No.1350  2013.12.25
西谷啓治師の『宗教とは何か』(引用:Ⅱ-3)

★はじめに
先週末の土曜日から今週の月曜まで、5人の孫が二泊三日で我が家に逗留し、主夫の私は大忙しでした。
従いまして、月曜コラムはサボってしまいましたが、水曜日の今日、コラムを更新し、明日の木曜コラムは無しとさせて頂きます。

★西谷師の著書からの引用
実在といえば、先ず日常の立場から、我々の「外」の事物や出来事が実在として考えられる。我々のまわりにある道具、山川草木、或は可視的な宇宙などである。また他の人間、社会、国家、其等に於ける人間の種々なる営み、 歴史の出来事などである。更にまた我々の「内」なるいろいろの感情、意欲、思惟のようなものも実在的と考え得る。日常の立場から進んで、自然科学の立場になれば、個々の事物や現象などよりも、むしろそれらを構成する 原子とかエネルギーとか、或は科学的法則というものが、却って実在的と考えられるかも知れない。

社会科学者ならば経済的関係を、他のあらゆる人間的営みがその上に成立する実在的な基底と考えることも出来る。また科学とは別に形而上学者は、それらすべてが現象界に属する事象であり、真の実在はその背後にあるイデ アであると言うかも知れない。

併しいづれにしても、問題はむしろ、そのようないろいろのものが実在的と考えられながら、然もその間に互いに不統一があり、矛盾さえもあるということである。一方からいえば、外界のいろいろな事物を実在的といっても、 それらは根本に於いて数学や自然科学の法則と離れてあり得ない。例えばそれらが占めている空間やそれらが行う運動は幾何学や力学の法則に従っている。それを離れては個々の事物も存在し得ない。且つそういう法則の把握が 、事物を処理したり新しく改変したりする技術の基になっていることは言うまでもない。

更に、感情や意欲などのような意識現象でも、生理学的或は心理学的な法則を離れてはあり得ない。また、一層具体的な人間生活の内容としては、それらは社会科学の考えるような実在的な関係と離れては考えられない。併し他 方からいえば、如何なる自然科学者も、自分の食べる食物や自分の子供達が個々に実在だということは否定し得ないであろう。 現代のどんな社会科学者でも、例えばギリシャ彫刻を見て美しいと感じたり、或は梅雨に鬱陶しく感じたりする自分の感情を、そのままで実在的な出来事と考えないわけにはいかないであろう。その限り彼も古代人と少しも変わらない。

形而上学者の場合でも問題は同じである。現に、感性的な事物とイデア(ものの姿、形の意味、プラトン哲学で使われている)との関係ということが、昔から形而上学の一番問題にして来たところであるが、それは結局何が実在かという問題にほかならない。
要するに、日常的、科学的、哲学的など、いろいろの立場でいろいろなものが実在と考えられながら、その考えの間に非常に不統一があり、矛盾さえもある。例えば科学者が科学の立場で実在と考えるものと、同じ科学者が日常経験 の立場で実在と考えるものとは、全く反対であって、然も彼自身いづれをも否定出来ない。何が真に実在的であるか、簡単には言えないのである。

★無相庵の註釈
私たちが本当に存在しているかどうかを認識するのは、眼耳鼻舌身の5官に依ると考えるのが一般的でありますが、これに第六感といわれる 〝意〟を加えると云うのが、西谷氏の実在論のようです。
しかし『実在』、更には『実在的』と云う単語は私には取っ付き難いものです。日常親しんでいる単語とは丸っきり異なって、ピンとは来ません。
現時点での私の理解は、恐らくは、「一つのものを見ても、十人十色であって、夫々に異なる物を見ている。」と云うことを言いたいのではないかと思います。「人間は本当の物、つまり実在を見れていない」と云うことを言いたいの ではないかと思います。
同じものを見ても、人に依って異なると云う譬えで、小学生達に同じ風景を写生させた場合、一つとして同じ絵は無いと云うことがあります。また、私たち夫婦は、テレビに出て来る俳優・タレントの好き嫌いの評価は一致しますが、 隣の奥さんが誰に似ているかでは、全く違う歌手の名前が上がります。私は〝島津亜矢〟、妻は〝香西かおり〟と云う違いっぷりです。実在が何であるかは分かりませんが、異なるものを見ているのですから、実在を見ていないと言え るのではないでしょうか。
また、最近は離婚が多いですが、結婚前に相手の実在に出会っていたら裏切られることは無いのですが、実在を見ていないから、結婚後時を経ますと、「私が結婚したいと思った相手はこんなはずではなかった!」と云う事になり、離 婚になるのかも知れません。
そもそも、人間同士でもこのようにも物の見方が異なりますが、それよりも、私たちと犬や猫とは同じものを見ていても、人間同士以上に全く異なるはずです。

西谷師の実在論がどう進むか、私も把握出来ておりませんが、私たちは実在ではないものを見ていると云うことを出発点としなければならないのではないかと思います。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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No.1349  2013.12.19
完―神も仏もあるものか!

