No.1150  2011.11.17
〝いのち旅〟:第6話(〝いのち〟と化学反応―①)

5.〝いのち〟と化学
『生命誌』の中村桂子さんの先生だった故江上不二夫氏(1910年~1982年、名古屋大学名誉教授)は、日本の生化学を牽引した方ですが、その著書『生命を探るー第二版』の〝まえがき〟の中で、 「すべての生命現象には必ずその基盤に化学反応があり、人類を生命の起源に導いた化学の進化はまさに化学反応の集積に依るからである」と云う旨を述べられています。
下に示す左側の画像は、JT生命誌研究館館長中村桂子さん達が作成された、38億年前から現代までの生命の進化・多様化を絵巻的に考案された絵画像です。生命が海から陸に上陸したのが背景が水色から黄色に変わりつつあるところが、丁度、5億年前に相当致します。

私たちの体を形成している細胞は常に化学反応しており、私たちが体を動かせ、脳を働かせて生活出来ているのは、実に、呼吸で肺に取り込んだ酸素がタンパク質と化学反応して生じるエネルギーが得られているからです。

私たちの体は、原子の集まりです。本当は、私たちの体だけではなく、宇宙に存在するすべてが原子の集まりです(もっと詳しく言いますと、2008年に小林誠博士、益川敏英博士、南部陽一郎博士ら日本の 三氏がノーベル物理学賞を受賞したのは、原子も更に6種類の素粒子〝クオーク〟から出来ている事を理論的に解明したからでしたが、ここでは原子が全ての存在を形成する最も小さい単位とします)。
原子の色々な組み合わせで、私たちが眼にする固体や液体、そして気体(ガス)が存在するのであります。その原子と分子の勉強をしたいと思います。

6.〝いのち〟と原子(元素)
原子にも色々とありますが、皆さんが知っているのは、空気の本(もと)である酸素、窒素と、水の本である水素と酸素、そして、空高く上がって行く風船の中に封入されてるヘリウム、ダイアモンドの本である炭素、 それから金属の鉄、アルミニュウム、鉛、水銀も全て原子です。それに、今問題になっている、原発事故で問題にされている、放射性原子と言われているヨウ素やセシウムも原子です。

周期律表には、118個の原子が載っていますが、宇宙には無限に存在するとも言われています。しかし私たちの体の中にある原子は、炭素、水素、酸素、窒素、 塩素、ナトリウム、鉄、リン、カルシュウム等、約30種類です。人間以外の生物も殆ど同じではないかと思います。

ここで、皆さんに知って頂きたいのは、私たちの体で最も基本となる原子は、炭素だと云うことです。この炭素原子が鎖になった分子が細胞を形成しており、私たちの遺伝子DNAは、2メートルもの長さの炭素の鎖だと云 うことです。
『無機物質』、『有機物質』と云う事を聞かれたことがあると思いますが、炭素の鎖で出来ている物質を『有機物質』と呼ぶのだと覚えておいて下さい。

そして、私たちが食べて、体に取り込めるのは、この『有機物質』だけなのです。


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No.1149  2011.11.14
〝いのち〟の〝いのち〟

故金治勇先生(1908年生まれ、文学博士、大阪府下中学校長、四天王寺女子大教授等歴任)は、〝いのち〟の〝いのち〟と云う表現で私たち個々の〝いのち〟が永遠の〝いのち〟の世界に支えられて いるのだと説かれた方であります。先生はまた聖徳太子研究に勤(いそ)しまれ、仏教界に確固たる足跡を遺された方でもあり、私の敬愛する故白井成允先生、故井上善右衛門先生とも親しくされていた念仏者でもあります。
私は、数十年前にその金治勇先生のご著書『やさしい宗教入門―いのちと光』を読ませて頂き、〝いのち〟の〝いのち〟と云う考え方が新鮮に心に響いた記憶があり、この度、読み返しました。その一節を転載 させて頂きます。

転載―

私たちは、生と死に括弧(かっこ)づけられた〝いのち〟を、我が〝いのち〟と思うております。が、その〝いのち〟は、果たしていずれより来たり、いずかたへ去るのでしょうか。この〝いのち〟は地上に現れた限り、生滅の〝 いのち〟でありますが、生滅というからには、生の本(もと)があり、滅の帰するところがなければなりません。それならば、〝いのち〟は〝いのち〟より生まれるのでありますから、〝いのち〟の本は〝いのち〟であり、死の 帰するところもまた〝いのち〟であると言わなくてはなりません。帰るとは本にかえることでありますから、生れ出た本が〝いのち〟であるならば、帰るところもまた〝いのち〟であるはずであります。

従って、〝いのち〟から出て〝いのち〟に帰る、その間に展開するこの世の〝いのち〟の働きを人生と呼ぶのでありましょう。人はそれを我が〝いのち〟と呼びますが、我が〝いのち〟ではない、大いなる〝いのち〟の この世的な展開であります。

