No.1280  2013.03.21
続ー仏法を聴くと云うことは

前回のコラムで「仏法を聴くと云うことは、真実を聴くことである」と云うお言葉に付いて考えました。〝いのち〟の真実を聴くことでもあるとも申し上げましたが、それに付けて思い浮かびますのは、 今や日本だけでなく世界でも話題になっている『アベノミクス』です。

この言葉は、1970年代のアメリカの経済政策『レーガノミックス』を真似て〝アベ(安倍)〟と〝エコノミックス(経済学)〟を結び付けた造語で、説明たらしい日本語に直しますと〝安倍首相の 経済政策〟と云うことになります。この『アベノミクス』は、〝いのち〟の真実と云う事を考えもしない人だから出来る政策だと私は思わざるを得ません。
〝いのち〟の真実に付いて米沢英雄先生の〝息のお話〟をご紹介すれば、その訳を理解して頂けると思います。

以下は米沢先生の息のお話―

私の街に大きな本屋さんがありまして、その主人は書籍の販売で大儲けしたわけでしょうか、マンションづくりに手を出した。そのうちが、私の懇意にしているお寺さんの檀家でして、その主人がお寺さ んに言うた。本屋で儲けて、今、マンション建てているけれども、自分は一生、何をやってきたかと考えて見ると、非常に空しいものを感ずると、こう言うておられた。

この心境は、ちょうど、お釈迦様が王位を捨てて家を出られるあたりまで、その本屋さんが来ておられるわけでございますね。外から見ますと、非常に成功して満足してることと、一般の人は思いますけ れども、案に相違して、ご主人は空しさを感じておられる。むしろ空しさをまぎらわすためにマンション経営を目論んでいられるようでさえある。そうしますと、お釈迦様は人間が本当に満たされるとい うのは、どういうものであるか、それを追及された。頭で考えられたのでなくて、身をもって、つまり皇太子の生活を捨てられて追及されたのであると言えるわけでございます。ですから、お釈迦様がつ いに到達された場所こそ、あるいは境涯と申しますか、それこそ私たちも到達しなければならないところである。お釈迦様が生き甲斐を感じられた場所こそ、私たちのぎりぎりの生き甲斐の場所であると 、こう言えるのではないでしょうか。

お釈迦様が生き甲斐を見出されたところ、それは何かと申しますと、禅宗ではそれを悟りと申しますし、真宗では信心という形で申しております。信心も悟りも、人間が最後に到達する生き甲斐の場所、 つまり外から私たちに附着するものによって私たちが満足を感じるのではなく、自分がここに存在しているだけですでに満足である。息が出ているだけで満足であるという境涯。

息か出ているだけで満足である、これは生かされて生きているという私たちの存在の事実なんですが、ここに皆さんが立っていられるわけで、何処を踏み外しても、ここを踏み外すことだけは絶対にないというわけであります。
息が出ているだけで満足というところに立っておりますと、後からくるものはおつりばかり、過分なものばかりでして、過分なものに対して頭を下げることが出来ると思いますね。あまり自分を高く買い かぶっておりますと、不足ばかり起こって満足ということがないと思いますね。息が出るだけで、もう有難いということになりますと、後からくるものはもう恵まれたものばかり、分不相応のものばかりであって、これを昔の人は冥加に余ると申しました。冥加に余ると口に言い、また心に思うところに、人間の謙虚性が表れていると思います。過分であるといえる心で生きている人が一番幸せな人だと思いますね。息が出てるだけで満足というところに立っておりますと、あとはいただくものが一杯で感謝しきれんという風になりますね。

こう申すと、それは消極的でみじめな生き方だと思われるかも知れませんが、これが人間のありのままの本質だといえるのです。お釈迦様は、人間の本質は何かを明らかにされたお方だとも言えるのであります。