『キリスト者は東日本大震災をどう考えたらよいのか』と云うあるキリスト教牧師さんの論文を読ませて頂きましたが、結論がなかなか見出せず途中で読み切るのを諦めました。と言うよりも、結局は私を納得させてくれる結論が出せていない と考えました。私はキリスト教を知り尽くしては居ませんが、創造主としての神様を立てていることにどうしても抵抗感を払拭出来ません。そして、やはり魂不滅の考え方をもすんなり受け入れないまま今日まで来ております。これは私が 熱心な仏教徒である祖父や母の影響を受けて幼い頃から仏教に親しんで来たからだけではないと思っております。何故かと申しますと、仏教徒の中にも、仏様を神様にように捉えている人々もいますし、またそのような宗派も存在することに懸念 を持っているからです。仏教はお釈迦様が悟られた『縁起の道理』と云う真理を出発点とした宗教(お釈迦様は宗教とは思ってはおられなかったと思いますが)です。それがお釈迦様が亡くなられてから数百年後には、大乗仏教も起こり、浄土や 阿弥陀如来等の仏様を立てる宗教に変質したことは間違いないと思います。また、南無阿弥陀仏、南無釈迦牟尼仏や南無妙法蓮華経等、お釈迦様の時代には無かったであろうキリスト教のアーメンに相当する祈りの呪文も生れました。
私は、これらの呪文を否定は致しませんが、先ずは真理を中心にされたお釈迦様が説かれた本来の仏教ではなくなってしまっていることに対しまして、「これでよいのか?」と考えこんでしまう訳です。

従いまして、私たちを苦難や苦悩から救い上げて下さる存在としての「神も仏もあるものか!」と思うのが、正直なところなのてす。

上述のキリスト教牧師さんの言い分は、「神は自身に似た形の人間を造られた。そして、人間は人間以外のアラユル被造物(動植物も自然に存在するもの全て)を神に代わって愛に依って統治し、この世を幸せな世界にするのであるが、未だその 途上段階にあり、自然災害に対処するまでに至っていない故に、東日本大震災のような大きな被害を免れないのである。」と云うところではないかと思います。そして、魂は不死であるから、祈りを捧げようと云う姿勢ではないかと思われます。

キリスト教国も多く、世界のキリスト教徒(22億人)は、イスラム教徒(16億人)や仏教徒(4億人)よりも多い(因みに無宗教者が11億人)。従いまして、私の知り得ない何か拠り所となる重要な点がキリスト教にはあるのだろうと思いますし、 イスラム教も、過激な原理主義者や集団が目立ちますが、仏教徒の4倍も居る訳ですから、これまた、私の全く知らない人に安心を与える拠り所があるのでしょう。考えてみれば、仏教でも、キリスト教徒やイスラム教徒には本当のところは理解されて いませんし、仏教徒自身であっても、お釈迦様本来の仏教をご存知でない方も居られるように思いますので、簡単に「神も仏もあるものか!」と言ってはなりませんね。

では、私は東日本大震災などの災害で尊い命が無慈悲に失われてしまうことを、今はどう考えているかを申し述べて、このシリーズを『完』とさせて頂きます。
宇宙の全ては、私たち人類には永遠に知り得ないルールで変化し、また存在しているのだと考えています。そして、全ての存在は平等であり、人間だから他の動植物よりも優れているとか尊い命だと云うことはないと考えます。 人間は、他の動植物を無慈悲に其等の命を奪って、自らの命を保とうとします。命が生きる為には他の命を奪うしかないと云う宇宙が設(しつら)えたルールですから、これも仕方ありません。他の動植物の命も、お互いに他の命を奪うことなく生きら れないのですから、これまた致し方ございません。そして、地球も太陽も、常に変化しています。数十億年後か数百億年後か分かりませんが、必ず消滅すると聞いております。「常に変化する、常にそのまま有ること無し」と云うお釈迦様の説かれた『無常』が宇宙 のルールですから、地球も様々に変化しつつ、燃えている太陽が段々小さくなっていきますから、地球もやがては命が生きられないような極低温になり、そして地球そのものも無くなります。その変化の中の小さな小さな変化の一つが地震だと考えます。

