No.1339  2013.11.14
西谷啓治師の『宗教とは何か』(引用:Ⅰ-2)

従って宗教が、例えば社会の秩序、人類の福祉、或は世道人心(せどう・じんしん;社会道徳とそれを守る人の心)というようなもののために必要だというのは間違いであり、少なくとも本末転倒である。宗教はその功用 (こうよう;働き、効き目)から考えられてはならない。そのことは、生がその功用から考えられてはならないのと同様である。宗教自身がそう云う功用を第一の問題にするようになれば、それは宗教の堕落して来た証拠 である。

喰うというような自然的な生(歩く、寝る等の我々の行為・行動の事)や文化についてはその功用を問い得る。寧(むし)ろ絶えず功用が問題にされねばならない。我々の通常のあり方はそういう自然的、文化的な生の段 階に止(とど)まっている。然(しか)るに、そういう普通のあり方を根底から破り覆(くつがえ)すと云うこと、そして生がそこでは無功用であるような、生の根源に我々を帰らしめると云うこと、そこに宗教の必要性 があり、人生に於ける宗教の必然性がある。

今言ったことから二つの注意さるべき点が出て来る。
第一に、宗教と云うものは何時でも、各人自身にとっての各人自身の事柄である。文化のように、各人に関係した事柄でありながら同時に誰でも自分自身の事柄にしなくて済む、と云うような問題ではない。従ってまた、 宗教が何であるかと云うことは外から理解することは出来ない。即ち、宗教的要求のみが宗教の何であるかを理解する鍵であり、それ以外には宗教を理解する道はない。
そしてそこにこそ、宗教とは何であるかと云う宗教の本質についての問題の一番大切な点があると言える。

★無相庵の註釈
私たちが人生を生きていく上で必要とされている持ち物があります。それには品物や食べ物等だけではなく、知識、知恵、思想も含まれます。一般的には持っていた方が良いと考えられている『教養』もその中の一つです。 誰でも「教養が無い人」と蔭口を叩かれたく有りませんが、西谷師は「宗教は教養では無い」と仰りたいのだと思います。むしろ、「宗教は必需品だけれども、本人が必需品だと思わなかったら、宗教に意味は無く、その人 に意味を説明しても分かって貰えないものなのだ」と仰りたいのではなかろうかと思います。昔から「馬を水飲み場へ連れていっても水を飲むのは馬自身。水を飲もうとしない馬はどうしようもできない」と云うたとえ話が ありますが、このたとえ話に近い考え方ではないかとも思いました。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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No.1339  2013.11.14
道徳と倫理と宗教の関係

道徳の教科化に向けて検討している文部科学省の有識者会議「道徳教育の充実に関する懇談会」は、現在は正式教科ではない小中学校の「道徳の時間」を数値評価を行わない「特別な教科」に格上げし、検定教科書の使用を求める報告書案を公表したらしい。 年内にも最終報告を取りまとめ、文科省は中央教育審議会の議論を経て早ければ平成27年度にも教科化する方針と云うことである。

私は、この文科省の動きに真っ向から反対する訳では無い。道徳教育は必要だと思うのであるが、昨今の政治家には特に道徳性の欠如を感じるし、霞が関の役人にも果たして道徳性があるのだろうかと思うからである。また更には、道徳を教育する立場の先生 方に道徳を教育出来る下地があるのか甚だ心配せざるを得ない現状を思う時、たとえ特別な教科に引き上げても道徳教育の成果は得られないのではないかと危惧するからである。

何故危惧するかと言えば、道徳の根幹に倫理が無ければならないし、倫理の背景に宗教がなければならないと考えているからであり、且つその宗教が日本の表舞台から追放されて久しいからなのである。

私は、道徳と倫理と宗教の関係を図に示している如くに考えている。

言葉で説明することは難しいのであるが、敢えて違いを説明すると下記の如くになる。
道徳は、日本に生れた私が、縁有って触れ合う周りの人々から好意を持たれ、信頼されて生活をする為に必要な言動の基準を示すもの。
倫理は、この地球に人として生れた私が、世界の何処で暮らしても誰からも好意を持たれ、信頼され、敬愛される人間性(外に現れた言動のみならず内なる心も含めて)の基準を示すもの。
宗教は、空間的にも時間的にも無限の宇宙に瞬間的且つ極微小粒子として存在する私が、宇宙の全存在から永遠に万雷の拍手を送られる基準を示すもの。

