No.1260 2013.01.10
身近な宗教心最近のマスコミ報道は、安倍政権誕生を機に、税と社会保障の一体改革課題は何処かに吹っ飛んでしまい、公共事業の復活を含む大型補正予算とか、物価目標とか、円安・株高等、経済一辺倒に偏っております。 デフレ不況を脱出し、国が経済成長さえすれば国民は安心安全な生活が出来るかのような論調です。
私たちが〝いのち〟を繋ぐには勿論のこと衣食住の確保は大切なことです。その為に、雇用を継続し守る為にはある程度の経済成長も必要かも知れません。でも、最近だけではなく、現代社会は我が国のみならず 世界中が経済・経済と騒ぎ立て過ぎているように思います。オリンピックにしても、その経済効果は数兆円であるとか・・・あまりにもお金お金と云う考え方が先行して、大切な事を忘れているように思えてなり ません。
そして、この傾向と風潮はそう簡単には変わらないだろうなと思っていた矢先、昨日の神戸新聞の夕刊に表題の随想コラムが目に入って来ました。作者は〝島薗 進〟と云う宗教学者(東大大学院教授)です。内容 は次の通りです。
新聞からの転載―
宗教に縁がないと考えている人は多いが、見えないものの前で一度も手を合わせたり頭を垂れたことがないという人は少ないだろう。家庭に神棚も仏壇もなかった私はお墓参りでそれを教わった。そういうことを親 がしっかり教えなかった私の娘は、中国地方を家族旅行したとき、広島の爆心地で彼女なりに頭を垂れていた。ご飯のときに「いただきます」というが、感謝の気持ちがこもるだろうか。手を合わせて言った方が言葉にかなっている。床に書物や顔写真が落ちていたとして、それを踏みつけるのは気がひけるので踏まないよう によける。少し前なら「バチがあたる」と言う人もいた。手を合わせる気持ちに通じる。寝て居る人だってまたぎたくない。それを「迷信だ」と言う人は少ない。
宗教について教える授業でこんな話をして、「君たちにも経験はないか」と学生に尋ねる。ある女子学生は、靴を捨てるときゴミ箱に向かって手を合わせるのだそうだ。こんなことは一神教徒はしないだろうが、私 は「それいいね」と答えた。少し大きめの神社に行くと、包丁供養とかメガネ供養とかの碑があるが碑を建てた人の気持ちは分かる気がする。使い慣れた道具にはぬいぐるみの熊のようにいのちがあり心があるよう に感じる。PCだって捨てるときは「苦労かけた」とねぎらいたい。
いただいた恵みに感謝の気持ちがわくのは自然だ。恵みが得られなかったり、傷みの経験があると手を合わせる気持ちに深みが増す。他方、少し賢くなり自分で手に入れることができるものが増えると感謝の気持ち は遠のく。東日本震災後には手を合わせ頭を垂れる機会が増えた。何でも手に入れたいという熱が少し醒めたのかもしれない。
―転載終わり
島薗教授(1948年東京生まれ)は、宗教者として東日本大震災被災者支援にも関わられているそうであります。新聞に、〝宗教心〟と云う言葉が、それも第一面に見付けることはこれまで無かったように思いま すので、少々驚きつつ、ホッとする気持ちを抱きました。テレビ番組で〝宗教〟と云う言葉が使われることは有りましても、〝宗教心〟と云う言葉はNHK教育番組の『こころの時代』以外で出て来たことは無かっ たのではないかと思います。
島薗教授は宗教心を私たちの目に見えないものに感謝する心と云うように平易に説明されておられるように私は受け取りましたが、固いことを申しますと、真実を求める心だと思います。また更に仏法で能く使われ る言葉に致しますと真実の自己とは何かを求める心と云うことになろうかと思います。真実の自己に目覚めますと、自ずと自分を取り巻くあらゆる存在に支えられて生きている事へ感謝する心が湧き出でると云う ことですから、島薗教授は、ややこしい説明を端折られて、見えないものに感謝する心とされたのでしょう。
もともとお蔭さまと云うのは、目に見えないものと云う仏法の言葉であります。お蔭さまと云う日本人が慣れ親しんで来た言葉を大いに復活させて、経済至上主義の日本を宗教心が通い合う社会にしたいものだと思った 次第であります。
帰命尽十方無碍光如来ーお蔭さま
No.1259 2013.01.07
善人顔の悪人になるとも、悪人顔の善人になることなかれ今日、殆どの学校も企業も年の始めを迎えたものと思います。無相庵も、今日から通常通りにコラムを更新して参ります。
表題の「善人顔の悪人になるとも、悪人顔の善人になることなかれ」は、私が年頭に自分に言い聞かしたことであります。
違和感があると思われた方がいらっしゃると思いますので、少し説明させて頂きます。
〝善人顔〟の善人は、世間で云うところの善き人、つまり他人への思いやりがあり、自分勝手な人では無いお人好しとも言われる人のことです。そして〝悪人になるとも〟の悪人は、歎異抄第3章の『いわんや悪人をや』の悪人であります。更に〝悪人顔〟の悪人は、世間で云うところの悪人で、世間のルールを無視し、法律をも平気で破る犯罪者も含み、付き合いたくない人物のことですが、〝善人になることなかれ〟の善人も、やはり同じく、歎異抄第3章の『自力作善』の人 のことであります。
