No.1250  2012.12.03
政治の役割

明日が総選挙の公示日。テレビ報道番組では既に激しい選挙戦が始まっていますが、いよいよ明日から選挙カーが街中を走り回り、党名と候補者名の連呼が私たちの耳を騒がせることになります。只でさえ、 何かと気忙しい師走、浮足立たないように冷静さを保ち、新しい年を迎えたいものです。

野田首相が解散宣言を行って以降の半月間、新党の立ち上げや政党間で繰り広げられる離合集散劇を見せられて、これが日本の末期的症状なのかと思ったり、新しい日本に生まれ変わる陣痛かも知れないと 思ったり、過去には無かった11党もの政党が乱立しての総選挙は初めてのことだからかも知れませが、新聞やテレビ番組で各党の党首或いは代表者の「我が党はこう戦う!」と云う主張を聞いていて、つ くづくと政治って何だろうか、政治家の役割は何だろうかと考えざるを得ません。

一番気になっているのは政党間の批判合戦です。選挙は国民の支持を奪い合う戦いだとしたら、闘う相手の政治姿勢のお粗末さや過去の不始末やスキャンダル、政策の未熟さ不徹底さを声高に国民にアピール して知らしめる作戦も分からないでは有りませんが、自党の政策を打ち立てた背景・理由と目的、そして政策を実現するための具体的方策を丁寧に説明する党が一つも見当たらないことに愕然とします。

結局は、3年前に政権交代を果たした民主党と同じで、政党の目的は立候補者の当選数を増やす事だけであり、立候補者もどの党に所属すれば国会の議席が得られ、自分の生活が成り立つかを考えているだけ のように感じてしまいます。

政治の役割は「国民の命と生活を守る」と言われたり、下記の三点に要約出来ると云う考えもあります。
第一に国民を飢えさせないこと
第二に国民の安全を保障すること
第三に次世代を担う国民に適切な教育を施すこと

その為に生活のルールを作ったりして国民同士の揉め事がないようにしたり、他国から侵略されないように外交努力したり条約を取り交わしたり、或いは産業を育成して企業活動を支援したりして雇用を国民 に提供したりするのだと思いますが、私は国家にしても企業にしても家庭にしても、組織体であるかぎり、目的を達成するには、目的に適う人材育成、教育が基本にあると考えます。

今の政治家達同士の言い争いそのものが、教育からかけ離れたものです。これは勿論日本だけのことではありません。過日のアメリカ大統領選挙でも、ネガティブキャンペーンと称して、テレビ広告を利用し た罵倒合戦が常態化しているに止まらず、ますます酷くなっていると聞きます。そんな大人の、しかも国のリーダー達の他人を傷付け合う姿を見て子供たちが健全に育つはずがないだろうと気になって仕方ありません。
選挙は戦いだから、戦っている最中はどんな手段を取っても良い。その代わり結果が出ればニコヤカに握手を交わす、抱き合って健闘を讃え合うのが大人の姿勢だと云う考え方があるのかも知れませ んが、子供たちを教育する観点からしますと、政治の目的と真逆の事をしているとしか私には思えません。

政治がこのような状況では、日本の平和と国民の安心安全も、世界平和もどんどん遠のいているのではないかと・・・自分の無能力さを改めて感じながら、それでも何とかしなければと考えているところであ ります。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1249  2012.11.29
朝(あした)に道を聞かば夕べに死すとも可なり

今年の年末ジャンボ宝くじは一等前後賞合わせて最高6億円が当たるそうです。このニュースを聞いて、全く関心が無いと云う人は居ないでしょう。私たち夫婦の会話ですが、「別に6億円でなくてもいいよね、 1億円、否1千万円でもいい、いやいや、百万円でも1万円でも・・・」と云うことになるのが常のことであります。「当らないだろうが大晦日の夢を買おう!」と駅前の売り場に買いに行く人は多いこ とでしょう。私も買わない事には当たらないと云うことで、10枚は買う積りです。
3年前のデーターですが、売上高は1965億円、購入者数の推定値は約3000万人だと云うことです。成人日本人の三分の一が買っていることになります。年末ジャンボ宝くじは庶民の年末の関心事のトップかも知れません。

関心事と云うことで思い浮かびますのは、私たちの究極の関心事は何だろうかと云うことです。仏教が説く、菩提心を起こす無常の最たるものが『死』でありますから、本当は最大の関心事は〝自分の死〟のはずですが、街行く人のほぼ全員と言 ってもよいと思いますが、自分が死ぬとは思っていませんから、自分の死にはまるで関心が無いかのように見受けられます。でも、例えば年末ジャンボの事を知っていても、癌の精密検査結果が大晦日に分かると云う状況にあれぱ、心もそ ぞろ、ずっと癌の検査結果の事しか頭には無く、宝くじを買う気にはならないのが普通だと思います。

