No.1161 2011.12.26
『大悲と本願』―本年最後のコラムクリスマスも終わり、これから大晦日を越えて、新しい年の元旦を迎えます。
今日から我が家は5名の孫達が四泊五日で滞在する賑やかな年末となります。主夫の私は三度の食事の用意と遊びの相手と、フル回転の忙しさとなります。従いまして、今日のコラムを今年最後のものとさせて頂きます。今年は何と申しましても、日本は東日本大震災、福島原発事故一色と言ってもよい忘れることの出来ない年になりましたが、2万人近い犠牲者の方々、そして今なお不自由な暮らしを強いられている被災者の方々の事を想 いつつも、新しい気持ちで新年を迎えたいと思います。
私は今年、大津波を伴った大震災と中村桂子さんの『生命誌』に出遇い、〝いのち〟を考え直す年になりました。そして、仏教を化学と云う切り口で考察する年になりました。そして、人類が人間を超えた存在として考え 出した仏にしても神にしても、私は『宇宙の意思』そのものであると固く認識する忘れられない年になりました。
仏教用語に『慈悲』と云う熟語がありますが、これは仏様が衆生を慈しみ、憐憫する心を表す用語でありますが、親鸞仏法に於いては、『本願と大悲』と云うことになるのではないかと考えました。『宇宙の意思』は、〝 いのち〟を生み出し、〝いのち〟を多様化し進化させて、永遠に〝いのち〟を繋いで行こうとしているのだと思いますが、個々の〝いのち〟は他の〝いのち〟を犠牲にしなければ生きられない現実となり、大脳を与えたヒ トは煩悩に苦しみ、ヒト同士が殺し合う生き地獄が現実となっていることに、『宇宙の意思』は深い悲しみ(大悲)を持ち、〝いのち〟の危機を何とか乗り越えて欲しいと云う大きな願い(本願)を持っているのではない かと考えるようになりました。
今年、五木寛之氏の『親鸞―激動編』が新聞連載された年でもありましたが、私は親鸞仏法を古い殻を破り去り、〝いのち〟を護る哲学思想に生き返らせる仕事にこれからの人生を賭けたいと思いつつ、新しい年を迎えた い考えております。
今年一年、無相庵を訪ね続けいただき、まことに有難うございました。
皆さま、良いお年をお迎え下さい。帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ
No.1160 2011.12.22
〝いのち旅〟:第9話(〝いのち〟と化学反応―③)9.化学反応はどうして起こるのか
私たち人間も他の動植物も生命体は全て細胞が寄り集まって出来ています。人間の細胞の数は60兆個とも云われています。その細胞は水を除くと殆どがタンパク質です。
そのタンパク質は、前項8でご説明したアミノ酸分子が何万個と連なって高分子であることも申し上げましたが、そもそもこのアミノ酸がどうして地球に出来たのか、ここ数百年、多くの科学者が真実・真相に迫りた くて様々な研究・調査をして参りました。46億年前に地球は誕生致しましたが、少なくとも40億年前の地球には、多分、水素、メタンガス、炭酸ガス、窒素ガス位しか存在していなかったと考えられています。それがどうしてアミノ酸のような複雑な分子 へと進化して行ったのかを研究している人々が今もいます。
いわゆる化学反応(分子と分子が結び付く現象)は、分子と分子を同じ容器に入れても起こりません。例えば、水は水素と酸素の化学反応で出来ますが、ただ単に水素ガスと酸素ガスを一緒のタンクに封入しただけでは水は出来ません。
化学反応を起こさせるには、熱や圧力や光、放電、或いは皆さんがお聞きになったことがある触媒(しょくばい)等が必要です。人間の体の中で起きている化学反応は酵素がその触媒的な役割をしています。〝いのち〟は、原始の地球の海で生まれたとされていますが、最近、深海の熱水噴出孔(ねっすいふんしゅつこう)が注目されているらしいのです。熱水噴出孔は、陸地では火山の近くで湧き出る温泉もその一種です が、深海ですと高圧力下でもありますから、実際の温度は数百度にも匹敵します。