それは丁度、海水と波に譬えることができましょう。海面に現れる大波、小波、無数の波は、底深くたたえられた海水から出て、海水に帰るのです。しかも、波そのものもまた海水であって、海水を離れて波があるので はありません。波は生滅変化しても、海水はもとのままであります。このように、わたしたち個々の〝いのち〟を波と見ればどうでしょう。

そのとき、個々の〝いのち〟を生み出す本は大いなる〝いのち〟であり、それは底深くたたえられた海水にも比すべきものでありましょう。海も水、波も水でありますように、個々の〝いのち〟といい、大いなる〝いの ち〟と言っても、〝いのち〟に代わりはありません。みんな同じ〝いのち〟です。
その意味で、私は、この世に現れて千変万化する〝いのち〟に対して、それを生み出し、それを支える大いなる〝いのち〟を、〝いのち〟の〝いのち〟と呼んでみたいと思います。〝いのち〟の〝いのち〟が万生の根源 であり、永遠の〝いのち〟であり、不可思議の〝いのち〟であります。この世的な〝いのち〟の不思議さも、実は永遠の〝いのち〟の神秘な不可思議に由来するのでありましょう。

―転載終わり

数十年前も、私は何となくわかったようで、それでいて何かスッキリしない感覚もあったように記憶していますが、今回読み直しましたのが、〝いのち旅〟でご紹介している中村桂子さんの『生命誌』と云う〝いのち〟 の実体を科学的アプローチすると云う、仏法とは全く異なる知識を得た後だからでありましょうか、数十年前とは違って、何故かスッキリとした感じが致しました。
それが何故なのか今は分かりませんが、ひょっとしましたら、五木氏と梅原氏の対談の中で、五木氏がおっしゃっていた、「そういう科学者の感覚に対して、いままでどおりの浄土とか、阿弥陀如来とか、そういうこと を言っても、ぜんぜん通じないと思いますね、私は、感覚的に受け付けないと思います。何か従来とちがった物語が必要だという気がしています。だから、必要とあらば、新しい大乗仏教というのを創り出さなきゃいけ ないんじゃないかと思うんです。」の新しい大乗仏教と関係があるかも知れないと考えたりしているところであります。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ

追記:
極最近ある浄土真宗のお偉いお坊様が下記のお説教をブログにアップされていますが、根っからの本願寺の門徒さん達には有り難いお説教なのかも知れません。でも、いわゆるしっかりとした科学知識を持たれている人々に は違和感があるのではないかと私は思っております。自己を煩悩具足の凡夫と目覚めることも非常に大切ですが、目覚めた上で、今この瞬間に生かされて生きている大切な〝いのち〟に目覚め、活き活きと生きて行きた いと、人生の歩み方が劇的に変わってこそ、親鸞聖人が求められていた回心(えしん)であり、正定聚の位と云われた仏法者の在り方ではないかと思うのです。それが、親鸞聖人が仰りたかった阿弥陀如来にお任せした人生 ではあるのですが、下記のお坊様の仰せは、宇宙の働きに依って考える力を持たされてこの地球上に現れた人類であり、計らうことや分別力そのものが人類たる所以でありますから、この説き方には現代人には説得力が無い なぁーと思った次第であります。

浄土真宗の真髄とは、「絶対他力」「ただ念仏」「無義をもって義とす」ということでしょう。人間の分別・ハカライ無きことを本義とし、救いはすべて阿弥陀如来の仕事であり、人間の用事は一切ないのです。阿弥陀 如来の摂取不捨のお慈悲にまかせるだけです。「おまかせします」というお念仏一つです。ただ念仏です。人間が計らうから、分別するからまかすことができないのです。どこまでも煩悩具足の凡夫の私たちは「いづれ の行もおよびがたき身」ですから、もうまかすしかないのです。このお慈悲をいただくことにより苦悩を乗り越えていくのです。お念仏が生きる力・支えとなるのです。


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No.1148  2011.11.10
〝いのち旅〟番外編:(仏教を科学するー③)

原子と分子を一般の方々に抵抗なく読んで頂けて、お分かり頂く説明の仕方が未だ私の頭の中に纏まっておりません。しばらくお待ち頂きたいと思います。それから、私は現時点では、、現代人が仏教の説く『仏』を理解し いわゆる『信心を獲る』とか『悟りを開く』と云う心境に至り、生き甲斐、生まれ甲斐を感じて活き活きと生きて行けるようになるには、ただ単に経典を学んだり、法話を聞くだけではなく〝いのち〟の実体を科学的に理解 することが、その近道ではないかと考えるようになりました。
従いまして、木曜コラムでは、〝いのち旅〟と〝いのち旅〟番外編で、仏教を科学して行きたい思います。以前のコラム『仏教を科学する』、『続ー仏教を科学する』の表題を夫々『〝いのち旅〟番外編:(仏教を科学 するー①)』、『〝いのち旅〟番外編:(仏教を科学するー②)』に変更させて頂きました。

