No.1170 2012.02.02
親鸞の他力本願を考察するー①『唯識で自分を変える』(すずき出版)の著者である岡野守也氏がその中で、下記のように言われています。
引用開始―
仏教が、悲観的・否定的な印象が強かったのは、一つにはこれまでの日本の伝統的な仏教のスタイル・ファッションがお葬式を中心にしたものだったからであるし、それからもう一つは、仏教は煩悩の深さというものから目 をそらさないで徹底的に見つめていると云う理由もあるでしょう。でもそれは人間の煩悩を見つめすぎて、「だから、人間は自分では自分を救うことは出来ない。仏さまにすがるしかない。しかもこの世に生きているかぎりは苦 しみがあるのは仕方がないので、それは諦めて、死んだ後で地獄に落ちないように、極楽に行けるように功徳を積んでおく、信心しておくのだ」・・・という風な解釈が、日本の伝統的な仏教の主流になってきたのではない でしょうか。しかし、お釈迦様からインド大乗仏教―唯識へと伝わった線からいうと、それは仏教の本筋ではない、と私は思っている。仏教は、私が学んだ限りでは、死んだ後のことじゃなくて、まずどう生きるかを考える思想なんです。あの世ではなくこの世で、行動することによって成熟していき、自分をも他人をも徹底的に幸福で爽(さわ)やかに出来 る生き方を確立していこう、人間にはそういう限りない成長の可能性があると云う、とても積極的・能動的・肯定的な姿勢を持った思想だと思います。
しかも、それが安っぽいヒューマニズムと違うのは、ただ人生をだけでなく、死をも含めて、徹底的に肯定するところです。個人のいのちは生まれ、育ち、老い、そして死ぬものですから、生を肯定するだけではどうあがい ても最後は結局、否定・悲劇に終わってしまいます。本当に肯定的な思想ならば、生と死をひっくるめて肯定出来るものでなければなりません。
唯識―仏教は、まさにそういう〝生死〟をまるごと肯定する思想であり、生き方なのです。
―引用終わり私は、岡野先生のご見解に共感を覚えます。ただ、先生の言われる伝統的な仏教は、恐らく法然上人と親鸞聖人の浄土門仏教を念頭に置かれたものだと思いますが、それは法然・親鸞以降の僧侶たちが間違って解釈したり説 き方を間違ったりして伝わった所為だと、私は考えています。考えていますと云うのは正確ではなく、最近の〝いのち旅〟の勉強や、特に中村桂子さんの『生命誌』から学んだ遺伝子の進化、そして極最近のNHKテレビ番 組『ヒューマン』から教えられたヒトから人類への進化の道筋に関する考え方、更にはマーフィーの潜在意識の考え方等を知ってから変わりました、と云うのが正直なところであります。
法然も親鸞も決して自己の煩悩だけを厳しく見つめ続けた挙げ句に、他力(弥陀の誓願、本願他力)に頼ったのではなかったと思うのです。その考察は、次回コラムに譲らせて頂きます。
帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ
No.1169 2012.01.30
マーフィーの成功の法則無相庵コラム読者のお一人から、『マーフィー100の成功法則』と云う本の存在を紹介して頂き、先々週から先週に掛けまして、マーフィーに関する著書『あなたはこうして成功する』も読み、今は 『眠りながら成功する』を読んでいるところです。
紹介して下さった読者さんは、下記の感想を添えられていました。
『自分とはなんだろうと、解らないことだらけの中、唯識の深層心理を求めて、この無相庵を見つけました。インターネットの社会に何とか間に合い良き場所を見つけたと喜んでおりました。唯識をう まく飲み込めないでいたところ、マーフィ博士の潜在意識の存在に出会わせていただきました。おかげさまで心穏やかにいられます。』