―〝息のお話〟引用終わり

「息なんて誰でもしている当たり前のことであるから、別に有難くも嬉しくも無い」と思うのが私のような無明煩悩の凡夫なのですが、考えて見ますと、「誰とも異なる存在であるのが幸せなのだ」と思っている証拠 であります。人間、受け継いだ遺伝子DNAは一人一人異なりますから、得意とする素質も性格も、そして育った環境も同じ親から生まれた兄弟姉妹とでさえ異なります。
その〝いのち〟の真実を、お釈迦様が『天上天下唯我独尊(てんじょうてんがゆいがどくそん)』と仰ったのかも知れません。

政治も経済も、安倍さんの『アベノミクス』も私が生きるこの世界に全く不必要だとは思いません。私自身、日夜、個人の経済状況も会社の経済状況も良くしたいと思う気持ちで一杯です。このコラムを書きながら、家の 片隅で稼働中の生産機械の面倒を見て居ます。でも、世間の事は何が起こるか知れません。〝いのち〟の真実を押さえておかねば、現在只今の一息の有難さを忘れて、折角頂いた人間と云う貴重な〝いのち〟を無駄にし てしまうと云う結果になりはしないかと思うのであります。〝いのち〟の真実を押さえておれば、何も恐れることが無く、遭遇した苦難を受け容れ、苦難を乗り越えるべく立ち向かって行けるような気が致します

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.127  2013.03.18
仏法を聴くと云うことは

私たちの毎日は何かに追われているかのように忙しく送っておりますが、何事に付いても往々にして初期の目的を忘れてしまいがちではないでしょうか。
昨夜久し振りに読んだ井上善右衛門先生の法話の中に有る「仏法を聴くと云うことは、真実を聴くことである」と云うお言葉に付いて考えたいと思います。

井上先生は、「人間は犬猫と違って真実を聴けることが有難い。犬猫は体と本能だけで生きているから、本能が満足したらそれで良いが、人間は本能が満足しただけで良しとはならない。 真実を求めるものであるからである」と申されています。

考えて見れば、仏法の『仏』は、『如来』とも言い、真実とか真理と云うことであります。また『法』は真理そのものを意味しますので、『仏法』はそもそも真理そのものを意味し、「仏 法を聴くと云うことは、真実を聴くことである」と云う井上善右衛門先生のお言葉も真実そのものであります。
しかし、私たちは仏法を聴いて、苦労を苦労に思わないようになりたいとか、煩悩に振り回されないようになりたいとか、仏法を聴く事で何かを期待するように成りがちであります。だか ら、仏法を聴いても、なかなか安心を得られないのではないでしょうか。また、それに仏教徒の中には『仏様』をキリスト教の創造主『神様』と同じように捉えている人も居られます。仏 法を説く側のお坊さんの中にも仏様を拝む対象としている方も少なく有りません。

お釈迦様が真理を仏様と云う言い方をされていたかどうかに付いて私は明確な答えを持っておりませんが、お釈迦様は真理を追究され、真理を説かれた方でありますから、少なくとも何か を拝むと云う姿勢を取ってはいらっしゃらなかったと考えます。

私たちは先ず、自分と云うものがどう云う存在かに付いて事実・真実を知り尽くすことから始めることが肝要ではないかと考えます。抽象的な表現ですが、その答えは、無相庵ホームページ の法話に溢れていると思いますし、〝いのち〟に関するコラム集『いのち旅』を見て頂ければと存じます。

〝いのち〟の真実を知れば、ますます真実を知りたくなるはずであります。ますます仏法を聴きたくなるのではないかと思います。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ

なお、帰命尽十方無碍光如来とは、「何にも遮られずにこの私に届く真実・真理を生きる拠所にします」と云うことであり、それを言い換えますと『なむあみだぶつ』となります。 念仏は、何かを拝むものではないと私は考えております。

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No.1278  2013.03.14
他者の煩悩を認める

前回のコラムで〝煩悩を認め合う〟と申しましたが、これでは中途半端ではないかと考え直しました。相手に自分の煩悩を認めて貰うことを期待出来ない場合が殆どだと云う現実を考えたからです。 また、期待すること自体が煩悩でもあるからです。