昔、一休和尚が言われた言葉だそうですが、「人が死ぬと思うていたのに、儂(わし)が死ぬ、これはたまらん」と。あの一休禅師ですらこうですから、私たちは幾つになっても、なかなか自分が死ぬとは思えないものです。年齢 順に死なないことは分かっていても、しばらくは死なないと思ってか、死は頭からすっかり消え去り、損得、勝ち負け、好き嫌い、早い遅いが頭を駆け巡っている中(うち)に一日が過ぎ、そして一年が過ぎ、やがて一生が過ぎ去 ってしまうと云うのが大方ではないかと思います。

仏道を歩み始めたからには大方と同じではお釈迦様に申し訳ない、親鸞聖人に相済まないことです。仏教徒ならば最終的なゴール地点に達したか否かの自己判定基準をある程度持つべきだと思います。私は自分の死に対する覚悟(少し 大袈裟かも知れませんが)が出来ているかどうかではないかと思います。「生死を超える」と云う言い方もあります。これは別に〝平気で死んでゆける〟と云うことではありません。むしろ〝平気で生きてゆける〟ことかも知れません。 殆どの人は自分の死を考えずに平気で街を歩いていますが、これは勿論平気で生きていることにはならないと思います。一番嫌なことから逃避し思考停止して、さして重要でも無いことで気を紛らわせているだけだと言ってもよいと思います。

私がコラムで度々書いていますが、仏法を究めても死にたくはないでしょうし、死ぬのはやはり怖いと思います。でも人間に生れた喜び(真理に目覚めることだと私は思います)に出遇えたら、死んでも満足だと云う心境になる のではないかと思っています。それを孔子が論語の中で、表題の「朝(あした)に道を聞かば夕べに死すとも可なり」と仰ったのではないかと推察している次第であります。。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1248  2012.11.26
〝いのち旅〟番外編:ヒトに生れて有難い理由―時間・空間・自己等を認識出来る

人間以外の動植物は、時間の経過を知らないから、自分の命が何十億年前の過去に遡ることも知らない。空間の存在も認識出来ないから、宇宙の存在も、宇宙には無数無限の数の星があることも、地球がその中の一つの星 〝太陽〟の惑星の一つであることも、地球が丸いことも海や陸も空がある事も認識出来ていない。と云うことは、自分が今生きていることすら認識出来ていないだろう。だから、死も知らないから死ぬことへの恐怖も無いはずである。

私たちの周りに生きている動植物の種類に関して確かなデーターは無いが、数千万種とも言われている。だから、ヒトに生れる確率は極めて極めて小さい。そして、そのヒトだけが高等な脳を持ち、前述のよう な認識力を持ち得ているのである。
そのヒトとして与えられた能力を生かさないまま、折角の〝いのち〟を失ってしまうのは実に勿体ないと思う。幾ら長生きしても、生れてからずっと他の動物と同じように食べて寝て起きてを繰り返してただ歳を取って死んで行く のは余りにも勿体ないと思うのである。

他の動植物は生きている喜びを知らない。犬は餌を貰う時や散歩に連れて行って貰う時は、尾っぽを振って喜んでいるようだけれど、これは生きている喜びでは無い。人間も、損得、勝ち負けの喜びや悲しみがあるが、その時の喜び は犬の散歩の喜びと同じである。新しいスマートフォンに買い換えたり、新しいゲームソフトを手に入れた時には大いに喜んでいるものであるが、人間と云う〝いのち〟を喜んでいるのでは ないと思う。

損得、勝ち負けを一喜一憂することを〝つまらないことだ〟と切り捨てる積りは無い。ただ、それだけで一生を終ってしまっては、ヒトと云う〝いのち〟を貰ってこの世に生れた甲斐がないではないかと思うので ある。

私はどんな〝いのち〟も尊いとは思うが、ヒトと云う〝いのち〟は冒頭に述べた能力を唯一与えられている〝いのち〟であるからこそ、やはり地球上では最も尊い〝いのち〟だと思うのである。その事実に目覚めれば、動物と は違う生き方を模索するのではないかと思う。その模索に決定的なヒントを与えてくれるのが仏法であり、仏法に出遇ってヒトは始めて人間になるのだと思っている次第である。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1247  2012.11.22
〝いのち旅〟番外編:ヒトに生れて有難い理由―真理に出遇えること

以前、『〝いのち旅〟番外編:人身受け難しー文化を考える』で、人間の命の尊さを他の動物が持たない言語を持った故に『文化』を築き上げ得た点にあ ると申し上げました。ただ、文化を持った事それ自体が尊いと言えるかどうかは意見が分かれるところがあると思います。