やはり抽象的な表現になってしまったが、倫理は全世界で通用する道徳だと言っても良いと思う。そして、宗教は宇宙規模で全ての存在と私との関係に思い及び、私の命の尊さと他の全ての存在の尊さを自覚する為に必要だと思うのである。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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No.1338  2013.11.11
西谷啓治師の『宗教とは何か』(引用:Ⅰ-1)

今の日本では、日常会話の中に〝宗教〟と云う言葉はなかなか聞かれない。もし宗教の話を持ち出せば疎ましく思われるのではないかと思う。キリスト教徒だとか或は仏教徒だと名乗ると敬遠されるのではないかとも思う。
そして、クリスマスイブを特別な日としてケーキを食べたり、恋人にプレゼントしたりはするが、イエス・キリストの降誕(誕生)を祝う人は一般人には居ないだろう。また、元旦に神社に初詣するが、神に祈るのは、家内安全、 商売繁盛であって、神に感謝を捧げる人は居ないだろう。お釈迦様の誕生日の4月8日に至っては一般の人達に認識もされていない。仏教は生きている者には関係無しで、死んでから必要になるお墓と葬式と法事の為に有る宗教と 云うことになっている。宗教は生きていく上で必要なものではないことになっていると云うのが、一般人の通念だと思う。宗教は日常生活と全く関係が無くなっているのである。

勿論、仏教の教団もあり信者も居るには居る。しかし殆ど全てと言って良い位、それは疑似宗教と言うべきものである。現世利益を謳い文句にしたり倫理道徳を主眼にする疑似宗教である。鎌倉時代に開かれた何々宗と名乗る伝統 ある宗派でさえも、本来の宗教と言えなくなっている状況である。

ドイツの宗教哲学者のフリードリッヒ・シュライエルマッハー(1768年-1834年)はキリスト教の信徒でもあり神学者でもあるが、宗教に付いて「人間が宗教を持つということは、一定の教義を受け入れ信じるというようなことではなく、自分が宇宙とい う広大無辺なものの力によって生かされているという明々白々の事実に目を覚ますこと以外ではない。そういう人間存在の決して変更できない、あるがままの事実、いわば裸の自己の発見以外に、宗教というものはないのである。」と云う言葉を遺している そうである。
これは本来の仏教の考え方、お釈迦様の考え方だと思うのであるが、シュライエルマッハーと同じく宗教哲学者である日本の西谷啓治師(にしたに けいじ、1900年-1990年)が『宗教とは何か』と云う著書で、成程、成程と思う宗教論、仏教論を述べている ので、著書を書き写して紹介させて頂こうと思う。当面月曜コラムで続けるつもりである。哲学文章なので哲学用語や哲学的言い回しがあり少々難しく思うので細切れにさせて頂こうと思う。ゆっくり理解しなから読んで頂きたいと思う。

これより『宗教とは何か』から引用ー

宗教とは何かということは、裏から見れば宗教というものが我々にとって何のためにあるか、我々になぜ必要かということである。宗教はなぜ必要かということは、よく出される問いである。その問いそのものが併(しか)し、すでに問題を含んでいる。 一方からいえば、その問いを出す人にとっては、宗教はまだ必要になっていない。宗教の必然性がその人のうちには現れていない。彼自身のうちで宗教がなくてはならないものとはなっていない。そう云うことを、彼はその問いによって告白しているので ある。

併し同時に、他方からいえば、まさしくそう云う人にこそ宗教が必要だという意味が、宗教にはある。そう云う人のあるところにまた宗教の必然性もあると言える理由がある。要するに、その人は宗教を必要としていない、だからこそその人は宗教を必要 とする、という矛盾した関係が、宗教の我々に対する関係である。

そう云うことは外(ほか)の如何なる事柄についても言えるわけではない。芸術や学問がなぜ必要かと云う問いに対しては、人類の向上のためとか、人間の幸福のためにとか、或は自分の教養のためと云うような答えが出され、それによってその必要な所 以が説明される。その代わり其等(それら)は、どうしてもなくてはならないものではない。其等は、なくてもどうにか生きて行けるものである。よく生きるためには不可欠であるが、ただ生きるためには不可欠ではない。その意味では一種の贅沢物である。