人間の顔には、その人の心が表れると言われます。『目は心の鏡』と云う諺もあります。新聞やテレビで報道される凶悪犯人の顔は、殆ど例外なく、所謂『悪人顔』だと私には見えます。これは、その凶悪犯の心の奥底にある〝人間として生 まれ人間らしく生きたい〟と云う心と、自分が行っている事が反すると云う無意識の裡の自己否定が、顔に表れているのではないかと私は推察しております。
そして、凶悪犯でも、「こんな凶悪な事件を起こすような人とは見えない」と感じる場合が極々稀にですが有ります。このような場合は、姿形は人間であっても、心の奥底に人間の心の欠片も持ち合わせることなくこの世に生まれた動物であ り、元々人間ではないと考えるべきではないか、むしろ悪人顔の犯罪者よりも救い難いヒト科の動物だと考えるべきではないかと私は考えております(また、そんなヒト科の動物にはなりたくないものです)。自分の顔が善人顔か悪人顔かを判定出来るのは他人様だと思いますが、私としましては、罪悪深重・煩悩熾盛・邪見驕慢・地獄必定の悪人であると自己を見詰め続けられ、且つ、仏様の御心に触れられて永遠の〝いのち〟に目覚められた親鸞 聖人の歩まれた道を辿り、心と顔・姿形が一致する人になりたいものだと年頭に思いを新たに致しました。
果たして・・・帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ
No.1258 2013.01.01
2013年の年頭のご挨拶皆さま、明けまして、おめでとうございます。
いま、元日の午前6:00となったところでございます。玄関に新聞を取りに出ますと、西の空高く大きなお月さんが輝いております。元日の神戸の気温は零下1℃、でも、その寒空に煌々と輝くお月さんに 「今年も仏法に道を聞きながら、技術開発の仕事に頑張るぞ!」と、凛とした心にさせられました。心新たに出来る元日と云う日を考え出したのは人類の知恵です。先人の知恵です。
犬や猫には元日と云う意識は毛頭無いと思われますが、先人達はどうして、いつ頃考え付いたのかとインターネットで調べますと、旧石器時代(1万3千~1万1千年前頃)のフランスの遺跡から、石器で月 の満ち欠けの変化の様子を刻みこんだと思われる動物の骨が複数出土したそうなので、後期旧石器時代、約5万~約1万年前のいつかだと云う説が有力のようです。現代の私たちは当たり前のように元日と云う日を迎え、気持ちを新たに出来ることにより前進して行けるのでありますが、此処にもお蔭様があるのですね。沢山のお蔭を蒙るだけではなく、私たちも今の日 本が遭遇している原発問題と領土・領海問題を、後代の人々のために知恵を振り絞り、後代の人々に感謝して貰える道筋を付けねばならないと思うことであります。
今年も、無相庵を宜しくお願い申し上げます。
帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ
No.1257 2012.12.27
続ー理性は感情に勝つことが出来ません理性は感情に勝つことが出来ませんが、それで終わってしまいますと、親鸞聖人の他力本願の教えをはき違えることになります。
井上善右衛門先生も「私は浄土真宗の一番の脱線というのは、凡夫々々ということを聞かされて凡夫にあぐらをかいてしまうということです。凡夫というのは己れを縛り、己れが己れの棘(とげ)で自分を刺しているのです。一体それで自分を捨てて おいてよいのかということを、いま親鸞聖人は、私の目の前でおっしゃっておるのでありまして、そのお言葉に私ども頭が上がらないなら、それを我が問題としてそのケリをつけねばなりません。それなしに、ただその言葉の中にあぐらをかいて寝転 んでしまうなら、これほど大きな人間の堕落はないでしょう。人間が人間の迷いの中に寝そべってゆく、そんなことをどうして親鸞聖人が、私どもにおっしゃるでしょうか。ところが、どこかで言葉に甘えて、己れの煩悩の中に寝そべってしまうとい うこと。これが浄土真宗の中で一番勿体ない取り違えだと存じます。」と仰っておられます。ではどうやってケリがつけられるのでしょうか?井上善右衛門先生は、また、次のように仰っておられます。 「私も皆さんもこの人生においては、如何なる生活の場におきましても、思うようにならぬ悩みを抱えていない人はございません。私たちは、自分はこんなに思うようにならぬことを抱えて悩んでおるが、あの人は何もいうことがない幸せな人だとい うように羨ましく思うことがございますが、それはただ分からぬだけです。その人の身になってみると、きっと何かあります。これが人生の姿です。しかしその思うようにならぬ悩みも仏様の御心にお出会いしてみますと、心配することはない私が 知っている、一緒についている。業を果たしてやがて真実の国に生れる身の上ではないか、煩うことはない、私がここにいる、と仏様がいって下さいますと、悩みの現実は消えて無くなるのではございませんけれど、あるがままに超えさせていただく ことが出来ます。」と。
