No.1330 2013.10.14
続ーほんとうの宗教を求めて昨夜のNHKスペシャル『中国激動・さまよう心空前の宗教ブーム到来―止まらない道徳荒廃・拝金主義に怒りが爆発』を視聴しました。
中国共産党政府は憲法で信教の自由を認めてはいますが、実際は「国家は、正常な宗教活動を保護する。何人も、宗教を利用して、社会秩序を破壊し、公民の身体・健康を損ない、又は国家の教育制度を 妨害する活動を行ってはならない。」と云う事で禁止状態でしたが、今は公に許可を得たキリスト教教会が各地に建っているようですし、〝家庭教会〟と云う無許可のキリスト教教会も各地に乱立してい るようです(どうやら黙認されている状態だと云うことです)。今ではキリスト教人口は1億人を超えていると云うことでびっくりさせられました。それに、孔子の教え(儒学)も学校教育にも取り入れられて、長幼の序、他人への思いやり等の道徳教育が復活しつつあるそうで、私が抱いている中国国民の反日感情は一部で緩和されつつあるのかも知れないと思いました。
しかし一方で、仏教に付いては全く触れられませんでしたので、片手落ちの報道だと思いましたが、共産党が中国を支配するようになり、各地の寺院や仏像が破壊された歴史がありますので、もともと禅と 念仏仏法の本場の中国では、今や禅と念仏は極めて少数派になっているのではないかと思われます。ただ、番組を見ていて、成程中国で拝金主義を否定し人と人との繫がりが薄くなってしまったことを問題にする人々が出て来て、救いをキリスト教に求めるようになったことを歓迎したいと思いましたが、 経済的に不遇な境遇を神に救いを求めると云う現在の中国のキリスト教は、まだまだ本当の宗教とは呼べないなとも思いました。本来のキリスト教は「苦しみから救われるのではなく、苦しみが自分を救 う」と云うのがほんとうの教えの有り方だと思います。そう云う意味では、未だ幼稚園レベルの宗教心の芽生えで、これから変質していくのだろうと思いました。
しかし、それでは日本の宗教心はどうかと顧みますと、中国よりも酷いのではないかと思わざるを得ませんでした。少なくとも中国では、拝金主義が問題だと反省する雰囲気が湧き上がりつつありますが、 日本では当の政府が拝金主義そのものです。アベノミクスに象徴されるように、金さえ廻れば国民は幸せになると云うものです。これは多分、昭和20年の戦後から平成元年に入るまでの高度経済成長の 時期が約40年間続いた日本は、中国の高々20年程度の高度経済成長期間を大きく凌ぎ、日本国民は自分達が拝金主義になっていることをさえ自覚出来ない非人間的国家になってしまっていると云うこ とではないかと、中国人民以下の我が国民の荒廃ぶりに心痛めた次第でありました。
日本は信教の自由を憲法で定めていますが、実際は教育に於いては宗教を排除している状況だと思います。公立学校では宗教教育を取り入れていません。ですから、日本では、確かに初詣で神社にお参り する人は数千万人といわれています。お盆のお墓参りも、お葬式も盛んです。しかし、これらは宗教儀式が盛んなので有って決して宗教が盛んだとは言えません。
日本も宗教ブーム到来と言われたこともありますが、今の日本の宗教は全てと言ってよいほど疑似宗教です。表向きは倫理的な事も教えますが、結局は本能に根差した欲望の充足を約束する教えを説き、 教団自体が自己の欲望であるお金を集めて、立派な建物を建てて、権威付けて更に信徒を増やしているだけだと思います。
ほんとうの宗教は、創造主である神に何かを願って拝むものでも、救いを求めるものでもなく、宇宙全体に支えられて生かされている本当の自己、真実の自己に目覚めることです。その本当の自己、真実 の自己に目覚めるのに、禅は哲学的で、どちらかと言えば自分の外である自然とか宇宙と自分の関係を洞察し、親鸞仏法は自分の心の内面を洞察し、最終的にはどちらも全宇宙の存在や現象全てに働いて いる力(仏と呼称して)に包み込まれていることを悟ることだと思います。
そして、自分の生き死にさえその働きにお任せし、生きている限りは人間として生まれた意味を自覚して、人間の〝いのち〟を生きることに心が定まって、恐怖無く生きることだと思います。
帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ
No.1329 2013.10.10
ほんとうの宗教を求めて今年のノーベル物理学賞に、物質に重さを与える「ヒッグス粒子」の存在を半世紀前に予言した英国エディンバラ大学のピーター・ヒッグス名誉教授(84歳)等二人に授与されました。
予言者の名前を用いて称されるヒッグス粒子は、宇宙が始まったビッグバン(大爆発)の百億分の一秒後に生れ、海の中の水のように宇宙空間を満たしたと考えられているそうです。そのヒッグス粒子がないと、原子も生まれず、分子も生まれず、 従って私たちの〝いのち〟も生まれなかったと云うのです。ですから、私たちの身体中にはヒッグス粒子がそれこそ何十兆、何京、否無量大数存在しているのです。それが自然科学的事実になったからノーベル賞授与に至ったのです。予言した人にノーベル賞が与えられたのですが、実験に依ってその粒子の存在を確認証明した人達とその技術は同等に評価されてよいと思いますが、しかし、自然科学と云うものは宇宙の仕組みを説明するだけのもの であって、何故ヒッグス粒子が生じたのかと云う問いには答えられないのです。〝いのち〟の説明は出来るけれども、〝いのち〟が地球に生まれたのは何故かを自然科学は知り得ないし、単細胞の〝いのち〟さえ 人工的に生成させることはこれまで出来て居ませんし、これからも出来る可能性は限りなくゼロだと思われます。
人類の自然科学は大したものではありますが、自然科学で私たちが根本的に抱えている不安を解消してくれるものでは無いことも事実です。根本不安とは『死』です。
私たち人間は誰しも『死』と云う根本的な不安を抱えています。「死は怖くない」と云う人が居るかも知れませんが、それは『死』を避けて、忘れたいだけのことであり、『死』を超越した人ではなく、むしろ『死』 を認識出来ない、人間以外の動植物程度だと云うべきでしょう。ただ、『死』を経験した人は歴史上誰一人として居ませんから、『死』とはどう云うものかを説明してくれる人は居ません。誰もが死ぬけれども、「死とはこう云うものだよ。だから心配要らないよ」と言ってくれる人は居 ない訳です。また逆に、何処から生まれて来たのかも誰も知りません。説明してくれる人は居ません。
何処から来て、何処へ行くのか分からないのですから、やはり不安です。これを解決しようと云うのが宗教なのです。大峯顕師は、『宗教の授業』と云う著書で、次のように仰っておられます。宗教とは実にこのような根本不安、我々がそれを忘れようが否認しようが変わることがない事実から生れてくる、底知れない不安から脱出せんとする人間存在の要求である。だから、宗教を持っても持たなくても各人 の自由である、というようなことは決して言えない。いかなる人間も宇宙内存在たることをやめられない以上、この不安をいかにして克服するかという課題を各自背負って生きているわけである。自分は別にそんな課 題をもっていない、自分には宗教など必要ないと言っている人といえども、この課題からまぬがれるわけにはゆかない。人間がどんなに宗教から離れても、宗教は人間を離れないのである。
ー引用終わり
であるにもかかわらず、この日本は宗教を重要視しない国になってしまっています。宗教と名乗る団体は数多く有りますが、偽(にせ)の宗教ばかりです。そして明治以降、仏教と名乗っている団体も沢山生れていますが、 殆ど全てが偽仏教です。『死』を覆い隠している教えは少なくとも仏教ではありません。
そんな中で、縁有って無相庵を愛読して下さっている読者の皆さまと共に、私は生死を乗り越えるべく、真実の宗教を追及し学び、そしてこれから生れてくる人々に伝えていかねばならないと考えているところです。
帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ
No.1328 2013.10.07
それってほんとうに本当?宇宙の真理・真実は何か?哲学は真理・真実を考察・追求する学問だと思いますが、でも、所詮は地球と云う、宇宙空間的には極めて限定された空間に、しかもたまたま生きている人類が哲学することですから、 誰かが掴んだと言ったとしても、それは今の人類が掴んだ真理・真実であり、宇宙空間的には通用するものでは無いと思います。