そこで、上述の色々なガスを高温高圧にした実験装置に封じ込めると云う実験を行って、アミノ酸が出来たと云う報告もありますが、それが〝いのち〟を構成するアミノ酸であるかどうかは分かりません。ただ、原始地球の海底で、熱や塩水、或いは太陽の紫外線、その他何か触媒的に働く物質の存在に依って〝いのち〟に結び付く化学反応が始まったことは間違いないと思われます。私たちがこの地球上に生れたのも、 〝いのち〟が他の〝いのち〟を食べて生きている事も、生命が進化することも、私たちの体内で起こっている消化・吸収・代謝・再生も全ては化学反応に依るものである事を知って頂ければ、この〝いのち〟と化学反応―③の目的は達し得たと思っております。
私は大阪大学基礎工学部合成化学科を卒業致しましたが、当時の阪大総長は文化勲章を受けられた赤堀四郎さんでした。実は赤堀さんがタンパク質とアミノ酸の生命化学者であったことを今回のコラムを書く上ではじめ て知りました(赤堀さんは今の皇后美智子様の伯父に当たる正田建次郎氏を私が入学した基礎工学部初代の学部長に招きました)。自慢と後悔になりますが、私は、大学4年生の時に、赤堀賞を頂きました。それは学問 の上ではなく、昭和42年の阪大スポーツクラブの中で、最も卓越した戦績を残したクラブに贈られる賞で、私個人にではなく、軟式テニス部(現在のソフトテニス部)に授与されたものですが、キャップテン、エース として貢献した私としては、今なお誇りに思っている赤堀賞なのであります。
阪大にはテニスをする為に入学した積りの私でしたが、44年後の今、『生命誌』に出遇い、〝いのち〟の誕生と、〝いのち〟の進化を学ぶ身になりまして、当時の総長が〝いのち〟の本(もと)であるタンパク質とア ミノ酸の権威であった事も知らず、またそのような化学と云う学問にも興味が全く無かったことを、若気の至りとは言え、後悔・悔恨と恥ずかしさ、情けなさの心を持っているところであります。
これからも人類は、考え得ると云う与えられた能力を精一杯発揮して、自分の手で〝いのち〟をつくり出す努力をするのだろうと思いますが、やがて、『不可称・不可説・不可思議』の宇宙の意思を人類全体が共有する ことになるものと推察しております。その為に化学反応の偶然性と必然性を理解して頂きたくて、化学反応③に取り組んで来ました。
帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ
今年の漢字に選ばれたのが、『絆(きずな)』である。本来の意味は「牛馬の足を繋ぎとめる縄のこと」らしいが、今は「人と人との強い結び付き」を表す時に用いられる漢字である。一番強い絆は「親子の絆」であろう。言うならば、 『絆』とは「損得勘定を抜きにした人間同士の思いやり合いの結び付き」を言うのではないかと思う。従って、『絆』は逆境・苦境時に生れたり、意識され確認される心情と云うことになろう。
私が現在暮らしている町は新興住宅地であるからか、周囲の人々との『絆』を感じることはまず無い。隣の家の家族と顔を合わすことも滅多に無いし、道路を隔てた隣の家の家族と町で出会っても分からない位に付き合いも無い。でも 多分、この町が全滅するような災害に見舞わられた時は、お互い様と云うことで、助け合う心が芽生えるのかも知れない。普通の時には隠れて意識しないのが『絆』なのかも知れない。
今年の漢字に『絆』を選ばれたのは、大震災の復旧に向けて集まった義援金とか瓦礫撤去等に駆け付けたボランティアの姿、避難所で世話をする人々、慰問に出掛けた数多くの芸能人やスポーツ選手達の姿に多くの人が感動を覚えたと 云うこともあろうが、一方、それに引替えて、自分の周りの絆の無さに気づき、「やはり、人生には『絆』が大事なんだ、必要なのだ」と改めて、「何が大切なことなのか」を意識した結果としての『絆』なのかも知れないと私は思った。
そう言えば、今の時代、『絆』を失ってしまった夫婦の離婚が急増している。苦難を共に乗り越えようと云う気持ちを失った夫婦は離婚しかないと云うことだろうが、結婚した当初から『絆』で結ばれている夫婦は居ない。様々な問題に 遭遇し乗り越えてはじめて生まれるのが『夫婦の絆』なのだろう。