井上善右衛門先生は、どうしたらそうなるかに付いてお話になりません。本当は、どうしたら仏様の御心に出会えるのかをお聞きしたかったのですが、尋ねてはいけないことかと思い終に聞きそびれてしまいました。多分、言葉では説明出来ないのだと思います。 適切な説明ではないかも知れませんが、親心と云うものも、どんなものかを言葉で説明してもし尽されないと思います。実際に親になってみなければ本当のところは分かりません。その親心も結婚して子供を産んで親になったら分かるかと申しますと、 分かるのは少しだけではないかと思います。これまで何回かご紹介した詩人の窪田空穂さんが70歳を過ぎて詠まれた『今にして 知りて悲しむ 父母が 我にしましし その片思い』と云う歌を67歳の私も実感していますが、浄土真宗の信心も、禅宗のお悟り も、体験しないと分からないと云うのが本当かも知れません。
でも、何とか悟りへの具体的な道筋を知りたいものだと私はずっと考えております。でも、私自身が、井上善右衛門先生の仰る仏様の御心に出会う体験をしませんと、それをお示し出来ないのですから、気の遠くなる希(のぞみ)ではあります。
ただ、少しヒントになる話を思い出しました。理性は感情に勝つことは出来ませんが、米沢英雄先生が紹介されているオーストリアのフランクルという精神分析学者の見出した超越的無意識、或いは実存的無意識、宗教的無意識に目覚めれば、感情に打 ち克てるのではないかと思ったりしています。
フランクルは、ヒットラーのユダヤ人大虐殺の舞台となった有名なアウシュビッツの捕虜収容所に入れられましたが、奇跡的に生還し、常に死と向き合うギリギリの精神状態の収容所内でも崇高に死んで行った人々を見て、こういう意識は人間の 何処に宿るのであろうかと考え続け、フロイドの本能的衝動的無意識とは質の全く異なる層を見出しました。そしてこの無意識を、人間の一番内面にあって、しかも人間を超えているので、超越的無意識、或いは、ここが責任、良心、自由、真の人 間存在の場所であるというので、実存的無意識、或いは神とはここで出会うというので、宗教的無意識と名付けたそうです。おそらく、仏様の御心との出遇いも、この私たち人間の一番内面にあるこのフランクルの無意識層ではないかと私は思っています。そう考えますと、日常生活で、無意識の中に直ぐにお金の事を考えてしまう私の心とは別に、何か問題に遭遇したなら ば、無意識のうちに仏法的にはどうかと考えてしまう私は、仏様の御心に触れつつある、否、抱き込まれているのかも知れないと思うこともあります。そしてそうなったのも、私の努力でも何でもない、親鸞仏法とともに人生を生き抜いた祖父と母か ら〝いのち〟を頂戴し、様々な有難い挫折に遭遇し、親鸞仏法の体現者である井上善右衛門先生、米沢英雄先生、駒沢勝先生他、善知識との縁のお蔭を蒙ったこと自体、仏様から名指しで呼び止められているのかも知れないと思うことでございます(これ こそ、他力の御働きだと・・・)。
次の月曜は大晦日です。コラムはお休みさせて頂き、元日に年頭のご挨拶をさせて頂きます。
帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ
続ー理性は感情に勝つことが出来ません
これまでの3年間は、米沢英雄先生の著作集全八巻を主として勉強して参りました。そのお蔭さまで、一般在家の私が仏法に救われるとしたならば、親鸞仏法以外には無いのではないかと思うようになりました (未だ確信には至っていないと思います・・・)。
そして一週間前から私が3年前まで最も影響を受けていた井上善右衛門先生の代表的なご著書『真実の泉』に里帰りしてみましたところ、以前にも何回も読み返したご著書ですが〝、初めて読む〟と云うような 新鮮な感覚がしております。経験的には、仏法の小説とは異なり、何回読み直しても初めて読む感覚になる箇所があるものです。それは多分、自分が抱えている問題や疑問点が刻々と変化しているから、関心が ある箇所と無い箇所で、此方の受け取り方、或いは読み取る集中力に差がでてしまうからなのでしょう。その井上善右衛門先生の『真実の泉』を未だ読み終えていませんが、ある箇所に『理性は感情に勝つことが出来ません』と云う言葉がありまして、「こんな事も語って居られたのか!」と感じ入ってしまいまし た。何故そう感じ入ったかと考えました時、今年に入ってから購入した『相田みつを講演CD集』の中にも、「人間は理屈では動かないと云う事を申し上げたい。人間を動かすのは感動だということ。理動と云 う言葉は無いですね。」と仰っておられた事を思い出したからだと思います。
また、極最近の衆議院議員総選挙の論戦の中で、数多く出現した党首達の主張内容がいずれもそれなりに正しい事を言っているにも関わらず、心を揺さぶられないのは何故かとその原因を考えていたからでもあ ろうと思います。実際、私の日常の人間関係に於きましても、幾ら理論的に正しい事を並べましても、相手を納得させて動かすことは出来ない場面が過去の私には多々ありましたし、また現在に於きましても、私の身近で具体的 な経験として、小学生にテニスを教えている時にも遭遇しております。理屈・理論だけで此方の期待通りには動いてくれないと感じているからであります。