これに反して、食物はただ生きるためにも不可欠である。その代わり、他人に向かって、なぜものを喰うのかと問う者も居ない。ものを食べない天人か天使ならばともかく、少なくとも人間には居ない。宗教は、それなしで生きている人が現に大部分である 以上、食物のような意味で不可欠ではない。併しそれはよく生きるためのものと言うわけではない。宗教は生そのものにとっての大問題である。滅びの生を生きて終わるか、永遠の生を生き得るかということは、生そのものにとっての重大事である。如何な る意味でも贅沢物ではない。それ故にこそ、それを必要としない人々に特に、それが不可欠的に必要なのである。そこに単なる「自然的」な生とも文化とも異なった宗教の特異性がある。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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No.1337  2013.11.07
絶対他力の教え

前回のコラムで、「この世に人間の考える〝絶対〟は無い」と申しました。しかし、浄土真宗には『絶対他力』と云う教えがあります。『他力』や『本願他力』と云う言葉も有りますが、 他力に絶対と云う言葉を付けたのは、『他力』に100%お任せすると云う事を強調したいが為ではないかと思います。
これは私の勝手な解釈かも知れませんが、〝妙好人〟浅原才市翁が「他力には 自力他力も無し ただ一面の他力なり」と書き遺されたそうですが、これは絶対他力を体得された方のお言葉だと思うのです。

明治時代の学者で絶対他力を強調されたのは、親鸞仏法を体現された清沢満之師(きよざわまんし;文久3年〈1863年〉年8月10日 ~ 明治36年〈1903年〉6月6日、享年40歳没)だとお聞きしていますが、下記の清沢満之師の絶対他力 に関する説明文が大谷大学のホームページに掲載されていましたので、引用させて頂きました。

大谷大学のホームページ(2000年4月のトップページ)からの引用ー

「大道を知見せば、自己にあるものに不足を感ずることなかるべし。」
清沢 満之『清沢満之全集』第6巻52頁
 ここに挙げた言葉は、大谷大学初代学長である清沢満之の「絶対他力の大道」から引用したものです。「絶対他力の大道」は明治35年に『精神界』という雑誌に掲載されましたが、このとき清沢は39才 の若さで結核を患い、余命はわずかしか残されていませんでした。当時、結核には有効な治療法はなく、不治の病とされていました。清沢は喀血(かっけつ)を繰り返しながら、死への不安や恐怖と戦う日々 を送っていました。しかし、この苦しい病気を通じて、彼は信仰を深めていくことができたのです。
 闘病を通じて清沢が獲得した信仰とは、どのようなものだったのでしょうか。それは、彼が「絶対他力の大道」の冒頭で述べているように、自分を超えた絶対無限の力を知見することにより、自分のありの ままの姿を受け入れ、一日一日を精一杯生きていくことでした。
 病気にかかったとき、だれでも一刻も早くそれを治し、健康な体を取り戻したいと切実に願います。清沢もそうでした。しかし、彼は「生のみが我等にあらず。死もまた我等なり」と気付きました。生まれ てくれば必ず死ぬ-そのような私たちにとって、死は人生の不可避な一部です。しかし、私たちは常に生と死を区別し、生に固執し、死を遠ざけようとします。このような心の働き(分別)に気付いたとき、 清沢は生への固執から解放され、自分の死を引き受けて行く力を自分の中に見出したのです。その力は、自分の死をも含めて、人生の全ての事柄を自分を超えた絶対無限の力に任せることができたとき、心の底から涌きあがってきたものでした。
 このような信仰を獲得した清沢には、絶対の自由と安らぎの境地が開けました。そこには死への不安と恐怖に脅かされながらも、それを乗り越えて行く安らかな心が芽生え、苦しい病気を患いながらも、 希望と感謝をもって毎日を生きていく道が開かれたのです。 絶対無限の力に帰依し、それを人生の拠り所とすることによって、人は如何なる環境や状況に置かれても、そのなかに満足と平穏を見出し、自由に生きていくことができると、清沢は私たちに呼びかけています。