無常であるからこそ、個々の命は生まれ、無くなります。無常だからこそ、私たちは現に存在し、いずれは亡くなるのは、宇宙のルールに従っているだけだと考えるしかありません。

諦め主義のように捉えられるかも知れませんが、もし、仏様をたてるならば、そう云うルールに従って否応なく亡くなる個々の命に対して、申しわけないと云う悲しみの涙を流しつつ、せめても存在している間は、幸せに生きてくれと、見守って下さっ ているのが、仏様ではないかと思うのです。そして、多くの命の犠牲に依って生かされている私を思い、今の命を大切にして一日一日を生きたいと思うのです。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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No.1348  2013.12.16
西谷啓治師の『宗教とは何か』(引用:Ⅱ-2)

その場合、実在の自覚と言った意味は、我々が実在を自覚すると云うこと、及びそれと同時に、その我々の自覚に於いて実在自身の自己実現が成り立つと云うことである。逆に言えば、実在の実在的な実現が成り立つと云う仕方でのみ、 我々が実在を実在的に体認し得ると云うことである。英語には「実現する」と「わかる」と云う両方の意味を持ったrealiseと云う語があるが、我々が実在を覚知し得るのは、実在自身が我々に於いて自らを実現すると云うことであり、 実在が我々に於いて自らを実現すると云う仕方でのみ、我々は実在を体認し得る、それ故また、我々が実在を体認すると云うことのうちに、実在の自己実現が成り立つ、と言おうとするのである。

従って、その体認(realisation)は、哲学的な認識と違って、理論的な認識でなくrealな体得である。そのrealな体得は、我々自身のあり方そのものを本質的に規定する。実在の実在的な覚知は、我々の実在的な有り方そ のものであり、我々の存在の真実なる実在性をなす。実在の覚知が我々の存在の実在性をなし得るのは、それが実在自身の自己実現と一つにのみ成立するからである。その意味で、実在の体認としての我々の存在の実在性は、実在の自 己実現として実在そのものに属している。

換言すれば、実在の自己実現は、我々の存在を真に実在的ならしめると云う仕方でのみ起こり得るのである。併し、そう云う実在とは一体何を指しているのか、と問われるかも知れない。もしその問いが普通の問いのように単なる知識 を求める問いであり、観念的(或は概念的)な答えを求める問いであるならば、それは今言ったような実在には相応しない。問い自身が「実在的」な問い、つまり自己の全心身を挙げての問いとなるためには、それは実在自身へ還され たものとならねばならない。実在を問う問いも、実在自身に属するものとならなければならない。

それ故に私は、ここでは、宗教的要求と云うものを、人間が真の実在をリアル――つまり、普通の知識や哲学認識の場合のように、観念と云う形に於いて理論的にではなく――求めてゆくことと解し、そう云う角度から、宗教とは何かと 云う宗教の本質についての問いに、何が真に実在であるかとリアルに問い求められて行くその道程を跡づけると云う仕方で、答えることを試みようと思うのである。

★無相庵の註釈
今日の内容は私自身なかなか読んで理解出来ません。でも、これから先を読んでゆくと分かるかも知れませんので、諦めずに先に進みたいと思います。
ただ、難解な『自己実現』と云う熟語は、調べますと、下記の説明がありますので、これぐらいは頭に入れて、先に進みたいと思います。
『自己実現(Self-actualization)また、(Self realization)は、もともとは心理学用語で、ユダヤ系のゲシュタルト心理学者で、脳病理学者でもあったクルト・ゴールドシュタイン(Kurt Goldstein)が初めて使った言葉で、そのゴー ルドシュタインは、ベルリン大学の教授であったが、ドイツにおけるナチスの台頭により、1935年、オランダに逃れ、翌年アメリカ合衆国にわたり、その後、アメリカの心理学の分野に大きな影響を与えた。彼の教え子の一人カール・ロ ジャーズが、これを、人が自己の内に潜在している可能性を最大限に開発し実現して生きることとして概念化し、これをもとに、健全な人間は、人生に究極の目標を定め、その実現のために努力する存在であるとしたことで、この言葉が 世に知られるようになった。』

でも、無相庵読者のどなたかで、お分かりになられる方がいらっしゃったら、お教え頂ければ有難いです。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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No.1347  2013.12.12
政治家とマスコミにこそ必要な惻隠(そくいん)の情

猪瀬東京都知事が気の毒で堪らない。昨日久し振りに更新した〝世事雑感コーナー〟で申し上げた通りである。彼には誰一人相談出来る人物は居ない。唯一の運命共同体である奥さんを今年の7月に失っているからである。