しかし、この世に存在するものも、この世で起きている現象も、その全てが、「人類に取っては〝不可称・不可説・不可思議〟なことである。」と云うことだけは宇宙の真理・真実であると考えます。つまり、私 たちには本当のことは分かりっこないと云うことです。ですから、これを私たちの人生の日常に当て嵌めますと、自分の理屈、判断、人生観、そして得たと思った信心までをも疑ってかかる必要があるのだと思い ます。「それって、ほんとうに本当?」と。
たとえば、お釈迦様は『縁起の道理』をお説きになられましたが、「物事には、必ずその因が有って、縁が働いて果が生じる」と云う『因縁果の道理』も、これは人類が見立てた道理で有って、ひょっとしたら、宇 宙的な視野に立てば、物事は無秩序に生じたり滅したりしているだけなのかも知れないと云う見方をも持つべきではないかと云うことです。
それが、仏法でよく言われる『仏眼(ぶつげん)』を持つと云うことではないかと私は思うのです。
その〝仏の眼〟から見ますと、「日本で持てはやされているアベノミクスって、日本国民を本当に幸せにしてくれることなの?日本の将来を見通して熟慮した挙句のことではなく、安倍さんには人生哲学も何もなく、 単にお金の苦労をしたことが無いお坊ちゃまの無責任な火遊び的な実験に付き合わされるだけじゃないの?人類を滅亡に導くお金第一主義の先頭を日本が走っているんじゃないの?」とか、「いやいや、これは人類 の業で、行き着くところまで行くしかない。何が善いことで、何が悪いことかは安倍さんに分かるはずも無く、私たちにも結局は分からないんだよ。安倍さんに惑わされることなく、自分が考えて善いと思うことを して行くしかないよ。」等々、与えられた脳力を精一杯使って生きて行くしかないと思います。でも、それってほんとうに本当?
帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま
No.1327 2013.10.03
運命は性格にあり表題は古代ギリシャの哲学者、ヘラクレイトス(紀元前540年頃 - 紀元前480年頃)の言葉です。
この言葉も私は池田晶子さんの著書『人生のほんとう』で知りました。池田さんの解説に依りますと、「〝運命は性格にあり〟とは、運命はすなわち性格のことだ、と。これはその人の性格が運命的に決まっているということではありません。その性格が、その性格によってその人の運命をつくっているという、 気が付いてみると、あっと驚くほど当たり前のことなんです。運命は決してどこからか与えられるのではなくて、その人の性格そのものですね、出来事そのものを見てみれば。だってその人の出来事は、すべてその人の出来事なんですから。 その出来事は、その人のキャラクターが刻印されているわけですから。別の言い方をすれば、その人はその人がするようにしかできないということです。誰も自分のするようにしかできない。そうですよね。だから、まさしくこれが運命とい うそのことなんです。」と云うことです。
確かに、私も自分の人生を振り返り、また現在の私を思う時、まさに私の性格(性格とは、生まれ持った性質、環境に依って形成された性質、品格、人格、人生観、価値観等だと考えます)そのものだと実感出来ます。誰の所為でも無いことが分かります。 このような考え方は、ヘラクレイトスが「自己とは何か」を追及していた証しでしょう。ギリシャから遠く離れたインドでお釈迦さまもやはり「自己とは何か」を瞑想追及されて、『縁起の道理(物事は縁に依って生じる)』に至られたのだと 思います。
お釈迦様が今から2500年前(紀元前463-383頃、前566-486頃、前624-544頃など、諸説あり)に現在のインドで上述の『縁起の道理』に気付かれ説かれたと言われていますから、お釈迦様とヘラクレイトスは生きた場所は数千キロ離れてはい ましたが、ほぼ同時代に、人生とは何か、自己とは何か、存在とは何か、真実とは何かを追求していた訳です。その事に新鮮な驚きがあります。
そしてまた、突然この二人が人類で初めて『自己とは何か?』を追求したはずもなく、記録は残ってはいませんが、二人以前の人類達がきっと同じように哲学していたに違いないと思う時、現代人の興味がお金第一、経済最優先になっている事 を恥ずかしく思わねばならないと自省せずには居られませんでした。私はこれまで西洋哲学に関心を持っていませんでしたが、私は仏教も本来(お釈迦様の仏法)は何かを拝む信仰ではなく、哲学・思想だと考えておりますし、私の尊敬する仏法の先輩方も西洋哲学を学ばれた揚げ句に親鸞仏法を取捨選択されて いますから、遅まきながら勉強しなければならないと考えた次第です。