―引用終わり

誰でも死は怖いものです。清沢満之師も病床で死と向き合い、死を怖ていました。しかし、この世に生まれたのも、生れて生かされているのも自分の力ではない、そして死もまた自分が云々するべきものでは無いことに気付かされることに依って (つまりは宇宙真理の真っ只中に有る自分に目覚めて)、自分の死をも含めて、人生の全ての事柄を自分を超えた絶対無限の力に任せることができ、自分の死を引き受けて行く力が心の底から涌きあがってきたのだと思います。

絶対他力の教えを言い換えれば、絶対受容の教えだと思います。全てを受け容れて行く姿勢を説く教えです。全てを受け容れて行くことは、消極的、受動的な姿勢、諦めの姿勢として現代社会では疎(うと)まれる姿勢だと思います。
しかし、考えて見ますと私たちは結果として全てを受け容れて人生を歩んで来ていませんでしょうか。おそらくは生れながらにして絶対受容の力を与えられているのだと思います。ただ自我があるが故に、 未だ来ぬ先々のことに関しては不安や恐怖を抱くのでしょう。 清沢満之師が40歳の若さで自分の死を引き受けて行く力を見出し得たのは、自分を超えた絶対無限の力に任せることが出来たからだと上述されていますが、その『自分を超えた絶対無限の力』とは、『真理』或は親鸞聖人が最晩年に使われた 『自然法爾(じねんほうに)』のことだと思います。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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No.1336  2013.11.04
絶対・・・は無い?

プロ野球日本シリーズで、12球団で一番新しい球団の東北楽天ゴールデンイーグルスが一番古い球団の読売ジャイアンツ(巨人軍)を下して日本一に輝いた。今年のレギュラーシーズンで無敗(24勝0敗)の田中将大投手が投げた第6戦で、 絶対に勝って日本一になると誰もが思っていたのに、エース田中で負けた。そして、今度は誰もが絶対に巨人が日本一になると思っていたが、「絶対・・・」は無かった。それに、160球も投げて負けた田中投手がその翌 日は絶対に投げないと思っていたのに、日本一を決める最終回の9回に投げた。〝絶対〟は何回も裏切られた。

人間は、「絶対・・・」を求めるが、「この世で〝絶対〟と言えるのは、私たちは誰もが絶対死ぬ事だけだ」と言われることがある。でも、この死も、絶対とは言えないなと思った。
私たちの肉体は絶対に死体になるけれども、絶対に身も心も亡くなるかどうかは絶対に分からないと云うべきではないかと・・・。そんな事を楽天の優勝シーンを見ながら考えていた。

昨日の日曜日の朝、『こころの時代』の中で或る精神科医でもある仏法者が「分からないことが解るのが、本当の智慧だ、悟りだ」と云うようなことを仰っていた。『分からない』の〝分〟は『分析』とか『分ける』の〝分〟で、勝と負、損と得、 善と悪、生と死などと人間は分けて考えてしまうが、負けるが勝ちと云うことが有り、得したと思っていたことが実は損したことになることも有るのが確かに人生であると・・・。 朝方にそんな法話を聴いていたので、人間は生が有って死が有ると思っているが、死の次に生があるかも知れないと考えるべきではないかと思ったりしていたからだろうか、この世に人間の考える〝絶対〟は無いのだと思った次第である。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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No.1335  2013.10.31
続ー日本人の宗教心

前回のコラム末尾で私は、「今の日本の現状は140数年前の明治維新を主導した坂本龍馬や西郷隆盛や彼らと思いを共有して戦場に散った数多くの若者達が目指したものでも無いことは明らかです。その為に日本は、 先ずは真実の宗教心を取り戻さねばならないと思うのです。」と申しました。

では、その取り戻すべき『真実の宗教心』とはどう云うことでしょうか。
それは、『自分の〝いのち〟の大切さに目覚めること』と『生への執着心と死への不安を払拭することが人生の最も大事な課題だと目覚めること』と私は思います。

以前〝いのち〟旅シリーズで『命の尊さ』の所以を勉強しましたが、人間に生れたからこそ出来る事は、〝いのち〟の自覚だけだと思います。そして、その自覚が出来れば、無限宇宙の只中に存在する〝真実の自己〟に 出遇い、真実の自己に出遇えたら、死にたくは無いけれども、死を受け容れられる、つまり死の不安は無くなるのではないかと思うのです。