煩悩の取り扱いを云々するのは倫理であって仏法の教えから、或いは他力の教えから外れはしないかと思われるかも知れません。でも、私が尊敬する米沢英雄先生は、「仏法の教えは、数学に譬えれ ば定理とか公式のようなものだ。それを使って応用問題が解けないと試験に合格しないように、仏法でも幾ら法話を聴いても、その教えが現実の日常生活と云う応用問題に間に合わないと何の意味も 無い」と仰って居られますように、仏法と日常生活が別々のものであっては何のための仏法かと思いますので、敢えてチャレンジしているところであります。

それに、仏法は煩悩を全否定するのでは無いと思います。〝自分の思うようにしたい〟、〝自分が一番大事〟と云う自己中心の煩悩があるから苦悩を抱えますが、煩悩があるからこそ目標を持って努 力もしますし、文明・文化も発展します。また家族を大切にします、友人・知人とも交友を深めます。そして何よりも、煩悩があるからこそ遇い難い仏法にも出遇えた訳であります。煩悩が無ければ 何と味気ない人生かとさえ私は思います。

さて本題に戻りまして、他者からの煩悩から発せられた言葉は、私たちはどうしても反射的に煩悩で受け止めてしまい、此方も煩悩から迸り出る言葉で返してしまうのが私たちの人間関係の現実ではないかと思い ます。そうなりますと止め処なく煩悩と煩悩の衝突が重なり、お互いの煩悩が燃え盛り、最後は暴力沙汰、暴言での罵(ののし)り合いにさえなりかねません。国同士の場合は、武力衝突、戦争と云う最悪の事態に至ります。

今、中国と日本の付き合いは尖閣問題でギクシャクしております。お互いに我が領土だと言い張っていますが、元々地球上の陸地も海も空も誰のものでも有りません。尖閣諸島も位置的に眺めますと、中 国や台湾の直ぐ傍ですから、記録の残っていない時代まで遡れば、昔の支邦の人々が島に渡ったり、近海で漁をしていたかも知れません。また逆に北方領土は、生まれ故郷としている日本人が沢山居 ますから、サハリンは別としても少なくとも4島は太平洋戦争終結直後のソ連の国際法違反の事情を勘案すれば日本の主張が認められても良さそうに思いますが、いずれにしても、歴史的に見て人間が常住していない島や 海を特定の国家に帰属させることは難しいだけに、煩悩と煩悩のぶつかり合いはこれからも永遠に続くのではないかと思います。そして、常に暴力沙汰、戦争沙汰を繰り返すのではないかと思います。

これは、個人と個人、家族と家族、与党と野党と云う人間関係にも当て嵌まることだと思います。
どちらかが自分の煩悩に気付き、これは相手の煩悩が為せる業であると気付いて(つまり相手の煩悩を認めて)、自分の鉾を収めて冷静な話し合いに臨む姿勢に転じない限り、これも暴力・暴言沙汰、裁 判沙汰になるしか他は無いと思います。 それではどうすればいいかと考えます時、私は仏教徒ならば、仏法に出遇えた幸運の持ち主である仏教徒の責務として鉾を収める側にならねばならないと思います。極めて難しいことではありますが、少なくとも私はそう努力したい と思っております。それが仏恩に報ずる感謝の表現でもあると思います故に・・・。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1277  2013.03.11
煩悩を認め合う

人生の苦は煩悩に起因すると説くのが仏教です。お釈迦様の得た結論でもありますが、お釈迦様は八正道を歩むことに依って苦が滅し安楽・安穏な人生が開けると説いているのだと思います。お釈迦様の仰る本当のところは分かりませんが、 煩悩を滅して涅槃寂静の世界に生きようとは仰っては居られなかったのではないかと・・・。
これは私の勝手な解釈ですが、親鸞聖人が仰せの様に生身の人間が煩悩を全て滅することは出来ないと思います。しかしながら、煩悩を滅することは出来ませんが、苦を苦と悩まずに受け止めて行けるようになるのだと思います、そしてそれ を〝苦を滅する〟とお釈迦さまは表現されたのではないかと思うのです。
煩悩を滅することは出来ませんし、我々が生きている世界も常に変化することは永遠に変わりませんから、生きている限り次々と苦難に遭遇する事もまた避けられないことも確かでありましょうが、苦を苦として悩まないで生きていけること (無碍の一道)を実践し説き遺して下さった親鸞聖人の存在は、私たちに希望を与えてくれます。

