No.1290  2013.04.25
いきいきと生きる為には

今日はコラムの更新が遅れてしまいました。申し訳有りません。
会社の仕事が色々と重なっておりまして、経営者兼製造長兼技術者兼現場作業者の私としては、今日は、正に〝てんてこ舞い〟の一日です。そして、まだまだこれから夜遅くまで続きます。 でも、これは有難いことなのです。毎年注文の有るマリーンスポーツ用の耳栓の量産と、近々大手企業海外工場で量産が始まる製品に関する仕様書類の作成等ですから、実に喜ばしいことであります。

ただ、今日は大事な銀行との面談が有って、午前中は潰れましたし、連休の来客を接待する為の色々な準備も有り、そして今日の食事の用意もありますから、体が三つ位欲しい状況です。

昨日のNHKのテレビ番組で、体操の内村選手のインタビューを視聴したのですが、ロンドンオリンピックで2度の大きなミス(あん馬と鉄棒)をした事に付いて、ロンドンオリンピック後、競技生活 では初めての休暇を取った時、色々と反省することが有ったらしいです。その第一が、リフレッシュすることが大切だと云うことです。彼はそれまで練習を一日も休んだことが無かったそうです。 リフレッシュすることで、新たなチャレンジ精神が湧いたそうです。

毎日やることが無くて暇な人も居るとは思いますが、大抵の人は、守銭奴(1286番のコラムのテーマ)の日常生活に追っかけられて、自分を見失っている状態ではないでしょうか。

いきいきと生きるには、リフレッシュが必要だと思います。非日常の時間を日常生活の中に無理して組み込む努力が必要だと思います。仕事は生活の為にとても大事です。でも、もっと大切なのは、い きいと生きる自分の為の人生です。他人からどう思われようとも、守銭奴では無い自分の時間を作りましょう!

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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No.12889nbsp; 2013.04.22
事実⇒真実⇒真理―その②

前回のコラムで、「真実を追求すると云うことは、事実を悉く追及することだと思います。事実に基づくと云う姿勢は科学の研究に於いて当たり前に求められることですが、仏法に於いても、基本だと思います。 事実を積み重ねた後に考察することに依って真実が目の前に現れ、多くの真実を統合し考察することに依って、お釈迦様の説かれた真理が納得、つまり体得出来るのだと思います。仏法の基本は、事実を求めると ころにあると言っても過言ではないと思います。抽象的な話になりましたが、次回のコラムで、例を上げて説明させて頂こうと考えています。」と申し上げました。
事実を知って何になるかとお思いだと存じますが、先ずは、一番の事実は、自分の心の中と申しますか、頭に思い浮かぶこと全てが、事実であることは間違いないと考えております。頭の中で考えることと、それ が言動になると、嘘や偽りも有ると云うのが人間の、これまた事実だとも考えています。

自分の心の中(頭の中)を全て他人に公にすることは恥ずかしくて出来ないと私は思います。ケチな考えや、欲張りな考え、エッチな考えもあります。とても表には出せないはずです。井上善右衛門先生がご存命 中の法話の中で、「郵便物を受け取って、その郵便物に貼ってある切手に郵便局の確認印がズレて捺印が認められなかったら、剥がして使用出来そうに思ってしまうことがあります。自分は別に数十円に困ってい る訳では無い。しかし、瞬間的にそう云う浅ましい想いが涌いて来ることがあります。皆さんに於かれては如何でしょうか?」と、ご自分の心の中を見せて下さったことがあります。

私は思います。それ位の事は可愛い、他愛もないことです。私は、もっともっと浅ましい考え方が何度も湧いたことがあります。否、毎日がその繰り返しだと言っても過言では有りません。

自分の心の中の事実を先ずは事細かに観察し把握する。それが私の事実に外ならないのです。
ただ、これだけでは片手落ちです。自分のそんな心の中に、真実・真理を求める心が涌いて来ることも度々あるのです。真理に沿った生き方がしたい。恥ずかしくない生き方がしたいと云う切実な想いもあること も、これまた事実であります。そうではないでしょうか?