仏法は、「人身受け難し、今已に受く。仏法聴き難し、今已に聴く」と、三帰依文では「人間に生れることも稀だけれども、仏法を聴く縁に遇うことは更に稀なことだ」として、「人間に生れた意味は仏法と出遇うことにあ る」と断定しています。
日本の曹洞宗を開いた道元禅師も、ご著書『正法眼蔵』の中で「人身得ること難し、仏法値(お)うこと希れなり」と三帰依文を言い換えて引用されていますが、仏教はキリスト教とかイスラム教とは全く異なったものであり、神様とか 仏様等と云う拝む対象を持ついわゆる信仰ではありません。仏教は真理そのものであります。

真理とは、いつの時代でも、どの国でも、どの地域でも、地球上の全ての人間が納得し頷ける事柄を指して云うものでなければなりません。その真理の中の一つ「物事は全て縁に依って起こる」と云う『縁起の真理』を 説かれたのがお釈迦様(仏陀)だったから仏教と名付けたと云うだけの事であります。

従いまして、科学的に認められないことがあれば、それは真理ではなく、お釈迦様の仏教では無いと私は考えております。空中浮揚とか、透視術とか、姓名判断等の未来を予測する占いも全く仏教とは無関係であることは勿論で ありますが、一般的に仏教の考えと受け取られている霊魂に関しても、死後の世界に関しても、誰も証明出来ないことだとして、お釈迦様は『無記』と云う表現で否定されています。仏教の考え方のように捉えられている六道輪廻と云う 考え方もヒンズー教の考え方であり、お釈迦様の仏教では無いと私は考えております。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1246  2012.11.19
法蔵比丘(ほうぞうびく)の心

12月4日に公示される衆議院総選挙は既に各党間の論戦が始まっています。相変わらずの批判合戦であり、国民はウンザリさせられるばかりですが、国民も少しでも自分を幸せにしてくれそうな政権になるよう願い、 これからの一ヶ月近くはテレビの報道番組を見入り聞き入るのでしょう。
ただ、その求めている幸せは人夫々に異なるでありましょうが、失われた20年と言われる経済不況の下、皆が求める幸せのトップの座はやはりお金が少しでも裕福になる事でしょうか・・・。勿論、介護を要する老人 を抱えたり、病人を抱える人々は、お金も然ることながら、一番は普通に生活が出来る健康でありましょう。

しかし、「衣食住に不足なく、健康な体で且つ自由に使えるお金が有ったら幸せだ」と思う人々は多いかも知れませんが、そうではないと思います。何故でしょうか?それは残念ながらその状態が続く保障が無いから、不 安を払拭出来ないからではないでしょうか。私たちは無常(この世、この宇宙の物事は全て常に変化すると云う事)であるからこの世に生まれて来ましたし、そして無常故に死んで行くのであります。健康でも何時かは病 気になりますし、いつまでも若くはなく、幸いにして長寿に恵まれたと致しましても、一人では自由に動けない介護を要する老人になることを何人も避けることが出来ません。

その無常故に苦しみが伴う人生を何とか苦しみの無い人生にならないかと、やがて国王になる身の上であられたお釈迦様は城を出られて山奥に分け入り(出家して)、難行苦行をされたり、悟りを開いた先輩が居ると聞 けば訪ねられたようであります。その心、つまりお金や名誉・社会的地位だけが幸せだとは思わずに、本当の幸せを求める心を『法蔵比丘の心』と云うのであります。〝法蔵菩薩〟と云う名は聞かれたことがあるでしょ うが〝法蔵比丘〟と云う名は聞いた事が無いと言われる方が居られるかも知れませんが、法蔵比丘が修行して悟りを開いて法蔵菩薩になったようであります。

私はこの法蔵比丘の心が芽生えた時が仏法入門のスタートであり、且つ人間に生れた意味であり、法蔵比丘の心を持ち得たこと自体が本当の幸せだと考えます。法蔵比丘の心を持たない限りは、法蔵菩薩になり得ま せんし、それは人間に生れた意味を知らないままに、つまり人間に生れた喜びを知らないままに命を終わることになるからであります。

仏教では誰でも法蔵菩薩になる可能性を秘めてこの世に生れて来ていると考えますが、自らの法蔵比丘の心に気付ける人は極々稀だと考えます。また法蔵比丘の心を持った人は必ず法蔵菩薩に成り、そして多くの人を 法蔵菩薩に導くとも考えますが、これもまた極々稀だと考えます(この事をお釈迦様は、「生まれ難い人間に生まれ、聞き難い仏法を聞くことができた。何がなんでも今生で救われねば、いずれの生で救われようか。永遠の チャンスは今しかないのだよ」と仰ったそうです)。