それに、私自身からして理屈で解っていても行動に移せないことが一つや二つではありませんから、この「人間は理屈で動かない」と云う事と、「理性は感情に勝つことが出来ません」と云うことは、私に取り ましては実は重たい人生の問題である事に気付いた次第であります。井上善右衛門先生は、無常に関連して、次のように語られています。
『自然界も人間界も、いな宇宙そのものが、無常ならざるものは一つもない。これは確かな真理でございます。動かすことのできない真実です。その無常の中に私どもは生きているのですから、その無常に必ず 関わらざるを得ないことは分かりきったことなのですが、何か自分だけが無常でないという垣根を作りまして、そして私たちはさも安泰であるかの如く思っておるのです。けれども、それこそ一つの夢の館に住 んでおるとでも申しましょうか。そういう夢の家の中に居りますがために、私どもは、何か不安で落ち着かないのです。それは死という問題が頭で分かっていても、胸は承知していないからです。その胸の中を 頭の理解でおしつけて納得させようとするのですが、それは無理というものです。頭の中にあるものが画で、胸の中にあるものが私の正体なのです。理性は感情に勝つことが出来ません。しかも死の問題を解決 しえずして真に生きることはできないのです。』
―転載終わり「頭の中にあるものが画で、胸の中にあるものが私の正体だ」と云う言葉は真実を語った言葉ではないでしょうか?私たちの頭の中にある勉強して得た確かで正しい知識、法律知識、それに幼い頃から教えられ た道徳の知識が如何に多くても、ついつい間違った事をしてしまいますし、果ては殺人さえ犯してしまうことさえあるのが人間であります、また私であります。
ただ、井上善右衛門先生は「理性は感情に勝つことが出来ないから、感情を大切にしよう」と仰りたいのではないと思います。そこで終わってしまえば、人間は「気の向くまま、心の赴くままに行動すればいい のだ」と開き直るしかなくなってしまいます。それでは救われないと思います。実際救われ難い私ではありますが、私を支配する〝私の感情〟と言うものは様々な煩悩(108種類では足りない位で、八万四千 の煩悩とも表現されます)そのものではないか、そしてその根っこは、自分が一番可愛い、自分の思うようにしたいと云う自己愛(自我、エゴ)ではないか、と思うのです。
その自己愛を何とか滅したいと思うのですが、この自己愛もまた自分では如何とも為し難いことに気が付かされます。いわゆる立ち往生状態に私は追い込まれてしまいます。ただ、有難いことにはその立ち往生 状態に至られた先輩諸氏が居られます。その代表的な方が親鸞聖人だと思うのです。親鸞聖人は、数多くの書き物を遺して居られます。ただ、これを学べば解決すると云うものでは無いことは、上述しましたように、頭の中で理解して知識として得ましても、胸の中の正体を翻らせることはそん なに簡単ではございません。でも、立ち往生状態を親鸞仏法が胸の中の正体そのものになる事に依って見事乗り越えられた先輩方、先師方が実際に居られることこそが私たちの救いでありましょう。
次回コラムに続きます。
帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ
No.1255 2012.12.20
平和とは?以前、JT生命誌研究館の中村桂子さんをご紹介させて頂いたことがあります。遺伝子研究を通して生命とは何かを追及されている方だと思いますが、JT生命誌研究館のホームページで毎月『ちょ っと一言』と云うページで雑感を含めてメッセージを発信しておられます。その最新号は、今回の選挙に関連して『なぜかあまり話題にならない憲法改正』 と云う一文を認(したた)めておられます。
その中に中村館長の意見として、下記の表現がありました。その文章を表面的にのみ捉えますと、私とは立場が異なることに何故か驚きました。
(その1)憲法制定の経緯を勘案してもここは決して変えてはいけません。第二次大戦後、皆戦争はイヤだと思ったのです。日本はもちろん、アメリカもヨーロッパも。その時だからこそこの憲法がで きたのであり、時の女神の恵みだと思います。(その2)21世紀の世界を考えた時、日本が「戦争をしない」という憲法を武器にして世界の中での存在感を出すことが大事だと思うのです。それにはまず“戦争をするのが普通の国だ”などと言わ ない決意が必要です。
私は選挙中に、社民党党首の福島瑞穂さんが、『元祖・脱原発』『元祖・格差是正』『元祖・護憲』と声を張り上げていたのには、何でも反対の単純思考過ぎると非常に抵抗感を持っていましたので、中 村館長の上記の発言を知り、「何だ、中村館長も福島瑞穂さんレベルなのか?」と瞬間的にですが失望した次第でした。ただ、時間が経ちまして、失望も批判する気持ちも無くなりました。平和とか戦争と かに関する考え方は当然個人個人で異なって当たり前だからです。
福島瑞穂党首も中村館長も何よりも平和を愛すると云うことなのでしょうが、では、そもそも「平和とは何か?」、「あなたは平和とはどんな状態を云うのですか?」と問われた時の答えは、個人個人かな りの差があると思います。先に進む前に、読者のあなたはどう答えられますか?