さて、私たち人間の〝いのち〟は60兆個とも言われる細胞の集まりだそうです。細胞の大きさは、0.001mmから0.1mm。そして夫々の細胞には2メートルもの長さの遺伝子・DNA(原子の鎖)が折り畳まれて核内に 収納されています(これを染色体と云い、一つの細胞に46本入っているそうです)。そして、その細胞が一日で15兆個の細胞が死に、私たちが食事を摂ることに依って、同じ数の細胞が私たちの自律神経 の働きで生み出され補充されているようでございます(食事が如何に大切かが分かります)。

私たちの眼には見えない細胞の事を知るだけでも、『人智を超えた働き』を感じざるを得ません。この地球上の生物は全て細胞の集まりです。ただ、生物の違いは、細胞の数と細胞の中にある染色体の数と、DNAと云う長 い原子の鎖の並び方が異なるだけだと云うことです。地球が誕生してから8億年後に、一つの単細胞が生まれ、それから38億年かけて細胞を多様化させながら進化させて私たち人類も誕生して来たことになります。

ただ、この細胞の進化と多様化が何故起こったかを人類は多分永遠に知ることは出来ないと思います。それを仏教では『不可称・不可説・不可思議』な宇宙のお働きと考え、梵語の〝はかり知れない〟と云う意味の「ア・ミター」 を中国で音訳して『阿弥陀(あみだ)』となり、その宇宙の働きにお任せすると云う「南無阿弥陀仏」になったのであります。

宇宙の誕生は、今のところ、137億年前のビッグバーンだと言われていますが、その誕生とほぼ同時に宇宙全体は原子の基となる素粒子(陽子と中性子)で一杯になり、その100秒後に原子が作られ始めたと云う学説があります。そして、 それから9億年後に最初の星が誕生し、更にそれから82億年後に太陽系が生れ、それからさらに8億年後に地球上に一つの単細胞が生まれ、そのまた38億年後に私たち人類が地球上に現れたと云う長い長い経緯があります。この経緯を知りますと、 宇宙には何か意思(非科学的表現ですが)のようなものがあるとしか思えません。

自分の心の裡の煩悩を問い詰めて行くことも大切でありますが、自分達の〝いのち〟の経緯と自分の体の成り立ちを知ることが、いわゆる悟りを開く為には同じ位に大切ではないかと私は思うようになった次第であります。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1147  2011.11.07
〝いのち旅〟番外編:(仏教を科学するー②)

私たち人間が空気の存在に気付いたのは、17世紀の前半であります。更に空気中の酸素を発見したのは、18世紀の終わり頃であります。ですから、私が尊敬する親鸞聖人(12世紀のお生まれ)は自分が生きていることの原理も、物が燃えること の原理も何もご存知では無かったことになります。つまり、ご自分が空気の存在があってはじめて生きて居られることもご存知なかったことになります。

更にその空気の中に酸素と云う気体があって、吸った空気の中の五分の一を占める酸素が、肺と云う器官の表面に3億個もある肺胞の薄い薄い壁で、体の中で発生した炭酸ガスと入れ替わり、その酸素を血液中にある鉄を含ん だヘモグロビンと云う微粒子が体中に運んでくれるからこそ生きて居られることもご存知ではなかったことになります。付け加えますと、肺の表面積はテニスコート1面よりも広いそうであります。そこで瞬間的に炭酸ガスを 排出し、酸素が取り込まれている事を知った時には私もびっくりさせられましたが、親鸞聖人が生き返られてこれらの事を知られたら、他力本願の教えの伝え方を変えられるのではないかと思いました。

親鸞聖人は理論的な方であったのではないかと私は想像しております。自然法爾章と云う86歳の時に書かれた書物に、『仏は色も形も無い』と言われて居りますし、私たちのように仏壇や仏像を拝まれず、ご自分で揮毫され た名号『帰命尽十方無碍光如来』を壁に貼られて、それを「なむあみだぶつ」と拝まれていたからであります。

当時は宇宙のことも明らかになっていませんでしたので、宇宙の真理とか、宇宙の働きと云う言葉も無かった故に、その宇宙の働きを『自然法爾(じねんほうに)』と云う言葉で語られたのだと私は思っております。

科学的に色々と知識が増えている私たち現代人としては、精一杯科学知識を仕入れまして、自分の〝いのち〟の『不可称・不可説・不可思議さ』を自覚したいものであります。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1146  2011.11.03
〝いのち旅〟:第5話(〝いのち〟とは?-①)