『成功法と表題にあるとご利益本として読む人もいるかと思いますが、その本質は、宇宙と自分の中の潜在意識の連なりです。自分の中に居る仏に出会う と言い換えてもいいかもしれません。大宇宙 と交信する もしくは 自分のなかに住む仏と出会える場所である心を清らかにしておくことの大切さを感じた本です。』私が今まで読んで来まして今思うのは「成功とは何を以って成功と云うのだろう?」と云うことです。マーフィーは、自分の願う事を叶えることのように考えているようで、中心はやはりお金持ちにな る事、名誉や社会的地位を得る事、健康な体、善き結婚相手に回り逢う事など等のようです。そもそもマーフィーが潜在意識の効用に関心を持ったのは、「豊かで幸福な人と知能指数が殆ど関係ないら しいこと、良心的でまじめということも富や幸福とあまり関係がないこと、更に大学も上級になったり、大学院になったりすると、頭のよさがかえって成功と関係が少なくなることを、自分の眼で多く の例を確かめたからです」と云うことですから、やはり、マーフィーが考える成功とか幸福は、富、名誉(社会的地位)が主体であることは間違いありません。
この富と名誉は、親鸞聖人が「名利の大山に迷惑し・・」と教行信証で自誡されている名利そのものでありますし、そもそもお釈迦さまが苦の原因とされる煩悩の源である五欲の中の2大欲望でもあり ますから、富と名誉を追いかけるマーフィーの姿勢は仏教特に親鸞仏法とは相容れないものではないかと、この無相庵コラム読者の皆様は思われるのではないかと思います。しかし、その一方で、そん な方も日々の暮らしで追い掛けておられる中心もこの名利、つまりマーフィーの追い掛ける富と名誉(社会的地位)ではないでしょうか。私自身、正直に申しまして、頷かざるを得ないのであります。 勿論、健康が先ず第一ですし・・・。
ですから、マーフィーの成功法則は皆さまに取りましても非常に魅力的だと思います。アメリカで生まれた『ニューソート(New Thought、新思考)』と言われる宗教運動の一つだそうで、日本ではその 影響を受けて『生長の家』が、気持ちを明るく保つことによって運命が開けるという考え方で信者を集めているようです。
私は唯識で無意識(末邦識、阿頼耶識)、深層心理と云う潜在意識を、私たちの人生に大きく関わっている重要な考え方だと思っておりますので、あながちマーフィーの考え方を否定する立場にはござい ません。潜在意識は、大脳辺縁系や脳幹、小脳、間脳等の細胞の働きから起こる、私たちの本能、素質、性癖、習慣を含む、私たちが無意識に行動したり、瞬間的に反応したりするもう一人の自分の心だ と思っております。付き合いが無かった初対面の人に付いて、瞬間的に相性を判断してしまいます。道で偶々すれ違う5人連れの女性たちの中で誰が一番美人か、誰が一番好みかも瞬時に決まります。そ してそれは私と私の友人とでは必ずしも一致しません。それぞれです。私と妻とで、或る知人の容姿が誰それの歌手や俳優に似ていると云う話題になる時があるのですが、これも必ずしも一致しません。 大きく異なることもしばしばです。これは、遠い祖先から積み上げ受け継いでDNAに埋め込まれた情報が異なるからだろうと考えています。つまり、潜在意識が同じではないからだと考えております。
スポーツの得意不得意、字の上手下手、歌唱力の差、性格上の気の長さ短さ、頭の回転の速い遅い等など・・・。生まれてから3歳までの育った環境や、両親家族にも影響はされる部分もあるかも知れま せんが、殆どはDNAの為せること、つまり潜在意識の差ではなかろうかと私は思っております。
潜在意識を考えずに、人の人生は考えられないとまで思います。そしてこの潜在意識として刻まれた遺伝的素質として祖先から受け継いでいる根本煩悩もあります。親鸞聖人が嘆かれた根本煩悩でありま す。この煩悩こそが信心(悟り)の本でもあると親鸞仏法は考えるのでありましょうが、先週の日曜から続くNHK番組『ヒューマン』を視聴していて思ったのですが、私たちの潜在意識には、根本煩悩 も刻み込まれているけれども、他人と協力したり、自分を置いてでも他人を助けたり、〝いのち〟を大切に思ったりする崇高な心も刻み込まれているのだと考えるようになりました。勿論、より良く生き たいと云う心、より便利にしたいと云う文化を発展させていく心も潜在意識に刻み込まれているのだと思います。煩悩と言いますか、本能と云うべきかも知れませんが、〝いのち〟を進化させる上で必要 だった闘争心もしっかり刻み込まれているはずであります。