これはどう云うことかと申しますと、人間社会で起きること、地球で起きる事を含めて宇宙で起きる事は全て宇宙の原理原則(人間の智慧が及ばない仕組みと言いますか真理と呼ぶべきものか)に従ったものだと云うこ とであります。そうしますと、宇宙に存在する私と云う人間も、その宇宙の原理原則に従って生き死にするものである事を客観的に理解するのではなくて、全身全霊で受け止めることになるのだと思います。

考えて見ますと、他の動植物を含めて地球上に在る人間以外の存在(無機物も有機物も生物もと云うことです)は全て、全面的に受け容れて存在しています。消えてなくなろうが、死のうが壊れようが、無常(変化し続 ける事)をあるがままに受け容れています。それに反して、人間(人類と云うべきか)だけが、あるがままを受け容れられずに、迷っているのではないかと思うのです。
本当は、そう云う迷いの心を持つ人類がこの地球上に現出したことさえも、宇宙の原理原則に従ったことでありますが、それでは人間に生れた意味が無いと考えて、過去に多くの哲学者や宗教家がキラ星の如くこの地球 上に現れたのもまた原理原則に従って生じた事実なのであります。

残念ながら、宇宙の原理原則がどう云うものかは私たち人類には分かりません。それを自覚されたのがお釈迦様を始めとする仏教の祖師方ではないかと思います。
『不可称・不可説・不可思議(ふかしょう・ふかせつ・ふかしぎ)』と云う言葉がインドから中国、そして日本へと伝わっている事で明らかだと思われます。また、平安時代か鎌倉時代の日本に、『自然法爾(じねんほ うに)』と云う言葉が生まれたことでも明らかだと思います。

現代は人間の自己中心性から発現した経済至上主義が人間社会を苦悩に満ちたものにしてしまっていると思います。『自縄自縛(じじょうじばく)』と云う言葉がありますが、まさに今の人間社会は、自らが自らの縄でみずからを縛り付けてのた打ち回っ ている状態だと思います。

この状態から人類が救われるためにこそ宗教があるのだと思います。宗教や哲学は何も2500年前に生れたものではなく、人類が地球上に現れたと同時に有ったものだと私は思います。その原点に帰ることでしか、人 類は『浄土』に生まれることは出来ないと思うのです。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1334  2013.10.28
日本人の宗教心

これまでの3回のコラムで「人間は何故宗教を求めるのか」を考察して来ましたが、私の周り(親族、知人、友人、近隣の人々)に宗教を求めているように感じられる人の存在は五指に届かない位に極々少数派なのです。 それを「人身受け難し、仏法聞き難し」と言われる所以だと思いますが、日本に於いてその傾向は明治維新以降加速度的に強くなっていると言えると思います。

それを最近読んでいる『宗教の授業』の本の冒頭で、著者大峯顯師が次のように述べられています。

『現代の日本は、世界の国々の中でも世俗化が最も進んだ非宗教的な社会だということはしばしば言われる。これは人間の生活や文化を規制してきた仏教やキリスト教などのいわゆる「世界宗教」の力がだんだんと後退してゆく世俗化は 近代社会に共通な一般的傾向であって、とくに日本だけにかぎったことではない。これはキリスト教が国定の宗教になっている欧米諸国においてもひとしく認められる傾向だからである。それにもかかわらず、日本の場合はこの世俗化が あまりにも極端であるように思われる。

たとえば、永らく日本でキリスト教の伝道に従事したロゲンドルフ神父が書いた、「日本人の宗教心について」という論文には、つぎのような言葉がある。日本では「宗教は、公共的にも、個人的にも、おそらく他のいかなる文化国民にも 見られないほど小さな役割しか演じていない」。「日本は徹底的に現世化されている。おそらくソ連やその衛星諸国以上であろう」。

昭和32年に書かれたこの論文には、文部省が個人的な(家族的ではない)宗教について、6大都市の住民を対象にして調べた統計が出ている。それによれば、61.3%が宗教にまったく無関心であり、30.3%がいずれかの仏教宗 派に属し、その他が神道、新興宗教、キリスト教徒である。