矛盾だらけの自分の心の中を、顔を背けずに真正面から見て確認することから始めてはどうかと思いますが、如何でしょうか?

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1288  2013.04.18
事実⇒真実⇒真理―その①

皆さまにお知らせがあります。
法話コーナーでご紹介し、無相庵コラムでも再三再四お名前を申し上げて来ました西川玄苔先生が今年の1月8日に亡くなられました(89歳)。

西川玄苔先生とは昭和55(1980年)年4月26日、『信心不可思議道』と云う講題で初めて垂水垂水見真会にご出講頂いた時以来何かとご指導頂き、私に取りましては忘れることの出来 ない善知識とも云うべき先生です。母大谷政子と共に、敬愛する先生方の中でも特筆すべき先生なのです。
写真の掛け軸と全ての色紙は西川玄苔先生の直筆でございます。掛け軸は、無相庵カレンダー6日のお言葉として取り上げることになった『喫茶去(きっさこ)』です。このコラムを書いている4月17日が奇しくも西川玄苔先生の 百ヶ日ですので、早速、山本空外師のお名号から掛け替えさせて頂き皆様と共に亡き師を偲びたく掲載した次第でございます。


西川玄苔先生は曹洞宗のお坊様ですが、最終的には、念仏に出遇うことに依って(具体的には白井成允先生に出遇うことに依って)、それまで坐禅と日常生活が一致しない悶々とした想いが晴れて、所謂仏法に救われ た方だと私は思っております。先生は、何よりも真実を求められた方だと思います。これは、井上善右衛門先生にも米沢英雄先生にも共通しているところだと私は考えております。

真理を求めるには、真理を説く仏法が最も早道だと私は考えております。お釈迦様の説かれた仏法は本来、人間は勿論のこと、人間が造った何か(建造物、仏像、お経等)を拝むことを勧める教えで は決して無いと私は理解しております。表現に問題があるかも知れませんが、非常に科学的な教えだと私は確信しております。真理を体得することを勧める教えです。

お釈迦様の説かれた根本の真理は、『全てのもの事は縁に依ってのみ起こる。神様とか人間を超越した絶対者が私たち個人の人生を決めるものではない』と云うものです。そして、『あらゆる苦は自 己愛とも言うべき煩悩に依って生じる』と云うのが二番目位に挙げられる真理だと思います。そして、お釈迦様は、八正道を修めることに依って、その苦しみの原因である煩悩から解放される、つま り解脱出来ると仰せになられたようですが、お釈迦様が亡くなられて約1500年後に生れられた親鸞聖人は、「生身の人間、少なくとも私は八正道を歩む努力をすることで煩悩を完全に無くすこと は出来ない」と、比叡山での20年に及ぶ修行と云う実体験を通して自覚され、本願他力の教えに至られ、90歳で亡くなられるまで説き続けられました。

本願他力の教えとは、念仏を称えて他力にお任せすると云うことでは無いと私は考えております。真実を何処までも追求し続ければ、人間の知恵を超えた〝宇宙全体に遍満する大きな働き〟に思い至 るしかないと云う境地になるではないかと云う教えだと思います。その〝宇宙全体に遍満する大きな働き〟を、〝私以外の力〟と云う意味で〝他力〟と云い、〝仏様〟と擬人化して呼ぶのだと思いま す。〝仏様〟は、キリスト教の〝神様〟とは全く異った概念です。

真実を追求すると云うことは、事実を悉く追及することだと思います。事実に基づくと云う姿勢は科学の研究に於いて当たり前に求められることですが、仏法に於いても、基本だと思います。事実を 積み重ねた後に考察することに依って真実が目の前に現れ、多くの真実を統合し考察することに依って、お釈迦様の説かれた真理が納得、つまり体得出来るのだと思います。それが、前回コラムの〝法は身をもって聞く〟 と云うことでもありますが、仏法の基本は事実をとことん追及するところにあると言っても過言ではないと思います。

抽象的な話になりましたが、次回のコラムで、例を上げて説明させて頂こうと考えています。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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No.1287  2013.04.15
法は身をもって聞く