上述で私は「成功とは何を以って成功と云うのだろう?」と申しましたが、マーフィーの潜在意識を利用した成功の法則も、崇高な潜在意識と共に闘争心の結果としての成功を願う潜在意識とのバランス に配慮すれば、別に富も名誉も追っかけてもいいのではないかと考えているところであります。そして、その富と名誉が利他の行為として社会の為に還元されるならば、〝いのち旅〟で申し上げている 『宇宙の意思』に添う〝いのち〟を生きていることになり、それを人生の成功と申してもいいのではないかと今は考えているところであります。
更に潜在意識を含めて心理学を勉強したいと思っております。帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ
No.1168 2012.01.26
11.〝いのち〟の歩み
〝いのち旅〟:第11話(〝いのち〟の歩み-はじめに)
これから、私たち〝ヒト〟が誕生するまでの、〝いのち〟の進化と多様化を勉強しますか。
これまでの化学の勉強で、〝いのち〟は、地球が生まれた46億年前から始まった化学反応の連鎖に依って生れたことは何となく理解して頂けたと思いますが、勿論、遡れば、宇宙が誕生したとされている137億年前のビッグバーンからの始まった物理現象(核融合等・・・)と化学反応の連鎖も忘れてはなりません。この〝いのち旅〟の初心は、〝いのち〟の歩みを知って、今此処に居る私の〝いのち〟の不可思議さと尊さを実感したいと云うものです。これからこれまで知らなかった生命の進化・多様化を勉強して参りますが、初心は常に忘れずに進めたいと思っております。
勉強を進めて行く上では、中村桂子さんの『生命誌』を先生とさせて頂きますが、インターネット検索で、生命の歴史をとても分かり易くまとめられているサイト『地球と生命の誕生と進化』を見付けましたので、紹介致します。未だ私も少し読み始めたところですが、皆さまも、お読み頂ければ幸いです。
そのサイトの頭に、下記の生命の年表が示されています。地球の温度変化、海の誕生、海から陸への〝いのち〟の上陸、多様化した生命間の生存競争、地震や津波、火山の大爆発、小惑星の衝突等に依る地球環境の大変化等、様々な偶然(?)の積み重ねを経て、霊長類へ、そしてヒトへと進化して来たものと思われます。
偶然と偶然の積み重ねが奇跡と云うものかも知れませんが、私は、奇跡ではなく、『宇宙の意思』に依る必然ではないかと今は考えているところです・・・。
No.1167 2012.01.23
〝いのち旅〟番外編:(ヒトは利他の心で地球を制覇している!)昨年の9月から〝いのち旅〟シリーズを始めていますが、始める前の動機は、子供たちに〝いのち〟が何故大切なのかを語り伝えたいと思ったからでした。しかし、始めようとして、子供向けの言葉や表現で〝いのち〟 を語ろうとしたのですが、なかなか文章が出て参りませんでした。
それは、私が〝いのち〟を自分の言葉で何を語るかがはっきりしていないからだと思いました。そこで、先ずは大人向けに〝いのち〟とは何か、〝いのち〟は何故存在するのかに付いての説明が出来なければ駄目だと考 え、そして、出来上がったコラムを子供向けの表現・言葉に変えればいいのだと思い、〝いのち旅〟が始まったと云う訳です。ただ、翌月の10月23日に、NHKのBSプレミアム『こころの時代』で中村桂子さんの『生命誌』に出遇いまして、〝いのち旅〟は子供向けを離れて、私の本格的な〝いのち〟の勉強の旅になってしまいました。そ れは38億年前に〝いのち〟を産み、そしてその〝いのち〟を多様化し進化させて、今の私たちホモサピエンスに地球を制覇させているのは、実に『宇宙の意思』だと思うようになったからです。