『平和』も『幸せ』と同様、なかなか即答出来ないのではないでしょうか?
それはさておき私は護憲派ではなく改憲派です。それは以下の理由に依ります。今の日本国憲法が制定された時と今では世界は様変わりしています。特に、二つの隣国は核武装国となり、実際に日本国に対 して具体的に挑戦的な行動をし始めています。また、同じアメリカの同盟国同士である韓国でさえも、日本が固有の領土としている竹島に、これまでして来なかった大統領の上陸と云う行為を実行しました 。ロシアも同様です。
話合いを希望していても、周りからは話し合いではなく、軍事行動の一・二歩手前の行動で仕掛けられている状況の中で、話し合いでの解決のみに活路を見出すのは、多くの国民の〝いのち〟を預かる日本 国政府の有り方として本当に正しいことなのだろうかと私は自問自答を繰り返しています。
私とて戦争には反対です。でも、専守防衛では、国民の〝いのち〟が守られる保証はありません。核ミサイル攻撃を受けた時点で日本国民の殆どの〝いのち〟が奪われます。広島・長崎の原爆被害の比で はありません。「そんなことをしたら、核爆発の放射能は核ミサイルを発射した国までにも汚染が拡がるので、その様な事態にはならない」と云う人もいるようですが、人を殺せば、死刑にされることもある と分かっていても、殺人を犯してしまうのが人間です。
大きな抑止力を持っても、他国からの攻撃を受けないと云う保証もありません。でも、私たちが生活している社会、或いは世界は、適切な抑止力に依って完全ではないにしても、ある程度の安全は保たれてい るのではないでしょうか。身近な事では、ピストルを所持した警察の存在に依って殺人犯罪がある程度抑制されているでしょうし、死刑があるから、殺人を思い止まる場合もあるでしょう。アメリカの軍隊が 常駐している日本だからこそ、中国も一気に軍隊を尖閣諸島に上陸させないのでしょう。でも、その抑止力だけでは領海侵犯も領空侵犯も防ぎことは出来ませんでした。
個々の人間も、そして国も、イザと云う時には何をするか分かりません。「条件が整えば人は何をしでかすか分からない」と言ったのは親鸞聖人です。国も同じです。イザとなれば、自分さえ良ければ良いと 云うところは、人間も国家も変わらないと思います。戦争も、自分は正しく相手が間違っていると云うことで話し合いが決裂して始まることは、歴史を見れば明らかです。
自分の心、人間の心の事実を知れば、戦争がどうして起こるかが分かるはずだと思います。人間の煩悩を滅することは出来ませんが、せめて抑制出来たら戦争は起こりません。でも、自分の心の裡を能く 知れば抑制も出来ない自分に気付くはずです。
個人個人の心から煩悩が無くなれば平和は来ます。その時世界は『お浄土』そのものです。一人でも煩悩に振り回される人間が居る限り、争いは無くなりません。戦争は無くなりません、世界に平和は参りま せん。国民の〝いのち〟、自分の〝いのち〟が無くなっても仕方が無い、飽くまでも話し合いで解決するのが日本の有り方だと云う覚悟を持った上での護憲論ならば、私も賛成するかも知れません。でも、そ のような覚悟が護憲派の人々に有るかどうか・・・。
人間に煩悩がある限り、この世界を生きて行くには抑止力も必要だと思います。
帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ
--No.1254 2012.12.17
聖徳太子の言葉―世間虚仮唯仏是真第46回衆議院議員総選挙は自公で3分2議席の325議席を獲得し、〝圧勝〟と〝政権奪還〟と云う文字が新聞各紙に目立つ結果に終わりました。
東京選挙区で当選した21名の自民党議員達は「自民党が勝ったのではなく、民主党が自滅した」と口を揃えて謙虚な姿勢を見せていたが、3年3ヶ月前の政権交代自体、「民主党が国民から支持されて 圧勝したのではなかった」ことを強調したかったのだろうと、選挙結果に釈然としない私は捻くれて見ていました。
その心は、こんなに選挙結果が時計の振り子の如く極端に左右する原因が、小選挙区比例代表制と云う選挙制度と現代社会に占めるマスメディァの圧倒的影響力、そして日本国民の知的水準に在るのでは ないかと云うところにあります。即ち、今回の政権奪還選挙、そして3年前の政権交代、更には7年前の小泉郵政選挙と、全てマスコミ主導に依る圧勝結果だったのではないかと私は考えている訳であります。
マスコミ自身は今回も、民主党の稚拙な政権運営に国民がノーと云う民意を示したと言っていますが、今回の民意はむしろ、戦後最低の投票率に表れていると考察すべきではないかと私は思っています。昨今政治の世界に於ける政局を始めとして、新党の生まれ方や与野党間の批判合戦を見ていますと、1400年前の日本の政治家でもあり、和国のお釈迦さまとも云われる聖徳太子が遺された『世間虚仮 唯仏是真』と云うお言葉を思い出さずには居られません。今回の衆議院解散劇から始まってからの選挙戦と選挙結果を見ていましても、私は「まことに、世間虚仮唯仏是真だなあー」と思わずには居られ ませんでした。