煩悩を無くさないといけないとか、苦難に遭わない様に防御しなさいと言われましても、私には到底出来ませんが、苦を苦として悩まないようになることは何とか出来そうに思います。八正道を堂々と歩むことは出来ませんが、八つの正しい 道としての正精進と云う努力することは出来ると思うからです。

煩悩を認め合うことと表題にしましたが、前回のコラムで、私の長女の旦那さんが私たち実家の在る神戸市の営業所(三宮)に転勤になり、結婚13年目にして初めて神戸に戻ってくることをご報告致しましたが、煩悩に纏わる一つ問題があ ります。

問題は長女の旦那さんの実家も三宮まで電車で30分程度の西宮にありまして、自分達の住む家に近いところに住まいを構えるべきと考えられたようで、区画整理された住宅街で教育程度も高い私たちの家があるニュータウンが良しと考えて いた私たちと意向が異なったところにあります。しかし、これは親の自然な感情であり、お互いに責めることは出来ないと思います。
ただ、煩悩は持ってもいいのですが、煩悩をぶつけ合ってはいけないと考えました。自分達の煩悩を認めつつ、また相手の煩悩も認めて、煩悩と煩悩がぶつかることが無い道を選ぶことが、人間関係を壊さない賢明な道だと考えました。

私たち夫婦は出来れば相手のご両親の希望にかなう三宮と西宮の間にしてはどうかと長女に伝え、後は夫婦で決めれば〝良し〟としました。今のところ結論としては、どちらの実家にも等距離であり、且つ旦那さんが歩いて通える三宮の山手のマンションに 落ち着きそうであり良かったと思っていますが、引っ越しが完了するまでは分かりません。

人間関係に於きましても国同士の関係に於きましても、相手の煩悩を煩悩として認めることが出来ましたら、怒りの煩悩に火は点かず、冷静に対応出来るのではないかと思います。煩悩を煩悩としてでなく、相手の主張を理屈として捉えたら 、その考え方は間違っていると主張することにもなり、煩悩が他の煩悩を呼び起こして、果てしなく煩悩同士の類焼・延焼を巻き起こし、お互いが煩悩に焼き殺され、何も生み出さない結果を招くと思います。

煩悩を煩悩として認め合うことが、人間関係に於いても、国同士の関係に於いても、お互いが破滅に至らない人間としての賢明な道でないかと思います。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1276  2013.03.07
続編―今の私の関心事

先週の木曜コラムの続編です。

関心事の一つだった長女の旦那さんの転勤先が、昨日、予感通り神戸になりました。営業マンの転勤先は神戸本社、東京支社、そして全国に7支店・12営業所、海外には37販売拠点がありますから、五十七分の一の確率の狭き門でしたので、 前回の福岡転勤に続いて私の予感は大したものと自画自賛しているところです。

それは冗談です。札幌から新潟、岡山そして福岡に転勤して来た経緯から、今度の転勤先が旦那さんの元々地元である神戸を通り過ぎて直接北の勤務地に行くことはなかろうと云う安直な発想がたまたま当っただけの事です。本当のところ、大企 業の人事異動と云うものはそんな個人的事情を勘案する程甘いものでは無いことは企業人の常識ですよね。