故池田晶子さんに感謝です。
帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま
No.1326 2013.09.30
池田晶子さんのこと私は最近、若き哲学者の池田晶子さんの哲学に興味を持ち、3冊の本を読みました。彼女は5年前に既に他界されましたが、これからと云う時に惜しい人を失ったと思います。彼女は言葉を大切にしました。言葉を大事にしたと云うよりも、 言葉が生まれた時の真っ新な意味に立ち帰ることが大事なことだと考えていたのではないかと思います。
例えば、『人生を考える』と云う時、先ずは「人とは何か?」「生とは何か?」「考えるとはどう云う事か?」更には「『人生を考える』主語の『自分』とは何か?」と云う思考過程を経て問いの答えを求めると云う、普通の私から思うと 随分面倒な手順を踏まれていたように思います。でも情報化社会の今日、私たちは他の人の言葉や情報を何気なく聞き流しがちです。自らの頭で考え、自らが真実と真理を求めることが大切だと云うことを教えて頂いたと私は考えています。
そして、哲学者としての立ち位置は、過去の考え方を肯定するよりも常に否定、常に疑うと云うものではなかったかと思います。否定するのは肯定するよりもかなりエネルギーの要る思考作業です。だから、彼女はシンドイ人生を走りそして 去って行かれたのではないかと思いますが、短くとも彼女にしか出来ない役割を果たし終わって、満足しつつ旅立たれたに違いないとも思っています。
彼女は著書の中で念仏門よりも禅門に魅かれると仰っています。禅は徹底して疑えと指導しますからそうなのだろうと思いますが、もう少し歳を取られて、大峯顯師との交流を深められたならば念仏門がキリスト教やイスラム教と同じ様な阿 弥陀仏を一仏として信仰する仏法ではないことが理解出来たのになぁーと、それだけは残念に思っています。
帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ
No.1325 2013.09.26
『自然法爾(じねんほうに)』に生きる『過去は確かなもの、未来は不確かなもの』と申します。
考えて見ますと、過去は事実であり過去を否定出来る人は居ません。全て肯定しかありません。また、反対に未来は誰にも予測出来ない不確かなもので、未来に起こるであろうことを否定も肯定も出来ません。 しかし、時間が経つに従って、未来は、私が望んでいた事、望まない事だったことに関わらず過去になって行き、悉(ことごと)く肯定しか無い確かなものに変わって行きます。では、過去と未来の接点、現在向き合っている『今』はどうでしょうか。さっきまで未来だった『今』は刻々と過去になって行きます。私たちは不確かな未来に不安を抱き、肯定と否定の狭間で迷い悩みますが 、その未来は多分今日とか明日と云う事ではないのでしょう(数日後、或は数週間、数か月後の未来と云う事が殆どかも・・・)。少なくとも数秒後先と云う極めて近い未来では決して無いのだと思います。 私たちは『今』に付いては淡々と受け止め、受け容れているのだと思います(と云うことは、今だけは自然法爾に生きているのではないかと・・・)。 そして、その延長が未来へと続いている訳ですから、私たちは将来不安を抱きながらも結論的にはあるがままの全てを受け容れているのだと考えられるのではないでしょうか。
私は今、会社と家族の事で未来に不安を抱いていますから、自分の心を見詰めて、或は心を備えようとして上述の考察をしたのだと思います。私たちは人間に生れたが故に先々の事を考えて準備する事を止めら れません。どんなに自分に言い聞かせても、将来の事を全く考えないようにすることは出来ません。その日暮らしは出来ません。そして、楽天的にのみ未来を予測することも出来ません。だから、私だけでなく 誰にとっても悩み多き人生なのでしょう。