『世間虚仮唯仏是真(せけんこけゆいぶつぜしん)』とは、「この世は、みんな嘘偽りの世界でしかなく、仏だけが真実である。」と云う意味であります。この聖徳太子のお言葉を親鸞聖人は、「煩悩具 足の凡夫、火宅無常の世界はよろずのことみなもてそらごとたわごとまことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」(歎異抄・後述)と言い換えられていますが、聖徳太子も親鸞聖人も 世間の事は全て嘘偽りばかりで真実が無い、でも仏だけは真実だと断言されているのです。では、この『仏』とは何でしょうか。「仏様だけが正しい」とか、「仏様を思うことだけが正しい」と云うこ とでは、一般の方々には何の事が分かりません。
私は、「仏様の眼から観た世界だけが真実だ」と受け止めます。
煩悩一杯の凡夫の眼からは、世界を有りのままに見れません。生れ付きの感覚と本能や、自分が学んで得た知識や経験からの先入観で世界や物事を判断して、これがこの世界だと受け取ってしまい、信じ て疑いません。たとえば、私が前述で申し上げた、マスコミが主導した選挙と云う批判も、私の先入観が言わしめた事柄であり、これを私は正しいと思っていましても、反対する人も居り、賛成と言って くれる人も居るでしょう。そして、マスコミの人々に問い質しましても、認めない人もあり、認める人もあるでしょう。賛成をしたり、反対をしたりする人がいる限り、また認める人も有り、認めない人 も居る事自体、真実では無い訳です。真実・真理とは、何時の時代でも、どの地域でも何処でも、誰でもが認めることを真実とか真理と云うのです。仏の眼から見た世界は、仏法で言うところの色即是空の世界です。全てに差別が無い世界です。無差別智の世界とか無分別智の世界とか言います。私たちは、差別智の世界を生きています。好き嫌い、勝 ち負け、綺麗汚い、早い遅い、損得でしか考えられない差別智の世界を生きています。これは自己中心の(エゴの)世界とも申します。
だからと言って、私たちは此の世を仏様のような無差別智・無分別智の眼では見られませんし、生きていけません。ただ人間は差別智の世界に生きていますが故に、逆説的ではありますが、差別智の世界 と無差別智の世界の両方を知ることが出来るのではないかと私は考えています。無差別智の世界に生きていたら、理論的には差別智の世界を知ることは出来ないからです。
帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ
No.1253 2012.12.13
悪人こそ救われる?尼崎連続変死事件で逮捕されていた角田美代子容疑者が留置場で自殺しました。自分の力で自分の首を絞めると云う信じ難い方法での自殺です。極最近の取り調べに「すべて私が悪い」と言っていたと云うことですが、 反省の気持ちが多少はあったのでしょうか。「生きて出られないのなら、生きていても無駄だ。死にたい」とも言っていたと云うことですので、罪を犯したことに全く反省が無かったのではないかと私は思います。
仏法では、特に浄土宗・浄土真宗では、仏様は全ての人を救うと申します。十悪・五逆罪を犯した人も救うと申します。親鸞聖人は「悪人こそ救われる」とまで仰いました。歎異抄第3章の『善人なをもて往生をとぐ、 いはんや悪人をや』は一般の人々もご存知の有名な言葉です。
そうすると、「何人にも暴行し監禁し食事も与えずに見殺しにし、ゴミを捨てるようにドラム缶にコンクリート詰めにして海に死体遺棄すると云う罪を犯した者をも救うのか?」と云う疑問を一般の方々は抱くのでは ないかと思います。私も永らく疑問を抱いて参りました。これに対して、仏法はどう答えるのでしょうか。
実は同じ歎異抄第3章に、その答えが書かれています(現代の漢字表記で引用致します)。
「その故は、自力作善の人は偏に他力を頼む心欠けたる間、弥陀の本願に非ず、然れども、自力の心を翻して他力を頼み奉れば真実報土の往生を遂ぐるなり。」と。つまり、「自分の力に自信を持ち、自分は善人であると考えている人は、仏様に救われたいとも思わないし、浄土に往生したいとも考えないので、仏様を必要としないし、仏様側も救おうとは思わない。けれども、そ う云う自分の力に自信を持ち、自分を善人だと思っている人でも、心を改めて(廻心して)、仏様を頼りにするようになると仏様は救って下さるのだ。」と云うことだと思います。
私は「救われたいと思わねば救われないのではないか。救われたいと思うようになれば救われるのだ。」と思います。つまり、「救われたいと思うのは、自分が救い難い人間だと云う自覚が芽生えたからであり、そう云う 目覚めが無ければ救われたいとは思わないのではないか」と、今は考察しているところであります。