「法は身をもって聞く」と云う言葉は、私の敬愛していた井上善右衛門先生の法話の題名でありますが、その冒頭に、「みなさんよくご承知の金子大栄先生が、いつもよくおっしゃっていましたお言葉の一つに、 〝物は心をもって受く。法は身をもって聞く〟という言葉がございます。」とあります。そして、「私ども、物を頂戴致しますと、この品物はどれほどの値打ちのあるものだろうか。自分の家に役立つかどうか、 ということが先立つのでございますけれど、そうではなしに、物を頂戴した時は、その下さったお方のお心をまず頂戴しなければならないということでしょう。それに対しまして、〝法は身をもって聞く〟と、 こう言って下さっております。

そして、「私どもは、耳で聞いて頭で理解する。それが、聞くことであるというように考えておりますけれども、これはやはり、知識の世界の問題でございまして、宗教的真実というものに触れる道ではない。 〝聞く〟ということは、決して耳で聞いて理解して覚えるということでなしに、〝法を聞く〟ということは、法をこの我が身に頂戴するということでしょう。頂戴するということは、法と共に生きる身にさせて いただくということでございましょう。」と続きますが、なかなかこの意味が分からなかったのであります。法を聞いた結果としては、法とともに生きる身にさせていただくと云うことは分かりますが、法を我 が身に頂戴すると云うことは、どういう聞き方をすればいいのかが分からなかったのであります。

聞くと云うことは、やはり、耳で聞いて、頭で理解することだと思っていました。それこそ、理屈で申しますと、「理解しても、自分の生活態度とか姿勢が全く変わらなければ、聞いたことにはならないのだ」と云う ことではないかと私は考えていました(ただ、一方で、「理解しようと思って聞くな。聞き流してよいから、何回も何回も聞きなさい」と云うこともよく言われますが・・・、これも理屈っぽい私には理解出来ませ んでした)。

そこで私は考えました。仏教では古来から、智慧を得る道を、聞思修(もんししゅう)の三慧と申します。聞慧は聞くこと、思慧は考えること、修慧は実践することでありますが、つまり、この聞思修がそろい踏みして初めて聞いたことにな るのだと・・・。従いまして聞いただけではなく、思量しなければならないのですが、その時の思量で大切なのが、自分の事として聞きとり考察することが肝要なのだと考えました。私たちは法話を他人事として聞きがち、 否、他人事に聞いてはいないでしょうか。そのたとえ話として青山俊董尼が、「ある先生の法話会で、法話会を世話されているお家のお姑さんとお嫁さんが居られて、法話が終わった後、その先生の控室に先ずお姑さんが来られて、〝先生本日 は良いお話を有難うございました。今日のお話は、嫁には随分こたえたと思います〟と云われたそうです。そして、お姑さんの代わりに部屋にお茶出しに来たお嫁さんが、〝先生今日は有難いお話でした。今日のお 話はお母様の耳には痛かっただろうと思います〟と挨拶されたそうです。これもこのお二人の他人事ではなく、私たちはなかなか法話を自分の事として聞けないものですね」と話されていた事を思い出しました。

法話と日常生活が別物ではいけないと云うことだと思います。私たちは法話の席で、そろそろ法話が終わりそうな頃、主婦の方なら、夕ご飯の支度のことが頭に浮かぶでしょうし、サラリーマンなら、翌日の仕 事の事なんかが気になり出しましょう。そう云う自分自身を見詰めよと云う法話を聞きながら、もう法話は頭からすっ飛んでしまうのが私たちであると云うことに気付かねばなりません。気付いても、や はり容易には直せない自分である事にも気付きたいものです。

常に自分の事として法話を聞きながら、そして法話を聞き終わって普段の生活に戻ってからも、法に沿って生きているかどうか等と聞思修(もんししゅう)して、仏法と共に生きることが、法を我が身に受け取ると云うことではないか、〝 法を身でもって聞く〟と云うことではないかと思うのですが、如何でしょうか・・・。

法話を聞きながら、法話に沿っていない他人の姿を思い浮かべるようでは、自分自身が法話を聞いていない証拠だと自らを戒めたいものです。これ、私自身に言い聞かせているところでございます。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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No.1286  2013.04.11
守銭奴(しゅせんど)を一休みしよう