でも、考えてみますと、私の過去を振り返る時、途方に暮れた試練・逆境に何回か遭遇しています。しかし、不思議に今はその時の事を思い出して、その時と同じように苦しむことはありません。全て乗り越え て来て決着がついているからでしょう。
そう考えますと、これからの未来もどんなことに出遭っても、例えば、死に病(やまい)の宣告に遭っても池田晶子さんのように乗り越えて死んで行くでしょうし、障害者になっても、あの佐藤真海さんのよう に乗り越えて行けるのだと思います。その生き方、人生観、世界観、宇宙観が、親鸞聖人が最終的に至られた『自然法爾(じねんほうに)』ではないかと考察しているところです。
親鸞聖人のお師匠である法然上人は『自然法爾』の2文字を頂かれて『法然』と名乗られたのでありましょう。帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま
No.1324 2013.09.23
続―置かれた場所で咲きなさい渡辺和子師の『置かれた場所で咲きなさい』を読み始めました。私は、「無相庵カレンダーの27日のお言葉『投げられたところで起きる小法師かな』(青山俊董尼)とほぼ同じ意味を表す言葉だと考えます。」と申しましたが、 少し違うように思われます。
渡辺和子師の言われる『咲く』とは、ただ「微笑む(ほほえむ)」ことのようです。確かに微笑みは人を明るい気持ち、楽しい気持ちにさせてくれます。不機嫌な顔は、人を暗い気持ちにさせます。〝作り笑い〟はどうかと思っ てしまいますが、お追従笑いではなく、どんな時にも常に〝微笑み〟を忘れないことは、一つの修行と言いますか、自分を第三者的に見詰めるもう一人の自分無くしては為せないことでありますから、自己愛に気付く意味でも大 切な実践だと思いました。 渡辺和子師は、自分を飾ることに腐心する方ではなく、素直にご自分の有りのままを吐露されています。たとえば次のように。
「シスターになったからといって、人間である限り、いつも心が平穏であるはずがありません。心ない人の言葉や態度に傷つき、思うようにいかない物事に心騒がせ、体の不調から笑顔でいることがむずかしいこともあります。 生来、勝気な私は、特に管理職という立場にいることもあって、人前では明るく振る舞い、笑顔でいるように心がけています。暗い顔をしても物事がうまくいくわけではないし、他人の生活まで暗くする権利はないと、自分に言 い聞かせていることは確かです。」と。 不機嫌な顔は環境破壊するダイオキシンだとも仰っていますが、確かに、「ただ、その人が居るだけでその場の雰囲気を暗くさせる」人が何処にも居ます。私は自分自身常に不機嫌では無いと自己評価しています。しかし、常に 笑顔でもなく、気に入らないことがあれば、不機嫌な顔になっている事は間違いありませんので大いに反省させられました。
他の人が私を思い出す時に、〝笑顔の私の顔〟を思い浮かべて貰えるようにならねばと思ったことです。 私は現在池田晶子さんの哲学の本を読み漁っています。難しい本です。何故読むかと言えば、結局のところ、幸せを追及しているからだと思います。頭脳で色々と思索することは非常に大切だと云う考え方は変わりませんが、哲 学しながら、笑顔を忘れ果てて小難しい顔をして周りの人々を暗い気持ちにさせてしまうのは本末転倒だとも思ったことであります。 帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま
No.1323 2013.09.19
置かれた場所で咲きなさいこれは渡辺和子師(わたなべ かずこ、1927年2月 ~。現在ノートルダム清心学園の理事長。北海道旭川市生まれ)のベストセラー著書の題名です。
『置かれた場所で咲きなさい』は、無相庵カレンダーの27日のお言葉『投げられたところで起きる小法師かな』(青山俊董尼)とほぼ同じ意味を表す言葉だと考えます。人間誰しも人生の或る時期に一度は自分の不運・不幸を 恨みたくなる時があると思います。自分の境遇・環境を恨みたくなる時が有ると思います。
渡部和子師は、「境遇は変えられないが、生き方は変えられる」と著書の中で仰っているそうですが、この場合の〝生き方〟とは何でしょうか、また〝生き方を変える〟とはどう云うことでしょうか、私は未だご著書を読んでいま せんので、一度確かめたいと思います。