お釈迦様が説かれた「人生は苦なり」と云う仏法の教えを思い起こすならば、夫婦になって家庭を築くとは、人生で必ず遭遇する苦難を共に乗り越えて行こうと云うことに外ならない。従って、お互いを護り合う覚悟がなければ踏み出し てはいけないのだと思う。インターネットの交流サイトで簡単に安易に知り合ったり、ちょっとした出遇いで結婚する夫婦も増えている。それも縁と云えば縁かも知れないが、出遭うのは縁としても、本当に夫婦の絆が生まれる縁がある かどうかを十分見極めてから踏み出して貰いたいものである。そう思う時、この大震災と云う国難に対しての政治家達の姿が、如何に『絆』とはほど遠い状況にあるかに驚く。一致団結して被災地の復旧・復興に当たっているのとは正反対に、与野党間は勿論、政権与党の民主党内ですら、むしろ復 旧・復興の足を引っ張り合っている有り様である。党利党略どころではなく、派利派略、自利自略、次の選挙での生き残りだけしか考えていないように見えてならない。
この国だけではなく、主として先進国であるが、民主主義国家が何れも危機的な状況にある。これは、多数決で決める民主主義に根本的な問題があるからではないかと思う。『絆』とは遠い主義思想ではないかと思うことがある。選挙投票 率が50%前後で選ばれた国会議員達が集まった国会で、政策ではなく好き嫌いでグループ化し、国会議員の約半数の与党のそのまた約半数で選び出した総理大臣がリーダーシップを発揮出来るはずが無いのではないか・・・。
民主主義から『絆』が消えた政治には、思いやりや優しさは期待出来ないし、国民は希望を失う一方ではないか・・・特に最近の大臣答弁を聞くと、そのようにしか思えないのである。
帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ
No.1158 2011.12.15
人生道の金メダリストを目指せ!柔道のオリンピック2大会連続金メダリストが性犯罪(準強姦)容疑で逮捕された。多くの国民は私と同じく何とも表現のしようが無い思いに駆られたであろう。
数年前、テレビのコメンテーターとしても有名だった大学教授がやはり猥褻行為で逮捕されたことがあり、結局それは東京都迷惑防止条例違反に問われて服役と云う実刑に処せられた(保釈金を支払って2ヶ月で仮釈放) のであるが、性犯罪の量刑は殺人罪よりはかなり軽いのであるが、社会的身分が抹殺されると云う点で性犯罪も殺人罪も殆ど変らないと言ってもよいだろう。特に有名人の場合は社会的地位が完全に失われると言っても 過言ではない。
ただ、殺人罪の場合と異なって、性犯罪の場合は、「男として分からない訳では無いが・・・」と云う男達の感想を漏れ聞くことが多い。私も同じ感想を持つ場合も過去には有ったことも確かである。しかし勿論、私が 付き合う男友達には、「でも、やはり、やっちゃーいけないよ!」と云う言葉が後ろに付くことを言い添えねばならない。性犯罪は性欲が源に有る。性欲は〝いのち〟を繋ぎ続けよう、子孫を残そうとする動物の本能であり、私たちがこの世に生れて今在る所以であるから勿論否定されるべきものではない。
性欲を否定する訳にはいかないが、欲望を肥大化させて、抑制の効かない貪欲(どんよく)になると、これは煩悩に負けて、犯罪に至る行為となるのである。犯罪にならないケースでも、社会的に信頼を失うことになり惨 めな生活しか待っていないことになるだろう。今回の柔道の金メダリストは、十数年にわたって禁欲生活を送ったはずである。でなければ、2大会連続の金メダリストにはなり得ないはずだからである。その意思力で、永平寺にでも籠って、人間に生れた〝いのち〟の 意味、〝いのち〟の重みを学び取り、これからは人生道の金メダリストを目指して欲しいものである。
法然上人と親鸞聖人が崇拝する中国の善導大師は、〝眼を挙げて、女人を視ず〟と言われた清僧であった。法然上人も、善導大師に倣って独身を通した清僧である。昔、この話を聞いた時、違和感を抱いたのであるが、そ れ位身を律しなければ堕落しかねない自分の心の中の煩悩に目覚めていたからこその決意だったのではないかと、今、私は思っている。
金メダリストは、柔道の勝負では相手の心を読み取る能力に長けていたのだと思うが、自分の心を見詰める修行が足りなかったのだと思う。
私たちも、清僧を目指す必要は無いが、常に自らの煩悩を意識し、煩悩が燃え盛りかねない場面・状況に身を置かないこと留意しなければならない、と、切に思った次第である。帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ
No.1157 2011.12.12
救くわれるとは・・・前回の月曜コラムで「救われるとは?」と云う問い掛けを皆さまに致しました。個人的にお答えを下さった方もいらっしゃいます。何れも正解だと思っておりますが、私が今の時点で考えているところを申し述べたいと思います。
お釈迦様が出家されたのは、人間誰もが受ける『生老病死』と云う四苦から救われる、つまり解放される道を訪ねてのことだったとされています。確かに、お釈迦様の教えとして先ず伝えられていますのが、『苦・集・滅・道(く・じ ゅう・めつ・どう)』の四諦でありますが、最初に挙げられているのが『苦』でありますから、苦と云う問題がスタートであったことは間違いないところだと思われます。
そして、苦に出遇う因として『集』つまり煩悩を挙げられていますから、つまりは、煩悩を滅することが救われることだと云うのがお釈迦様の仏法だったと言ってもいいのかも知れません。しかし、お釈迦様が亡くなられて五百年経ち、大乗仏教が起こり、大乗仏教が日本の飛鳥時代に伝わり、そして鎌倉時代の日本になって初めて民衆の為の仏法になり、法然上人、親鸞聖人の『悪人正機(あくにんしょうき)』、つ まり煩悩を抱える凡夫が仏法の目当て、正客だと説かれるようになり、『不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん)』、つまり、「煩悩を断ぜずして、救われる」とまで仏法は変化と言いますか、進化したと言ってもいいと私 は思います。
永平寺の宮崎禅師【宮崎奕保(みやざき えきほ、明治34年(1901年)11月25日 - 平成20年(2008年)1月5 日)は、日本の僧。曹洞宗大本山永平寺第78世貫首。曹洞宗管長】 が、「悟りとは平気で死んでいけることかと思っていたが 、平気で生きていけることだと思った」と言われたそうであります。私も一時期、救われると云うことは、平気で生きていけることかも知れないと思っていたことがございますが、今では「親鸞聖人の求められていた救いは、そう では無いのでは?」と思うようになりました。
生身の肉体がある限り煩悩は無くならないと親鸞聖人は9歳から29歳までの比叡山での仏道修行を通して覚られたのだと思います。おそらく千日回峰行に近い厳しいご修行をされた上でのことだと思われます。煩悩がなくなること を往生と言うならば、死ねば煩悩は滅するから誰でも往生する『体失往生』に対しまして、親鸞聖人は『不体失往生』を説かれたと伝えられています。つまり、生身のまま、煩悩を抱えたままで救われる道(他力本願の念仏の救い) を説かれたのだと思います。
考えてみますと、煩悩が無くなれば苦悩もなくなりますから、それこそ平気で生きていけるでしょうが、それが人生の幸せかどうか・・・。煩悩は考える能力を与えられた人間の命を頂いたからこそのものであります。人間以外の動 物も植物も、考える能力を与えられていませんから煩悩がなく、それこそ、平気で生きて平気で死んで行っているように見えます。何千万種と言われる生命の中で、唯一と言ってもよい優れた考える能力を持つ人間に生れた尊さに目 覚めることが、生まれ甲斐であり、それが本当の自分に出遇えたと云うことではないかと私は思っています。その何千万種の中の人間として生を受け、しかも、限りない過去と未来に存在する人類の他の誰とも一致しないと言われる 唯一の遺伝子(DNA)を持ち、しかも偶々の縁で私は私の父母から生まれ、今こうして縁ある人々と共に人生を生きていることに気付かされますと、お釈迦様の『天上天下唯我独尊(てんじょうてんがゆいがどくそん)』の言葉が 身に染みる思いが致します。
私たち親鸞仏法に出遇えた者は「他力に救われる」と考えがちでありますが、むしろ、「救われたいと思うのも他力のお働きだ」と目覚めるのが、親鸞聖人の至られた他力本願の救いではないかと、最近勉強し始めた〝いのち旅〟か ら考察しているところであります。