守銭奴(しゅせんど)と云う熟語を聞かなくなって久しい。50歳以下の若い人達は知らない言葉だろう。高度経済成長期に死語になったのかも知れない。守銭奴(しゅせんど)をインターネットで調べると、 「(醜い)金の亡者 ・ 拝金主義者 ・ ガリガリ亡者 ・ 金のドレイ ・ 名うてのけち(んぼう) ・ 金への異常な執着心 ・ 金色夜叉」と説明されている。日本国民の殆ど、否、世界中の人間が守銭奴であ るから、特別な存在でなくなったと云うことだろうか。

私も他の人の守銭奴振りを批判出来る立場では無い。仏法の事を考える時間もあるけれども、頭の中でお金の事を考えない日は無い。お金の為に、お金に振り回されて生活していると言っても過言では無い。 アベノミクスとか云って、日本のリーダーもお金さえあれば世間が良くなると思っている。否、世界のリーダー達は挙(こぞ)って、お金が一番大事だと思っているに違いない。

そう云うリーダー達が引っ張る世界だから、争いが無くならないし、核兵器も無くならないし、地球も環境汚染が進み、資源も枯渇して行き、人類が本当は望んでいる安心・安全で平和で平穏な生活が実現出 来ないままなのだろう。人類はお金を発明した時が分岐点で、間違った道を選んで今日まで来たのだと思う。物々交換している時代までは、物に人の心や魂がこもっていたのではないか。今は物をお金でしか 見ないから、人の苦労や工夫や誠意も見えなくなり、結果的に精神文明が貧しいものになってしまったと云うことだろう。お金が値打ちの無いものだと云う証拠は、アベノミクスで急激な円安・株高で、この1ヶ月で何も しなくてもお金が増えた人が居ることだ。自動車メーカーのトヨタ何かは、1円の円安で350億円儲かるそうだ。何の努力も工夫も無しで、である。そんなお金に本当の値打ちがあるはずが無いと云うべきだろう。

今はお金が無ければ食べることも出来ないので絶対に必要だ。それに、何と言っても、もうお金の無い世界に後戻りは出来ない。でも、お金は万能では無い。お金で物は買えるが、お金で他の人の心は買えな いし、自分の心も自由にはならないことは間違いない。お金は大事だが一番大事ではないことに思い至らないと、一生を棒に振るのではないかと思う。

親鸞聖人は、正信偈の冒頭に、「帰命無量寿如来、南無不可思議光」と詠われているが、これは、「私が一番大事にしているのは、お金では無くて、この世で永遠に働き続ける真理、人間を超えた働きです」と 云う宣言と云うか、自らへの言い聞かせだと思う。

自分が一番大事にするもの、拠り所にするものを見付けようではないかと説かれたのが、お釈迦様である。「真理を頼りにしなさい。そして、真理に目覚めた自分を頼りにしなさい。他人や財産を頼りにしては いけない」と言い遺されたと聞いている。お釈迦様の仏法は特定の人を拝んだり、お経を拝んだり、仏像を拝むことを勧めていない。真理(法)を追求し、真理に従った生き方をしなさいと云う教えである 事を忘れてはならない。

守銭奴の生活は今更止められないが、お金よりも大切な事があることに時には後戻りしたいものである。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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No.1285  2013.04.08
〝なむあみだぶつ〟が人類最初の言葉?

昨日(4月7日の日曜日)の午後2時に長男の子供達3人が我が家を後にし、長女の子供二人(小3男児と小1女児)を引っ越したばかりの神戸元町のマンションまで送り届けまして、私たち祖父母の春休みの役目は無事果たせました。

