No.1220  2012.08.20
無相庵コラムの盆休み明け

ロンドンオリンピックが終わって早や1週間経ちました。今では甲子園が佳境に入っており、スポーツ観戦の夏は未だ終わっておりませんが、世間は今日から本格的な盆休み明けとなりました。 私も無相庵コラムを2週間休ませて頂き、5人の孫達の世話をしながらオリンピックもソコソコ楽しみました。考えて見ますと、無相庵コラムを始めてから12年目で初めての盆休みで、世間 的には大いにリフレッシュさせて頂きました。

ロンドンオリンピックの日本の成績は、金メダルが見積もりよりかなり少ない結果となりました。でも、男子もボクシングとレスリングで数十年振りの金メダルを獲得しましたし、女子に至っ ては、なでしこジャパンの女子サッカー、卓球女子、水泳女子400mメドレーリレー、アーチェリー女子、バトミントン女子ダブルスが初メダルを獲得し、女子バレーも28年振りにメダル を獲得しましたので、スタートでガッカリさせた柔道の不調が最終的には目立たなくなりました。兎に角、女子団体競技がメダルを取り、女子の絆の強さが印象に残った五輪となりました。4 年後のリオデジャネイロオリンピックでは男子が絆の強さを示したいものです。

この盆休みは何かと忙しくしておりましたが、それでも仏法と縁が切れることはありませんでした。考えて見ますと縁が切れるはずがありません。何故かと申しますと、米沢先生のお言葉をお 借りしますならば、「自分の思うようにしたい、自分さえよければよい、自分一人しか居らん(自分以外のものは、みんな自分にサービスすべき存在である)」と云う自我一杯、エゴの塊の自 分が平気でノホホンと穏やかに生活出来るはずがないからであります。「自分の思うようにしたい、自分さえよければよい、自分一人しか居らん(自分以外のものは、みんな自分にサービスす べき存在である)」とは真逆の目にしか遭わない私だからです。

そんなこともあり、この無相庵コラム盆休み中に、以前一度読み終えている米沢先生と吉村かほるさん共著『大きな手のなかで』を読み返しました。吉村かほるさんのご消息は分かりませんが 、現在は私よりも5歳年上の72歳の女の方であります。
吉村かほるさんは、昭和45年4月23日に初めて米沢先生に救いを求めて以下の内容の手紙を書かれました。

「私には1歳4ヶ月になる子供がいますが、実はこの子が、先日の検査で〝小頭症〟と診断されたのです。3ヶ月程度の知恵と運動神経しか持てない人間である、と宣告されたのです。わが子 だけはそんなはずはない、私たちにそんな不幸があろうはずがない、夫婦とも健康だし、妊娠中は悪い薬を飲むこともなく順調そのものだったのですから。(中略)先生、私はこれからどのよ うに生きていったらよいのでしょうか、教えて下さいませ」。

それから、吉村かほるさんと米沢先生は約10年間文通を続けられ、また直接面会されたり、名古屋近辺で催される法話会に吉村さんが参加されて米沢先生の法話を聴かれたりされて後の、昭 和55年10月10日に、吉村さんから米沢先生宛てに出された手紙には、以下のように綴られています。

 米沢英雄先生
真青な秋空の下でコスモスが揺れています。
そして、ゴミのような私が歩いていました。
私が泣いたり、笑ったり腹立てたり、よろこんだりしている姿は、仏様から見られたら、草木
が揺れているようなものなのでしょうか。
生きとし生きるものが、せい一杯生きている荘厳なる世界、すばらしい世界に、命をいただき、
自覚できる自分にしていただき、しみじみ涙がこぼれてまいります。
 ありがとうございました。ありがとうございました。
 お大切に、お大切に。
                           吉村かほる

吉村かほるさんは見事救われました。小頭症の二児が治ったのではありません。二児を持つ苦しみから全く解放されたのでもありません。苦しみや悩みが無くなった訳ではありませんが、人間 に生れたからこそ触れ得る真実に触れることが出来、自分が自分で良かったと心の底から思えるようになったのではないかと・・・。勿論、米沢先生と云う何でも話せる人との出遇いそのもの こそが大きな救いでもあったとは思いますが、その事実も含めて、真実に触れた喜びと感謝が、手紙末尾のありがとうございました、ありがとうございましたになったのだと思われます。