これまで、地球が宇宙の中でどのような位置に在るか、また、地球の親とも言える存在の太陽とはどのようなものか、そして私たちの〝いのち〟が連綿と続いている地球とはどんな惑星なのかを勉強して参りました。 これまでの勉強の中でもある程度太陽と地球の関係も勉強致しましたが、これからは〝いのち〟を地球と云う星に生まれさせ、そして数十億年も〝いのち〟を育て続けて来た経緯(歴史)を勉強することに依って、 〝いのち〟の不可思議さを知り、私の〝いのち〟の尊さ・大切さをひしひしと感じ得るのではないかと考えております。

4.〝いのち〟とは?
〝いのち〟とは何かは頭では誰でも分かっている積りだと思われます。「犬は〝いのち〟を持っている?」と聞かれれば、「はい、持っています」と答えられます。「石は?」と問われれば、「いいえ、石には〝いの ち〟は有りません」と答えます。では、何を根拠に「はい」「いいえ」を決めているのでしょうか?そう聞かれますと案外即答出来ないものではないでしょうか。

「自分で動けるか動けないかではないかと思います」と答えると、「では、自分で動けない植物は?」と追い打ちを掛けられますと「うーん、植物もやっぱり生きてますね」と答えざるを得ません。「では、〝いのち〟 とは変化するか変化しないかではないか?」と逆質問しますと、「雲や海や川も常に変化しますが、これらにも〝いのち〟がありますか?」と言い返され、お手あげになりそうです。

インターネットのWikipediaでは、「現代の生物学では、代謝に代表される、自己の維持、増殖、自己と外界との隔離など、さまざまな現象の連続性をもって生命とする場合が多い。」と解説されています。これでは、 ますます分からなくなります。

因みに少し難しい内容になりますが、代謝と云うのは、「生命の維持のために有機体が行う一連の化学反応のことである。」とされています。でも『有機体』とか、『化学反応』と云う熟語が何を示しているかが分か りませんと〝いのち〟とは何か、また私たちとは何か、自分とはどう云う存在であるかも本当のところ分からないと思います。〝いのち〟を知るには、少々難しくても有機とか化学に付いての基礎知識を持つ必要があ ると思いますので、これから少しの間〝いのち〟が宿っている私たちの体や動植物と原子・分子の関係を小中学生に戻って勉強し直したい思います。

私は大学は合成化学科と云う専門課程に席を置きましたので、一般の方々よりは少し原子・分子の知識は持っているはずですが、大学時代はスポーツに明け暮れていましたので化学者としての自信はありません。でも 、私が周りの物を見る時、信じて貰えないかも知れませんが、その物を構成している原子・分子が無意識ながら頭に浮んでしまいます。原子の組み合わせを表す分子式までは的確に示すことは出来ませんが、原子の種 類位は分かります。

私は先週あたりから先行して〝いのち〟に付いて、勉強している最中ですが、一般の方にも、簡単な原子・分子の知識を持って頂くことに依って、〝いのち〟の理解が深まると思うようになりました。原子分子に疎い 私の妻の協力を得ながら可能な限り易しく説明致しますので、一つ頑張って付いて来て頂きたいと思います。きっと周りの世界が劇的に変わると思います。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1145  2011.10.31
〝いのち旅〟番外編:(仏教を科学するー①)

今年5月30日のコラム『仏教は宗教ではなく・・・』の冒頭で「仏教は宗教ではなく、人間に生まれて来た限り誰でもが習得しなければならない学問である。強いて命名する としたら〝命の学問〟だ」と、かなり思い切った発言を致しました。

〝命の学問〟と〝いのち〟に拘ったのは3月11日の東日本大震災が頭にあったものと思います。それからも、6月2日のコラム『寿(いのち)の命(いのち)』を経て、駒澤 勝医師のご著書『目覚めれば弥陀の懐』に出遇ってからは、「〝いのち〟とは何か?」「何のために生きているのか?」と自問自答し続けておりました。

それは、〝いのち〟の尊さの根拠を明確にしたいと云う思いからでもあったと振り返っておりますが、前回のコラムでご紹介した中村桂子さん(JT生命誌研究館館長)の 『生命誌』に図らずも出遇うことになり、今では長年求めてきた答えに至る確信を得られたと思っているところであります。

『生命誌』は、38億年前の地球に〝いのち〟が誕生してからの生命・生き物の歴史を、生き物たらしめている細胞中のDNAを読み解き明らかにしていく画期的な試みでありますが、私にとりましては、9月末から始めておりました『いのち旅』 の第5話から〝いのち〟と生物の進化を勉強しようとしていた矢先の『生命誌』との出遇いでありますので、今にして思えば、私が仏教を〝命の学問〟だと申し上げたのは、『生命誌』との出遇いを予感していたからではないかと思わざるを得な いのであります。