私は、全ての生物の〝いのち〟の尊さは等しいと思います。何れも〝いのち〟を継続させたいと云う宇宙の意思(仏とか如来と申しましょう)によって生まれたものであると考えるからでありますが、その中でも特に、考える能力を 与えられた我が人間の〝いのち〟を目一杯生きたいと思います。それが仏に出遇ったことではないか、救われたと云うことではないかと思うからでございます。
帰命尽十方無碍光如来ーなんまんだぶつ
No.1156 2011.12.08
〝いのち旅〟:第8話(〝いのち〟と化学反応―③)8.タンパク質は高分子
前々回のコラム『〝いのち〟旅番外編』で私は、「私たちの体も、そして私たちの周りの空気も大地も、私たちの眼を楽しませてくれる木々や草花も、ペットも〝原子・分子ならざるは無し〟であります」と申しましたが、家庭の中で私たちの眼の前に見える物は、プラスチック製品であったり、木製品であったり、ガラス製品、金属製品が殆どであります。
金属製品は金属原子が、ガラス製品は珪素原子(Si)と酸素原子が三次元的に連なったものでありますが、プラスチック製品、木製品は、主として炭素原子が何万、何百万と連なった分子で、これを〝高分子(こうぶんし)〟と称します(英語ではポリマーと呼びます)。人間の体は水と骨以外は〝タンパク質〟と云う高分子で出来ています。人間の体だけではなく、全ての生命体は〝タンパク質〟で出来た細胞の集まりであります。細胞は刻々と死滅しますから、それを刻々と補う為に、全ての生物は、他の〝いのち〟のタンパク質を食べ続けなくてはならないのです。
タンパク質の本は、皆さんが能く耳にされる『アミノ酸』と云う分子が何万、何十万と結合した〝高分子(こうぶんし)〟です。アミノ酸とアミノ酸の結合を『ペプチド結合』と申しまして、下記の画像に示す、窒素と炭素を含んだ結合です。
このたんぱく質は、体の中にある酵素の働きで、水と反応して(加水分解と云う反応です)アミノ酸に分解されて、体内に吸収され、細胞内で色々な別のたんぱく質に変化して、私たちの〝いのち〟を繋いでくれているのです。空気中の窒素ガスは非常に安定した分子です。この窒素ガスが原子として生命の本であるアミノ酸に入り込み、更にはタンパク質になっていったことが、地球上に〝いのち〟を生み出すことになるのですが、そのメカニズムまでは分かっておりません。それが分かれば人間は〝いのち〟を人工的に生み出せることになりますが、これこそ、神・仏の領域のことではないかと思っております。
No.1155 2011.12.05
救くわれるとは?今年も早、師走を迎えてしまいました。例年の如く今年もまたクリスマスムード一色の中、大晦日と云うハードルを一気に跨ぎ終えて、新しい年の元旦を迎えることでしょう。
冒頭のご挨拶、これ、実は昨年12月2日のコラムの冒頭の書き出しでもあります。1年と云うのはアッと云う間に過ぎる速いものですが、今年は3.11の未曾有の大震災があり、被災された方々には、 復旧が遅々として進まぬ苛立たしい月日なのだと思います。
さて、今年は年初から五木寛之氏の激動編『親鸞』が新聞で連載されています。そろそろ一旦区切りを迎えるのかも知れませんが、「殺人を犯す極悪人も救われるのか?」と云う問答があり、極悪人も浄土 へ往生すると親鸞に言わせている件(くだり)がありました。『悪人正機説』は、「悪人こそ救われる」と云うものですが、悪人はさておき、〝救われる〟とは、一体どう云うことでしょうか・・・。
どうなれば、「救われた!」と思えるのでしょうか?私たちは何となく救われたくて宗教を求めるのだと思いますが、案外、どうなれば救われたと思えるかに付きましては即答出来ないものではないでしょ うか。海に溺れている時に救われるのは、〝いのち〟です。ホームレスが救いを求めているのは最低限の衣食住です。それでは、〝いのち〟の危険に当面しても居らず、衣食住も何とか恵まれている私たち が求めている〝救い〟とは何でしょうか?皆様にお尋ねしたいと思います。帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ
No.1154 2011.12.01
〝いのち旅〟番外編:これからのいのち旅