確かめたいと思いますが、言葉として分かったとしても、実行するのはとても難しいことだと思われます。「渡辺和子師も青山俊董尼も良い境遇に恵まれ、良い師匠に出遇って実際に立派な花を咲かせた方だから言えることであ り、凡人の私とは違うのではないだろうか?」と思わないでもないからです。
ただ一つヒントがあります。花を咲かせる為のヒントがあります。それは自分の花とは何かと云うことを求め続けることです。ある人が、「幸せになりたいと思い続ける人は幸せにはならずに不幸になる。幸せっていった い何だろうかと考え続ける人が幸せになる。」と言っていたことを思い出し、幸せとは自分の花を見付けることだと思ったのです。
自然界には無数の様々な花が咲いています。ウォーキングしていますと舗装道路のコンクリートの裂け目からさえ名も無き雑草が小さな花を咲かせています。能く手入れされた花園に咲いている薔薇の花とは咲いている場所も、 花の見た目も異なりますが、同じように風に小さく揺れながら咲いています。計らいなく、不平不満も無く悠然と咲いているようにさえ見えます。
草花は種子の時、風に吹かれて降り立ったところで咲ける生きる力を与えられていますが、人間は自分に合った環境や境遇が大切だと思います。それは草花と違って、人間には考える脳力(能力ではなく)を与えられており、 無自覚に生きられないからです。
渡部和子師の言われる『どの場所でも咲くこと』に自分を縛る必要は無いと思います。自分の花を咲かせるには、その花に適した場所があると思うのです。自分の花は何かを考える脳力も備わっているとともに、人間 には自らの意思で動ける能力が備わっています。
自分の花を見付け続けることさえ忘れなければ、境遇を変えて咲くことも有りではないかと私は思うのです。
境遇には物理的な場所、例えば住む地域も働く場所も有ります、そして、職場人間関係、友達関係、夫婦関係等の人間関係も含みます。自分の花を咲かせる為には境遇も非常に大切な要素であることは世間で能く目にし耳にすると ころです。くどいようですが、自分の幸せとは何か、自分の花は何かを求め続けることが前提であることを決して忘れてはならないことは言うまでもありません。
帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま
No.1322 2013.09.16
池田晶子さんのこと池田晶子さんのことは、以前のコラム『生きるために食べるのか、食べるために生きるのか』で紹介しています。若き哲学者です。否、若き哲学者でした。実は2007年2月23日に亡くなられていたことを最近知ったからです。 46歳で亡くなられたのですが、私が今も何回か繰り返し読んでいる『君自身に還れ』が2007年3月10日出版で、あとがきの日付が2007年3月となっていますので、池田晶子さんは出版を見届けられずにあの世へと旅立たれ たのです。腎臓癌で亡くなられたそうですので、大峯顯師との対談集『君自身に還れ』の対談は、池田晶子さんが癌で自分の余命数ヶ月を認識していた中で行われたものであることに本当に驚きました。
私は哲学書と云うものは殆ど読んだことがありません。ですから、哲学者池田晶子さんの言葉遣いは私にとってはかなり難解です。それで、彼女には『14歳からの哲学』(シリーズ)がありますので、中学生向けの表現と内容だと 思い、彼女の哲学がどんなものかが知れると思い読みました。そして、「あゝ、こう云う思考過程を踏んで考えて来られたのだ」と、これまで分からなかった『君自身に還れ』の中の表現が多少分かるようになりました。
彼女は〝考えること〟を大切にされています。浄土真宗の講師方の中には「〝考えること〟〝頭を使うこと〟は駄目だ。兎に角聞くことだ」と説く人も居ますが、私は考える脳力を与えられた人間だから、〝考えること〟無くして悟 りも信心も生まれない、自覚も出来ないと考えて来ましたので、池田晶子さんの考え方は我が意を得たりでありました。
池田晶子さんは言葉を鵜呑みにしてはいけないと云う考えです。何故かと申しますと言葉は大昔に生れて、色んな人がいろんな使い方をして来ていますから、いわゆる手垢が付いていて、本来の意味が曖昧になっているからと云うこ となのです。たとえば〝言論の自由〟と云うことに付いて、次のような考察をされています。
