、人生の大きな分岐点だと思われます。

その分岐点は、多くの場合、自我が生まれる前の幼少期の最後とも言える小学校6年生までに訪れるのではないかと私は考えます。親の影響は大きいと思いますが、親や兄弟以外の周りの人と接して受ける影響、例えば、 「かっこいい!私も、僕も、あんな風になりたい!」とか、自分と親しい周りの特定の人から「何かですごく褒められた」とかで、『使命感』と言いますか、或は自分の将来の在るべき像を心に描ける人が居ます。

反対に、16歳でノーベル平和賞候補にまでなったパキスタンの少女マララ・カフザイさんの様に11歳の時に「とてもショックな経験をして、これではいけない。何とかしなければ!」と考える人も居ます(お父さんは教育者です)。
正に仏教を開いたお釈迦さまは、少年時代に「どうして、人は誰もが苦しみ悩みを持って生きなければならないのか。何とかならないか・・・」と考え、終には皇太子の身分を捨て、妻子を捨てて、城を抜け出し、 苦行を求め出家したと言われています。

使命感は、どうやら生まれた環境、両親の影響が大きいようです。では、劣等感は、どうして生まれるのでしょうか?
多分、劣等感も、自分が一番劣っていると云うものではなく、〝その他大勢の中の一人〟と云うことではないかと考えます。つまり、「目立つ子に隠れた普通の子」、「特に誇れる点が無く、大したことは無い自分」と云う 認識で、「目立つ子には決してなれそうにも無い、目立つ子よりもとても劣った自分」と云う認識の『劣等感』ではないかと思います。だから、特別な努力も出来ず、努力をし始めても続かないと云うことで、なかなか劣等感を払拭出来 ないまま、生まれ甲斐も生き甲斐も持てないままの人生を送ると云うことではないかと私は考えています。

上述の劣等感(その他大勢感と言った方が良いかも)が生まれる一番の原因は、小学校での児童の評価が勉強(運動神経の評価に繋がる体育も含む)の成績の優劣に重きが置かれているところにあるのではないかと考察し ています。子供に使命感を持って貰いたいはずの親自身が、学校の成績で自分の子供を評価してしまう学校教育になっている故に家庭教育までも、その影響を多大に受けていると云うことではないかと考えます。

次回の木曜コラムに続く

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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No.1353  2014.01.06
西谷啓治師の『宗教とは何か』(引用:Ⅱ―3)

今まで挙げて来たようなものとは別に、死や虚無も実在する。虚無はそれらのいろいろに事物や事象の存在そのものに対する、絶対的な否定性を意味し、死は生そのものに対する絶対的な否定性を意味するが、 生や事物の存在が実在的といわれると等しく、死や虚無も実在的といえる。有限な存在者があるところ――そして万物は有限な存在者である――には必ず虚無があり、生物の生あるところには必ず死がある。 そしてそういう虚無や死の前では、一切の存在や生は実在としての確かさや重みを失って、却って非実在的に見えてくる。陽炎(かげろう)の如く、夢の如く、影像の如くなど、存在や生の儚さを言い表す言 葉は古来頗(すこぶ)る多いのである。

 普通には実在とか実在的とかいう言葉は、例えば事物が実際に存在するというような意味に使われる。そういう語法からいえば、存在というものの絶対否定である虚無を実在的ということは出来ないか も知れない。しかしまた、あらゆるものが虚無に帰すると言われるような場合、虚無はリアルに現前するということもいえる。実在ということをそういう意味にとれば、事物の存在というような場合は寧(む し)ろ、「実有」として、(無に対する有として)、区別して言った方がよいかも知れぬ。その場合、実有はすべて実在であるが、実在は必ずしも実有ではない。ここでは実在とか実在的ということをそうい う広い意味で考えるのである。