今回、先日のコラムで紹介致しました私の祖父と私たち夫婦夫々の両親の写真の前に5人の孫を集めまして、彼らにとっては〝ひいひい爺ちゃん〟(高祖父)になる塩田萬市から5人孫達へと〝いのち〟のバトンが手渡されて来た経緯を説明しました。
話の内容は、ひいひい爺ちゃんが生まれた場所(出雲大社から一里強の日本海の海辺)と、生まれたのが坂本龍馬が活躍していた1861年 (文久1年、明治維新の7年前)だったこと。そして、そのひいひい爺ちゃんが大正12年に 娘(つまりは私の母政子)を島根県から東京の東京女子師範学校(今のお茶の水女子大学)に留学させたことを話しし、それは父親の子供が幸せになって欲しいと云う愛情がそうさせたものであり、親から子供への愛情と云うバトンで、 孫達の今があり、これからもそのバトンを渡して行かねばならないことを話して聞かせました。

そして、孫達一人一人には父母の2人、祖父母は2×2=4人、曽祖父母は4×2=8人、高祖父母は8×2=16人居て、16人の中の一人でも居なかったら、君たちは一人も生れて来なかったこと、勿論爺ちゃんも生れていなかったことを説明しました。
小1から高2の孫5人は思っていたよりも神妙に聞いてくれましたので、ほっともしましたし、嬉しくもありました。

私たちは、自分の力で生きていると思っていますが、無数の先祖様方の愛情に依って今日があることを忘れてはならないと思います。更には、数億年まえからのご先祖方もそして現在の私たちも、無数の人々の知恵や思いやりで〝いのち〟 を守られて来ました。また、無数の他の動植物の〝いのち〟達の犠牲の上に、〝いのち〟を繋いで来たことも間違いありません。

しかし、何故私たちは生まれて来たのか、生まれて来た意味は何なのか、どうして生きて行かねばならないのか、私たち人類は明確な答えを持ち得ていませんし、これからも持てないと思います。何故〝いのち〟が地球上で続いているのか も誰も分かりません。現実は、生まれて来たからには生きてゆかねばならない、ただ、人間だけは生きるのが嫌になったら自ら死ぬことは出来ると云う程度のものであります。

この世の中の事は、本当のところは人類には分かりません。人類が造ったこの世では無いからでしょう。iPS細胞にしましても発見した山中教授もそのグループも大したものですが、所詮は私たちに寝て居る間も呼吸させている働きでもある 宇宙の何某かの働きが為さしめたものでありましょう。

表題の『〝なむあみだぶつ〟が人類最初の言葉?』は、確か米沢英雄先生がご著書の中で、曽我量深(そがりょうじん)師のお言葉として紹介されていたものです。これまではその意味するところが分からなかったのでありますが、多分「なむ あみだぶつ」は人類を超えた働き(人格化して神様仏様と云う)にお任せするより他は有りませんと云う、大昔の謙虚な人類の発した言葉だと云うことではないかとごく最近考えるようになりました。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1284  2013.04.04
仏法どころでは無い!?

昨日、旦那の転勤に伴って博多から神戸に引っ越して来た長女と子供二人が我が家に来ています。家財道具の引っ越しがこの土曜日(6日)ですので、ホテル代の倹約に我が家に宿泊と云う訳です。 明日には長男の3人の子供達も二泊三日の予定で来まして、夏休み以来の5人の孫達大集合です。

今、朝食の料理の合間にコラムを書いているところですが、今の時期、年に一回注文が有るマリンスポーツ用の耳栓の生産に忙しい上に孫達のお持て成し、これから日曜日の昼まで、正に仏法どころでは有りません・・・。

いえいえ、仏法は日常生活と別ものではなくて、日常生活そのものが仏法だ、とは、米沢英雄先生の専売特許です。
私たちは、夫々に色々な役割を持っています。私は父親であり、夫であり、お爺ちゃんでもあり、亡き両親の息子であり、直接会ったことはないけれども祖父母の曾孫であり、主夫でもあり、社長でもあり、テニスのコーチで もあり、無相庵の主でもあり、何人かの友人でもあります。その何れの役割も人生そのものであり、日々、その役割を積極的に果たしていくのが仏法そのものな のだと思います。

帰命尽十方無碍光如来ーおかげさま


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No.1283  2013.04.01
続ー発達障害を考える