その法蔵菩薩は架空のお坊さんではありません。勿論実在したお坊さんでもありません。
浄土真宗の門徒なら誰でも知っているお経『正信偈』の冒頭部分に、「法蔵菩薩因位の時・・・」と云う句があります。私も物心ついた時から母が導師となって家族6人全員で毎朝そのお経を上げていましたので印象深 いのですが、「〝法蔵菩薩〟なんて架空のお坊さんではないか・・・」と考え、キリスト教の神様と同様、神話じみていて抵抗感を抱いていました。
しかしその後、極最近まではお釈迦様の出家から成道を法蔵菩薩物語として、お釈迦様が亡くなられた数百年後の大乗仏教の人々が作り上げたものだろうと自分を納得させて来ました。

でも極最近になりまして、確かに仏教はお釈迦様が6年間修業され、菩提樹の下で悟りを開かれ得られた真理を説くものでありますが、人類が地球上に現れて数百万年間お釈迦様以前の人間が誰一人人生を考えないまま に突然お釈迦様が〝縁起の道理〟に気付かれたはずはなく、それまでにも多くのお釈迦様的な人々が人から人へと伝え続けた結果、偶々お釈迦様が考え方を纏められ、初めて口述伝承されてた結果、広く一般化され歴史的 事実としても認められたから、仏教と云う宗教になったと私は考えております。
従いまして、法蔵菩薩と云うのはお釈迦様と、お釈迦様に至るまでの何世代かに亘るお釈迦様的に実在した宗教家或いは人生哲学者を念頭に法蔵菩薩と総称し、悟りに至る道筋を物語風にして私たち後世の人間に書き残して くれたのではないかと考えるようになりました。

お釈迦様以降も、法蔵菩薩と称すべき祖師方も多く出て居られますし、今なお、法蔵比丘の心を持って仏道を歩んで居られる方も居られるのではないかと考えます。私も、法蔵比丘の心を持ち続けたいと考えているところであります。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1245  2012.11.15
世間智邪智(せけんちじゃち)

どうやら、衆議院が解散し師走の16日(日曜日)に総選挙が行われるらしい。未だ野田総理の求めている環境整備が100%満たされた訳では無いので、明日の16日(金曜日)中に100%にならなければ、 国会議場での解散宣言が為されない可能性があると云うことだと思う。

しかし最早既に、解散総選挙で落選が予想される民主党議員の中から、自民党に鞍替えする議員もあり、日本維新の会に鞍替え宣言した議員も出て来た。更に、第三極と言われる少数政党も選挙協力或いは党同士の合体等で少しで も当選議員を増やして国会での発言力を高めたいと云う下心から仲間探しを開始している。

どの議員も生き残りを賭けて、つまりは、自分の国会議員の議席を守るが為にはどうすれば一番その可能性が期待できるかと云うことのみが今、夫々の頭を駆け巡っているに違いない。国民一人一人の困窮生活 をどうするか、或いは日本国をどのようにして守るかと云うことに頭を悩ませている議員は一人も居ないだろう。これは批判では無い。世間と云うものは、自分が一番大切だとしか思えない人間の集まりで出来 ているから、それを批判出来る人間は私を含めて誰一人居ないからである。

それを仏法では、『世間智邪智』と言うのである。〝邪(じゃ)智〟であるから、「世間の智慧は邪(よこしま)な智慧、正しくない智慧」と云うことである。極論すれば、「他人のことも、社会や世間の事も、 世界の事もどうでもいい、自分さえ良ければいい」と云う考え方を基にした智慧と云うことである。

駒沢勝師は、『世間智邪智』を下記の如く説明されている。
世間智というのは、たとえば、「あそこのスーパーの肉は安くて美味しい」とか、「○○党の主張している減税案は、低所得者にはむしろ負担増になる」「姑の機嫌を取るにはやはりプレゼントが一番」「一流 のピアノ奏者に育てるには、四歳までに教育を始めなければならない」などの、いわば生活や人生を快適にするための、いわゆる生活の智慧という類(たぐい)のものと思われる。

それだけではない。人生をいかに生きるべきかの議論も、哲学的な人生論も世間智になる。多分、「老後の生活を安定させるための年金制度はどうあるべきか」「地域紛争を防止するにはPKOはどこまで活動 すべきか」「車の有害な排気ガスの低減には、新しい触媒の開発よりもエンジンの点火時期の改良のほうが有利だ」「肝臓移植用の臓器の保存には、保護液Aのほうが、保護液Bよりも数段勝っている」「風力 発電よりも太陽光発電のほうが費用対効果が大きい」など、政治、経済学、工学、医学などの高度な知的情報もこの世間智の部類だと思われる。最近最もホットな話題になっている京都大学で開発されたiPS 細胞の技術や知識も世間智である。