さらに昭和48年頃、総理府が世界11カ国の青年を対象におこなった「世界青年意識調査」によれば、「信仰に関心がない」と答えた日本の若者は74%を占めている。これに対して、「信仰をもっている」と答えた外国青年は、イン ド95%、西ドイツ87%、アメリカ82%、スウェーデン41%である。

また平成5年に統計数理研究所が行った日本人の国民調査によると、「宗教を信じている」と答えた日本人の割合は31%となっている。総務庁青少年対策本部編「世界の青年との比較から見た日本の青年」(1994年)を見ると、 宗教が非常に大切だと答えた日本青年の数は、フィリピン、タイ、ブラジル、アメリカ、韓国、ロシア、イギリス、フランス、ドイツ、スウェーデンの場合と比較すると、最も少ない4.6%に過ぎないのである。

このように、現代日本における「知識人」や「半知識人」さらには大都市に在住している一般大衆は、ほとんど、宗教とは無縁な日常生活を送っている。その無宗教性もしくは非宗教性はまぎれもない事実である。』と。

―引用終わり

私はこの無宗教性・非宗教性が、現代日本の国民の非倫理性、反道徳性を現出していると考えており、今や日本を誇りに思えない自分の現実を非常に悲しく情けなく思うのです。
そして、これは明治維新の新政府が廃仏毀釈令を実施し、それ以降、日本の教育から宗教教育が排除され、また欧米の自然科学第一主義と間違った個人の自由平等主義を無批判に取り入れて来た明治から昭和にかけての国のリーダー達の 責任だと思うのです。

過去のことは致し方ありませんが、今の日本の現状は140数年前の明治維新を主導した坂本龍馬や西郷隆盛や彼らと思いを共有して戦場に散った数多くの若者達が目指したものでも無いことは明らかです。その為に日本は、先ずは真実 の宗教心を取り戻さねばならないと思うのです。

そして私は、この無相庵にお越し下さるような読者の方々の存在こそが日本の希望だと思っております。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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No.1333  2013.10.24
続々ー人間は何故宗教を求めるのか?

前回のコラム末尾で、次の仏法の考え方を紹介しました。
「人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く、この身今生に向かって度せずんば、更に何れの生に向かってかこの身を度せん。大衆もろともに、至心に三宝に帰依し奉るべし」と説くのである。

この後半部分の『この身今生に向かって度せずんば、更に何れの生に向かってかこの身を度せん。』は、「この世で生きている間に救われなければ、生まれかわっても、もうチャンスは無いのではないか」と云うような意味合いだと思います。
これは仏教で説かれることがある輪廻思想と云うものが背景にあり、それではキリスト教の〝霊魂の不死〟と根本的には変わらないではないかと考えております。
仏教を開かれたお釈迦様は、私たちが死んだ後のことは『無記』と申されて、誰にも分からないことや証明出来ないことは論じても仕方が無いと云う見解だったと聞いており、私は科学的考え方から尤もだと考えそのお釈迦様の立場を取って来ました。

ただ最近、宗教哲学的なことを勉強していて思うのですが、宗教は学問とは別ものだと考えなければならないと思います。哲学は学問です。私は学問をどのように分類するかに付いて何も知りませんが、人間の5官(目、耳、鼻、舌、皮膚) で誰もが確認出来る現象や存在が何故生じているかを研究し、地球上の個体(人間名を含む全ての存在)や自然界や宇宙で起きる事を予測するのが自然科学であり、人間の心の中で生じる事実を事細かく研究し、どう生きていくべきかを研 究するのが哲学や心理学や倫理学で、人間が作り出した文化や社会(芸術、文学、法律等)に関する学問は人文科学・社会科学と云うのではないかと思います。

宗教は、いずれ死すべき身である人間の生はいったい何のためかを知ることを目的としているのだと言われています。これをもっと端的に言い換えますと、死の不安から解放されたい為に私たちが求めるのが宗教だと云うことになります。