昨年の知事選挙で支持した自民党の都議会議員も含めて、公明党、共産党、みんなの党の議員達から、傷め付けられている。川で溺れた者が何とか岸に這い上がろうとするその手を足蹴にするのと変わらない状況である。被 疑者を取り調べる警察官か検事のような情け容赦の無い苛めっぷりを目の当りにして、「惻隠の情」と云う中国戦国時代の儒学者、孟子(もうし、紀元前372年- 紀元前289年)の言葉を思わずには居られなかった。

今の日本は「悪い者は悪い、悪いことをした者に同情する余地は全く無い!」と云う考え方が一般的になっている。どちらかと言うと性善説よりも性悪説がはびこっているのではないかと云う世間一般の風潮である。
それ故に、今の日本の政治は弱者よりも強者に重きを置いた施策を政府与党が取りがちなのだと思う。それは、今の政治家全体に言えることであるが、惻隠の情を持っていない政治家が殆どのように思う。それに輪をかけた のが新聞・テレビのマスコミの報道姿勢である。

人間社会に法律が無ければ、安心して生活出来ない。少しでも暮らしやすいよう、問題が起こらないよう、予めルールを決めて、決めたルールを守らなければペナルティーを課すと云うのが法律や条例である。それはやはり お互いに守らねばならない。守らなければ決めたペナルティー(罰則)を与えられ償わねばならないことは勿論である。

しかし、未だ法律を破ったかどうかが確定していない人に対して、性悪説から集団で苛め抜くことは許されてはならないと私は思う。そう云う社会は恐ろしい。ちょいちょい冤罪が起きてきたのは、どちらかと言えば性悪説 に偏っている社会に問題があるのだと思う。

性悪説にも性善説にも偏ってはいけない。難しいことではあるが、事実を直視することが何よりも大切だと思う。今の日本をリードする政治家とマスコミに対して一番望みたいことである。一方我々国民は、マスコミが流す情報(映 像、コメント)に偏りが無いかどうかを判断出来る国民にならねばならないと思うのである。。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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No.1346  2013.12.09
西谷啓治師の『宗教とは何か』(引用:Ⅱ-1)

宗教はいろいろな側面を持ったものであるから、色々な角度から近付くことが出来る。それは通常、神と云うような絶対的なものに対する人間の関係として規定されるが、そう云う規定さえすでに狭すぎるとも考えられる。 そのために例えば聖なるものと云う概念を用いる人々もある。ましてその関係を更に具体的に考えるには、様々な角度が可能である。例えば人間が自己の我意を捨てて神の意思に従って生きることであるとか、神を見る、乃 至神を知ることであるとか、神が自己に顕現して来ることであるとか言われる。或は、自己の存在が神の存在に依存していることの直接的な感得とも考えられ、神と一つになることとも考えられる。

また、宗教に於いて初めて人間が真の人間になる、自己が本来の面目に出遇うと云うような方向から宗教と云うものを見てゆくことも出来る。或は、シュライエルマッヘルがその宗教論で考えたように、有限なもののうちに 無限なものを直感すると云う「宇宙の直観」を宗教の本質と考えることも可能であろう。同時にまた、それら様々の見方に対する批判もいろいろに考えられるであろう。併しここでは、それらとは少し違った一つの角度から 考えてゆきたいと思う。一言でいえば、実在の自覚、しかも実在の実在的な自覚と云う角度からである。

★無相庵の註釈
哲学に慣れ親しんでいない私には、これから数回に亘って続く文章を、読んで直ぐに「分かりました!」とはなりません。本当に分かろうとするには時間が掛かり過ぎますので、読み飛ばして頂いてもいいかも知れません。
哲学と宗教或は信仰とはとても関係ありそうで、しかし無いとも言えると考えるからです。ただ、上述の文章で使用されている、『直観』とか『実在』と云う熟語は「私とは何か?」「〝いのち〟とは何か?」「存在とは何か?」 を出発点とする宗教には必要なものだと思いますので、少し勉強して、おぼろげに知っておきたいと思います。

『実在』と云う言葉を聞きますと、私は先ずは自分の眼で確認出来るものと考えます。しかし、眼で見えなくても肌で感じたり、匂いで感じたり、いわゆる五官で感じるものを実在するものと考えますが、この考えは、哲学では素 朴的実在論と言われます。では、今年物理学ノーベル賞となったヒッグス粒子とか、その他原子を構成する〝クオーク〟と呼ばれる粒子は私たちには直接感覚出来ません。これは自然科学的実在と言うようです。『素朴的実在』も 『自然科学的実在』も、哲学的実在ではなく、哲学的実在は『意識から独立に客観的に存在するもの。生滅変転する現象の背後にあるとされる常住不変の実体。本体。』と考えるようです。哲学の実在論とは、『一般に人間の認識 や知覚に依存しない事物の客観的実在を認める立場』と言われています。