今日はまた「仏教を科学する」と云う思い切った表題にしたのですが、『生命誌』を勉強することは仏教の説く『真理・真実』を明らかにすることに外ならないからであります。そして、そのために必要だと思いますのが化学知識だと思うからで あります。勿論、化学と申しましても小中学で習う程度の知識で十分だと考えておりますが、「仏教を科学する」とは、「化学で仏に出遇うことが出来る」「化学知識で悟りが開ける」と云うことであります。

それは人間の体そのものが化学で習う原子・分子で出来ており、その体の中も、体と自然との関係に於いても、全て化学反応だからであり、生きていることは化学反応そのものだからであります。そしてその化学反応を起こさせている力は、宇宙 を動かし、地球を生み、生命を進化させている(仏教が説くところの)『不可称・不可説・不可思議』の〝仏〟とか〝阿弥陀仏〟とか〝尽十方無碍光如来〟としか言いようが無いことに思い至ると考えたからであります。

人間の力が及ばない力を親鸞仏法では〝他力〟と称しているのでありますが、化学を知らなくても妙好人と言われる方々は他力に目覚められたのですが、他力に目覚める方法の一つとして化学による〝いのち〟の学問とも言える『生命誌』がある のだと私自身の目の前が開けた思いがしている次第であります。

私は、中村桂子さんの『生命誌』を勉強しながら、一般の方々には『いのち旅』を通して、易しい化学で一緒に仏教を科学して行きたいと考えているところであります。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ

追記
五木寛之氏と梅原猛氏の対談の中に『自然科学の最後のところに何かがある』と云う対話があります。その中で五木氏が『分子生物学など新しい分野が異常に進歩して、徹底的に「神なき世界」が証明されてきましたね。以前までは、警告のように「神なき 世界が来た」とか「神々は死んだ」と言っていたのに、いまはもう生まれて来たときからすでに「神様は死んでる」という状況ですからね。』とおっしゃってますが、私は逆に、宇宙を動かしている偉大な力を〝神〟と云うならば、分子生物学に依って、い よいよ〝神〟を否定出来なくなったと思っております(私の場合は、〝神〟ではなく〝他力〟なのですが・・・)。

また、下記の対話もあります。

梅原氏:
「まぁしかし、そういう〝神なき世界〟において、やっぱり神や仏はあるんじゃないかという。神と仏というか、人間を超えた大きなものがあって、人間の恣意で動かしている世界は滅びるじゃないかというような予感」
五木氏:
「優れた自然学者は、行き着くところ、何かそういうものに突き当たると、みんな言ってますね。ただ、世界を創造した神とか、死んだあと必ず救ってくれる〝仏〟とか、そういう物語は、自分たちは信ずることが出来ない。でも科学で解明できる問題に対し て、では、なぜそういうものが世の中に存在したのか、ということについて思いをいたすと、自然科学の最後の限界のところに、何かがあるということだけは感じると。むしろ科学者のほうが、そういう不思議な存在にいきつくと。絶対者というか、なんと言 っていいかわからない何かを、感じているみたいですね。」
梅原氏:
「それを分子生物学者の村上和雄さんは〝サムシング・グレイト〟と言っているんですよ。それが多くの科学者の叫びだと思うんですよ。それに対して、いったい文学は答えているかどうか・・・。」
五木氏:
「そういう科学者の感覚に対して、いままでどおりの浄土とか、阿弥陀如来とか、そういうことを言っても、ぜんぜん通じないと思いますね、私は、感覚的に受け付けないと思います。何か従来とちがった物語が必要だという気がしています。だから、必要 とあらば、新しい大乗仏教というのを創り出さなきゃいけないんじゃないかと思うんです。」

私としては、仏教研究者のお二人が神と仏をごちゃまぜにしていることころに少し抵抗を感じますが、お釈迦さまから2500年、大乗仏教から2000年経ち、宇宙や〝いのち〟の真実真相に迫っている現代、特にこの100年は過去の1000年に相当 する位に進歩した生命科学を考えますと、仏法の説き方も進化させなければならないと云う私の思いと一致するところがあり、私は「仏教を科学する」時代になっているとあらためて意を強くしている次第であります。鈴木大拙師も宗教も進化する、進化さ せなければならないとおっしゃってますし・・・。


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No.1144  2011.10.27
自我中心の人生にはモウコリタ(忘己利他)

今日は『いのち旅』シリーズはお休みさせて頂きます。 『いのち旅―第5話』以降は、「〝いのち〟とは何か?」「ヒトと云う〝いのち〟に至る生命の進化はどのように為されて来たか?」などに付いて勉強し、 私たちの〝いのち〟の奇蹟、尊さを実感したいと考えており、私自身今〝いのち〟の知識を仕入れているところだからであります(ヒトとは多様な〝いのち〟の中の一つの種と云う意味で、人間とは区別して 使用しました)。