しかし今回あらためて実感させられましたのは、「転勤と云うのは人の誕生や死、そして結婚、離婚と同じく、人に無常の風を否応なく感じさせる出来事なのだなぁー」と云うことです。
長女の子供は、4月から小3になる男児と小1になる女児です。二人とも仲良しの友達と別れることを悲しんでいるそうですが、親も、また祖父母にとりましても、全ての人間関係が一変しますし、転勤する旦那さんに取りましては、社内外の人 間関係も一変するのですから、人生に於ける大きな出来事です。

〝人生の無常〟と言いますと、何か寂しい感覚で捉えがちですが、無常は「常では無い」と云う〝変化する〟と云う意味の熟語ですから、人に取りましては誕生や結婚の様に〝幸せと感じる事〟もあり、反対に死や離婚の様に〝不幸せと感じる事〟 もあります。無常は決して悪いことばかりではありません。
また、無常と云うのはその様に目に見えて変わる大きな変化ばかりではなく、振り返った時に、あの何でもないちょっとした出遇いが人生の節目だったなぁーと云うようなことは、私自身の人生を振り返る時に数限りなくあります。
そう云う事を称して仏法は、「人生は無常だ、諸行無常だ」と説くのですね。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1275  2013.03.04
日本の現状に責任を感じつつ・・・

日本の国際地位はここ数十年間で確実に落ちて来ました。国民総幸福量と云うランキングでは、日本は残念ながら、178カ国中で125位だそうです。90位の中国よりも下です。アメリカは35位。世界銀行が発表する国民総所得(GNI)では、 幸福度では8位のブータンは日本の約22分の1だそうですから、所得と幸福度の関係は必ずしも一致しないようです。

その国民総幸福度の尺度の構成は、1.心理的幸福、2.健康、3.教育、4.文化、5.環境、6.コミュニティー、7.良い統治、8.生活水準、9.自分の時間の使い方の9つの要素から構成されているそうです。下記が上位国です。
        1位・デンマーク
        2位・スイス
        3位・オーストリア
        4位・アイスランド
        5位・バハマ(西インド諸島にある島国、英連邦国の一つ、フロリダ半島とキューバと海を隔てて700の島と2400の岩礁から成る国)
        6位・フィンランド
        7位・スウェーデン
        8位・ブータン

この幸福度ランキングが現状を正確に表しているかどうかは兎も角としても、お蔭様とか、お互い様とか、惻隠の情とか、陰徳を積むとか、長幼の序など等、古き良き日本情緒が失われて来て久しいことは、街を歩いていても、政治の世界を見 ていても、体罰で揺れる教育界をみていても認めざるを得ないと思います。
私はこうなってしまった原因は、昭和30年代の後半から始まった高度経済成長期に日本の家庭教育力と社会教育力が失われたからだと考えております。その時代は正しく私が学生から働き盛りだった時代と重なります。私自身も知らず知らず にお金第一、贅沢な衣食住第一、レクレーション第一の日暮しに耽(ふけ)り、倫理道徳が生活の中心ではなくなってしまっていたと思います。そして、問題はその私のような親が育て上げた子達が政治を担い、教育を担い、また私たちの孫達 がその後継者として今育ちつつあると云うことです。今の日本の現状はなるべくしてなったと云うことで私は大きな責任を感じています。

さて、どのようにしてこの間違った方向へ向かう日本の舵を切り替えればいいのでしょうか・・・。
私も答えを用意出来ていません。正しい答えは誰にも無いかも知れません。アベノミクスで絶好調の船出をしたかに見える安倍政権は教育改革も必要として教育再生実行会議を設置しました。そしてその会議が道徳教育を教科化して『人間性に 深く迫る教育を行う』第一次提言をまとめたそうです。

これに対して、一部のマスコミには「道徳が教科化すれば、検定を受けた教科書で教えられ、子どもの心が成績評価の対象にならないか。価値観や愛国心の押し付けにつながる疑念もぬぐえない」と云う批判がありますが、堕ちるところまで落 ちた日本の教育力です。ここは批判や懸念は一先ず慎み、デフレ政策と同じくこれまで試した事が無かった施策を実行して見て、試行錯誤するしかないと思うのですが如何でしょうか。
私はマスコミ批判自体が決められない政治を始めとして、日本の教育力、経済力を低下させて来た真犯人かも知れないとも思うのです。ここは批判よりも、粘り強く試行錯誤して行くしかないのではないかと思うのです。