宗教には相性と云うものがあるとは思います。あるとは思いますが、この『大きな手のなかで』は、そんな相性を超えた真実の教えを感じさせる内容だと私は思います。真剣に救いを求める吉 村かほるさんの姿と、その訴えに何とかして応えたいと云う米沢先生の真剣・真実の有り様に、心打たれます。
多分、米沢先生はご自分が絶対視している親鸞仏法が真実の宗教ならば、吉村かほるさんを救うことが出来るはずだと、ご自分の信心をも賭けられて吉村かほるさんに向き合われ続けられたの ではないかと思っております。

今は、アマゾンの中古本購入サイトに数冊掲載されています。是非ともお読み頂きたいと思います。

今回読み直しました時、一回目ではサラッと読み過ぎたヘレンケラーの実話映画『奇跡の人』のことが気になり、やはりアマゾンで買い求め(991円でした)鑑賞しました。吉村かほるさん も米沢先生も涙なくして観れなかったと仰っていますが、私も同様の感動を覚えました。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1219  2012.08.02
スポーツ観戦の夏

スポーツの夏と云う訳には参りません。熱中症になりかねない年齢ですのでウォーキングも日中は控えています。今はロンドンオリンピック真っ只中、国民は私と同様、日本の選手の競技に一喜一憂していることでしょう。

イギリスの賭け率でも、またマスコミ報道でも金メダルが絶対視されていた柔道軽量級の中村美里選手と福見友子選手が銅メダルも逃したことと、体操の団体戦で日本の絶対的エースでもある内村航平選手が2競技で落下 すると云う考えられない事態が起こったことには、日本中が胸を痛め、気持ちが沈んだことだと思います(今朝のニュースで、個人総合で金メダルに輝いたことを知って、安堵しましたが・・・)。

福見選手がメダルを逃したことに同階級で5大会連続メダリスの谷亮子さんが、福見選手の戦いぶりに、「心技体の“心”の部分が、うまくコントロールできていなかったように感じた。1回戦で格下の相手と戦っても、的 を絞れないというか、淡々と試合をしてしまっている面があった。心が整わないと技も体も反応できない」との苦言を呈したとの報道があったようですが、これは苦言ではなく素直な感想でしょう。私も福見選手と中村選 手が相手に積極的に技を掛けようとしない姿勢に疑問を持ちました。一本勝ちを狙うのが日本柔道と云うことも一因なのかも知れませんが、闘う心が見えないのは柔道以前の問題ではないかと思います。

スポーツと宗教、動物の闘争本能を発揮するスポーツと宗教は関係が無いと言われる人も居れば、精神統一する上で関係ありと言う人もいるかも知れませんが、関係は大いにあります。金メダルに向かって、相手に勝つには 、先ずは日頃の練習で自分との闘いに勝たねばなりませんし、オリンピックの大舞台で自分の実力を100%発揮するには冷静に自己をコントロール出来なければなりません。 まさに、スポーツも自己をならう厳しい場だと言えます。人間が為す如何なる行為であっても自己をならう場ならざるは無しだと思っています。
そんなことも思いながら、オリンピックを楽しみたいと思っております。

今年も5日後に孫達5名が泊りがけでやって来ます。昨日から食事の事前準備に掛かっています。オリンピック観戦もありますし、甲子園もあります。今年の夏は、無相庵コラムの夏休みを頂いて、孫の面倒も見ながらス ポーツ観戦の夏とさせて頂きます。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1218  2012.07.30
続ー「仏道をならうというは、自己をならうなり。」

「自己をならう」と云うことは、自分とは何者かを知ることでありますし、何のために生まれて来たかを知ることでもありますが、間違いやすいのは、例えば、坐禅をして自分とは何かと心の裡を、 また心の動きをシラミ潰しに調べて、狭い世界に突き進んでしまいがちな事ではないかと思われます。

道元禅師の坐禅は、〝ただ坐る〟と言われますが、人間そうは参りません。眠らない限り全く何も考えないと云うことは、そうそう起こり得ないのではないかと私は思います(中には居られるそうです が、これは第三者がとやかく言えるものではありません)。