そう考えていましたところに、今週の日曜日、NHK・BSプレミアムの『こころの時代』にグッドタイミングで、生命科学学者である中村桂子氏(JT生命誌研究館館長)の「38億年 いのちの中へ」を 視聴することが出来ました。その後早速、中村桂子氏の著書を5冊買い込み勉強中でありますが、その再放送が今週の土曜日の午後1時~2時に、同じくNHK・BSプレミアムで放映されますので、無相 庵コラム読者の方々には是非視聴して頂き、〝いのち〟を予習しておいて頂ければまことに幸いであります。

今日の表題は、今週の月曜コラムの『忘己利他』を洒落て使った次第です。
私たちの苦悩は全て『自我(エゴ、自己愛、自己中心)』が生み出しているものだと思います。2500年前、そのことに気付かれたお釈迦様は、苦は煩悩が原因だと諦められ、心安らかな人生を送るためには 八正道を修めてその煩悩を滅しなさいと教えられているのでありますが、出家者ではない私たちが先ず実践すべきは『忘己利他(もうこりた)』を行じることではないかと思います。私たちの周りの〝いの ち〟を尊び、共に〝いのち〟を支え合うことではないかと思います。

中村桂子氏が〝いのち〟とは何かを研究されているのは、自分とは何かを知りたい、そしてみんなと共有したいと思って研究を続けられて来られ、75歳になられた現在もなお情熱を燃やして居られる姿に非 常な感動を覚えましたが、〝いのち〟の研究を通して、38億年もの歴史を経て今ご自身が得ている〝いのち〟を楽しみながら、そして〝忘己利他〟の精神で精一杯に生きておられるのではないか・・・そし て私たちに身を以って語り掛けて居られるのではないかと思っている次第であります。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだふつ

追記
中村桂子氏の『こころの時代』に感動・感銘を受けましたので、JT生命誌研究館のホームページにその思いを伝える投稿をし、中村桂子館長からのご返 事共に、10月24日分として掲載して頂いております(投稿者ニックネームは〝無相庵〟)。


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No.1143  2011.10.24
忘己利他(もうこりた)

仏教に関心のある方は、『自利利他(じりりた)』と云う言葉はご存知だと思いますが、『忘己利他(もうこりた)』は如何でしょうか。私は、先週の土曜日のNHKテレビBSプレミアムの番組 『瀬戸内寂聴の青空説法▽東北の人々の心へ▽〝言葉〟を届ける旅▽涙そして希望の法話』を視聴して居たとき、寂聴さんが東北の被災地にボランティアとして来ていた青年たちを労(ねぎら)う 青空説法の中で使われていたのを聞いて初めて知った言葉であります。

調べてみますと、〝忘己利他〟は〝自利利他〟とともに日本の天台宗開祖の伝教大師・最澄(でんぎょうだいし・さいちょう)のお言葉であります。「己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」と 云うことだと云うことですが、これは最澄が桓武天皇に上程した『山家学生式(さんげがくしょうしき)』の中にある「一隅(いちぐう)を照らす、これ即ち国の宝なり」と共に有名な言葉なので す。

作家として有名な寂聴さんは天台宗の尼僧さんでもあるところから好んで使われているようでありますが、見返りを求めずに他の人の役に立つことをすることを日常とすることはなかなか難しいこ とであります。東日本大震災の被災地に多くの一般ボランティアや有名人・芸能人のボランティア慰問がテレビで放映されますが、本当に素晴らしいことだと思います。私なんかは震災直後に年収 の千分の一を義援金としてご提供したきりで、足を運んで瓦礫の片付けを手伝うと云うところまでなかなかいかないというのが正直なところです。

大いに反省しなければなりません。私の母の遺した歌に『み恵みを 受くる事のみ 多くして ささぐる心 つねに貧しき』と云う無相庵カレンダー18日の言葉がありますが、この歌は自分も含めて 浄土真宗の信徒に〝利他行(りたぎょう)〟を疎かにする傾向があることを自誡したものであります。他の一部の新興宗教の中には〝利他行〟を信仰活動の中心にして入信を勧めている教団もござ います。確かに今もなお浄土真宗の活動や教えの中心部分に利他行は無さそうな印象があるのではないかと思います。

現在読んでいる五木寛之氏と梅原猛氏の対談集『仏の発見』の中にも、そう云う指摘がございます。下記に転載致します。

梅原:
「二種廻向の思想というものは、たいへんいい思想のような気がして、しょうがないんですよ。人を救うためにまた還ってくるんだというんだから。浄土真宗はそういう思想を持つべきじゃ ないかという気がしますね。いまは、あの世にいくということも、あんまり説かなくなった。悪人正機説が中心ですよね。それは近代的な真宗学ですが、ちょっとちがうんじゃないかという気がし ます。いや、あの世にいくということもあまり科学的じゃない。まして、あの世から還ってくるということは、もっと科学的じゃない。だからそれを言わない。あの世にいくという往相廻向もあま り説かなくなり、ましてあの世から還ってくるという還相廻向については、まったく語らない。ほとんど真宗学者は、誰もまじめに還相廻向を扱っていないですけどね。これはやっぱり、近代的な 科学に影響された真宗学じゃないかと思いますね。」