私は毎日、5~10km程度のウォーキングをしています。いつもその途中で大きなスーパーの駐車場を横切るのですが、他者の駐車に気配り出来ていない車の停め方が何時も気になっています。無相庵読者さん達も一度お近くの大きな駐車場 の状態を見て貰いたいです。仕切られた駐車スペースからはみ出している車が散見されるでしょうし、店舗の入り口近くに設けられた障害者用駐車スペースを一般車が占領してしまっている光景が見られるでしょう。

このような〝思いやりと察しの無い〟車のオーナー達に育てられている子供達がそれこそネズミ算的に増え続けているのだと思うとき、自分の責任と共に日本の行末を案じ毎日胸苦しくなるのです。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1274  2013.02.28
今の私の関心事

昨日の夜、一緒に小学1年~3年の子供たちにテニスを教えているコーチのお一人(私より2歳年上の70歳)をお招きして二人で飲み会をしました。この数年、ほぼ3ヶ月に一回はやっていることなのですが、 昨夜は午後7時半から0時過ぎまで・・・。それで、今日のコラム更新が大幅に遅れた次第です。

さて、どなたにも気になっている事や心配事、或いは特に関心を持っていることがお有りだと思いますが、今の私の関心事は仏法以外では、やはり、一番は仕事の先行きです。開発技術が製品化に結び付き、我が家の経済 が好転する日が早く来る事を切望しつつ、頭の中で色々と策を練っています。切望しているゴールは私が死んでも妻が今の家に住み続けられて、働かずとも日々の生活が出来る見通しが付くことにあります。仏 法的に考えますと、自分の思い通りにはならないのですから、全て仏様にお任せするしかないのではありますが、出来る限りのことはした上でのお任せだと理屈をこねて、日夜、「ああでもない、こうでもない」 と頭を捻っています。

二番目の関心事は子供達と孫達のことでしょうか。先ずは昨年離婚した息子とその子供達のこと。先行きが見通せませんので、気に掛かります。息子は40歳ですので、未だ未だこれから3、40年の人生があります。し かし、再婚しますと、今はちょいちょい交流があると云う、母親が連れて行った3人の子供達(私に取りましては孫達)とはどうなるのかと要らぬことを考えたりしています。
それから今博多に住んでいる娘夫婦一家にこの4月に転勤がある可能性が大なのです。婿さんがあるメーカーの福岡支店に勤務して5年経過したからです。これまで、札幌営業所、新潟営業所、岡山営業所、そし て今の福岡支店と移り住んできた転勤族なので、今度は日本の何処か?場合に依っては海外か?と・・・。福岡支店への転勤は私が予感していた通りになりましたが、今回、一度本社勤務を経験させられるはず だと予想していますが(そうなりますと、私たちの住む神戸です)、明日か来週初めには知らせがありますので、ドキドキしながら待っているところです。

三番目の関心事は、最近知った私の曽祖父を始めとする親類一族の事です。曽祖父は私がこの無相庵ホームページを開設するに至った原点なのです。島根県で石膏鉱山経営していて、会社にお坊さんを呼んで、社員と共に 法話を聴いたりしていた常念仏者だったと母から聞いていました。母はその影響を受けて、神戸市垂水区で垂水見真会と云う仏教講演会を主宰するようになり、そのまた影響を私が受けていると云うことでありま すので、まさに曽祖父は無相庵の原点なのです。
実は5日前のことですが、その曽祖父の名前でインターネット検索した娘から「駄目元で調べたら、有ったよ!」と連絡があり、その情報を見て、もっと詳しく知りたく思い、また写真でもあれば入手したいと思 い、母の甥や姪の家族と交流を開始しだしたところなのです。どうやら、曽祖父の写真が現存するようですので、3月中には私の家に飾れるものと思い、ワクワクしているところでございます。