法話コーナーにご紹介している西川玄苔老師は曹洞宗のお坊さんで、やはり道元禅師の坐禅を半世紀以上研鑽されているお方ですが、「坐禅で無になることはない。気になっている事が次々と色々な事が浮かんでくるが、永年坐禅を 続けていると、ふっと浮かんだことがふと消えていくようになる。」と仰って居られたと記憶していますが、多分、それが本当のところではないだろうかと思います。道元禅師の坐禅も、「ただ何も 考えずに坐ろうと努力して、何も考えなくなること」を目標としてはいないのだと思います。

そして、自己をならうと言いましても、自分だけを追求するのではないだろうと・・・。自分を知ることは当然だろうけれども、自分は独りで生きている訳ではありませんから、周りの人々や周りの草 木や犬も猫も、太陽、空気、雨、土・・・など等のあらゆる存在、ひいては宇宙全てとの繫がりの中での自己でありますから、宇宙一杯の中の自分が浮かび上がって来るのではないかと思います。自己 をならうとは、自分、自分と狭い世界に入って行くことではなく、広~い世界に飛び出さされることでなければオカシイのではないかと想像していますが、果たしてどうでしょうか。自己をならい続け たいと思っております。

米沢秀雄先生のご著書からの受け売りですが、1949年に日本人として初めてノーベル賞を受賞された湯川秀樹博士(1907年~1981年)が、「深くかつ遠く思わん天地(あめつち)の、なかの小さき 星に生れて」と云う歌を遺されています。湯川博士は理論物理学者でございましたが、原子核の中に、中間子と云う超微粒子が存在するはずだと云う事を理論的に提唱され、その14年後にノーベル賞 が授与されたと云う経緯があると云うことですが、小さい小さい原子核のそのまたその中に存在する超微粒子に気付かれたのは、果てしない宇宙にも眼を向けておられたからに違いありません。そして 、遠い宇宙の果てに思いを致されながら、地球に生れた生まれ甲斐を見付けて居られたのでないかと思うことであります。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1217  2012.07.26
「仏道をならうというは、自己をならうなり。」

道元禅師が主著『正法眼蔵』に遺された有名な言葉である。
道元禅師は曹洞宗と云う禅宗の宗派の日本の開祖であるが、この言葉は、禅宗に特徴的な教えでは無いと思う。仏教の根本的な教えだと思う、否、むしろ、人間として生れた我々一人一人への教えだと思う。

一般の人々なら、「私が人として生まれた意味や目的を追求すると云うことは、自分とは何かを追求し続けることである」と考えればいいのではないかと思う。道元禅師は、自分と云うものを『吾我・自我・ エゴ』と『本来の自己』の2種類に分けて考えておられるようであるが、そう云う2種類を含めた上での自分と考えたい。
そうすると、これはお釈迦様が歩まれた人生であり、親鸞聖人が90歳の人生をかけて、死ぬまで訪ね歩かれた道でもある。

しかし、究めた先に、幸せな人生が待っていると云うものではないと思う。能くお坊さんがお説教で言われる「安心して死んでいける世界が待っている」と云う訳でもないと思う。人生道をならうこと自体が 人間として生まれた意味であり、本来の自己に出遇えた落ち着きどころではないかと想像しているところである。

美味しい食事、気に入った服装、楽しいレジャー、愛する伴侶・家族、自由に使える沢山なお金など等は、人生の道すがら、その時その時の生活を飾り彩る調度品であっても、私の人生を貫いて、人間に生れてよか ったと思える落ち着きどころを与えてくれるものでは無い。

密かに思うのであるが、人生の本当の幸せは、同じく人生道(仏道)をならい、自己をならう仲間(一人でもいいから)と本来の自己を共有し語り合う時に感じるのではないかと思うのである。
その意味では、私はお蔭様でそう云う配偶者と出遇えたし、西川玄苔老師、青山俊董尼とも出遇えました。また、今は亡き母を始め、井上善右衛門先生、米沢秀雄先生、山田無文老師とも、更には親鸞聖人と も、心の中で語り合えることも幸せなんだと思っているところであります。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ

追記:
前回のコラム『相田みつをさんのこと』が、私の更新ミスで、途中で消えてしまっていました。コラムの1216にありますので、是非ご覧頂きたいと思います。


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No.1216  2012.07.23
相田みつをさんのこと