発達障害を前回コラムのテーマに致しましたのは、煩悩を苦の原因と捉えられたお釈迦様が生きて居られた時代も、また大乗仏教が生まれた紀元前1世紀前後の頃も、 また親鸞聖人が生きられた紀元13世紀頃(鎌倉時代)も、心理学も、脳科学も、遺伝子等の生命科学も未開発で、発達障害等と云う概念を持ち得ていなかった時代であった事を認識することが必要ではないかと思ったからです。

勿論、お釈迦様が説かれた縁起の道理の〝縁〟の中には、発達障害も遺伝子も全て含まれますし、これからも時代と共に、また科学の進歩と共に抽象的な表現である〝縁〟の中身が次々と具体化されてゆき、私たちは真実の自己を求め 易くなって行くのだと思います。

昔から浄土真宗では、信心を得る人は〝国に一人郡(こおり)に一人〟とか申しまして、本当の信心を得る人は滅多に居ない、とても難しいことだと申しております。親鸞聖人自身も、正信偈の中で「難中の難、これに過ぎたるは なし」と申されておりますが、これは多分、「仏道を諦めずに励んで欲しい、仏法を求め続けて欲しい」と云う願いからだと解釈したいです。

ただ私は、時代と共に文化が発達して参りましたように、精神文明も進化しなければならないのではないかと思いますので、時代と共に信心を得る人が多くなるように仏法者が努力しなければならないと思います。これは決して自 力的な姿勢では無く、そうあるのが自然の道理だと私は思うのですが、如何でしょうか。

「親鸞聖人がこう言われている」とか「お釈迦様も斯くの如く仰っている」と、先師等が申された事を頼りにすることも勿論否定するものではありません。しかし、それだけでは無く、それに加えて、私は自らが考えた事を自らの言 葉で、これから仏法を人生の拠り所にしようかと考えておられる方々に伝えることがむしろお釈迦様や親鸞聖人のお考えに従うことであり、また仏道を切り開かれた御恩に報いることだと思います。

その上で申し上げたいのです。
煩悩とか発達障害はどうしてもマイナス思考になり易いと思います。私たち人間は、父親と母親から(そしてそのまた前の無数のご先祖様からも)色々な能力や気質、体質、体形や顔形を受け継いでおります。仏の世界から申しま すと、金子みすずさんが〝わたしと小鳥とすずと〟と云う詩の中で「みんなちがって、みんないい」と詠われていますように、異なりながらも平等だと説きますが、どうしても区別・差別の意識から離れられない私たちは、なかなか そうは思えません。
先祖から受け継ぎたくなかったと思う短所と思うものが誰にも有るかと思いますが、私たちは受け継い長所は当たり前と思ってしまい、悪い点だけをクローズアップして、短所のみを問題にしてしまいがちだと思います。

数えれば、誰でも必ず当たり前と思っている長所の方が大いに決まっています。煩悩も発達障害も意識しなければなりませんが、当たり前と思っている長所を宝物とプラス思考で受け止めて、お蔭様と感謝して、その長所を他の人々 に役立たせ、また当たり前と思っている他の人々の長所を尊重してあげること自体が他の人々を生かし、自分も共に喜べる人生が開けるのではないかと思います。 でも、その当たり前のことが出来ないで悩ましい人生を送っているのは自分の煩悩故のことであると、プラス・マイナスをバランス良く自己を問い直すこともまた必要なのだと思います。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだだつ

                わたしと小鳥とすずと

                  わたしが両手をひろげても、
                お空はちっともとべないが、
                とべる小鳥はわたしのように、
                地面(じべた)をはやくは走れない。
                わたしがからだをゆすっても、
                きれいな音はでないけど、
                あの鳴るすずはわたしのように
                たくさんのうたは知らないよ。
                すずと、小鳥と、それからわたし、
                みんなちがって、みんないい。


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No.1282  2013.03.28
発達障害を考える

私たちの二つの隣国が日米韓に対してかなり挑発的な言動を繰り返している。戦争も辞さないと云う程のものであります。異常としか思えませんが、彼らは別に異常だとは思っていないでしょう。