いのち旅の第7話で原子とか分子とか一般の方々が眉を顰(ひそ)められかねないお話に入っておりまして、違和感をお感じの方も居られることと思います。でも、私たちの体も、そして私たちの周りの空気も大地も、私たちの眼を楽しま せてくれる木々や草花も、ペットも〝原子分子ならざるは無し〟であります以上、仏教が問いかける「私とは何か」「自己とは何か」「私は何処から来て、何処に往くのか」の答えを見出す為には、現代人としては、原子、分子、そして化 学反応の知識は避けて通れないポイントの一つだろうと私は思っております。
親鸞聖人は法然上人の浄土門に出遇われて、他力本願の教えに帰依されました。つまり浄土へ還ることが約束されていることを確信されて救われたのでありましょう。でも、それは、地球が丸い星であることも、太陽が太陽系の中心に在っ て、地球を含む8つの惑星が在る事も、そしてそれらの惑星がその太陽の周りを自転しながら公転していることも全く想像さえ出来なかった時代の確信でありました。ましてや、原子も分子も、空気の存在も酸素の存在も誰も認識していな い時代の確信でありました。
「だから、その親鸞聖人の確信が間違いだった」と言いたいのではありません。むしろそのような時代にも関わらず、宇宙の果てしなさ、無限さを予見して、私たちの〝いのち〟が無量寿・無量光の中で生まれ、無量寿・無量光に支えられ ていることを自覚されたことの想像力には本当に驚かされます。
でも、今は時代が違います。親鸞聖人が今も生きておられるとしたら、今の科学的知識を踏まえて、無量寿・無量光を説かれると私は思います。今は宇宙の起源さえ理論的実証的に論じられる時代になっております。浄土が西方十万億土のはるか彼方にあると説明されて、納得出来る人は居ないと私は思います。宇宙の果ては空間のみで、何かが有ったとしても、地球とは全く様子の異な る星また星しかないと云うのが、私たち現代人の偽らざる感覚だと思います。死んで浄土に還ると言われても、どのように納得出来るのでしょうか・・・。
ただ、私は『浄土観』までを否定する積りはありません。私たちがこの世に生まれた限りは、その出どころがあり、還るところがあるはずだと云う思いがあることは自然なことだと思うからです。私は、浄土と云うのは、宇宙を生み出し、〝いのち 〟を生み出し、私を生み出した力の源と言うか、働きと言うべきか、人間の想像力が届かない、また人間の言葉でも言い表すことが出来ない〝何か〟を言い表した表現ではなかったかと考えたいのです。私はその〝何か〟が原子と分子を生み出し、そして分子が分子と結びついて、例えばタンパク質を生み出し、タンパク質が2メートルもの長さのDNAへと変化し、私たち人類までをも生み出し、これからも〝いのち〟を生み出し続けるのだと思 いますので、その仕組みを勉強したいと考えています。
そして、もう一つ人類がその経緯を確信を持って説明出来ていない生物の進化・多様化(これすなわち中村佳子さんの『生命誌』であります)についても勉強して参りたいと考えています。生物の進化、例えば私たち哺乳動物が生まれたのも、卵が 外敵から攻撃を受けなくて済むように体の内部でつまり胎内で〝いのち〟が引き継がれるように工夫した結果であることが 象徴的でありますが、その他にも、周りの環境と保護色の生き物の存在や、多様な動植物の存在を思う時、やはり、人間業では無い『宇宙の意思』を感じざるを得ませんので、生物の進化の経緯を勉強し、これが人間業ではないことに思い至りた いと考えております。
これから、〝いのち〟と化学反応、そして更に生物の進化・多様化を勉強して、〝不可称・不可説・不可思議〟の『宇宙の意思』を実感し、牽いては、私に今与えられている〝いのち〟の尊さに目覚め、『宇宙の意思』に添う生き方に方向転換出来 たなら、それが親鸞聖人の至られた〝正定聚の位〟に在る生き方ではないかと思うのです。
帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ
No.1153 2011.11.28
〝いのち旅〟番外編:(神様・仏様を考える)
宇宙の誕生、銀河系・太陽系・地球の誕生、そして、宇宙誕生から100億年して地球に誕生した生命、そしてそれから38億年して今こうして私と云う人間の存在を自覚する時、この長い長い年月・時間を掛けて生命の誕生と進化 を為さしめたのは何なのか、何故なのかと思わずには居られません。