これは野田首相が昨年九月の民主党代表選演説で引用した詩人〝相田みつを〟さんの一句です。
それまでも、〝相田みつを〟さんは独特の書と句のコラボレーションの妙が多くの人に支持され、すでに有名な詩人でしたが、〝どじょう〟でまた一躍脚光を浴びたのではないかと思います。

私は、垂水見真会に何回かお越し頂いた青山俊董尼の法話(1985年頃)の中で、確か、次の句を紹介されていたことから存じ上げました。  

そして、今回、ユーキャンから相田みつを法話CD集10巻が発売されましたので買い求めましたが、法話は仏法臭くなく、一般の人々に仏法の魅力を感じて貰うのに打ってつけと思い、相田みつをさんを少し詳しく紹介し、法話を聞く聴く機会を持って頂ければ幸いと思った次第です。

相田みつを主な年譜

私も今回の法話集に付いていた解説書を拝見するまでは、相田さんの生まれも、何歳で亡くなられたかも存じ上げませんでしたし、どんな仕事をして生活されていたかも知りませんでした。お顔も拝見したことがありませんでした。
上に掲載した写真は、何れも、亡くなられる1~3年前のものです。

相田さんが詩や句を書かれて発表される動機が、武井哲応師から教わった仏教の言葉を極平易な現代日本語で表現し、一般の人々に仏法を届けたいと云うことにあった事を知り、67歳と云う、今の私と殆ど同じ年齢で亡くなられた事を 惜しいと思いました。でも、すでに多くの詩と句を遺されていますし、法話も残っておりますので、立派な仕事をやり遂げられて亡くなられたのだと思い、私も少しでも見習わなくてはならないと思ったことです。

CD法話集は未だ私は3巻しか聴いておりませんが(妻は10巻を繰り返し3回も聴いたようです)、私が印象に残っている言葉の一つは、「人間は理性や知性・理屈で動くのではなく、感情で動くものである」と断定されている事です。『理動』 と云う熟語は無いとも言われ、だから『感動』する事が何より大切だと申されています。たしかに、どんな場面にも言えることですが、理屈を納得出来ても、行動に移すには背中を押される何かがなければならないことに思い当ります。子育てを含 めた親子関係や、職場の人間関係に応用したいものです。

また、仏法も、読むだけではなく、法話を聴くとか、講演会に参加してみるとかされて、眼からだけの情報で思考・考察するのではなく、何となく空気を感じることも大切だと思った次第です。

相田みつをさんも、仏法を本で読んだのではなく、仏法が身と心に染まっておられた武井哲応老師に40年間も直接指導を受けられたからこそ、自らも仏法に染まられたのだと思います。それを法話の中で、「霧の中を行けば覚えざるに衣しめる」 と云う道元禅師の言葉を引用されて、力説されています。


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No.1215  2012.07.19
続ー穴だらけの障子

では、米沢秀雄著作集第五巻の『身と心』と云う法話の中にある「ぴったりと閉めた穴だらけの障子である」と云う尾崎放哉の自由律詩に込められ心を考えて見ましょう。

米沢先生は、以下のように説明されています。
「ぴたっと、障子を閉めたんだけれども、穴だらけの障子、閉めなくても閉めても同じような穴だらけの障子、その穴だらけの障子をきちんとうやうやしく閉めてあると云うんですよ。みなさんお笑いになるでしょうが、 例えば、私は、今は洋服を着てえらいすまして、今日も髭を剃ってきたのですけれども、様子だけはぴったりとこう、うやうやしくぴったりしております。けれども実は、心の底は穴だらけでございまして、穴だらけの 障子をぴたっと閉めているのに、そう云う自分が見えないし、気付かない。そういうところに人間ってものがあるんでないかと思うのでございます。」