これから『生命誌』を具体的に勉強していく予定でありますが、昨日の日曜日の午後9時からのNHK番組『ヒューマン』(最先端研究が解明する人類20万年の壮大な旅)をたまたま視聴し、チンパンジーから進化して ヒト(生物学上の霊長類としての分類名)となった経緯を知り驚き、そして更に、異説があるらしいのですが、現代の私たちホモサピエンスにまで進化したのは、約7万年前に起きたスマトラ島のトバ火山の大爆発の粉じ んが地表を覆い、地球の表面温度が10℃近く低下し、動植物の殆どが死滅し、ヒトもアフリカ大陸の一部に僅かに生き残った中で、食べ物を分け合う等の協力をし合う種族だけ生き伸び、そのヒト達がさらに大陸を超え て地球全体に広く分布出来るようになったと云う経緯を知り、〝いのち〟を繋ぎ留める為に、協力し合う大脳と云う器官を与えた『宇宙の意思』を改めて実感しました。そして、そのヒト達が他の動物達とは全く次元の異 なる『利他の心を持った人類』に進化したのだと考えました。
そして、今回の表題『ヒトは利他の心で地球を制覇している!』となった次第であります。因みに、チンパンジーと種を分けてヒトになったのは、二足歩行したチンパンジーのメスの骨盤が横長になり、その産道が狭くなった為に、チンパンジーの雌は誰の助けも必要とせず一人で子供を産み落せるが、その骨盤 の狭くなったチンパンジーの雌は、第三者の助け無しでは子孫を残すことが出来なくなった、つまり他者と協力し合わねば〝いのち〟を繋げないチンパンジーがヒトへと進化したと云う説が紹介されていました。全ての学 者が同意している説ではないと思いますが、産み落とした(受精)卵の多くが他の動物のエサとされる事を避ける為(子孫を残す為)にメスの体内で(受精)卵を育てるようになった鳥の一種が哺乳類へと進化していった と云うことを思い合せますと、『宇宙の意思』を想う私は納得せずにはいられませんでした。
私たちには勿論、自己愛があり、煩悩があります。煩悩に苦しめられてもおりますが、しかし、元来、私たち人類には利他の心があるからこそ、生れ得たことも間違いありません。と云うことは、利他の心を失うと人類で はなくなることになります。それは、『宇宙の意思』がそうならないように、見守っているのだと思います。
帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ
追記)
NHK番組『ヒューマン』(最先端研究が解明する人類20万年の壮大な旅)は、これから3話あるようです。多分、日曜日の9時からだと思います。是非皆さまにも視聴して頂きたいと思います。それから更新した後に言葉足らずだと思ったことがあります。
利他の心がヒトを人類に進化させたのは間違いないと考察しておりますが、利他の心だけでは人類は生きられないことも確かだと云うことであります。当然生存競争の激しい中、〝いのち〟を繋いで 来たのでありますから、自分を守る為の激しい闘争本能も持ち合わせていることもまた間違いないと思われます。他の動植物の〝いのち〟を犠牲にして〝いのち〟を繋がざるを得ない私たちでありま すから、欲望、更には煩悩の心と利他の心が共存していて始めて人類なのだと思います。欲望・煩悩もまた〝いのち〟を継いでいくために『宇宙の意思』が与えてくれた大切な心でもあると考えたい と思っています。私は欲望も煩悩さえも何が何でも否定する立場には立っていません。そのことを、親鸞聖人は『煩悩即菩提』と言われたのではないかとも考察しているところです。
No.1166 2012.01.19
〝いのち旅〟:第10話(〝いのち〟と化学反応―完)10.化学反応を起こさせるものは?