★無相庵の註釈
『実在』とか『真実在』と云う熟語は、プラトンやソクラテスなど昔の哲学者達が広く使用して来たものであります。私のような哲学に馴染みの無い者からしますと、言葉の遊びのように思ってしまう面も有ります。
『実有』と云うこれまで聞いたことが無い熟語に至りますと、特に、言葉の遊びではないかと、白けそうになりました。しかし、死とか虚無が実在と言ってしまうと、死体と死も同じく実在として括(くく)ることには違和感があり、 実有と実在に分けたくなるのも理解出来ます。
素人の私の独断ですが、西谷師や他の哲学者たちが言いたいことは、人間には実有にしろ実在にせよ、その本当のところ(真実在と言うべきか)は分かり得ないと云うことではないかと考えています。例えば、『宗教』とか 『仏教の悟り』も、『死』や『虚無』と同じく哲学では実在と言うのだと思いますが、『宗教』も個人個人に依っては何を以って『宗教』と言うかは異なるのだと思われますし、『仏教の悟り』も、私が今考えている『仏教の悟り』と、 本当に悟りを開かれたらしいお釈迦様の『仏教の悟り』とは大違いなのかも知れません。更にお釈迦様の『仏教の悟り』も、宇宙の真理から言うと真の悟りでは無いかも知れません。この『真の悟り』を『真実在』と名付けるのではないかと思います。 そして、『真実在』は人間には永遠に分からないと、否、むしろ「永遠に分からないと思いなさい」と云うことかも知れません。

私の考え方、捉え方が哲学者からすれば、大いなる間違いをしているかも知れませんが、そう云う捉え方から、これからの西谷師の実在論を読み進み、確認したいと思っているところです。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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No.1352  2014.01.02
自己愛と劣等感

明けまして、おめでとうございます。

年の始めから、心が暗くなりそうなニュアンスを持つ表題で申し訳ないです。
実は年末のNHK番組で、昨年から紅白歌合戦に出始めた美輪明宏さんが、「美輪さんを突き動かしているのはなにですか?」と云うインタビューに答えて、「使命感です。誰にでも使命感がある。気づくか気づかないか。 皆気づかないのは劣等感が邪魔してる。戦争を体験して、物質的には不幸な時代だった。焼け出された人たちが駅構内に住んでいたけど、皆盗みをしなかった。自分に対する誇りをもっていた。今は大変なのは大変だけど、 当時に比べれば極楽」と話した時の『劣等感』と云う言葉が非常に印象深く残りました。

親鸞仏法は、煩悩の根っ子にある『自己愛』がキーワードです。人間皆、自分が一番可愛い、しかしそう云う自己愛から苦しみや悩みが生れて来ると考えます。ただ、この自己愛は生きている限り失(う)せることは無いと 親鸞聖人は考えられましたが、しかし、その自己愛そして煩悩が失せないままで救われる世界が開かれるとも申されました。

そこで、その『自己愛』と『劣等感』、『使命感』とはどう云う関係になるかと考えた訳です。生きて行く中に『使命感』を持つと云うことは、生まれ甲斐と生き甲斐を持つと云うことであって、非常に大切、と言うよりも 、ある意味仏法の究極の目標とするところだと私は考えており、その『使命感』を持てないのは、『劣等感』がそれを邪魔していると美輪明宏さんは仰ったのですから、『劣等感』は『自己愛』と共に仏法のキーワードにな り得ると考えた次第です。

そこで考えたことは、「本当の自分を知らないから、劣等感を持つのではないか」と云うことです。「自分の命の尊さを知らないから、劣等感を持つのではないか」と言い換えるべきかも知れません。『自己愛』は中途半端 な愛、否、むしろ間違った愛、本当の自分を知らないままの愛だと思います。自分を本当に愛してないから、その証拠に、その自己愛が自分を苦しませ悩ませている訳ではないかと考えました。

殆どの人は、テレビの中で紹介される大金持ちや、トップアスリート、一流歌手や芸能人等の有名人を羨ましく思う一方、自分は絶対にあのようにはなれないと諦めが先立つのが大方でしょう。それは『劣等感』から来てい ると美輪明宏さんは考えているのだと思います。

では、どうすれば『劣等感』を持たないようになり、『使命感』を持って生きていけるようになるのでしょうか?