これは国同士の厄介な問題ですが、同じようなことは私たちの日常生活における人間関係でもそれこそ日常茶飯事的に抱えている問題だと思います。嫁姑間では昔から問題にされて来ましたが、夫婦の間でも、 また隣近所との関係に於いても、また、職場の上司・同僚との関係に於いては問題の無い職場は無いとさえ言えようかと思います。
そして最近特に取り上げられている体罰、イジメから考えますと、先生や指導者と指導される側の間、そして生徒同士の間でも、人間関係でトラブルの無いところは無いと言っても決して過言ではありません。

人間関係に於けるトラブル、と云うよりも、付き合いたくない人物、異常としか思えない人物と常に向き合う日常生活を避けることは出来ません。自分も他の人も〝自分が一番可愛い〟〝自分の思う通りにした い〟〝自分以外のものは全て自分に奉仕すべき存在だ〟と云う煩悩・自己愛を心の奥底に持っている限り、避けることは出来ません。それを仏法では誰もが出遇う八苦の一つとして『怨憎会苦(おんぞうえく) 』を上げている訳であります。

自分が煩悩を抱えている限り、これまた煩悩から出ている他人の暴言や異常行動を許せる訳がございません。直接のトラブルを起こさなくても、その人物が居るだけで、生活全体が不愉快になるものです。一緒 に生活をしていたり、同じ職場で仕事をしていたら、毎日が憂鬱以外の何物でもありません。ですから、離婚も起こりますし、職場で鬱病になる人も多く、止む無く退職に至ることもあるのが、人間関係が抱え る難しさであり危うさではないかと思います。

私自身、長い人生の間には仕事場でも近所付き合いでも経験致しましたし、これからも起こり得ることですので、今回のコラムのテーマとさせて頂きましたが、それは世に言う世間の嫌われ者とか犯罪者と世 間一般の常識のある人とは、何かが異なるはずだ、異なる何かが有るのではないかと考えて来たからであります。親鸞聖人は、煩悩を抱えている我々凡夫は縁に依っては何でもしてしまう、殺人さえ犯してしま うと申されたようでありますが、誰もが煩悩を抱えているのに犯罪者と犯罪に関わらないで一生を終える者と分かれるのには、何かが有るはずだ、異なる何かが有るはずだと考えて来ました。

そして極最近、人間関係を悪化させない為と申しますか、悪い人間関係に巻き込まれない為にはこう云う心の準備をしておいたらどうかと思い付いたことがあります。それが、表題の〝発達障害〟です。
ただ、世間で取り上げられている〝発達障害〟は、先天的な様々な要因によって主に乳児期から幼児期にかけてその特性が現れ始める発達遅延だと言われており、精神科医師や臨床心理学士が認定するものです が、私は受け継いでいる遺伝子に依る先天的な発達障害とは別に、育って行く環境(家庭、社会、人間関係)の違いに依って分野や程度が異なる発達障害もあるのではないかと考えるようになりました。後天的 発達障害とでも言うべきかも知れません。

(先天的)発達障害の中に、学習障害と云う、聞く、話す、読む、書く、計算する又は推論する能力のうち特定のものの習得と使用に著しい困難を示す様々な状態を示すものがありますし、また、広汎性発達障 害(こうはんせいはったつしょうがい)と云う、社会性の獲得やコミュニケーション能力の獲得といった人間の基本的な機能の発達遅滞を特徴とするものもあります。更に、注意欠陥・多動性障害(ちゅういけ っかん・たどうせいしょうがい)と云う、多動性(集中力が無いこと)、不注意、衝動性を症状の特徴とする発達障害もしくは行動障害もありますが、何れも程度の差こそあれ、私自身に全く当て嵌まらないと は言えないように思いますし、これまでの過去に遭遇した何処か異常を感じずには居られなかった人々を思い浮かべますと、病とは言えないかも知れないけれど、その人固有の後天的発達障害が有ったのでは無 いかと、今思うのです。

そして仏法は、煩悩を持っていない人間は一人も居ないと説きますが、発達障害も程度の差こそあれ、誰もが何がしかの発達障害を抱えていると申してもいいのではないかと考えた次第であります。
そう考えた時、不愉快な想いをさせられた過去の人達に関して、あれは発達障害から来た言動だったと思いますと何となく許せそうな気持になりましたし、現に向き合っている周りの人々に付いても、首を傾げ たくなる部分に付いては、「育って来た環境の中でお互いに抱えている発達障害だ」、と、考え方を変えれば心穏やかに接しられる気が致します。

煩悩から起こった人迷惑な言動と捉えると何とかならないかと不満を抱えてしまいますが、お互いが病的に抱えて治せない発達障害だと捉えますと、何となく納得出来て、その人との付き合いが苦悩にはならないよう に思うのですが、如何でしょうか?