自分の力を頼りにして生きている人、或いは自分を善人だと思っている人は、仏様は必要だとは思えないでしょう。自分の力は大したことが無いと気付き、自分の煩悩の醜さに辟易(へきえき)し、救われ難い自分に 目覚めた人を悪人と云い、その悪人こそが救われるのだと云うのが、親鸞聖人が至られた御心だと思っております。
どんな酷い罪を犯しても、親鸞聖人と同じく、救われ難い自己に目覚めれば、法の裁きとは別に救われるのだと思います。目覚められなければ、死んで地獄に堕ちるのではなしに、生きながら地獄の人生だと思います。
従いまして、悪人こそ救われるのであります。帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ
No.1252 2012.12.10
煩悩もハカライも捨てられそうもありません或る浄土真宗のお坊様が、「煩悩は捨てられないが、ハカライは捨てられる」と仰っておられます。
勿論、お坊様は本願他力の教えを学ばれ、身に付けていらっしゃるお方ですから、「ただ、自分でハカライを捨てようと思っても捨てられません。阿弥陀さまが私のハカライを取り、捨ててくださるのです。」 とも仰って居られますので、「他力の教えに適ったお話であり、成程そうなのかぁー」と納得しかけました。浄土真宗では、親鸞聖人が正信偈に書かれている『不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん)』 と云うお言葉を引用して、「煩悩は失くせない。煩悩は無くならなくても、浄土真宗の覚りに到れる」と説かれます。
煩悩を滅した境涯が涅槃だと四諦八正道としてお釈迦さまが説かれた原始仏教とは全く趣を異にしていると思われますが、出家者ではない私たち在家一般市民は家庭を持ち、衣食住を獲得し維持する為にはお金 も稼がなければなりませんから、煩悩生活から離れることは出来そうにありません。そう云う私たちの為に説かれたのが、本願他力の教え(浄土門)だと思いますので、私にはホッと救われた思いを抱かせてくれた有難 い教えです。
でも朝、目覚めた瞬間からハカライばかりが頭を駆け巡るのが現状の私ですから、「ハカライも疑いも、み仏にからめとられし今日のうれしさ」と云う歌を詠まれている冒頭のお坊様からしますと、私は依然 〝救われていない凡夫〟と云うことになります。煩悩もハカライも捨て切れていない凡夫と云うことになります。
凡夫であることはうすうす承知している積りの私は愕然としました。こんな私は救われないと言われたようで愕然と致しましたが、でも、その後私は考察を続けました。自分を救う為に、それこそハカライをし続けまし た。そして、「ハカライと云うものは、煩悩が形として現れたのがハカライであり、煩悩が無くならない限りはハカライも無くなるはずがない」と云う結論こ至りました。
ハカライとは、自分に都合の良いことが起こるようにあれこれと思いめぐらし、いろいろと画策したり、過去に起こった自分に不都合だったことをあれこれと後悔したり、原因を他に求めたりすることだと思いま す。まさにハカライは、真実が分かっていない無明煩悩を源にして起きる私の心の動きだと思います。
そんな私を〝仏、かねて知ろしめして(仏様はとっくにご存知で)〟「罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫よ!そのままで良い。われに任せよ」と私を全肯定して、無条件に救って下さると云うのが、本願他力の親鸞仏法の教えだと私は改めて思 い直した次第でありました。勿論、私はハカライも多く、仏様に任せ切る事も出来ない私でありますが、それでも無条件に救うと云う親鸞聖人の開かれた仏道を信じて、更に勉強を続けたいと思っております。
帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ
No.1251 2012.12.06
『いのちの党』構想『みんなの党』、『日本未来の党』がありますが、『いのちの党』は未だ有りません。私に資金があれば立ち上げたいものです。
「いのちを守る」と訴える候補者はいますが、どんな〝いのち〟を守ろうと云うのでしょうか?政治はそもそも〝いのち〟を守るのが最も大きく大切な役割であり使命ですが、その最も大きく大切な役割を果たせていません。
ですから、下記のような〝いのち〟の問題が起こっています。
- 東日本大震災で多くの〝いのち〟を失い
- 原発事故を起こし、多くの〝いのち〟を危険に曝し
- 拉致被害者の〝いのち〟を救えず
- 自殺者の年間数は平成10年から連続14年間も3万人以上が続いており
- 今回笹子トンネルで起きた天井崩落に依る9名の悲惨な死は想定される事故死ですが、
その交通事故死者も、ここ6年は減少傾向にあるが、それでも年間の死者は7千人以上であり- 癌に依る死亡者数は一日千人以上、年間では30万人を超えたまま
- 殺人事件は年間千件を超すが、他殺に依る死亡者数は年間5百人