それで、これらはすべて邪智だと言うのである。最初のスーパーの肉の話や、姑の機嫌取りの話はいざ知らず、このような高度な学問的智慧さえも「邪智」だと言うのはなぜであろうか。・・・・後略

―駒沢師の著書『目覚めれば弥陀の懐』より転載終わり

駒沢師は、私たち個々の人間がそれぞれ別々の生命体であると言う根源的な誤りをしていることが問題であるとされ、私たちは一つの統合生命体(駒沢師はこれを阿弥陀仏と称している)であるとして、統合生 命体(阿弥陀仏)と人間一人一人の関係を、「葉っぱのフレディ」の物語を念頭に、楓の木と一枚一枚の葉っぱの関係に譬えられているのである。

仏法ではこの世間智を基にして幾ら国を良くしようとしても、世界を平和にしようとしても、決して達成出来ないと考えているのであります。事実、世間智で色々と工夫が為されて生活は便利になり、寿命も延 びているかも知れないが、では人類は大昔から比べて幸せになっているかと問われれば、「はい!」とは即答出来ないではないか・・・。

世間智では救われない私たち人類はどうすればいいのであろうか?

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1244  2012.11.12
念仏三昧とは?

法然上人は、毎日6万回念仏を称えられたと言われています。真偽の程は分かりませんが、計算上は、1秒間に一回称えれば、 約17時間で6万回の念仏を称えられます。法然上人がもし本当に 1日6万回の念仏を称えておられたならば、きっと私の想像を超える理由がお有りだったのではないかと思いますが、娑婆の経済生活を営む在家の私が到底為し得ることではありませんし、庶民を救う ことで開かれた浄土宗である限り、法然上人がそんな念仏三昧の生活を一般庶民に求めて居られたはずは無いと思っております。

念仏三昧に関しまして安田理深師の尊いお言葉を米沢英雄師が紹介されています。成程と思いました。それは、「諸仏を見るを以ての故に念仏三昧と名づく」と云うお言葉です。
諸仏とは、私たちの周りは全て仏さまです。他力に依って現れているものばかりです。日常生活で出遇う嫌いな人も、好きな人も、私たちを悟りに導く仏様です。勿論、太陽も空気も雨も風も、街路樹 も全ては仏様です、諸仏です。その諸仏を諸仏として認識出来る生活を、安田理深師は念仏三昧の生活だと仰ったのではないかと米沢英雄師は思われたのだろうと思います。

親鸞聖人は、法然上人程には念仏を称えることに重きを置かれてはおられなかったと思われます。そして、『自信教人信(じじんきょうにんしん)』と言われた御心は、「自分が信じることが人々を信 に導く」のだと云うことではなくて、「自分の信が、その自分の日常生活に現れて初めて、人々を他力の信心に導けるのであって、ただ単に念仏を日に何回かを称える事が問題ではない」と仰ったのだ と思います。そして、ご自身はご自身の長男善鸞に裏切られ勘当まで為されざるを得なかったこと等を問題にされ、晩年に次の和讃を詠まれたのではないかと推察しているところであります。

                浄土真宗に帰すれども
                真実の心はありがたし
                虚仮不実の我が身にて
                清浄の心もさらになし

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1243  2012.11.08
〝いのち〟の尊さに目覚める

いわゆる重度障害者の詩を三つ紹介します。

一つ目は、駒沢勝小児科医師が、『健康であれば幸せか』と云う著書の中で、手足の自由が利かない人の生きる喜びを紹介しているものです。
テレビ番組で、ある人が詩を作り、別の人がその詩に感動して曲を付け、そしてまた別の歌手がその曲に感動してリサイタルを開いた、ということが報道された。その作詞をした人は四十歳を過ぎておられるように見えたが、 六歳のとき、脳膜炎に罹り、以後、手足の自由が利かないのだそうだ。それどころか、言葉が喋れない。画面から窺うに、たぶん、食事も排泄も自分では出来ないらしい。

この人が詩を作る方法は、こうである。そばのお母さんが「あ、か、さ、た・・・」と五十音を横に言って行かれる。そして「た」のところまでくると、その人ができる唯一の意思表示の瞬きをされる。瞬きと言っても顔全体 をしかめるような大変な苦労の瞬きである。すると、お母さんは今度は「た、ち、つ・・・」と縦に言っていかれる。そして「つ」のところで、また、あの瞬きをして「つ」の一文字ができる。

こうして字を連ねて作った詩が、何と二百にも達するそうだ。そして、その中の一つが紹介されたが、それはこんな内容だった。

                生きててよかった
                こんな重い病気になってよかった
                お蔭で私は神様にお会いできた
                そして生きる喜びを知った
                こんな重い病気になってよかった
                生きててよかった