次回コラムに続くー

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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No.1351  2013.12.31
今年を振り返って

いよいよ大晦日を迎えています。
今年を公(こう)と私(し)に分けて振り返っておきたいと思います。

先ずは公、つまり私の株式会社プリンス技研の仕事の事です。
私の特許技術を利用した製品の量産開始が至らないまま年越しです。基本技術的には完成したと確信していますが、量産と云うのは素人軍団の教育から必要です。技術内容を詳細に知らない顧問先のベトナム工場の生産要員が、目標とする製品の品質を安全に、 且つ予定した期間内に受注した数量の製品を仕上がるために必要な製造条件や作業手順、検査基準を文書化して指導する必要があります。この部分は顧問先の企業に委ねるしかありませんので、靴と靴下の底から痒い足の裏 を掻くような、歯がゆさがあります。ただ、それが出来て始めて技術が完成したと云うことになりますから、どんな製品も、そのような段階を踏んでいる訳ですから、あと一踏ん張りです。

量産を直前にしている開発製品がもう一つあります。これは、特許実施権を供与している相手企業に全て任せている案件です。ただ、量産が開始出来たならば前述の製品よりも私に入って来るロイヤリティーが約10倍 になりそうですので、早く量産開始となって欲しいですが、じっと待つしかありません。

次に私(し)、これは私の家庭と子や孫に関する事と無相庵に関わる仏法のことです。
夫の転勤で新潟市から岡山市そして博多へと移り住んでいた長女が、結婚13年目にして神戸に帰って来たことは大きな変化の一つでした。小三の男児と小一の女児を連れて神戸に帰って来ました。そして娘は私の長男が 勤務する神戸酒心館(福寿ブランドで、ノーベル賞の晩餐会で振る舞われた日本酒メーカーとして知る人ぞ知る?)に、週に二日、子供達が帰宅するまでの短時間勤務、且つ春夏冬休みは勤務無しと云う勝手気ままな勤務を受 け入れて貰っています。パソコン能力とデザイン能力、マルチ能力を買われてのことだと父親の私は親バカとは思いつつ喜んでいます。
兎にも角にも、私の長男長女で福寿ブランドを世界の福寿ブランドにランクアップさせて欲しいと思っております。

無相庵コラムに関しては、読者が少々減少しております。昨年までの読者数は毎週のアクセス数から250人位かと見積もっていましたが、現在は80人位減少して170人位ではないかと推定しております。この原因は、宗派に拘らない内容から 親鸞仏法に偏ったからだと考えています。実際、一般市民が仏法で救われるのは聖道門の禅宗等では難しく、親鸞仏法でしか為し得ないと私自身考えるようになりましたから、この結果なのだと考えております。そして、読者数が減 ることは残念ではありますが、宗教には相性があります。縁を説く仏法ですから、私は縁だと考えており、私の無相庵にお一人の読者さんがいらっしゃる限り、続けようと思っております。

そして、私は私を含めた特別ではない一般の市井の人々が救われる仏法とは何か、そして、その伝え方はどうあるべきかを常に考えて来ました。これからもそれを続ける積りです。少々難しい内容にもなることもありま すが、無相庵ホームページに来られる人々と共に、勉強し続けて行きたいと考えております。

今年、特に思ったことは、親鸞聖人の生きて居られた時代と現代とは、人類の欲望、生活スタイル、宇宙に関する知識等に於いては相当の相違があり、仏法の説き方を大きく変えるべき時代に来ているのではないかと云うことです。

新しい年を迎えましても更に、私自身が救われることと共に、日本が、そして世界が救われる為の仏法を求め発信して参りたいと考えております。
本年も無相庵コラムご愛読有難うございました。
皆さま良いお年を!

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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