法律によって保障されている言論の自由や表現の自由について考えてみよう。 自分が言いたいことを言い、書きたいことを書くのが言論や表現の自由であるとする。人が何かを言ったり書いたりするのは、誰か他人に向けて言ったり書いたりすることだ。人がそれを他人に向けて言うのは、それを言うのが自分 にとってよいことだと思われるからだ。自分にはそう思われるのだけれども、でも本当は、それを言うことは悪いことかも知れない。たとえば、正しくない考えや、聞き苦しい悪口なんかを聞かされた人は、その人のことを、無思慮で 下品な人だと悪く思うかもしれない。だとしたら、自分が言いたいことを言うことは、自分にとって必ずしもよいことではないわけで、よいことではない言論が、どうして自由であるはずがあるだろう。
自分にも他人にも良いことを言うから言論は自由なんだ。自分にも他人にもよいことというのは、誰にも正しい言葉のことだ。誰にも正しい言葉なのだから、それを言うのは私の自由だと主張する必要がない。つまり、人には正しい言葉 を言う自由だけがあって、正しくない言葉を言う自由はないということだ。だからこそ、人は正しくない言葉を使う時には、これは言論の自由だ、私の自由だと他人に対して主張することになるんだ。面白いよね。
なんであれ、「自由」というのは、それを自由だと主張することによって自由でなくなるんだ。―引用終わり
また宗教に付いて、次のような考察があります。
「信じる」ということは、いったいどういうことなのだろう。「私は神が存在することを信じる」と人が言う時、本当は神は存在するのだろうか、しないのだろうか。その人が信じたり信じなかったりに関係なく、ある人は信じるけど、 別の人は信じないにも関係なく、神は、事実として存在しているのだろうか。
いずれであるにせよ、神というのは信じるか信じないかの問題にすぎないのだとしたら、そんな神はやっぱり存在しないのじゃないだろうか。「信じる」ということは、存在しないものを存在すると、自分で無理に思い込むための、人 間の側の勝手な都合なんじゃないだろうか。
人が信じるのは、考えていないからだ。きちんと考えることをしないから、無理に信じる、盲信することになるんだ。死後の存在をあれこれ言う前に、死とは何かを考える、神の存在をあれこれ言う前に、何を神の名で呼んでいるのか を考える。もし本当に知りたいのであれば、順序としてはそうあるべきだとわかるだろう。
信じる前に考えて、死は存在しないと気が付けば、死後の存在など問題ではなくなるはずだし、死への怖れがなくなれば、救いとしての神を求めることもなくなるはずだ。そして、救いとしての神を求めることがなくなれば、にもかわ らず存在しているこの自分、あるいは宇宙が森羅万象が存在しているのはなぜなのかと、人は問い始めるだろう。この「なぜ」、この謎の答えに当るものこそを、あえて呼ぶとするのなら、「神」の名で呼ぶべきなのではないだろうかと。
お釈迦さまやキリスト、いにしえの開祖たちは、みなこの謎の姿を見た人たちだ。決して答えを見出したわけじゃない。彼らが何かの答えを見出したと思って、人々がそれを信じようとするとき、それがいわゆる宗教になる。教団を作っ て、教義を作って、誰か権力者がいて、互いに争ってというあの愚かな構図だ。でも、謎に答えがないのだとわかっているなら、どうしてそんなことになるはずがあるだろう。
これからの君は、古い宗教のそういった失敗をしっかりと自覚して、正しく考えて、新たな意識を拓いてゆくんだ。―引用終わり
考えることは私も絶対に必要だと思います。彼女は科学が劇的に発達した現代に生れたから、地球のことも丸いと知り、地球が太陽の周りを一定の軌道で一定の速度で廻っていることも知り、宇宙も知り、ビッグバーンも知っているから、 同じ位の知識を持った現代の若者向けに詳細な思考過程を言葉として表現出来たのだと私は思います。彼女と同じ位、或はそれ以上の深さで人間や自己の存在に付いて考察した人物が、お釈迦様であり、法然上人、親鸞聖人、道元禅師 等だと思います。
そして、結論は、池田晶子さんも結論付けている人間の知恵・知識を超えた仏とか神なのだと思います。親鸞聖人が使われている『不可称・不可説・不可思議』と云う言葉は、はかり知れないと云う昔のインドの言葉のアミタに相当し、そこか ら「ナムアミダブツ」と云う名号が生れたのだと思います。