私は、そもそも人間がこの宇宙に生れなかったら、宇宙も存在するとは考えられなかっただろうと思います。人間が感じる実在と犬猫が感じる実在は全く異なるだろうとも想像しています。でもしかし、地球、太陽も、宇宙の無 数の星も人間が生れようと生れまいと実在すると考えるべきではないかとも考えたりします。、

『直観』は、そう云う実在するとかしないとか頭の思考回路を使うのではなく、いわゆる直観的に感じる事、「怖い!」「好き!」「嫌い!」などは、物事に触れた瞬間的に感覚する思いですが、それに似たことではないかと考えます。 多分、禅の悟りもそのような感覚ではないかと、今の私は想像しています。また、「神様は実在する!」「仏様は私を必ず救うと仰っている!」と直感するのが信仰なのかも知れません

哲学で使う言葉は私たち普通の者が考えている意味とは異なることがあります。例えば『批判』、普通は他人の欠点や間違いを責め立てることだと考えますが、哲学では、『認識・学説の基盤を原理的に研究し、その成立する条件などを 明らかにすること』とされていますので、オカシイと感じた文章に在る熟語は哲学用語だと考えて調べてみる努力が 必要かも知れません。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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No.1345  2013.12.05
続―神も仏もあるものか!

一昨年の東日本大震災や今年の伊豆大島の土石流災害では、圧倒的且つ情け容赦の無い自然の力に依り一瞬の中に、数多くの人命が失われました。
このような悲惨な出来事は極最近の自然災害に依って生じているだけでは勿論ございません。この地球上では毎日と言ってよい位に、戦争、テロ、交通事故、殺傷事件で心ならずも、個々人にとって唯一大切な命が奪われ続け ていることはマスメディアの伝えるところです。

このような時、人は「神も仏もあるものか!」と叫びます。私も多分自分自身そして最愛の家族をそのような形で命を奪われる直前、或は直後にはそう叫ぶに違い有りません。

いったい、慈悲深いとされる神様や仏様は上述の事実をどのように説明されるのでしょうか?神様仏様を信仰することを説き勧める宗教家はどのように説明するのでしょうか?
「ただただ、冥福を祈り捧げるだけだ」と云うことでしょうか?

仏教教団、お坊様方は東日本大震災でご被害に遭われた方々に対しては、「この世は無常の世界、なにが起こっても不思議はない。こんな時は互いに助けあわねばならない」と、支援の手を差し伸べようと云う見解は示されて いますが、亡くなった方々の不運に関しては、やはり「ご冥福を祈る」と云うのが大方の考え方のように思われます。

なかなか答えを出せないテーマであることは間違いなく、あるキリスト牧師のお一人が真剣にこの課題に取り組まれ、『キリスト者は東日本大震災をどう考えたらよいのか』 と云う講話の中で、『今回取り上げているテーマ は、キリスト者であればどなたの脳裏にもかすめたことのある問題だと思う。しかし今日までのところ、私の知る限り、この問題を真正面から取り上げた教会、神学校、神学者や牧師はいない。たとえ取り上げても明快な答え を提示できないことが分かっているからである。もし誰かが何らかの答えを提案しようものなら、たちまち議論沸騰、賛否両論が渦巻くことになろう。その提供者は厳しい批判にさらされることを覚悟しなければならない。』 と述べられています。

私は宗教、或は信仰を持つと云うことは、私たちの究極の問題である『死』に関する覚悟が固まる、或は『死』を前提とした『生』を生きることだと考えます。本当の宗教に出遇ったならば、「神も仏もあるものか!」 と云う言葉は吐けなくなるのではないかと思います。

前述のキリスト牧師のご考察を精読した上で、次回、最近の私の考察を申し述べたいと思います。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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No.1344  2013.12.02
西谷啓治師の『宗教とは何か』(引用:Ⅰ-4)

通常の生活に於いて必要だったものが、芸術や学問などをも含めて、すべて必要性を失って来るところ、役に立たなくなるところは、死とか虚無とか罪というような、我々の生や存在や理想に対する根本的な否定を意味するもの、 我々の存在から根拠を奪い、人生の意義を疑わしくする事態が、我々自身の切実な問題となって来る時である。