これまでの2500年の間、人類は神とか仏とか云う、人間を超えた能力を擬人化して立てた偶像を頼りにして来たのではないかと思います。苦難に遭遇した時は、「神様、仏様」と、助けを求めて拝んで来ました。これは、神には 愛、仏には慈悲があると信じて来たからだと思います。
でも、今年の3月11日の大震災が象徴的だと思うのですが、この世には悲惨な災害、事件、事故が頻発し続けています。まさしく「神も仏もあるものか!」と神様・仏様を恨めしく思わざるを得ないのが人生の現実でもあります。私は、冒頭述べた生命の誕生から人類の誕生の経緯を知った時、宇宙が〝いのち〟を継続しようとする強烈な意思力を思わざるを得ません。それを『宇宙の意思』、言い換えれば『神様の意思』であり『仏様の意思』、〝意思〟を〝 願い〟と置き換えてもよいと思います。
そして、それは私たち一人一人の〝いのち〟を生かしたいと言うよりも、〝いのち〟をどんな形にせよ、永遠に継続させたいと云う強い意思(願い)だと思うようになりました。個々の〝いのち〟を消滅させるのは、実に〝いのち〟 を継続させる為の仕掛けだと思われます。例えば私たち人間の個々の〝いのち〟が消滅しなければ、たちまち食糧不足になり、共倒れになって人類は消滅するでしょう。一方、何回かの氷河期を乗り越えて、〝いのち〟が続いている事 実は、〝いのち〟を続けさせたいと云う意思の表れだと考えられないでしょうか・・・。私たち個々の〝いのち〟が消滅することは間違いありません。それを私たちが最も畏れていることだと言ってもよいと思います。それを和らげるために、〝いのち〟を肉体と魂に分けて、肉体は原子と分子の粒子に戻って無くなるが、魂 は生き続けるのだと考えるのが宗教であり、信仰だと思います。
私は自分の肉体が消えてバラバラの原子や分子の粒子になることに付いては納得済みですが、魂が生き続けると云う考え方に、今のところ頷くことは出来ません。ただ、私が今〝いのち旅〟で勉強していて思うことは、個々の〝いのち〟に個々の 魂があるとは言えないけれども、〝いのち〟を継続させようとしている『宇宙の意思』を『魂』と云うならば、その『魂』から私たち個々の〝いのち〟が生まれ出ていると云うことは頭で理解出来そうな気がしています。
そして、その人智を超えた〝いのち〟の不可思議さを親鸞聖人は『帰命尽十方無碍光如来』と拝まれたのではないかと思っていますが、これからも、〝いのち〟の不可思議さを科学的に勉強して参りたいと思っています。
帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ
追記:
前回の木曜コラムNO.1152(〝いのち旅〟:第7話(〝いのち〟と化学反応―②))が土曜日に更新ミスした為に、NO.1151のままになったようです。大変申し訳ありませんでした。
No.1152 2011.11.24
〝いのち旅〟:第7話(〝いのち〟と化学反応―②)
7.原子と分子
前々項5で、「原子が全ての存在を形成する最も小さい単位とします」と申しましたが、実は、原子として存在するのは、鉄(Fe)とかアルミニュウム(Al)などの金属原子と、ヘリュウム(He)、ネオン(Ne)、アルゴン(Ar)等の希ガス原子と言われる原子だけで、〝いのち〟に深く関係する原子の殆どは、原子単独では存在せず、原子と原子が手を繋ぎ合った分子としてしか存在しません。 〝いのち〟に関係する粒子の最小単位は〝分子〟と覚えて頂きたいのです。勿論分子は目で見ることは出来ません。最新鋭の電子顕微鏡で、やっと水分子【約0.3ナノメートル(十億分の一メートル)の大きさ】が見える程度です。因みに原子の大きさは、分子よりも二けた程度小さい十億分の一センチ程度で、電子顕微鏡でも捉えることは出来ません。
そして、私たちの周りに存在する物質、例えば水の場合は、一滴の水には、何と、1兆個の10億倍もの水分子が含まれており、私たちの呼吸の一息にも1兆個の30億倍もの酸素分子が含まれています。それ程、分子は超微粒子なのです。
さて、分子と云うのは、原子と原子が連結されたものです。上述した金属原子や希ガス原子以外の原子は他の原子と手を繋ぐ手を何本か持っています。〝いのち〟に関係する原子達は、下表のように、原子に依って手の本数が異なります。