私たちの人生には様々な悩みと苦しみがあります。しかし、どんな苦悩を抱えていても、いつか突然『死』に直面しますと、それまで抱えていたどんな苦悩も『死』の前には大したことでは無くなるのだと思います。
『死』は、自分自身のものとは限りません。自分の死が一番辛いのだと思いますが、子供、親の一親等の死、そして、自分と同一として親等外の配偶者の死も、普通は自分の死と区別が付かない位に辛いものだと思います(最近は離婚が多く、熟 年離婚も目立って来ていることを思いますと、配偶者の死を心密かに希望している人も居るかも知れません)。

この死への不安を哲学では解消されないと思います。私たちは何故生れて来たのかも分かりませんし、死んだらどうなるのかも分かりません。そして、それを教えてくれる人は過去にも現在にも誰一人居ません。学問は進歩しますが、 この生と死に関する事は永遠に未解決事項だと思われます。
そうしますと、『生と死に関する答え』は人間の能力を超えたもので、人間の知識を以ってして解決出来るものでは無いと云うことですし、人間の言葉を以って教えたり教えられたりするものでも無いと思います。

そうしますと、私たちは誰しも死の不安を拭い去ることは出来ないと考えるべきだと思います。
そのことをはっきりした上で、しかも学問ではない宗教に何を求めるべきなのか・・・これから私は勉強して行きたいと思っています。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1332  2013.10.21
続ー人間は何故宗教を求めるのか?

人間は誰でも本当は死にたくないはず、ずっと生きていたいと云うのが本音だと思う。しかし、自ら〝いのち〟を絶つ人が日本だけでも毎年約3万人がこの十数年間続いている。全世界の統計では、100万人を超えるらしい。 自殺割合は6千人の中の1人と云うことになるが、決して少なくない数字だと思う。他の動物は決して自殺しないと聞いているからである。

何故こうなるかと推察するに、多分、〝いのち〟よりも自分が可愛いからではないかと思う。自我が可愛く、自分が惨めなのには堪えられない、いっそ死んだ方がましだと云うことではないか?そうなると、誰でも人生の中 で、死ぬ程ではなかったが、自殺と云う言葉が頭をかすめたことがある人は案外多いかも知れない。私もサラリーマン時代に一回有ったように思う。「有ったように・・・」と云う表現になってしまうのは、過去を振り返っ た場合、あれ位のことは大したことでは無かったと思ってしまうからだ。

私たち人間は大体3~4歳の頃に自我が芽生え、成長と共に自分が一番可愛いいと云う自己中心性の心が無意識層に刻まれて行くのだと思う。これは恐らく、元々私たちの遺伝子に組み込まれているからではなく、人類に於い ては無意識層に刻み込まれた自己中心性を持つ親が子供を育てるからではないか。そしてそれが代々受け継がれて来たのだと思う。だから、私たちは気が付けば既に自己中心の人間に育ってしまうのだとも思う。これは誰も 避けられない訳である。

そして、大方の人間は自分の自己中心性に気付くことなく人生を終わる。しかし、幸いにも自己中心性が苦しみの原因であることを説く仏法に出遇えた人だけは時間は掛かるが本来の自己に出遇うはずだ。
それを仏教は、「人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く、この身今生に向かって度せずんば、更に何れの生に向かってかこの身を度せん。大衆もろともに、至心に三宝に帰依し奉るべし」と説くのである。

続きは次回コラムに。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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No.1331  2013.10.17
人間は何故宗教を求めるのか?

現在私の日常生活で割く時間の割合一番手は宗教ではなくお金稼ぎであるが、私の関心事一番手は宗教である。
宗教と言っても私の場合は、神の存在と霊魂の不死を信じるキリスト教等の一神教ではなく、仏教である。

「人間は何故宗教を求めるのか?」を表題にしたが、現代社会では宗教を求めていない人の方が多いようだ。それは、情報化社会が進み人々の関心事の種類が飛躍的に増えた結果、人生の根本的願望であった 「(永遠に)生きたい」と云うことよりも、「出来るだけ他の人よりも楽しく生きたい」と云う欲望が全人類的関心になって来たからではないかと思われる。生と死への関心を失わせたのだと思われる。