例えば自分自身が病気その他で死に直面したような場合、或は自分に生き甲斐を感ぜしめていたものが奪われたような場合である。例えば自分の愛する人間を失うとか、命をかけた仕事が挫折したとかで、人生の無意味が痛感され て来るような場合である。そう云う人にとっては、日常の生活で役立っていた一切のものが役に立たなくなる。

例えば死に直面して、自己の存在そのものが虚無の背景から浮き出たものになり、そこから、抑々(そもそも)自分は何処から来て何処に行くのか、と云うような疑問が起こって来た時、そこには、他のあらゆるものによって満た されることの出来ないギャップが出現して来る。我々自身の根拠に深淵(しんえん;奥深く、底知れないこと)が開けて来る。その深淵に面しては、それまで我々の生活内容を為していたものは、一つも役に立たないのである。

然(しか)も、そう云う深淵は、実はいつも我々の底にある。例えば死は何十年かの後に我々が出会うものではない。我々が生まれた時、我々は死を持って生れて来ている。我々の生は一歩一歩死にぶつかり、絶えず片足を死の内 に置いている。一瞬にして虚無(この世に存在するすべてのものに価値や意味を認めないこと)に帰するような深淵に臨んでいるのが、我々の生である。

我々の存在は非存在と一つになった存在であり、絶えず無くなりつつ絶えず存在を取り戻し、虚無の上に振動しているいわゆる生成転化の存在である。その虚無は、我々に於けるあらゆる人生の意味を無意味にするようなものであ る。それ故、我々自身が我々にとって問いに化すると云うこと、我々が何のためにあるかと云う問題が起こることは、我々の存在の根底から虚無が現れて来て、其処から我々の存在そのものが我々自身に疑問符と化すると云うこと である。

虚無が現れて来ることは、自己存在の自覚の深まりに外ならない。通常、我々の存在は其処まで達していない。通常我々は、絶えず何か或るものを目がけて先へ先へと進んでいる。絶えず自己の外の、また内の何ものかに係ってい る。そしてそう云う営みそのものが、今言ったような自覚を塞いでいる。即ち、自己に虚無が現れ、それと共に自己の存在そのものを問いと為し得る地平(視点とか考え方とか思考範囲と云うような意味)が開ける、と云う方向は 塞がれている。

学問や芸術など、文化の営みに於いてすらそうである。併しその地平が開けた時には、先へ先へと進む生の営みの底に或る停まるもの、佇むものが現れて来る。意味を持って其等の営みの底に無意味が現れて来る。

そしてドストエフスキーやニイチェのいわゆる「すべては同じことだ」と云う虚無感が、絶えず前を向いている生の脚(あし)を一歩後へ退かしめ、「脚下照顧」せしめる。前へ前へと進んでいる通常の生活では、我々自身の脚元 にあるものは、進むに随って絶えず後になり、何時まで経っても見えないままである。その時、一歩退くことが、自己の脚元を照らすのである。

古人のいわゆる「退歩就己」である。歩を退いて己れに就くと云うのは、我々の生に於ける生そのものの転換である。我々の生の根底に虚無の地平が開けることは、生に於ける根本転換の機である。その転換は、自己中心的な或は 人間中心的なあり方、即ちあらゆるものに関して我々にとって(乃至人間にとって)どうかと問う態度から、我々自身が(また人間が)何のためにあるかと云う問いへの転換に外ならない。そう云う転換の機に立って初めて、宗教 とは何かと云う問いも本当に問いとなり得るのである。

★無相庵の註釈
『前へ前へと進んでいる通常の生活では、我々自身の脚元にあるものは、進むに随って絶えず後になり、何時まで経っても見えないままである。』と云う文言のなかにある〝通常の生活〟とは、実に私たちの日常生活そのもので、毎 日毎日、多分、幻の幸せを求めて右往左往している生活を指しているのだと思います。朝起きてから夜眠るまで、5欲の煩悩に駆り立てられて、右往左往している私の生活を〝通常の生活〟と云うことで間違いないと思います
この通常生活を無反省に強引に牽引しているのが、現在の政治だと私は思います。今の政治は、日本だけではなく世界中の政治家達は、衣食住を向上させる事を唯一の目的としているとしか思えません。
アベノミクスがその最たるもので、個々の〝いのち〟はどうでも良い、多少の犠牲者が出ても致し方なしと云う基本姿勢で政治を行っているとしか見えません。〝いのち〟を考えるのが宗教です。生死を考えるのが宗教です。〝い のち〟を考えない政治が、核兵器を容認し、原発を容認し、テロを頻発させ続けているのだと思います。『脚下照顧』『退歩就己』は今の人類への警鐘の4文字熟語であり、私たち個々人へ〝本来の神さま仏さま〟が囁かれているメッセージだと思うのです。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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No.1343  2013.11.28
神も仏もあるものか!