斯くの如く私の日常は凡夫そのものの生活でございますが、一方で親鸞仏法を拠り所、落ち着き所として、生かされて生きているところであります。。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1273  2013.02.25
八正道を生きる

「〝いのち〟を大切にするとはお釈迦様が説き遺された『八正道(はっしょうどう)』を実践することだ」と申し上げました。そして、それは仏法と共に生きることだとも申し上げました。八正道に関しましては、昨日法話コーナーに井上善右衛門先生の詳しいご解説をアップしましたので、ご覧頂ければ幸いでございます。

井上善右衛門先生のご解説も少し難しいかも知れませんが、自己中心の生き方から真理に従った生き方に目覚めることだと思います。「真理に従った生き方」と云う表現も抽象的だと思いますので、私が考える真理に付いて、日常生活で何かを判断する必要がある時の道標を少し具体的に並べてみたいと思います。

①この世の中は自分の思い通りには動いてくれないものであります。勿論、自分自身が希望や期待を持つことも絶対に必要でありますし、それに向かって努力することも必要ですけれど、自分一人の力だけで自分の願いが叶うことはないと思います。過去の縁を含めて無数の縁(条件)が寄り集まって物事は成るものでしょう。この事は自分の過去を振り返ってみれば、一番分かります。これは仏法が説く正法(しょうぼう)の要(かなめ)であり、別の言葉で、〝縁起(因縁果)の道理〟とか〝他力〟とか、〝諸行無常〟とか申すのだと思います

②私も他の人も、人間誰しも例外なく自分が一番可愛いと云う考え方で動いていることも現実であります。自分の事だけを考えている人に自分が好感を持てないように、相手も同じですから、意識して、相手の立場に立って考えることが大切だと思います。その為に、正語・正業は人間関係の基本だと思います。

③私たち人間は、ヒト科と云う動物の一種でもあります。ですから、自分も他人も動物の本能を持っています。いざとなれば私も他の人も凶暴化する資質を誰しも持っていると考えておかねばなりませんし、そう云う存在であると云う認識を忘れてはならないと思います。テロリスト、凶悪殺人犯も同じ人間であり、私が今そうなっていないのは、たまたま受け継いだ遺伝子と育った環境のお蔭だと云う冷静且つ客観的な〝正思〟に常に立ち戻りたいものです。

④日常生活では正法(しょうぼう)をついつい忘れがちになりますが、正法と共にある確認の意味で、八正道の一つとして正念(しょうねん)が挙げられております。『念』は漢語林で調べますと、一番に「いつも気にしている」「心にかける」と説明されています。井上善右衛門先生は、「憶念(おくねん)」とも言われていますが、この『憶』も「心に思って忘れない」と云う意味の漢字のようですから、しっかり心に刻んで忘れられないことでありますから、「なむあみだぶつ」の〝念仏〟は、仏さまをしっかり心に刻み常に共に生きると云う確認のための正行なのだと思います。〝仏さま〟とは正法・真理を人格化した言葉であることは言うまでもありません。多分、キリスト教の神さまも、イスラム教のアッラーも仏さまと同じことではないかと私は思っております。

まだまだ、申し述べたいと思いますが、これから、時々、付け加えて参りたいと思います。


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No.1272  2013.02.21
〝いのち〟を大切にするとはどう云うことなのか

前回のコラムの最後に、「〝いのち〟を大切にするとはどう云うことなのか、これから学び続けてゆきたいと思っております。」と申し上げましたが、この3日間考察して得た結論は、お釈迦様が説き遺された 『八正道(はっしょうどう)』を実践することしかないだろうと云うことに落ち着きました。

『八正道』はお釈迦様が悟りに至る為の道筋を八つの正しい道として示されたものであります。
一応、八つの道を順序立てて並べますと、『正見(しょうけん)』『正思(しょうし)』『正語(しょうご)』『正業(しょうごう)』『正命(しょうみょう)』『正精進(しょうしょうじん)』『正念(しょ うねん)』『正定(しょうじょう)』の八つです。