- 最近問題になっている独居老人の孤独死のデーターは、孤独死の定義が難しくデーターは無いが、「65歳以上のみの高齢者世帯数が前年比4.0%増の962万3000世帯と過去最高を記録し、全世帯に占める割合が20.0%と初めて2割台となったことが、5月20日に厚生労働省が発表した「2009年国民生活基礎調査」で分かった。独居高齢者が同6.4%増の463万1000人に増加したことなど が影響した。」と云う2年前の記事から、孤独死はこれからの大きな問題
これらを解決するのは、政治の役割であり、責任です。
しかし、選挙公約に挙げられている、消費増税と社会保障の一体改革は、自殺者を増やし、孤独死を増さないでしょうか。脱原発、卒原発は、〝いのち〟を守ることになりますでしょうか。原発の存在で経済生活を守られている人 達は大丈夫でしょうか?それよりも3万人を超える自殺者の方が重たい問題ではないでしょうか。拉致被害者は確かに人数は少ないかも知れませんが、他国に連れ去られても救ってくれない国で安心して暮らせますでしょうか。拉 致された人々を何としても救おうと云う総理大臣は見当たりません。どの政党も、〝いのち〟を守ることを優先課題第一にはしていません。〝いのち〟を守るには、〝いのち〟を見守り合う社会を取り戻さねばなりません。そんな社会は、かなり昔、恐らくは弥生時代よりも縄文時代位まで遡らねばな らないかも知れません。科学技術で便利になった現代の良い面を生かしつつ、お互いの〝いのち〟を見守り合う社会、国家、世界を目指さねば、日本の沈没だけではなく、世界が、否、人類が亡びるのではないかと・・・。
世界の国々に先駆けて、日本に『いのちの党』が生まれることを期待したい。またその為に私の出来ることをして参りたいと思っております。
帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ
追記:『いのちの党』が目指す社会、目指す世界
極最近、中央自動車道の笹子トンネルで天井崩落事故がありまして、9名の尊い命が失われました。中日本高速道路株式会社は事故原因を〝老朽化〟と言い、また初めてのトンネルでの天井崩落とも言い、 事故責任を不可抗力であるかのような真に不誠実な社長発言がありました。
事故の真因はいずれ事故調査委員会が明らかにするかも知れませんが(国の責任もあり、真因を隠ぺいするかも知れません)、私は基本設計にミスがあり、且つそれにメンテナンス設計のミス(ミスでは なく、無視だと思います)が重なったものと考えています。ご遺族が原因を老朽化と説明されて「はい、そうでしたか」と素直に認められるはずがありません。この世のあらゆる存在が経年変化すること は自明の理でありましょう。ですから、経年変化を表現する〝老朽化〟は、想定して、対策すべきことであり、事故の真因ではありません。
ただ、私は中日本高速道路株式会社だけを一方的に断罪出来ないと思っております。あの福島第一原発事故も、想定出来得る〝津波に依る原子炉メルトダウン〟を滅多には起きない事だとして、対策を先 延ばしと言いますか、少なくとも事故が現実になるまでは暗黙の裡に決して起こらないと関係者間(東電、原子力委員会、政府、与野党、原子力識者)で合意していたと思います。そこが人間のいい加減 さであり、不徹底さであり、真実から眼を背ける不誠実さだと思います。
でもやはり残念ながら私たちは、中日本高速道路㈱と東京電力㈱の不誠実さを一概に責められないと思います。私たちだって、根本的にその不誠実さを以って、今生きているからです。即ち、私たち人間 はいずれ必ず『死』に直面する時が来ます。そして必ず死にます。『死』は私たちが最も忌み嫌う無常であるにも関わらず、また誰しも避けられない現実であり事実であることが分かっていながら、『死 』を直視することなく、先延ばし先延ばしして生きているのが私たちだからです。対策をしないと他の命を奪うことが分かっていても、その対策を先延ばししている企業を批判出来ない所以であります。
ではどうしたらよいのでしょうか?
これと云う答えはありません。ただ、命を守ると言いながら、現実は命を軽視し、命を確率でしか捉えていない人類の文化の有り方を根本的に変えるしかないと思います。即ち、「死ぬのは全体のごく一 部でしかない。」とし、しかも犠牲になった者の自己責任とか不運として片づけて、便利、効率、速度を求める文化に酔いしれているこの数千年の人類の歩みを一から見直す勇気を持つしかないと私は思 います。飛行機は必ず落ち、交通事故は必ず起こり、必ず誰かが死にます。死ぬことは分かっていても、徒歩よりも自転車、自転車よりも自動車、それも普通の道よりも高速道路、自動車よりも飛行機 と、どんどん死ぬ確率が高い交通手段を開発して来たのが人類であります。お互いに個々の〝いのち〟を見守り合い、個々の命を大切にする文明開花が待たれます。
これが『いのちの党』の目指す人類社会です。