このような状況は日常茶飯事で見聞出来ます。たとえば、国会での与野党の論戦を見ていますと、私は穴だらけの障子同士が、お互いの障子の破れを言い合っているとしか思えません。それを米沢先生は、「隣の家の障 子が破れていると悪口を言うておったのは、自分の家の障子の破れからのぞいて、言うておった。自分の家の障子の破れに気が付かずに、隣の家の障子の破ればっかり言うておる。これが人間でないでしょうか。 世間一般よく話題にされる嫁姑問題で、お嫁さんの悪い点が言えるのは、自分にもあるから、そういうことが言えるので、全然自分に可能性がなかったら、そういうことは気がつきもせん。思いもよらんと、こういうも んでないですか。何かそれが悪いなぁと思われるのは、自分にも可能性があるからでないか。」

この「ぴったりと閉めた穴だらけの障子である」の作者尾崎放哉は、晩年小豆島の南郷庵と言う小さな寺の坊守をして、生涯を終えたと云うことですが、あまり近所の人々の評判はよくなかったそうです。あまり人々が 寄りつかなかったと云うことです。そう云う自分を見詰めて、自分を詠んだのが、「ぴったりと閉めた穴だらけの障子である」の句ではなかったかと私は想像しております。

障子の穴は、私の欠点・欠陥・恥部のことだと思います。私には沢山の穴があるのに、そんな穴は無いかのように振る舞ってはいないだろうか、そして、他人の穴には鋭い視線を送ってはいないだろうか・・・と。

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No.1214  2012.07.16
穴だらけの障子

現在米沢先生の著作集第五巻を読み進んでいるところです。その中の『現代の病理とその処方』から、「現代の病理」、「マスコミの功罪」、「フロム教授の限界」、「驕慢に気付く」の4章を法話コーナーに転載しています。 親鸞仏法の要とも言うべきお話だと思いますので、お時間の有る方は是非ともお読み頂きたいと思っております。

さて、その第五巻の『身と心』と云う法話の中に、「ぴったりと閉めた穴だらけの障子である」と云う尾崎放哉(おざきほうさい;1885~1926年)と云う方の句が引用されています。尾崎放哉は自由律詩人として種田山頭火と共に有名 でありますが、実は東大法学部を卒業して生命保険会社に10数年勤務した元ビジネスマンであります。40歳位から寺住まいをしながら自由律詩を詠む生活を続け、最後は小豆島で亡くなりました。「咳をしても一人」と云う詩が有 名でありますが、この「ぴったりとしめた穴だらけの障子である」は、私は覚えておきたい一句だと思いました。

この句で尾崎放哉tがどう云う事を詠ったのかを読者の皆さんへの宿題とさせて頂きまして、次回のコラム『続―穴だらけの障子』に正解をお示しさせて頂きます。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1213  2012.07.12
国民の〝いのち〟が第一

小沢新党の党名が『国民の生活が第一』だと昨日党代表となった小沢氏が発表した。
長い党名も然ることながら、どうみても、「いい名前だ」とは思えない、と云うよりも、知った瞬間、大きな違和感を覚えた。

『国民の生活が第一』は3年前の衆院選挙を取り仕切った小沢氏が考え出した民主党のキャッチフレーズである。私を含めて愚かな国民が、バブル崩壊後の日本に為す術なしで立ち往生する自民党政権への怒りと、 そしてこのキャッチフレーズと一体化させたバラマキ政策の数々(2万6千円/人の子供手当、高速道路無料化、高校授業料無償化等々・・)に飛付き現在の状況を生み出したあのキャッチフレーズである。 恐らく、遠くない時期に為される総選挙で、夢よもう一度、2匹目のドジョウよもう一度と云う安易な考え方から小沢氏主導で民主党の看板から剥ぎ取って来たものではないかと思う。

『国民の生活が第一』と云う考え方は、表現を替えれば『国民が喜ぶ政策の第一番はお金だ』と云うものだ。格調高く言い換えると、『デフレ脱却が第一』、『経済政策が第一』と云うことになる。日本の立て直 し策として与野党問わず殆ど全ての政治家が一致してそう考えているに違いない。同じことを考えてはいるが、多くの政治家達が集まって国会、永田町でやっていることはその具体化策の議論ではなく、政権奪 取と政権維持の権力闘争劇だけなのである。