二つ目は、首から下が動かず、車いすで移動する画家詩人の星野富弘さんの詩です。

                いのちが一番大切だと思っていたころ
                生きるのが苦しかった
                いのちより大切なものがあると知った日
                生きているのが嬉しかった

それから三つ目は、我が家の床の間に掛けている両手両足を失った念仏者、中村久子さんが69歳の時、口に筆を銜(くわ)えて書かれた掛け軸の内容はこうです。

                手足なき、身にしあれども、生かさるゝ、いま野(の)いのちは、尊とかりけり

私の友人に原因不明の不治の病に罹って、結婚も仕事も諦め、死ぬ準備をしている人が居ます。以前その人に、一つ目の詩を紹介したことがあります。その時の感想は「この人は重い病気だけど、幸せだから、こんな詩が出来るの ではないか」でした。私はその時、意味が掴めませんでした(幸せだから喜びを詩にしているのですが)。

最近、その〝幸せ〟は所謂、私たちが幸せと考えている、名誉欲や金銭欲の満足を言ったのではなかったかと考えるようになりました。つまり、自分の作った詩が有名な歌手に歌われて、テレビでも紹介される名誉を得た、それに 伴ってお金もそこそこに得たであろうことを想像して〝幸せ〟だと言ったのではないかと・・・。

私は勿論、そんな幸せを喜んで詩にしたのではないと思っています。不自由なだけに、健常者の私たちが当たり前としか思えない〝いのち〟の尊さに気付かれたのだと思います。〝いのち〟を見詰め直さざるを得ない立場に立たさ れ、〝いのち〟とは何かを考え、今与えられている〝いのち〟の尊さを実感されたのではないかと・・・。

〝いのち〟の尊さを小学校等で教えているようですが、〝いのち〟が何故尊いかを教えられる先生は居るのでしょうか。甚だ疑問であります。自分の〝いのち〟の尊さが分かれば、他の人の〝いのち〟も、また他の動植物の〝いの ち〟の大切さも分かるのだと思います。実は、自分の〝いのち〟の大切さに目覚めるのが、生きる意味であり、前回のコラムの表題「何のために生きているのか?」の答えだと私は思っています。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1242  2012.11.05
何のために生きているのか?

街を行き交う人々は、忙しそうである。昨今では歩きながら、さも重要な作業をしているかのように携帯電話やスマートフォンを操り、外部との接触を試みている姿が日常化している。それも子供も大人もである。でも、 それらの人の佇(たたず)まいに、充実感、幸せ感を私は感じることが出来ない。

岡山備前市の駒沢勝小児科医師は、親鸞仏法に依って人生の意味に目覚められた方であるが、その出発点は、「なぜ病気を治療するのか」と云う、殆どの医師が決して自問自答しない命題にあった。駒沢師は、その命題が 「人は生きて何をすべきか」の問題と大きく関わっていることに気付かれた。そして、以下の如く考察されている。

駒沢師の考察―
そもそも人は健康の方が生きやすいから健康を求めるのであって、健康になるために生きているのではない。健康は生きるための手段でしかない。私たちは生きるためにパンを食べるのであって、パンを食べるために生きて いるのではない。パンは生きるための手段である。そこから考えれば、健康はパンに相当する。その健康というパンを食べて何をするのかが問題である。

見受けるに、大多数の人が様々なパンを食べて、その上で何をなすべきかを知らない。問題にもしない。

確かに私たちが生きるには、さまざまなパンが必要である。健康以外にも、衣食住から始まり、政治も経済も、教育も道徳も、産業もレジャーも平和も必要である。場合によっては戦争さえも避けて通れないことがある。 化学も、芸術もそうである。環境学も、工学も、商業学、農業、社会学も歴史も、生きるためには、みな必要である。

でも、これらはすべて、自分や他人が生きるための手段であって、決して目的ではない。やはりパンに過ぎない。「他人のためになる仕事をする」「夢をかなえる」「それが目的だ」、などと聞くことがある。でもその仕 事や夢も、たとえそれが世界平和の達成や、大政治家、医学的大発見、第二のイチローであったとしても、殆どは言うなれば自分や他人のためのパン、つまり手段であって目的にはなっていない。

どうやら私たちは、ただパンを作るためにのみひたすらパンを食べ、パンを食べる為にのみひたすらパンを作り続けているようなものである。パン作りとパンの交換、パンの分配には随分長けてきたが、パンを食べて何を するかは、少しも問題にしていないことになる。

そう気付いてみると、それまで患者さんにとっての意味を問う「なぜ病気を治療するのか」のいわば他人の問題が、「他人の作ったいろいろのパンを食べたり、他人にパンを提供しながら、私は生きて一体何をすべきか」 という私自身の問題として不気味に襲い掛かって来た。