水素原子 炭素原子 窒素原子 酸素原子 フッ素原子 塩素原子
皆さんがお聞きになったことのある物質を分子式で示しますと、以下のようになります。酸素分子は、
水分子は、
炭酸ガスは、
アンモニアガスは、
メタンガス(都市ガスの主成分)は、
プロパンガス(LPガスの主成分)は、
私たちの体も、全て分子で出来ていますが、体の70%を占める水以外は、何万、何百万の原子が手を繋いだ長い長い分子(高分子と云います)の集まりなのです。これらの分子も高分子も、どうして出来たのか分かりません。それは人間の想像力を超えた『宇宙の働き』としか言いようがないようです。
No.1151 2011.11.21
老いて片思いの親心を知る
私の母 (1906年6月19日~1986年6月29日)は満80歳になって直ぐに亡くなりました。私が働き盛りの41歳の時で、上の子供が14歳、下が12歳の年、妻は子育て真っ盛りの時期でありました。
母は69歳から亡くなるまでずっと私たちが育った実家で独り暮らしをしていました。私はちょくちょく訪ねてはいましたが、それは親孝行に行くのではなく、実家から歩いて1分のところに在るテニス倶楽部にテ ニスの練習に行くためで、親孝行目的ではありませんでした。今にして思えば、結構広い庭で樹木もあり、老いた母に代わって草取りや樹木への水やりをするべきだったにも拘わらず、昼ごはんをご馳走になり、帰 りには必ず何らかの食材を持たせて貰っていました。幼い頃からさんざん心配を掛けこそすれ、親孝行と云えば肩を揉んであげた位で、実家に顔を出すことが親孝行と云う位の感覚でしかなかったと振り返っていま す。
私が「親孝行していなかったなぁー」と反省・後悔したのは、私が60歳を過ぎて私の子供たちも30歳代になり子供も居る家庭を築いて、私の息子と娘がもういわゆる子供では無いと思い始めた頃からではなかったかと思います。 自分がただ単に子どもを持っても本当の親心は分からないものだと思います。
私はこれまでこのコラムで詩人の窪田空穂さんの『今にして 知りて悲しむ 父母が 我にしましし その片思い』と云う歌を何回かご紹介致しましたが、私も親の片思いに気付く年齢になったのだと思います。窪田空穂さんは、その 片思いの歌を70歳を過ぎてから詠われたのでありますが、先日、神戸新聞の発言欄に、同じく年老いてはじめて親の片思いに気付かれた方の下記投稿がありました。親なればこそ諭しの遺言―(77歳の男性)
父は86歳で亡くなり、母は83歳で亡くなった。父は最後まで威厳を保ち、悠然と旅立ち、母は長年リウマチで苦しみながら最後は肺がんで逝った。今、私は両親を心から尊敬している。私は父母のごとく、世間や己に対して恥じ ることなく生きてきたか。両親が生きた年齢に近づきつつあるが、恥ずかしながら毎日の暮らしに反省することばかりだ。
母は私に遺言めいたものを残してくれている。それは額に入れて私たち夫婦の目につく場所に立て掛けてある。遺言は10章あって、その第1章には「いつも笑顔を忘れるな」で、2章には「ふたつとない命を大切にせよ」とある。
私の性格を見通して、母は遺言の形にして残してくれたのであろう。ありがたいと思う。 他人の誰が私ごとき者に忠告の一つもしてくれよう。母なればこそである。そんな母に生前、私は親不孝を重ねたことを悔やんでいる。あの世に行ったときは思いっ切り親孝行しようと思っている。
―投稿転載終わり
『親孝行したい時には親は無し』と云う古語がありますが、おそらく誰もが、親の片思いに気付くのは、自分の子供が家庭を持って、自分自身が親の片思いをしていることに気付かされる年齢(65歳以上かも知れません)になってからではないかと思います。
ただ、これは順繰りだと考えれば良いのじゃないかと思います。親は、親の片思いに気付いてくれただけで喜んでいると思い、そしてその恩返しは自分の子供や妻や夫に、或いは親しき人々にしようと私は思っています。
「一切の有情はみなもて世々生々(せせしょうじょう)の父母(ぶも)兄弟なり」と親鸞聖人も仰っておられます故に・・・。帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