残念ながら、この権力闘争劇は日本の歴史そのものである(世界の歴史そのものでもあるが・・・)。今NHKの大河ドラマ『平清盛』は、まさに公家と武家の間の権力闘争、源平と云う武家間の権力闘争物語 である。もっと遡れば、聖徳太子が一時統治した飛鳥時代の蘇我氏と物部氏の権力争いは、聖徳太子が『和を以って貴しと為す』と宣言しても、何ともならず、聖徳太子一家は、その権力闘争の犠牲となった 程であった。

権力闘争の無かった時代は無かったと言っても決して過言ではないのである。そして、民は常に税金(年貢)を召し上げられて、権力者と役人の一部は商家からの賄賂等で栄華を究めていたのは、政権が変わり、 時代が変わってもその歴史は変わることなく現在に至っていると云うのが現実である。
ただ、大きく変わったことが一つある。最近流行の言葉をかりるならば、『国民力(こくみんりょく)』である。私が言う『国民力』は、国民同士が助け合い、お互いの〝いのち〟を守り合う力であって、誰がリーダーシップ を取ると云うものでもない集団の力である。少なくとも、私が小学校低学年頃には、未だ国民力は完全には失われていなかったように記憶する。近所同士お互いに食べ物を分け合える雰囲気があったように思 う。実際お隣から煮物を貰った事、何処かに出掛けた時にはお土産もあったように思う。しかし、新興住宅地を30年間渡り住んでいる私が今も感じているお隣は昔のお隣ではない。真に赤の他人同士なのである。多分、お互 いのお葬式にも行かない関係だと感じている。

国民力があったからかも知れない。昔は政治にあまり問題を感じなかった。高度経済成長時代であったから、問題が隠れていたかも知れないが、政治への不満の声は目立たなかったように思う。
が、今はどうか。何か問題があれば、マスコミの影響が多大にあると思うが、全て政治の所為にしていないだろうか。そして、頼りにならない政治を頼って政権交代に至ったのが3年前の総選挙ではなかったかと 思うのである。

これまで政治がやって来たのは、いわゆる対症療法である。対症療法とは、病気を直す医者が表面に現れた不具合、不調にのみ目を凝らして、簡単な治療を繰り返し、病気の本当の原因を調べようともせず、従っ て手を打たないことを言うのであるが、これまで日本の病いに対する政治家がやり続けて来たことは、金儲け主義の医師が繰り返す対症療法でしかなかったのである。否、もっと始末が悪く、いよいよ症状を悪く、傷口を深く するヤブ医者の誤診に伴う医療ミスと云うべきかも知れない。

ごく最近問題になった昨年9月大津市の中二男子がマンションから飛び降り自殺した事件は、〝いじめ〟が原因らしいことが判明し、中学校に警察の捜査が入る事態になった。学校と市の教育委員会が〝いじめ〟 の事実を隠ぺいしようとしたらしいことが学校からのアンケートに応じた生徒達の証言から明らかになり、当時、遺族からの被害届けを3回に亘って拒否していた警察も終に動かざるを得なくなったらしいのである。

学校も、教育委員会も、警察も、その組織を構成するのは公務員と云う人間である。私は一番気になっているのは、小中学の先生の気質・素質である。昔は先生の給料は民間企業に比べて低かったと思う。だからお金 持ちではなく、むしろ清貧な生活だったと思う。従って、教育に高い志を持って先生になる人々が少なからず居たのではないかと思う。小学生の時に、先生の家に遊びに行った時に、幼心に、そのように感じた事を今 思い出すのである。

今は、先生だけではなく、公務員の平均給与は700万円を超し、民間よりも200万円位上になっている。
それは確か田中角栄首相の時に、先生に優秀な人材を集める必要があるとして、給与水準を改訂したと記憶している。そう云うことによって、確かに勉強が出来る学生達が高給を求めて教育界になだれ込んだとしても おかしくはない。しかし、勉強の優秀な人材が必ずしも優秀な先生にはならないだろう。勉強の生存競争に勝った人々が、学力に劣る子も混じるクラスの先生に適しているとは言えないだろう。ましてや、その先生方 の中の生存競争にも勝って校長に登り詰めた人物が、教育者でもあり経営者としても期待される校長に適材かどうか・・・。
今の日本で起きている様々な症状(いじめ、自殺、育児放棄、うつ病、離婚・・・)は、教育の有り方を一変しない限りは増え続けるのではないかと推察している次第である。

独断と偏見で多くを述べてしまったが、〝いのち〟の大切さを本当の意味で教えられる先生、人間の〝いのち〟を得てこの世に存在する有り難さとそれを生かす術を教えられる先生を育てる政権に交代する事が、いずれは為されな ければならないと思う。

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No.1212  2012.07.09
浄土は現にある?