五木:「うーん。」

梅原:
「しかし、あの世から還ってくるというほうはね、遺伝子というのが、ずうっと子供や孫に遺伝され、この世とあの世を往復しているといってもいい、そういう遺伝子の不死の思想が、還相廻向の 思想の中に、含まれているような気がしてしょーがないですけどね。往相廻向だけでは科学的ではないが、還相廻向を含むことにより、現代の生物学が明らかにした遺伝子の説に合致する。」

五木:「ええ。私はやはり、この世に回心して生まれ変わる。それが還相だと感じるのですが。」

梅原:
「私はやっぱり、還相廻向を強調することによって、浄土真宗は、利他的な仏教になると思ってますね。いまの真宗で、利他の精神が足りないのは、そういう近代的な、まちがった真宗学に 指導されているからだと。宮澤賢治が、結局、真宗学に物足りないと感じて、日蓮宗のほうにいった。お父さんはたいへんな真宗の信者で、とくに『歎異抄』の信者です。悪人正機という思想の信 者だったんだけど、それでは利他行が足りない。利他行の精神は日蓮の思想にあると思ったのでしょう。」

五木:「そうですね。」

梅原:「というふうにして彼は、日蓮宗に転向したんです。それはやっぱり、真宗が還相廻向を説かないことによって、利他行を失ってしまった。そういう悪人正機の真宗学に不満で、賢治は日蓮宗に入ったと、私は考えているんです。」

五木:「なるほど。」

―転載終わり

私は、真宗が利他行に積極的ではないと云う傾向は、善導大師が『観無量寿経疏』の中で、「不得外現賢善精進之相内懐虚仮」(外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得 ざれ)と記されている文章を親鸞聖人は、「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐けばなり」(教行信証信巻)と読み変えられたことを表面的に捉えた真宗の指導者や信者達の側に 大きな問題があるのではないかと考察しております。

つまり、上述の親鸞聖人のお言葉を「如何にも思いやりに満ちた綺麗な心でボランティアをしているような恰好はしてはならない。心の中は他人に良く思われたいと云う自我に満ちているからだ。」 と云う風に受け取って、ボランティアなどの利他行などを避ける傾向にあるのではないかと・・・。

私はむしろ積極的に利他行に励み、その利他行する自己の心と向き合い、自問自答することにこそ、親鸞聖人が願う念仏修行と云う日常生活があるのではないかと考えております。「念仏だけで救わ れる、浄土極楽に往生出来るのだ」と云う説き方は地球が丸い事も地球が太陽を廻っていることも知らなかった平安時代、鎌倉時代、室町時代には通じたのかも知れませんが、現代は科学的真実・真 理とも合致する真理を説く必要があるのではないかと考え、今『いのち旅』シリーズに挑戦しているところであります。

『忘己利他』を寂聴さんは、「もう懲(こ)りた」と引っ掛けて面白く説かれているのでありますが、私たち親鸞仏法を後代に引き継ぐ者は、決して〝もう懲りた〟とは言わずに『忘己利他』を実践 し、親鸞聖人のお心に添う念仏者にならなければならないと思った次第であります。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1142  2011.10.20
〝いのち旅〟:第4話(奇跡の惑星・地球-④)

これまで、地球が宇宙の中でどのような位置に在るか、また、地球の親とも言える存在の太陽とはどのようなものか、そして私たちの〝いのち〟が連綿と続いている地球とはどんな惑星なのかを勉強して参りました。
これまでの勉強の中でもある程度太陽と地球の関係も勉強致しましたが、今回は〝いのち〟が地球で生まれ、そして数十億年も生き続けている縁(条件)を太陽と地球の関係の中で確認し、地球が私たちにとって如何に奇跡的存在かを学びたいと思います。

4.太陽の惑星としての地球のこれからは、環境
地球が太陽から1億5千万キロメートル離れた円形軌道を公転していることは既に勉強しましたが、地球より太陽に近い惑星が二つ(水星、金星)あります。そして地球よりも太陽から遠い惑星は五つ(火星、木星、土星、天王星、海王星)あります。
今回は、地球の隣の星である金星と火星と地球の環境の違いを知り、〝いのち〟が地球にのみ存在した訳を納得したいと思います。 次の写真、左から金星・地球・火星ですが、同じ割合で夫々を縮尺表示したものです。金星と地球はあまり大きさが変わらないですが、火星は私が想像していたより小さいです。