私たちの体の中の全ての部位で一切の化学反応が起こらなくなったら、私の〝いのち〟は消滅したことになります。つまり、死を迎えたことになります(心肺停止とか、脳死とか、色々と人の死をどの時点とするかに付いての、 議論はありますが・・・)。ただ、呼吸をすることも、心臓を動かし血液を全身に循環させることも、私たちの意思では出来ません。食べ物を口の中で歯を上下させて噛み、食道に送り込むまでは私の意思で出来ますが、それを長さ約30センチの食道を通し て胃まで送り込むのは、私たちの意思では有りません。そして、更に胃液を分泌して食物と混ぜ合わせて液状にして小腸で栄養分を、大腸で水分を血管内に取り込むのも私たちの意思では出来ません。これを為さしめるのは自律神経と云うのだと思います。 そして、それは自律神経が化学反応を起こしているからこそのことですが、この自律神経を働かせているのが、〝いのち〟だと思うのです。
そして、この私の〝いのち〟は、38億年前の先祖から働きづめに働いて来ている〝いのち〟なのだと思います。そして、今のこの地球上に生きている個々の〝いのち〟と〝いのち〟は、世代を遡ればどこかで共通の〝いのち〟に 辿り着きますから、この〝いのち〟は、万人共通の〝いのち〟でもあると言えましょう。個々の〝いのち〟は消滅しますが、その万人共通の〝いのち〟は永遠の〝いのち〟、不生不滅の〝いのち〟であります。
38億年前の地球に生れた一つの〝いのち〟は、地球が生まれた46億年前から8億年を掛けて起きた化学反応の途方もない連鎖を経て生まれたことは間違いありませんが、その化学反応物が単細胞と云う〝いのち〟にまで仕立て上げたのは実に 『宇宙の意思』と言うしかないだろうと思います。
それを、宗教は絶対者とか神とか仏、如来、真如と名付け、哲学は宇宙の真理、宇宙の活力とか申すのだと思いますが、私は、一般の方々向けには、手垢のついていない『宇宙の意思』と云う名を敢えて使いたいと思うのです。そして、お釈迦様の教えを拠り所とするこの無相庵は、親鸞聖人が常に座右に置かれていた『帰命尽十方無碍光如来』と云う十字の名号をお借りして『尽十方無碍光如来』とし、そしてこの『尽十方無碍光如来』がこの地球上に〝いのち〟を産み、 生命を多様化させ、進化させたと考えます。この〝いのち〟の歴史を科学的に分析し、人類の想像力を働かせて宇宙観、人間観を持ちたいと云うのが、これから勉強する中村桂子さんの『生命誌』ではないかと思っております。
帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ
No.1165 2012.01.16
念仏そのものには力も功徳も無い仏法がブームになりつつあると云うことを年頭コラムで申し上げましたが、また、五木寛之氏が『親鸞』を新聞連載したこともあり親鸞も興味を持たれつつあるとか聞いておりますが、親鸞仏法、つまり他力本願の教えが 親鸞聖人の願われた通りに流布するかに付きまして、私は甚だ心配しております。
私は学問として親鸞仏法を勉強したことはございませんし、親鸞聖人が書き残されている文献全てを勉強した訳でもありませんので、真宗学ご専門の学者方や僧侶の方々からご批判があるかも知れませんが、今の浄土真宗 のお坊様方の中には、「念仏(なむあみだぶつ)そのものに力があり、功徳がある」と在家信者や一般の人々に説いている人達がかなり多く居られます。説明不足或いは〝言わずもがな〟と云うことで省いておられるのか も知れませんが、初めて接した一般の方々が、念仏は仏様に助けて貰う為の『お呪(まじな)い』と受け取ってしまうことになりかねません。
下記は、有名寺院のご住職のコラムから引用したものです。
引用文の①―
念仏の利益は、自分を見失わせないことです。自分を見失っていても、念仏申すことにより自分を取り戻すことができるのです。縁に触れ思いあがったりうぬぼれあがっていても「思いあがっているよ・うぬぼれあがってい るよ」と、念仏が気づかせてくれます。自分を飾って見せようと思っていても、その場にいることが恥ずかしいと思っている時も、「そのままでいいんだよ」と自信を取り戻してくれます。淋しい時・悲しい時・苦しい時・ 辛い時、念仏申したからといって現実はどうにもなりませんが、何かほっとします。安らぎが与えられます。現実を引き受けて生きようと生きる力が与えられます。引用文の②ー