先週の土曜日久し振りに法話を更新しました。米沢先生の著作集の第五巻に編集されている『現代の病理とその処方』からの転載です。この法話は昭和36年8月に為されたものですから、この現代とは池田勇人首相が 所得倍増計画をぶち上げた高度経済成長期に突入した頃のことであります。その時既に日本は不治の病に罹っていたと云うことになります。その病は今なお病状が悪化し続けている、「お金さえあれば幸せになれるはず 」と考えて頑張っているのに幸せ感がなかなか得られそうに無く、不平・不安でイライラした気分が続く「先進国病」と云う精神病だと思います。

何とか治そうと先進国の首脳が集まって相談(G8サミット77G20)はして見るが、治らないのは、当時と同様であります。米沢先生は、法話の中で、「愚か者は、精神病院や、収容所にいるのではありません。レ ッテルの貼られていない愚か者、もっと始末に困ることには、〝自分も相当なものだ〟とうぬぼれている愚か者が充満していることであります。国際の檜舞台とやらで、活躍している各国首脳部には、このような愚か者 が多いので困ります。また一般民衆も、こうしたものを愚か者と気付かずに、奉っているから困ったものであります」と仰っていますから、人類は数十年立ち往生している訳でございます。

米沢先生の提案されている処方は、現に在る浄土を共有しようと云うことのようであります。その浄土は人類が抱いている驕慢心を含む煩悩を懺悔すること無くしては辿りつけないところであるけれども、もともと私た ちの故郷であるから皆一緒に還ろうではないかと云うことでありましょう。

私は浄土が現にあると云う意味は、恐らく、私たち人類の一人一人誰もが幸せを願っている、不平・不安の無い平和を願っていると云うことは、とりもなおさず、私たちはそう云う世界から来ている、それが浄土だと云 うことではないかと思います。

下記に米沢先生が仰る本願の念仏と云うこと、浄土と云うことに付いて述べられた箇所を転載させて頂きますが、私は未だ完全理解には至っておりません。『現代の病理とその処方』の法話全部を逐一転載致しますので 、皆さんもお読み頂き、ご一緒に親鸞仏法の要を押さえて頂ければと思っています。

転載ー
本願の念仏が現代の課題に応え得ると信ずる第三の理由は、先にも触れましたフロム教授は、人類が血と土との結び付きを超えて、つまり民族的自我を超えて結ばれねば人類は破滅すると申しましたが、この個人を超え ると共に、民族的自我をも超えようという願いが見出してきたものが、浄土でありましょう。浄土こそ、個人と共に全人類が目指すべき方向であります。

これは天国ではない。また理想でもない。浄土は人間の世界を成り立たせている根底である。これは人間の要請によって考え出されたものでない。また人間の切なる願いによって描き出された理想世界、ユートピアでも ない。浄土こそ現に存在するものであり、これがあるからこそ、私たちが現実と考えている世界がある。私たちの生活の根底、私たちの還るべき世界、私たちの生活に方向を示す世界であります。

この浄土を見出したということが、本願の念仏にとって最も重要な意味をもっているのであります。ですから、浄土というのは、単に浄土宗の信者にのみ存在するものではない。浄土真宗の信者を教化するために、仮に 設けられたというものではない。勿論、死後にしか存在しないようなフワフワしたものではない。

ー転載終わり

念仏は無条件降伏を宣言する言葉でもあると言われていますが、昨日の『こころの時代』で藤田一照と云う曹洞宗の禅僧も、「坐禅は無条件降伏に至るもので、何かを得ようとしても何も得られるものではない。」と云う 主旨のことを仰っていました。真実の仏法、お釈迦様の仏法は同じことなんだと思った次第です。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1211  2012.07.05
脱―究極のマインドコントロールーの処方