ここで注目したいのは、惑星表面の平均温度です。地球よりも太陽に近い金星は何と464℃、逆に地球よりも太陽から遠い火星は何と-63℃であり、どちらも、私たちはとても生きていける温度でない事が分かります。
私たちの体の約70%は水でありますから、金星では水蒸気になり、火星では凍ってしまいますから、地球の存在する領域の事を専門用語で『ハビタブルゾーン(habitable zone、生命居住可能領域)』と呼んでいるそうです。


そして、金星・地球・火星は、太陽に近い水星と共に「岩石惑星」と呼ばれており、地球と同じようにコア、マントル、地殻の3層構造で出来ており、気体だけで出来ている太陽や木星等とは全く異なります。ですから、火星にも生命があるのではないか と昔は〝火星人〟と云う言葉がありました。

〝いのち〟にとって地球が奇跡的なのは表面温度だけではありません。惑星の地殻表面を覆う気体の組成も更に重要だと思います。地球の大気が窒素78%・酸素21%・アルゴン1%・炭酸ガスは微量であるに対して、金星も火星も炭酸ガスが95%以 上もあります。これでは金星でも火星でも私たちが生きることは出来無いことが分かります。

地球が奇跡の惑星であることはある程度実感出来ましたが、そもそも〝いのち〟とは何か、どんな条件ならば、生れて生き続けることが出来るのかを理解致しませんと、本当に地球が奇跡の惑星である事に拍手喝采出来ません。次回からは、少し〝いのち〟 そのものを勉強したいと思います。


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No.1141  2011.10.18
キリスト教と仏教の違い

一昨日の日曜日に高校の同窓会があり50年振りに友たちと再会しました。414人(物故者が38名、住所不明者34名)の中、出席者は88名でしたので約1/4が集まったことになり、66、7歳の同窓会としては 多く集まった方ではないかと思います。
4次会まで付き合って深夜帰還、二日酔いと疲れで月曜コラム更新が果たせませず、無相庵をお訪ね頂いた80数名の方には大変申し訳ないことでした。

さて今、私は五木寛之氏と梅原猛氏の対話集『仏の発見』(平凡社出版、2011/02/25)を拝読しているところであります。どちらも仏教哲学と仏教史に深い関心を持たれているのでありますが、特に法然上人と 親鸞聖人の浄土教に関心を持つ作家と宗教研究家であり、両氏が仏をどのように捉えられているかに興味があり読み始めました。
その中で、「仏教とは仏になるということで、世界宗教といわれている他の宗教の教えで、神とか仏等の宗祖になろうと説いている宗教はない。例えばキリスト教では、イエス・キリストは神の子だから、キリストを信じ、 キリストに学ぶことはあっても、イエス・キリストになろうなんていうことは有り得ない」と両氏の見解は一致しております。

そう言いますと、昔から「仏になる」と云う意味の『成仏(じょうぶつ)』と云う言葉がありますから、両氏の見解も最もだとも思われますが、白隠禅師の坐禅和讃は『衆生本来仏なり』と云う冒頭の言葉から始まってお りますので、私はこれまで「仏であることに目覚めよう」と云うのが宗祖釈尊の教えであり、本来の仏教だと考えて参りましたし、親鸞聖人もその教えを踏襲されていると思って参りました。
そして、『神』と『仏』は全く異なる概念でありますが、『仏』は〝大宇宙の働き〟を抽象化した代名詞であり、『神』はある目的を持って〝大宇宙の働き〟を差配出来る人間を超えた人の代名詞であり、発想的には殆ど 変わらないと私は最近思うようになりました。

キリスト教は、宇宙の働きや人間界に生じる物事現象は宇宙に何らかの意思があるからに違いないと云う考え方から、『神』を生み出さないと教えの筋道が立たなかったのだと思いますが、仏教は、宇宙の働きは我々の想 像力や考えを超えたものであり、『不可称・不可説・不可思議』と受け容れ、それを親鸞聖人は「はかり知れない宇宙の働きにお任せする」と云う梵語『南無阿弥陀仏』やそれを漢訳した『帰命尽十方無碍光如来』を尊 ばれたのだと思っております。 最近木曜コラムで『いのち旅』シリーズに挑戦しておりまして、宇宙の勉強をしております。『不可称・不可説・不可思議』と申しましても、頭脳を持っている人間としては出来るだけ知識を増やしたくて、取り組んでお ります。次回、地球と太陽の関係を勉強致しますが、太陽はあと60億年で消滅するらしく、地球も膨張し続ける太陽に飲み込まれる運命にあるそうです。しかし、6、7億年で地球表面は生命が生存出来ない高温になる そうですから、人類も消滅するようでございます。そうなりますと、宇宙の働きを想像する人類がなくなりますから、神も仏も無くなるのかも知れないと思ったりしているところであります・・・。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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