詳しくは、後日法話コーナーにアップする井上善右衛門先生の解説をご覧頂きたいと思いますが、私は次のように考えれば良いのではないかと思います。
先ずは正しい見解を持つことだと思います。正しい見解を持つとは、地球上の何処でも、何時の時代でも、そして誰もが「それは間違っている!」とは言えない『永遠の真理』を自分のものとすることです。つまり、イスラ ム教国であろうとキリスト教国であろうと、その国の誰もが「それは間違いない」と言う『永遠の真理』を掴むことが出発点だと思います。だからこそ、八正道の一番に『正見(しようけん)』が示されているのだ と思います。
そうすれば、その人の生活全体が正しいものになりましょうし、生活が整いますと、当然、自分だけの世界に留まることなく、他の人々の役に立ちたい、社会の為に役立ちたいと云う積極性が芽生えて様々な努力をするようになるの だと思います。八正道は、井上善右衛門先生も仰っておられますが、一つ一つが個別の道ではなく、自然の流れとしての道筋だと云うことだと思います。

八正道は、仏教では解脱する為の修行道のように位置づけられて説かれていますが、私はそんなに堅苦しく捉えず、極々普通の私たち庶民が人生の道に迷った時、つまり、思いも依らぬことに出会った時の道標 (みちしるべ)と考えたいと思います。

そして、その道標のまた道標が上述した『永遠の真理』です。そして〝いのち〟を大切にするとは、まさに『永遠の真理』を道標として生きてゆくことだと思いますが、その『永遠の真理』を教えてくれるのが 『仏法』そのものだったんだと、我田引水では無く、私自身今回気付かされた次第です。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1271  2013.02.018
人生何が起きるか分からないから・・・

この世は、思わぬことが起きるものです。

つい先日は、ロシアのチェラビンスク州に巨大な隕石が落下し千人を超える負傷者と4千棟を超える建物に被害が有りました。また、一週間前にはグァム島で無差別殺人事件があり犯人とは何の関わりの無い日本人 3名の〝いのち〟が犠牲となりましたし、一ヶ月前にはアルジェリアで、日揮の日本人駐在員10名を含む39名の〝いのち〟がテロの犠牲になりました。その他にも、中央自動車道笹子トンネルの天井落下事故、 高砂市で山陽電鉄の踏切での事故等々思いも依らぬ事故は限りがありません。

想定外の不幸な出来事が時を置かずに繰り返されているのが私たちのこの世です。犠牲になっている人達も、自分はそんな目に遇わないときっと思っていた人々です。私も今、そんな目に遇う予感も想定も出来ません が、起きないと云う保証はどなたの身にも有りません。

こう云う現実、つまり、この世は何が起きるか分からないことを目の当たりにしたとき、人は我が身に引き当てどんなことを思うのだろうかとフト考えました。そして、私は次の三つかと・・・。
        ① 〝いのち〟有ってのものだね、生きているうちに楽しめるだけ楽しもう。
        ② どんなことが起きても狼狽(うろた)えずに対処出来るよう心構えをしっかり持とう
        ③ 与えられている今の〝いのち〟を大切にしたい。

①~③以外にもあるかも知れません。無相庵読者のあなたは、どうお考えになられたでしょうか?
私は①の考え方も分からないわけでは有りませんが、それでは他の動物と何ら変わらないのではないか、折角考える能力を持って生れた人間なのだから、それでは空しくはないかと考えます。そして②は私自身、長 い間仏法を聴く目的として来たように思うのですが、「それは仏法の目的とは少し違うかな?」と思うようになっています。
そして、今は③でありたいと考えているところですが、〝いのち〟を大切にするとはどう云うことなのか、これから学び続けてゆきたいと思っております。

帰命尽十方無碍光如来ーお蔭さま

追記:
18日(月曜日)は東京出張があり、早目にコラム更新しました。何事も無く帰って来たいものです。


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