法然聖人の有名な言葉に「生けらば念仏の功つもり、死ならば浄土に参りなん」とあります。念仏に生きるとは、念仏の功徳が、念仏のすぐれた働きが我が身に積もり、ますます生活の中に現われてくるのです。仏さまのお 育てです。念仏は生きる力を与えてくれます。自分が自分らしく生きていくことができます。淋しい時辛い時お念仏が口に出ると落ち着きます。安らぎを感じます。どんな状況になって現実は変わらなくても、辛い苦しい中 、大きな支えになります。思いあがり自分を見失っている時、念仏が気づかせてくださいます。念仏に生きるとは、ますます念仏の功徳が我が身に積もってくるのです。そう思うと歳をとることも喜びです。いくつになって も育ちざかりの人生です。そして娑婆に縁尽きた時、光の国であるお浄土に参らせていただくのです。ー引用終わります
念仏を称えることは、坐禅であるとか、神様の前での祈りとか、リラクゼイション瞑想法とかと同様の効果はあると思いますが、念仏そのものには力も功徳も無いと思います。親鸞仏法で大切なのは、歎異抄の第一章にある 弥陀の誓願(本願と同じ意味)の中で自分が今生きている事を自覚すること、或いはそのことを確かだと確信することだと私は思っております。
宗教の違い、宗派の違いを超えて能く使われる『サムシング・グレイト(人間を超えた偉大なる力)』と云う英語(SOMETHING GRATE)があります。『弥陀の誓願』を「サムシング・グレイト」と言い換えてもよいと思います。 私はそれを神とか仏と云う擬人化したものではなく、〝宇宙の働き〟とか〝宇宙を動かしている力〟と敢えて手垢が付いた表現を避けているのですが、それを神とか仏と呼称してもいいと思います。そして、その『サムシング・グレイト』を無理に信じるのではなく、それを思わなければ今自分がここにこうして生きていることを説明出来ないし、自分が生きている意味を見出せない。そして常に『サムシング・グレイト』 を意識して生活する、と云うよりも、唯識的に申しますと『サムシング・グレイト』が潜在意識に刻み込まれた生活が展開するようになることが、宗教的生き方、私流に申しますと、それが親鸞仏法的生き方ではないかと思っ ております。
親鸞聖人は『サムシング・グレイト』が意識に上った時には必ず、無意識の中に『帰命尽十方無碍光如来』の名号を思うと共に「なむあみだぶつ」と口にされたのではないかとも私は思っております。帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ
No.1164 2012.01.12
〝いのち旅〟番外編:幸せな人生とは?幸せとは何か?この問いに答えるのは案外難しい。人夫々に幸せや幸せ感が異なると思えるからである。しかし、具体的に特定の人同士を比較した場合、どちらが幸せと思うかの問いに見解が異なることは無いのではないかと思う。
例えば、FIFA(国際サッカー連盟)が主催するFIFAバロンドール2011において、女子年間最優秀選手に選ばれたなでしこジャパン(女子日本代表)主将の澤穂希(INAC神戸)選手と、昨日、広島刑務所から脱走し、近隣住民を 恐怖に陥れている中国人の李国林受刑者、そして、強制起訴されて、被告人として法廷に立った小沢一郎元民主党代表の3人を比較して、今のところ一番幸せな人生を送っているのは誰かと問えば、余程の変わり者で無い限り、澤 穂希選手だと答えは一致するだろう。
この場合、幸せ、不幸せを判断する基準とは何かを考察すると、人々に心地良さや悦びを与えているか否かであろうか・・・。お金持ちかどうかではないことは確かである。澤選手の昨年度の年収は社会的地位・知名度と云う面で は対等と思われる小沢一郎氏の七分の一であり、自由に動かせる金額は、小沢氏の億単位に比べて多分澤選手は万単位、1万分の一である(因みに、澤選手の年収は350万円、男子サッカーの最優秀選手の35億円の千分の一である)。上述した幸せの比較は、勿論、飽くまでも現在、現時点でのことであり、知り得る範囲での事である。刻々と人の状況は変わっていくものであり、上述した基準では一人の人の人生が幸せなものかどうかを他人が判定出来るものではな いと言うべきだろう。