今日の木曜コラムは『神も仏もあるものか!』と決めていました。不謹慎とか、それでも仏教徒かと云うご批判があるだろうとは思った上でのことです。私は一般の方々が幸せを請い願う時にお願いすればそれに応えてくれるような神様も仏様も居ないと 〝はっきり〟申し上げます。そもそも「居る、居ない」と云う表現は動植物に用いる言葉ですので、神様も仏様も居るはずが有りませんが・・・。

ただ、今日の木曜コラムでは、昨日の神戸新聞夕刊の第一面のコラム『随想』に見付けた、曽野綾子(その あやこ、1931年(昭和6年)9月17日 – ;作家、聖心女子大学卒)さんの『「完全な公平」などない』と云う寄稿文を引用させて頂きます。 「神も仏もあるものか!」と無関係ではないと思ったからです。

引用―

自分の身内だったり、かなり個人的な意見を述べてもいい関係だったりしたら、私は若い人に、不公平に馴れる訓練をしている。
最高裁の判決で新たな見解が示されたが、「1票の格差」という言葉がそのことを思わせたのである。
もちろん世の中の動きは公平であった方がいいに決まっている。しかし完全な公平ということは、事実上この世であり得ない。だから食料品売り場で、私たちは大根の山を前にしてどれが少しでも大きいかを見比べているのである。

大根の大きさを比べているうちはかわいいものだ。しかし完全な公平を期して、不公平の是正にばかり、精神と時間を費やしていると、自分自身がほんとうにしたかったことに捧げるはずの時間を失う。

私がまだ子供の頃に遭遇した第2次世界大戦のために、私の知っている沢山の大人たちは、ひどい運命の変転を味わった。空襲で家を焼かれた人、戦後経済の動乱の中でそれまでこつこつと貯めていた一切の財産が消えた人。それぞれにひどい目 に遭ったけれど、それより無残なのは、大切な家族を戦争で失ったことだろう。いささかの補償は出たにしても、それで息子や夫を失った母や妻たちの一生が償われることはなかった。

戦争の後の焦土に立った人たちは、とにかく自分で生き延びることを考え、公平も平等も視野にないかのような時代を、自分なりに生き抜いた。
私はその再生の闘いに参加するには、まだ少し幼かったけれど、その世代の人たちの生命力に、深い尊敬を捧げている。

不公平、不平等を是とするのではないが、私たちの人生は思いのほか短い。だから急いで、自分の道を生きることの方が必要だ。

―引用終わり

曽野さんはカトリック教徒で洗礼名はマリア・エリザベトと云うことだそうです。私は青山俊董尼のご法話でお聞きした、バチカンにおられた尻枝正行神父が曽野綾子さんに贈った言葉「苦しみから逃れて救われるのではなく、苦しみが私を救っ てくれる」が非常に印象に残っており、曽野さんと言えば、この「苦しみから逃れて救われるのではなく、苦しみが私を救ってくれる」が直ぐに浮かびます。だから、今回の寄稿文にも眼が止まったのだと思っています。
私が書きたいと考えていた『神も仏もあるものか!』は、今日の続編として来週のコラムにしようと考えています。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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No.1342  2013.11.25
西谷啓治師の『宗教とは何か』(引用:Ⅰ-3)

第二の注意すべき点は、宗教は我々にとって何のためにあるかと云う問いが、宗教の本質から言って、問いとして間違っていると云うことである。それは宗教的要求無しで宗教を理解しようと云う態度に外ならない。それ ゆえむしろ、その問い自身が別の問いに依って破られねばならない。問う人自身の内から別の問いが出て来なければならない。でなければ、宗教とは何であるか、また何のためにあるか、を理解する正しい道はない。そう 云う問いを破る別の問いとは、それと逆の問い、即ち我々自身が何のためにあるかと云う問いである。

他のあらゆるものについては、それらが我々にとって何のためにあるかと問うことが出来る。併し宗教に於いてはそれは出来ない。他のあらゆるものに関しては、我々はそれらと我々の関係に於いて我々を目的の位置に置 き、我々の生活や存在に対するそれらのものの価値を規定することが出来る。即ち我々自身を(或は人間とか人類とかを)中心として、あらゆるものが我々の(或は人間や人類の)生活の内容として持つ意義を計量するこ とが出来る。然るに宗教は、そのように我々が他のすべてのものに対して目的にされ中心に置かれているような関係、我々自身のそう云う在り方また考え方そのものが覆され、そして逆にその我々が何のためにあるのかと 云う問いが起こるところから始まるのである。