特に日本では自宅で家族に見守られながら亡くなる人が殆ど居なくなり、死を目の当たりにすることが無くなったからかも知れない。生きていることは当たり前になっており、生にも死にも関心が湧かなくなっていると云うことではなかろうかと思う。
この社会現象、否、人間性の変質と云うものが、現代日本の様々な問題(犯罪、事故、格差)を現出させていることは間違いない。人間と他の動植物の違いは生の自覚の有無に有る。言い換えると、宗教を持つか持 たないかが人間であるか他の動植物であるかの違いである。だから、現代の特に日本人は人間の形はしているが、本来の人間ではなくなったと言うべきなのである。
そう云う人間でなくなった政治家集団が国家を運営している日本が本来の人間社会であるはずが無いのは極々当たり前のことである。
これは何も今の政治家達だけを批判したり、宗教を求めない人々を批判している訳では無い。今の状況は、人類がこの地球上に生れて800万年後に必然的に至った結果であり、誰に責任があると云うものではないと云うことを言いたいのである。

ただ、今の日本人の中にも実に細々とではあるが、「人間とは何か?」「生とは何か?死とは何か?」「〝いのち〟とは何か?」を考え、且つ答えに近付いている人も居る(末尾に抜粋引用した文章の作者である大峯師のように)。 過去1500年間には聖徳太子、空海、最澄、法然、親鸞、道元等のように、答えを得た人々も居ると言ってよいと思う。

斯く言う私は最近漸く上述の問いの答えを求めてスタートしたばかりであるが、今のところ、その答えは法然上人と親鸞聖人の『自然法爾(じねんほうに)』及び『他力』の教えに帰する可能性が高いのではないかと思っている。
下記が私が描いている答えのあらましであるが、一般人が受ける印象は、なかなか納得いくものではないと思う。私も心底納得出来ている訳では無い。

「人間の能力では生とはこうだ、死とはこう云うことだと説明することは永遠に出来ない」「私が何処から生じて何処に行くのかも分からない」「この世の出来事、宇宙のことも『不可称・不可説・不可思議』としか言えない」「すべて (人間を含めて)は人間を超えた働きに依って生じており(他力と云い、縁とも云う)、お任せし受容するだけである」

ただ、宗教を求めて生死を乗り越え得た結果の余禄として、私は〝いのち〟を自覚出来る人間に生れたことの得難さ、有難さを認識し、生き甲斐・生まれ甲斐に目覚め、その結果として、死の直前まで活き活きと人間の生を満喫し続けるのだと思う。

大峯顕師が『宗教の授業』の中で宗教に付いて論じている箇所を抜粋紹介し、読者諸氏の考えられるヒントになれば幸いである。

大峯師の生命の根本要求(個人の欲求と生命の欲求)引用抜粋―

これまで、宗教というものをいろいろな側面から明らかにしようとしてきた。宗教はいろいろな側面をもったものであるから、これは仕方ないことである。しかし宗教には、それ以外の人間のどんな営みとも根本的に違った一点がある。それは、 宗教がわれわれの生命そのものの根本要求というものだという点である。宗教以外の人間の営みはみな、個人もしくは社会人としての人間の欲求にもとづくのに対して、宗教だけは、人間の内部にあって人間を超えている生命それ自身の衝動か ら生まれるのである。むろん、宗教をもっているのは、生き物すべてではなく、人間だけに限られる。それにもかかわらず、宗教は人間の単なる個人的・社会的な欲求ではなく、個人の内にある普遍的生命そのものの欲求なのである。宗教とは、 人間を通して生命が生命自身を自覚しようとする営みに他ならない。
いったい、宗教以外のいろいろな場合においては、われわれはわれわれが現に生きていることを当たり前のことと考えて、その意味をあらためて問うことはしない。ただ人生の内容を豊かにするための諸条件を問題にするだけである。普通われわれの人生は、人生を快適にするとか、文化的にするとか、生き甲斐を見出すとか、そういう個人的な願望の追及に終始している。しかし、われわれの生がもともと死へ向かっている生である以上、われわれは、この世に生きるための諸条件を充足するだけではとうてい満足出来ない。生きるための条件ではなく、生きることそのことを無条件に願わざるを得ない。死の不安を超えたいのである。それは、個人としてのわれわれの願望ではなく、個人を超えた大きな生命そのものの願望なのである。

―引用抜粋終わり

仏教の祖師方の言葉であれ、先輩方のお言葉であれ、それを参考にして、自分自身の頭で考え直すことが大切だと思う。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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