私の妻にこの考え方を話しましたところ、勤務先の職場で気になる同僚が気にならなくなったと申しました。そんなに効き目があるのかどうか・・・しばらく私自身の人間関係も合わせて、試して行きまして、 またコラムで報告させて頂きます。

それから、フト思いました。今問題になっている全柔連や、東京電力、教育委員会などの組織体に関しましても、何らかの発達障害があるのだと思います。更に冒頭で述べた国家にも発達障害があるのだと思います。
そして、煩悩がそうであるように、自らの発達障害に気付かない限りは、改善されないのではないかとも思います。私たちが抱える後天的発達障害も何らかの治療方法があるのではないかと思います。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ

前回の無相庵の写真を次のように、親鸞聖人筆のお名号を親鸞聖人の絵像に入れ替え ました。

添付の写真を二つ



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No.1281  2013.03.25
無相庵の原点

無相庵の原点は、血の繫がりから申しますと、私の母の大谷政子(旧姓塩田;1906年~1986年)の父親、つまりは私の祖父・塩田萬市【1861年(文久元年)~1923年(大正12年)】でございます。

塩田萬市が生まれたのは明治に入る7年前、坂本龍馬が土佐藩を脱藩し江戸の千葉道場に寄宿した頃であり、龍馬が暗殺される5~6年前でありますが、萬市は1918年(大正12年)に大阪石膏株式会社を設立し、当時で5万円(現在の2億円程度) を出資したようです。その5年後(大谷政子が東京女子高等師範学校に入学した頃)に亡くなったようですが、母がその後、彦根の女学校で教鞭をとり、昭和5年に私の父大谷四郎と結婚するのですが、萬市が亡くなってから、母がどのように暮らしたのか、 そしてどのような縁で四郎と結婚したのか残念ながら今は知ることは出来ません。

無相庵の原点は、萬市が長男(英一)を5歳で失くして仏法に救いを求めたところにありそうですし、また政子も長女【公子(きみこ)】を小学校入学したての6歳で亡くして、父萬市が帰依していた親鸞仏法に救いを求めたところにありますので、 親鸞聖人が原点であり、また親鸞聖人が龍樹菩薩、天親菩薩、曇鸞大師、道綽禅師、善導大師、源信僧都、法然上人を七高僧として讃嘆されたその原点でもあるお釈迦様がやはり原点の原点であります。





そう云う経緯から、今回入手した塩田萬市(中央に有る額縁写真)と、私の両親(右端の額縁写真)と、私の妻の両親(左端の額縁写真)、そして、親鸞聖人が揮毫されたと云うお名号(南无阿弥陀仏)の額縁、そして原点の原点であるお釈迦様の立像絵(嵯峨五台山の清凉寺にある国宝釈迦如来立像)を右側の壁に配置して、昨日の日曜日に記念撮影したのが挿入写真であります。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ

追記:
今回、無相庵の原点としてコラム化しましたが、元々は小学生・中学生・高校生の孫達に、過去からの〝いのち〟の繫がりを教え、自分の〝いのち〟がどれ程尊いものかを知らしめたいと云う気持ちから、彼らの曽祖父母、高祖父母の写真を揃え、また どんな人生を歩んだ人達かを私自身調べたかったからです。この春休みにその5人の孫達が我が家に泊まりに来ますので、全員を額縁写真の前に集めて話す積りです。
なお、私の父方の大谷家側の祖父母や曽祖父母に関して確かな知識を今は持っておりませんので、これから調べて見ようと思っております。


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