状況に依って変わる幸せは本当の幸せではないと云うのが仏法の説くところだと思う。お金は一瞬の中に無くなることもあるし、宝くじで一瞬の中に大金持ちになることもある。今なお東日本大震災に依って失業して生活不安を抱えている 人は十数万人居ると言われている。昨年は名誉や地位を一瞬にして失う経営者が目立った。健康状態も変化する。愛情も変化する。人生の根底である〝いのち〟そのものも一瞬の中に失うものである。そう云うものを追っかけている限り は、幸せな人生にはならないと云うことだろう。しかし、斯く云う私がそうなのであるが、得てして、どうかすると気が付けばお金や名誉、健康や愛情を追っかけてしまっているのである。そして、痛い目に遭うのである。
ただ最近思うのである。平穏な人生、例えば何不自由のない極楽浄土の世界の生活が果たして幸せかどうかと・・・。いろいろな目に遭い、人生とは何か?自分とは何か?どうしてこのようなことが起こるのだろう?そもそも人間とは何 か?〝いのち〟とは何か?そして全てを包含する宇宙とは何?・・・と、道元禅師流に言うならば、『自己を習い続けること』が人間に生れた楽しみであり、本当の幸せであり、状況に依って変わらない幸せではないかと考察しているところである。
帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ
私が最も親しく指導を受け且つ尊敬する仏法上の師は、故井上善右衛門先生であります。 井上善右衛門先生は元神戸商科大学(現在の兵庫県立大学)学長を務められた世間的にも道を究められたお方ではありますが、ご専門が倫理学だったことから想像しますに、学生時代に私的サークルで歎異抄等の指導を受け られた故白井成允先生(広島大学教授)が倫理学ご専門だったからではないかと思っております。
と申しますのは、井上善右衛門先生が白井成允先生を語られるお姿は、親鸞聖人が法然上人を語られることがあったと致しましたら、さぞやこのようであっただろうと思わせる敬慕と悦びに満ちているものだからであります (NHK教育テレビの〝こころの時代〟の一場面として収録しておりますので、今も度々拝見しているところであります。白井成允先生は井上善右衛門先生よりも20歳上でありました)。
親鸞聖人は「弟子を持たず」と申されていたようですが、法然上人を〝本師源空〟と和讃や正信偈で詠んでおられますから、ご自分は法然上人をお師匠と敬愛されていたことは間違いありません。
井上善右衛門先生と白井成允先生はそれと同じご関係にあったと私は推察しておりますが、仏法の上のみに限らず、善き師に出遇うことがこの世に生まれた最も価値あることではないかと思うのです。そう云う意味で私は、母を縁として親鸞仏法に出遇い、そして井上善右衛門先生に出遇え、井上善右衛門先生と白井成允先生の師弟関係にも出遇った事はとてもラッキーなことだと思いますし、その他にも多くの先生方にも 縁を頂けたことだけで十分幸せに思わねばならないとは思いますが、親鸞仏法を語り合える同年代の友に回り逢えて居ないことを実に残念に思っております。
親鸞仏法を説くお坊さんや学者さんは沢山居られます。しかし正直なところ、念仏至上的なところが表に出過ぎているところに抵抗感を感じてしまい、念仏者ではありながら、ご法話の中では念仏を強要されなかった井上善 右衛門先生に師事した私としましては、手を取り合う気持ちにはならないのであります。
私がそこまで(念仏者に)至っていないことは間違いありませんが、その中途半端さを共有して親鸞仏法を語り合える友に出遇えることをこれからの希(のぞみ)とし願いとして今年も試行錯誤して参りたいと考えていると ころであります。
帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ
No.1162 2011.01.05
年頭のご挨拶皆さま、明けまして、おめでとうございます。