宗教は、他のあらゆるものが我々にとって必要であると言われるその同じ生の段階では、決して必要ではない。ただ他のあらゆるものが必要性を失うところ、その功用性を発揮し得なくなるところ、其等がすべて役に立た なくなる生の段階に於いて、初めて宗教が必要となり、生に於ける宗教の必然性が自覚されて来る。我々は果たして何のためにあるのか、我々自身の存在が、或は人生と云うものが、結局に於いて無意味なのではないか、 或はもし何らか意味や意義があるとすれば、それはどこにあるのか。そう云うように我々の存在の意味が疑問になり、我々にとって問いとなると共に、宗教的欲求が我々の内から生起して来る。その問いも要求もすべてを 我々自身への関係から見、また考える我々のあり方が破られたところ、我々自身を中心とした生き方が覆されたところから現れる。宗教が我々にとってなぜ必要かという問い方が、初めから答えへの道を蔽(おお)うよう な問い方である所以はそこにある。それは我々自身が我々にとって問いに化(変化)する道を塞ぐのである。

★無相庵の註釈
今日(日曜日)の夕方に滋賀県長浜市で、大学時代属していた軟式テニス部のOB同窓会があり昼から出掛けます。
泊まり掛けですので、月曜日コラムを日曜日の今日アップさせて頂きますが、今回の註釈は、西谷師の仰りたいことを私は木曜コラムの『戦力外通告』に書き記した積りであります。
どうか木曜コラムをご一読下さい。、

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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No.1341  2013.11.21
戦力外通告

今年の日本のプロ野球は球団創設9年目の楽天ゴールデンイーグルスの日本一で幕を閉じた。戦力日本一の読売巨人軍を破ってまさかの日本シリーズ優勝であった。活躍した選手達には年俸の大幅アップと云う楽しみな 契約更改交渉が待っているのであるが、一方、楽天も含めて全12球団に雇われている選手達(1000名弱)の中には、球団から来年は契約しないと宣告される選手も数多く(200名弱)居るのである。いわゆる戦力外通告を所属球団から言い渡さ れるのである。

これまで数億円の年俸を稼いでいたタイトルホルダーだった有名一流選手でも、今シーズン中に怪我をしたり、成績が極端に悪かった場合には戦力外通告を受けることは珍しく無いのである。
今年を例にとれば、昨年(2012年)4億3千万円の年俸を取っていた小笠原道大選手、そして3年前には2億4千万円だった谷佳知選手(柔ちゃんの伴侶)が読売巨人軍から戦力外通告を受けたのである。彼等二人は 一流選手として40歳まで続けたのであるから、戦力外通告を受けても、お金には困らないし、監督やコーチと云う指導者としてやテレビ放送の解説者として生きる道はあるが、野球以外に生きる術の無い二十歳そこそこで戦力外通告を受ける者達も居るのである。

戦力外通告は「君は不必要だ」と云うことである。戦力外通告を受けた選手の殆どは、通告を受けた時点で全てを失うと言っても過言では無い。毎日やることが無くなるのである。それまで毎日していたトレーニングもバ ッティング練習もピッチング練習もする必要が無くなるのである。体力を維持する為に工夫していた食事や節制努力も必要が無くなるのである。
野球選手の戦力外通告とは、自分が生きる為に自分の全てを野球に賭けて来た自分自身の存在を全否定されると云うものである。

今回、何故プロ野球選手の戦力外通告の話をしたのかと言うと、私たちの死が、地球人として、或は宇宙人としての〝いのち〟が戦力外通告を受けるようなものだと考えたからである。
突然に宣告される場合も、宣告されたことさえも分からない一瞬の中に戦力外となる場合もある。戦力外となれば悩みも無くなり、仕事も努力することも必要無くなるが、自分と一心同体と考えていた家族達も、楽しみにしてい た趣味も、頼りにしていたお金も我が家も、そして人に依っては一番頼りにしていた信仰も、全てが何もかも役立たなくなる時が誰にも必ず来るのである。

私たちは、もの心ついてからと云うもの、全ては自分の為に何かをすると云う生き方しかしていない。その大事な大事な自分が事務的に戦力外通告される時が来る事を忘れてはならない。
そして、その時の為に人類が生み出したのが宗教だと思うのである。
「人間とは何か?」「自分とは何か?」「命とは何か?」「そもそも存在とは何か?」を自分が自分に問い、そしてカンニングでは無しに自分で答えを出しておく必要があると思うのである。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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