私は前回のコラムの締めくくりに「究極のマインドコントロールから人類が解かれる鍵は釈尊が説き親鸞が考え続けた〝いのち〟の実体にあるのではないかと考え始めたところである。」と申し上げましたが、 同じような事を考えられていた先輩が居られました。それは私が親鸞仏法に傾倒する上で決定的な指導を頂いた米沢秀雄先生です。
なかなか揃わなかった米沢秀雄著作集の第2巻、第4巻、第5巻が漸く手に入りましたが、偶々その第4巻に直接その答えが書かれている法話『現代の病理とその処方』に出遇得たのです(このタイミングに は本当にびっくり致しました)。
私が申し上げた『究極のマインドコントロール』を米沢先生は『究極の病い』と言われているのだと思います。その『究極の病い』は、激しい痛みなぞの自覚症状がなく、気が付いた時には既に手遅れにな る恐ろしい病気だと言われておりますので、マインドコントロールそのものの恐ろしさでもありますから、同じ事を言われているのだ思いますが、私は未だ治療の処方を仏法の中の具体的教えとして把握し切 れておりませんでしたので、非常にグッドタイミングで、実に有り難いことです。

その法話は昭和36年8月11日に福井県の浄土真宗のお寺で為されたもので、今から丁度50年前、米ソ冷戦が激しかった半世紀前、日本が高度経済成長をし始めた頃のものでした。そしてそれは私が高校 二年生の時、まさに将来の幸せが確約されるであろう国立大学を目指しての受験勉強真っ只中にあった時であります。今にして思えば受験勉強よりも先に勉強しなければならない授業(法話)が福井県で為さ れていたことにショックを受けています。

現在の世界情勢は当時とは大きく変わってはおりますが、米沢先生の表現を借りれば、病の症状はますます酷くなっており、今は当時の後進国であった中国の目覚ましい台頭と世界同時経済危機が問題となっ ており、米沢先生のその法話は今為されても全く違和感が無い、と云うよりも、このままでは救命措置も間に合わないことになっており、流行の言葉で申しますと〝待ったなし〟の時を迎えているのだと思い ます。

私はこの法話を法話コーナーに連載することに致しましたので、下記の抜粋分を読まれた上で、ご自身で親鸞仏法が何故世界を救う処方になるのかに理解を深めて頂きたいと思います。

「いよいよ時代が来た。本願の念仏が世に出る時が来た。それは人間の非人間化という、人類にとって、最も痛みの少ない、しかも、恐ろしい重病にとりつかれた現代が、ひそかに本願の念仏を呼んでいるの であります。誰も、本願の念仏を呼んでいるとは思うてない。他の方便なきかと、心ある人々が苦労していられる。しかし、ないのであります。
今せっかく、他の方便を探して苦労していられる方は、やっぱり本願の念仏以外にはなかったという最後の断定を確実にするために苦労なさっているのであると申しても、過言ではないのであります。これは 時が来た時に証明されるでありましょう。

しからば、本願の念仏、南無阿弥陀仏という簡単なものが、いずれもが困難とする、この現代の病いの治療に、如何に役立つというのであろうか。

本願の念仏こそ現代の病いの唯一の治療法であるという第一の理由は、多くは病いに対して対症療法として、頭痛・腹痛なら鎮痛剤、発熱なら解熱剤というような治療法をするものであります。本願の念仏は 、そうした対症療法ではない。対症療法は現在ある国連のようなものである。役に立ちそうにみえて、その実少しも解決になっていない。念仏は対症療法にはならないが、病いに対して根底的に応えるもので あります。

根底的に応えるというのはどういうことか。病の根本原因を明らかにするのであります。あまり簡単に言い切ってしまいますと、嘘のようにみえますが、病いの根本は、実は近代以後増長してきた人間の驕慢 心にあるのであります。」

―抜粋終わり

米沢先生はお医者さんです。まぁ、人間の体を精神との関連も含めて科学しつつ現実の人間の病を研究し治療の手助けをされていた科学者であります。米沢先生の説かれる親鸞仏法の念仏は、お呪(まじな) いではありません。浄土も、夢物語の浮ついたものではなさそうであります。
読者殿が興味を持たれているのが浄土門でも聖道門でも、仏法に興味を持たれているとしたら、是非、法話コーナーに連載する米沢先生の法話をお読み頂き、真実の仏法を開いて頂きたいと思います。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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