と申しましても、国内外共に先行きの見えない政治情勢、経済情勢の中で迎えた新年でありますが、こんな時にこそ、心の健全性を大切にして日々暮らして参りたいと思います。先日の神戸新聞に、『〝仏教〟と向き合う』と云う特集ページがありました。私にはそんな感覚がありませんので驚きつつ目を通しました。「これまでもブームはあったが、今回は裾野の広さが特徴で、形骸化した葬式仏教 を批判する声が高まる中で、僧侶らも変わりつつある。東日本大震災を受け、生死の問題を深く考えざるを得なかった昨年。期待と批判に応え、よく生きるための仏教を目指す動きも活発になってきた。」のだそうであります。
そして、「大き目の書店に行くと、驚かされるのが、仏教入門書の多彩さと量。ビジネス雑誌が特集を組み、働く女性対象のムックが出版され、若者向けの奇抜なタイトルの本が並ぶ。」とブームの状況説明が続いておりまし たが、何となくこの仏教ブームにもお金の匂いを感じざるを得ませんでした。
その特集を読んだ後に、インターホーンが鳴りまして、玄関先に出ましたところ、「幸せになれる講演会があるので参加しませんか?」との集いへの勧誘でした。「私は仏教徒で、仏教を発信している立場で、今は十分に幸せ です。」と答えてお断りしました。「ご先祖崇拝ですか?」「いえ違います」「何を拝むのですか?」「自分を拝みます。自分の〝いのち〟を拝みます」と云う問答の後、引き取って頂きましたが、この勧誘も仏教ブームの一 端が我が家にも届いたのかも知れないと思った次第でありました。
親鸞聖人とほぼ同時代を生きられた道元禅師(日本の曹洞宗開祖)に、「仏道を習うは自己を習うなり。自己を習うとは万法に証せらるるなり。」と云うお言葉がありますが、真実の仏教は、偶像を拝むものでもなく、教祖な ど特定の人物を拝むことが中心ではなく、自分とは何か、自分は何処から来たか、そして何処へ行くのか等、自分を知り尽くすことから始めることだと云うことを私自ら勉強し、そしてそれを一般の方々にも発信して行くのが無 相庵の使命だと考え、今年も励みたいと考えております。
皆さま、本年も宜しくお願い申し上げます。
帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ
No.1161 2011.12.26
『大悲と本願』―本年最後のコラムクリスマスも終わり、これから大晦日を越えて、新しい年の元旦を迎えます。
今日から我が家は5名の孫達が四泊五日で滞在する賑やかな年末となります。主夫の私は三度の食事の用意と遊びの相手と、フル回転の忙しさとなります。従いまして、今日のコラムを今年最後のものとさせて頂きます。今年は何と申しましても、日本は東日本大震災、福島原発事故一色と言ってもよい忘れることの出来ない年になりましたが、2万人近い犠牲者の方々、そして今なお不自由な暮らしを強いられている被災者の方々の事を想 いつつも、新しい気持ちで新年を迎えたいと思います。
私は今年、大津波を伴った大震災と中村桂子さんの『生命誌』に出遇い、〝いのち〟を考え直す年になりました。そして、仏教を化学と云う切り口で考察する年になりました。そして、人類が人間を超えた存在として考え 出した仏にしても神にしても、私は『宇宙の意思』そのものであると固く認識する忘れられない年になりました。
仏教用語に『慈悲』と云う熟語がありますが、これは仏様が衆生を慈しみ、憐憫する心を表す用語でありますが、親鸞仏法に於いては、『本願と大悲』と云うことになるのではないかと考えました。『宇宙の意思』は、〝 いのち〟を生み出し、〝いのち〟を多様化し進化させて、永遠に〝いのち〟を繋いで行こうとしているのだと思いますが、個々の〝いのち〟は他の〝いのち〟を犠牲にしなければ生きられない現実となり、大脳を与えたヒ トは煩悩に苦しみ、ヒト同士が殺し合う生き地獄が現実となっていることに、『宇宙の意思』は深い悲しみ(大悲)を持ち、〝いのち〟の危機を何とか乗り越えて欲しいと云う大きな願い(本願)を持っているのではない かと考えるようになりました。
今年、五木寛之氏の『親鸞―激動編』が新聞連載された年でもありましたが、私は親鸞仏法を古い殻を破り去り、〝いのち〟を護る哲学思想に生き返らせる仕事にこれからの人生を賭けたいと思いつつ、新しい年を迎えた い考えております。
今年一年、無相庵を訪ね続けいただき、まことに有難うございました。
皆さま、良いお年をお迎え下さい。帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