おおよそ物事は、目的に価値があるのであって、手段そのものには価値は無い。目的があって初めて手段に意義が生まれる。目的を達成する人生のみが意味ある人生ということである。もし私が目的のない人生を生きてい るとしたら、私がどんなに多忙な日を送ろうと、何に心血を注ごうと、結局、無意味な人生で終わることになる。勿体ないことだ。

人生で肝心なのは、手段ではなく目的である。まともな目的があって意味ある人生である。しかし今の社会は、ほとんどの人がそれを問題にしていない。手段ばかりに気を奪われている。だから、いきなり人生の目的と言 われても、大抵の人は、何を目的とするべきか、何がまともな目的か、皆目見当もつかない。
第一、今の学校では小学校から大学までの殆どが、生きるための手段のみを教え、研究し、生きる目的については少しも教えない。考えさせない。今の情報社会で巷には情報が氾濫するが、人生の目的についての情報は殆 ど無い。崇高な哲学には解答があるかも知れないが、凡人には手が届かない。

―駒沢師の考察終わり
以上が駒沢勝小児科医の考察であるが、駒沢師は生きる目的に付いて、更に下記の様に断じて居られる。

「実はその答えこそ浄土真宗が教えてくれる。親鸞はいわば人生の意義を深く掘り下げ、人生の手段ではなく、目的とその達成方法を教えてくれる。念仏や往生浄土とは一体どういうことかを教え、そしてそれこそが、万 人にとっての正当な目的だと教えてくれる。すべての人が自分の人生を意義深い人生に変えることができる教えこそ、浄土真宗だと考える」と。

今朝のテレビNHK番組で、『サイレントプアー』と呼ばれる貧困女性たちの生活実態とその支援状況の紹介があった。何らかの事情でシングルマザーになり、仕事をハローワークでは見つけられず、細切れの非正規雇用 の仕事にしかありつけない上、多くの場合多重債務で苦しみ、夜も昼も働き、場合によっては、如何わしい風俗営業に辿り着いている場合もあるようだ。

多分、そのような人々に、駒沢師の声は届かないし、届いても、助けることにはならないだろう。「お医者さんと云う選ばれた人だから、人生はどう生きるべきかを考えられる心の余裕も、時間の余裕もあるのであって、 私たちは今日のパン一つを得るのに必死なんだ」、と、撥ね付けられるのがオチではないかと、一方で私は思う。

でも一方で、人生を生きる手段ばかりしか教えられず、また考えもせずに育った先進国の国民の多くが行き着いた姿が、現在の『ワーキングプア―』であり、『サイレントプアー』ではないのかとも思う。これらの人々を 救うには、当面のパンであって、人生論や信仰ではないだろう。生活保護や、公的支援組織や民間支援のNPOの拡充こそが急務だと思う。

しかし、それと共に、今からでも遅くは無い。『ワーキングプア―』、『サイレントプアー』だけの問題ではなく、パンだけ作ったり食べたりするのに必死過ぎる私たちも、この瞬間を機に、人間として生まれた意味と目 的に付いて考え直し、残りの人生の目的をしっかり立てて、意義深い人生に大転換したいものである。

鎌倉時代に開宗された日本仏教は、何れも私たち庶民の救いとなる仏教である。その中の一つが法然の浄土宗である。難しいことは教えず、極論すれば「ただ念仏を称えるべし」と云うものだったと思う。しかし、法然 の弟子親鸞は、もう一歩進めて、本願他力の意義を分かり易く説き直した。しかし親鸞亡き後、浄土真宗も、念仏を称えることを重要視し、浄土真宗は浄土宗化してしまったのではないかと私は考えている。親鸞が目指した 庶民の救いとなる仏教(大乗仏教)ではなくなってしまっている。親鸞自身が「異なるを歎き」、現代版『歎異抄』の出現を待ち望んでいるのではないかと思うのである。

私もパン作りとパンを食べるのに必死で歩いて来たと思う。今も、勿論生きる為にはパン作りも必要で、細々と技術開発、製品開発に取り組んでいるが、ここ3年位の間に米沢英雄師と駒沢勝師から親鸞仏法の真髄を学び、今の 私の仕事は生きる為の手段であり、目的ではないとはっきりし認識出来るようになった。しかしそれで開発の仕事に手を抜くことにはならず、逆に冷静に、色々な人々からパン作りの智慧を借り、従来よりも、パン作りの 在り方としては前進していると思う。私はこれからもパンを作り続け、他の人々から様々なパンを戴きつつも、釈尊、善導大師、親鸞聖人等、多くの先師達が繋いで来た人生の真の目的たるバトンをしっかりと受け取り、次に繋 いで行くことを目的として、これからも無相庵を母屋として生きて行きたいと考えている。

親鸞仏法が人生の意義に気付かせてくれる道筋を、私なりに纏めていきたいと考えているところである。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだふつ


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No.1241  2012.11.01
無碍の一道(むげのいちどう)

前回のコラムで私は、仏様は私たちの人生を「苦なり」と観じられている、それが『人生は苦なり』と云うことであり、仏道は其処が出発点だと申し上げました。お釈迦様は私たちをその苦から解脱せしめようと 四聖諦(ししょうたい)八正道の教えを説かれましたが、親鸞聖人は末法の世に生きる私たちが苦からの解脱を願うならば、〝本願他力の念仏〟こそが私たちを苦から救う道だと確信されて、歎異抄第7章に引用 されている「念仏者は無碍の一道なり」と云うお言葉を残されたのだと思います。

「念仏者は無碍の一道なり」の『碍(げ)』を漢字辞典で調べますと『礙』の俗字で、音読みでは〝ガイ、ゲ〟、訓読みで、〝さまたげる〟です。従いまして、「無碍(むげ)」は、「さまたげられない」、「じ ゃまにならない」です、また、念仏者とありますがこの〝者〟は主語を強調する助字として用いていると私は考えまして、「念仏者は無碍の一道なり」を意訳しますと、「本願他力の念仏はどんな苦しみも邪魔に ならない真っ直ぐな一筋の道である」と云うことになると考えます。

ただ私たちは、「苦から救われる」と云う事を「苦が無くなる」とか「苦難に遭遇することが無くなる」と受け取っているのではないでしょうか。ですから「病気が治る」、「貧乏から金持ちになれる」、「明る く幸せな家庭になる」等と宣伝する新興宗教を求めたり、苦しい時の神頼みをするのだと思います。

ある神父さんが「苦しみから救われるのではなく、苦しみが私を救ってくれるのだ」と云う素晴らしい受け取りを為さっているとお聞きしたことがあります。宗教に依って、或いは信仰に依って、苦しみに遭 遇しなくなると云うことは決してないと思います。そんなことがあろうはずもありません。生老病死の四苦を逃れられることは決してありません。どなたにも有り得ません。

でも、正しい信仰に依れば(私の場合は仏法、その中でも本願他力の教えだと思っておりますが)、苦しみに出遭っても、苦しみに邪魔されることなく、その苦しみを乗り越えて、立ち上がって前に向かって歩い て行けるのだと思っております。
決して「苦しく無い、悲しいことは無い。何が来ても平気だ。涙は流さない」と云うことではないと思います。適切な表現をすることは難しいのですが、多分、立ち直りが早いのだと思います。
それは、本願他力の親鸞仏法の場合は仏様に抱かれている実感があるからだと思います。丁度、幼い子と母親の関係に近いと思います。幼い子は、痛い目、悔しい目、悲しい目、淋しい目等の辛い目に遭った時 、お母さんの顔が見付かれば直ぐに泣いて走り寄り、抱き寄せられてもしばらく泣き続けはしますが、直ぐに「今泣いたカラスがもう笑った」と言われるように心から安心した顔になります。否、もう直ぐに辛かった事を忘れ て、お母さんの胸から離れて遊びます。私たちと仏様はそれに近い関係ではないでしょうか。

ただしかし、仏様は仏様と云う目に見える存在ではありません。本願他力と云う『働き』を尊称したものです。米沢英雄先生が上手く喩えて下さっています。
「仏様は風みたいなもの。風は私たちには見えないが、木の葉が震えたり、雲の動きを見て風を感じ、風を見たように思う。風は力であり働きである。仏様もそうだ」と・・・。

そして大事なことは、仏様は絶対肯定です。私たちが泣いている時に、泣いてはいけない、頑張れとは仰いません。共に泣いて下さるのです。嬉しい時は一緒に喜んで下さいます。それを仏法では『同治』と申 すようです(同治と対治に付いての説明をご覧下さい)。
仏様は同治と云う絶対肯定で私たちを立ち直らせて下さる、幼子にとってのお母さんのような存在ではないでしょうか。

駒沢勝医師に『目覚めれば弥陀の懐』と云うご著書がございますが、まさに『無碍の一道』とは、『弥陀(阿弥陀仏と云う仏様)の懐』の中で歩む人生を申すのだと思うのであります。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ

追記:
本文末尾の熟語『説明』を光明寺と云う愛媛県に在る浄土真宗のお寺の法話サイトにリンクさせていますが、その法話の6行目に「幸いだろうね。よく分かるよ」と云う文言がありますが、これは転記ミスで、 「辛いだろうね。よく分かるよ」が正しいものと思います。『辛い』と『幸い』は似た文字故に間違われたものと思います。お寺には訂正する必要があるとお伝えしております(お寺から入力を請け負われている担当 者の転記ミスだとお聞きしています。法話を実際にお聞きになりましても、やはり、『辛いだろうね』と仰っています。)。


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