徹底的に考えると云うことで、初めて自分の存在も宇宙の存在も『不可称・不可説・不可思議』であると云う決着が付くのだと思います。一度皆さまもこのコラムで興味を持たれましたら、池田晶子さんの著書をお求め下さい。アマゾンで 『池田晶子』を検索しますと、500円前後で新品同様の中古本が入手出来ます。帰命尽十方無碍光如来ーナムアミダブツ
No.1321 2013.09.12
悪人なお往生す、 いかにいわんや善人をや。表題は歎異抄の第三章にある親鸞聖人が語られたとされるお言葉です。
今では『善人なおもて往生をとぐいわんや悪人をや』と云う言葉が逆説的論法故に人々に知られるところとなっておりますが、親鸞聖人は「世間一般では、そうではない」、「世間一般では、悪人なお往生す、 いかにいわんや善人をやではないか」と言われたのでした。私が高校生の時、その国語の教科書にも出ていた親鸞聖人の言葉ですが、親鸞聖人の真意は伝わっていなかったのではないかと今の私は考察しています。
例えば『往生』と云う熟語すら親鸞聖人のお考えとはかなり隔たりがあると思われます。一般の方々は、端的に「死ぬこと」だと捉えているでしょうし、少し仏法知識を持たれている方は「成仏」と同意語だと。 或は「死んだ後に地獄では無く極楽に往き生まれる事」だと理解されているかも知れません。『悪人』と云う熟語も『善人』と云う熟語も、歎異抄の著者とされる唯円房が、親鸞聖人が使われた意味をどこまで把握して伝えたのかをさえ今では確かめようがありません。
私は『往生』とは、「この世は自分の思い込んでいるものではないし、自分中心に動いているものでもない。周りの人々のみならず、山川草木を含む宇宙全体の働きに支えられて今の自分があるのだと目覚めた瞬 間のこと」だと思います。親鸞聖人もそう捉えて居られたと想像します。人間、善人も悪人も誰でも死ぬ瞬間には、そう思うはずだと・・・つまり、意識があるなら「死ぬことからは逃れられないんだなぁー、どうしょうも無いんだなぁー」と瞬間的に覚り、瞬間的に死んでしまうので はないかと想像します。そこで親鸞聖人は、その瞬間的な覚りを死ぬ間際では遅過ぎる、生きている今、宇宙一杯の働きに生かされている『真実の自己』に目覚めたいと仏道を歩まれ、自己と向き合い続けられ て、いつの時点かは存じませんが、目覚められた瞬間があったのではないかと想像しています。
ですから、表題の『悪人なお往生す、 いかにいわんや善人をや。』も、「悪人さえも臨終には往生する。ましてや、自分の能力と努力でこの世を正しく生きていると思い込んでいる善人が往生するのは当たり前で はないか。」と解釈しても間違いではないと私は考えています。
でも、親鸞聖人は「『罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫』の自分が救われるのは、自分の能力ではとても無理。『摂取不捨』の阿弥陀仏の誓願に依ってのみ救われるのだ」と仰ったようですので、やはり、『善人なおもて 往生をとぐいわんや悪人をや』でなければ、ご自身も落ち着かれなかったのだろうと考察しております。
私たち人間は幸か不幸か考える脳力(能力と云うよりも)を与えられています。ひょっとしたら不幸かも知れません。他の動植物が考えもしない『自分』を意識します。『自分』を意識しますから動植物が考えもし ない自分の『死』を怖れます。そしてまた、自分の思い通りになって欲しいと云う煩悩に苦しめられます。そして「何のために生きているのか?」とも考えてしまいます。しかし、結論は得られません。多分生れた 理由は一生掴めないと思います。掴んだと言う人が居るとしたら、それは単なる自己満足か思い込みでしかないとも思います。
ただ、親鸞聖人もそうだったのではないかと思います。一生、真実の自己とは何かを考え続けられ、与えられた脳力の限りを尽くされたのだと思います。それは人間と云う〝いのち〟を生き切ったと云うことであり、 自然法爾に生きたと云うことではないでしょうか。
私も自分に与えられた脳力の限りを尽くしたいと思う今日この頃です。
帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま