No.1130  2011.09.08
人生の短さについて(追記編集有り)

7月末に読んだ『目覚めれば 弥陀の懐』(法蔵館)からブックサーフィンが続いています。
『葉っぱのフレディーいのちの旅ー』(童話屋)⇒『「フレディ」から学んだこと』(童話屋)⇒『自分らしさを愛せますか』(三笠書房)⇒『教室の危機』(サイマル出版会)⇒『人生の短さについて』(PHP研究所)がサーフィンの経過です。

『教室の危機』は1970年代頃のアメリカに於ける教育論が満載されており、読み終わるのは何時になるか分かりません。今日のコラム表題にした『人生の短さについて』は昨日から読み始めたところですが、人生の時間をテーマにしたものです。 いつも申し上げている「過去や未来ではなく今を大切にしよう」と云う釈尊の教えを、人生の時間と云う視点から人生を考察したもので、何か新鮮な感じが致しましたので、抜粋して紹介したいと思います。

先ずこの本は古代ローマ帝国の政治家にして哲学者のルキウス・アンナエウス・セネカ(紀元前1年~紀元65年)の著書を翻訳したものであります。釈尊(紀元前463年~紀元前383年)やアリストテレス(紀元前384年~紀元前322年) から3、4百年後の人が書いた著書ですが、その内容を見ますと、あの頃の人々も現代の私たちと全く変わらず、毎日毎日多忙な日常生活を送って居たことに意外な感じが致しました。また、2千年前の人が現代の私たちと同じ様に人生に悩み、「人生とは何 か?」と云う問いに対する答えを求めていたことを思いますと、2千年経って衣食住の生活の質は随分進歩したかも知れませんが、人類は精神的には全然進歩していないのだなと思った次第であります。

セネカの言葉を以下に羅列致します。

【人生は短くなどありません。与えられた時間の大半を、私たちが無駄遣いしているにすぎないのです。】

【我々が実際に生きるのは人生のほんの一部にすぎない。つまり、残りの部分は人生ではなく、単なる時間というわけです。】

【死を免れない者として何もかも怖れながら、そのくせ不死の存在であるかのように、何もかも手に入れたいと望むのです。】

【あなたのような生き方をしていると、人生は、たとえ千年あっても、実際ははるかに短くなるでしょう】

【多忙な人間が何よりなおざりにしているのが、生きるという、最も学び難い学問です。】

【他人に人生の大半を奪われている人間は、結局、人生を殆ど見ずに終わります。】

【誰もが追い立てられるように毎日を過ごし、まるで病にかかったように、未来を切望し現在に辟易(へきえき)としているのです。】

【毎日を人生最後の日の如く大切にしているあの男は、未来を待ち焦がれることも恐れることも有りません。】

【未来に確実なものは何もないのです。今、ここを生きようとしなさい!過去は運命の女神の支配も及ばず、どんなに強い人間の手にも戻らない時間です。】

【多忙に過ごしている人間は、頭の中身が成長しないまま、老齢に不意打ちを食らわされます。】

【万人のうち哲学に時間を割く人間だけが、悠々自適する、真に生きている人間なのです。】

―抜粋紹介終わり

起きて、食べて、働いて、食べて、寝て、たまにはレジャーを楽しむ日常生活だけでは、犬・猫でもしていることであり、人間に生れた値打ちがないではないかと云うのが、セネカ氏の言いたいことなのだろうと推察致しますが、 どの様な生活をすれば無駄な人生ではないのかに付きましての具体的提案は、今まで読んだところまでは未だ示されてはいません。
私が今考えたことですが、今、この無相庵にお越しになられてこのコラムを読まれている読者殿は、少なくとも世間の多忙さに翻弄されていらっしゃらないか、或いは、その翻弄されている人生に空しさを感じられて、人生を 少しでも長くしようと思っている方だと言えるのではないかと・・・。

そして、セネカ氏がどのように生きることが長い人生だと言うのか分かりませんが、前回のコラムを参考に致しますと、「自分らしさに気が付き、自分らしく生き、自分らしさを愛しながら毎日生きること」と云うことではない かと思います。仏法的に表現致しますと、禅門の言葉では「随処に主となって生きること」であり、親鸞仏法では「無碍の一道を歩み続けること」と言えるのではないかと思います。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ

追記
最後まで読み終えますと最後に翻訳者の〝あとがき〟があり、この『人生の短さについて』はセネカが曾てのローマ帝国の行政官の同僚パウリヌス宛てに書いた手紙を集めたものであることが分かりました。その同僚は食糧 配給長官と云う役職に就いていたようで、手紙の一節に【穀物管理のあり方よりも、自分の人生のあり方を知ることのほうが、人間にとっては大切なのです。】と云うのがあります。 そして、翻訳者は次の様に感想を述べています。 『パウリヌスに、セネカは、穀物管理などより、自分の人生のあり方を知る方が重要ではないか、と問いかけ、引退を勧めています。そして、哲学する人間だけが、過去から未来まであらゆる時間を自分のものとし、真に生きて いる人間なのだ、と言います。自分自身と向き合うこと、時を越えて語り継がれてきた賢人たちの言葉に耳を傾けること、いかに生き、いかに死ぬかを知り、徳を実践すること、それが死すべき運命さえも超越し、絶対的な自由を 手に入れる方法なのだ、と。』


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No.1129  2011.09.05
自分らしさを愛せますか

表題は、『葉っぱのフレディ』の原作者であるレオ・バスカリア氏の翻訳著書名です。この『自分らしさを愛せますか』も『葉っぱのフレディ』も、原作は1982年に出版されたものであります。バスカリア氏が 日本を含む東アジアを旅されたのが1978年ですので、仏陀の教えとの出遇い、その仏教から大きな影響を受けた後に執筆したことは間違いありません。
それが証拠に『自分らしさを愛せますか』の中に、仏陀と云う言葉が何回か出て参ります。

本を読むまで『自分らしさを愛せますか』と云うことが何を意味しているのか私は見当が付きませんでしたが、読み終えまして、〝自分らしさを愛する〟と云うことは、先ず自分らしさとは〝現実の自分らしさ〟つま り〝自我にまみれた自分らしさ〟ではなく、私がこれまで申して参りました『真実の自己』のことであり〝愛する〟とは〝気が付くこと、目覚めること〟では無いかと思うに至った次第であります。

私はこの『自分らしさを愛せますか』を読み、1980年代のアメリカの人々が我々日本人と何ら変わることなく、精神的に余裕の無い忙しい毎日を送り、そして大切な〝今〟と云う時を取り逃がして一生を終える人が多か ったのだと云うこと、また画一的な教育の有り方が問題になっていたことなども初めて知り、少々驚きました。そして、この『自分らしさを愛せますか』の本がアメリカで200万部を超えるベストセラーになっていたことを 知り、我田引水ではありますが、仏法の考え方がアメリカの人々の心を捉えたのではないかと思い、少々嬉しく思った次第でありました。

以下にこの本の中で印象に残った内容を少しばかり選び出して紹介致しますので、共感を覚えられましたら、是非購入されて読まれることをお勧め致します(参考までに、私はアマゾンの中古本を送料込みの450円 で手に入れました)。

【個人のユニークさはすべてドブに投げ込まれてしまっている】
私はみなさんのひとりひとりを、ユニークな個人ーある未知の要素を内に秘めたひとーであると考えている。あなたのなかにあるそのユニークな部分こそがあなただけのものであり、他のひととちがっているところで ある。そしてあなたに他のひとと違うものの見方、別の感じ方、独特な反応をさせるのである。私たちだれもがこんなユニークさをもっているのだと私は信じている。そして、それを育てる過程で運よくあなたに手を 貸してくれるような人に出あうことができるよう、私は祈っている。
なぜなら教育というものは本来、事実を詰めこむことではなく、ひとりひとりのユニークさをみつける手助けをしたうえでその育て方を教え、育てたものをどう他の人びとに贈るかを示してみせることだと思うからで ある。想像してみてほしい。もしみなさんひとりひとりがユニークなひとになるように励まされて育てられたとしたら、世界はどのようになっていただろうか。ところが、現実はどうだろう?これは、説明しなくても みなさんはよくご存じのことと思う。わが国の教育制度の核心はみんなをみんなと同じようにすることにある。それができれば、世の中は、教育がうまくいったと考えている。
こんなことで私たちの個性はどうなるのだろう。これでは、美しいユニークさはすべてドブに投げ込まれてしまうことになる。

【知識は英知ではない】
知識は英知ではない!学問もそれだけでは英知とはいえない。
英知とは、知識や事実を活用することである。英知はまた、自分はなにも知らないのだということを認識することでもある。
知あるひとはいう。
「心の扉をあけていよう。どんな場にあっても初心を忘れないでいよう。知らなければならないことは、すでに知っていることの何百倍もあるのだ」これが英知のはじまりである。

【きのうもあしたも現実ではない】
所有物が大切だと思っているひともいる。大邸宅、多額の財産ー中には目標が大切だというひともいる。大きな目標がなによりも大切だというのである。
私たちはまた、生命をけずって、ふりかかってきそうな悲運からわが身を守ろうともする。そんなものはドアの外を通るだけだとわかっているのに(無相庵の注釈:自分に訪れることは無いと云う意味?)。そして、 そんなことをしている間に、いまこの一瞬を生きることをやめてしまっているのだ。愛情をもって生きているひとにどこかすばらしいところがあるとすれば、それはそのひとが「ほんとうに大切なのは〝いま〟だけ だ」ということを知っているという点にある。きのうはすでに過ぎてしまい、それに対してあなたができることはなにもない。だが、それでいいのである。あなたは、いまこの瞬間を生きていられるのだから。その うえ世間のいうこととはうらはらに、〝いま〟もなかなかいいものだ。きのうのためにあなたができることはなにもない。きのうはもはや現実ではないのだから。
では、〝あした〟はどうだろう。
あしたは夢を託すにはすばらしいものだ。あしたを夢見るのは楽しい。しかし、あしたも現実ではない。 だからもしあなたがきのうやあしたを夢見て時を過ごしていたりしていたら、あなたは今あなたや私におきていることを見失ってしまうことになる。ほんとうの現実、触れることのできる現実は今だけである。あし たはあまりにも不確かだ。

【人生にも何かお返ししなければならない】
最後にもうひとつ、私が大切に思っているのは、人生から貰うばかりではなく、なにかをかえさなければならない、ということである。
私は人にあったときには必ず「おはよう」をいう。すると中には、「お目にかかったことがありましたか?」と聞き返してくる人もある。そんなときにはこう答える。
「いいえ。でも、挨拶をしたほうが気持ちいいじゃありませんか?」 そんなことはないという人もいるが、それはそれで自由だ。私は自分がいいと思うことをしただけで、挨拶を返すか返さないかは相手の気持ちしだいである。
他人に期待を寄せるのでなければ、私たちはすべてが可能である、と仏陀もいっている。
花が咲くのは、咲かなければならないからであって、花を見て喜ぶひとがいるからではない。
ひとりの若い女性が私の研究室を訪ねてきて一時間ほど話をしていった。彼女はその間中、他人からしてもらうことばかりを言い続けた。例えば、「私は、自分が人生になにを望んでいるのかわからないんです」という調子である。
そこでついに、めったに他人に指図をしない心やさしいカウンセラーたる私も、しびれをきらしてこうたずねないわけにいかなかった。
「ところであなたは、いったいなにをして人生にお返しするつもりですか?」
くる日もくる日も、あなたは大地から、大気から、そしてあらゆる美しいものから恩恵をこうむっている。それに対してなにを返しているだろうか。
私たちは、自分が返すもののことは考えたことがないのではなかろうか。

―抜粋転載終わり
【きのうもあしたも現実ではない】の内容は、まさに釈尊の言葉として伝えられている下記の教えを日常の言葉(原文では英文であるが・・・)で紹介したものではないかと私は思っています。

        過ぎ去れるを追うことなかれ
        いまだ来らざるを念(おも)うことなかれ
        過去 そはすでに捨てられたり
        未来 そはいまだ到らざるなり
        ただ今日 まさになすべきことを 熱心になせ
        たれか明日 死のあることを知らんや
                                              (『中部経典』131「一夜賢者経」

バスカリア氏は別のページで、「きのうは不渡り手形、あしたは約束手形。きょうだけが手もとにある現金だ。手もとの現金を思い切って使おう。きょうは二度と戻ってこない。そして、きょうという名のお金で買 えるものは山ほどある」と念押しされています。

また、最後に追加した【人生にも何かお返ししなければならない】の内容は少し倫理道徳的なキリスト教的言い回しになっているように私は思いますが、私が推察致しますに、自分の命の実体に目覚めれば、私たちが平生は気が付いてい ない多くの存在、即ち私たちには認識出来ない蔭の力に依って生かされて生きていることに気付かしめられ、自然に報恩の想いを行動で表さざるを得なくなるのではないかと云うことだと思います。そして、花を譬えてとして、私たち人 間も無心(恩返しとかの交換条件としてではなく)に、大脳皮質を与えられた人間にとって気持ちの良い、有るがままに振る舞おうではないかと云うことだと思います。

帰命尽十方無碍光如来なむあみだぶつ


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No.1128  2011.09.01
仏教の目的は転迷開悟(てんめいかいご)

「仏教は何の為にあるのか、或いは何の為に聞くのか」と云う問いに対しては、答えは色々とあると思いますが、米沢秀雄先生は、昭和38年の福井市の坊守(お寺の奥様方のこと)研修会のご講演の中ではっきりと 「仏教の目的は転迷開悟である」と申されています。

通常、禅門では『転迷開悟』とは申しますが、浄土真宗では昔から〝悟り〟と云う言葉を敢えて使われずに、『転迷開悟』の代わりに「信心獲得(しんじんぎゃくとく)」と言って参りました。米沢先生は在家の方( 街のお医者さん)でありますが、色々な宗派・経典を勉強された揚げ句に親鸞聖人の教えに依ってのみ『転迷開悟』出来ると確信されましたので、浄土真宗の本願寺教団に遠慮されることなく、思い切った発言をされ ているのであります。

下記に、坊守方の前で述べられた「仏教の目的は転迷開悟である」との一節をご紹介致します。

米沢先生の法話からの抜粋―

仏教が何を目指しているかということがわからず、浄土真宗の話をきいて、或いは法華経の話をきいたりしておりますのでは、どういう見当違いをしておるかわかりません。仏教の目的は何かというと、これは既にご 存知のように、迷いを転じて悟りを開くということだけでございますが、そういうことを言うと、それは真宗ではないというふうにお考えになる方があるかも知れません。しかし、真宗こそ念仏によって、迷いを転じ て悟りを開くということであって、勿論、禅でも法華でもそうであって、ただそれぞれ方法が違うだけであります。その方法の違いが大事なのであって、それによって、正しい信仰を生むか邪宗を生むかという境目に なるわけでございます。

それでは迷いを転じて悟りを開くと申しますが、迷いというのは何か、悟りというものは何かということがはっきりしない。そういうところにわれわれ真宗としても法華にしてもはっきりしないところがあると思います。
迷いを転じて悟りを開くということが大事でなのであります。真宗の話に限らず、禅でも法華でもまず仏教というのは、この転迷開悟という点に立って聞きませんというと理解が出来ないと思います。キリスト教の信仰やその 他の信仰と仏教の違うところは、ここにあるのであって、神とか仏とかは問題ないのであって、キリスト教においては、神の存在ということが非常に大事な問題でありますが、仏教においては神とか仏とかいうこと はさして問題でないので、ただ転迷開悟ということが根本問題でありまして、そのことのために色々な仏があるわけであります。

―抜粋終わり

米沢先生が坊守方に仰りたかったことは、「浄土真宗の信心獲得と禅の転迷開悟は同じことである」「念仏を称えることが目的ではなく、悟りを開くことが目的である」と云うことだったと思いますが、この法話の中で は具体的に「迷いとは何か、悟りとは何か」と云うことは述べられていらっしゃいませんが、迷いとは、煩悩そのものを迷いと言うのだと思います。この世の中のことは私には知り得ない様々な縁に依って動いているの に、それを私中心に動いている、或いは動いて当然だと思っていることが迷いであります。端的には自己中心を迷いと言うのだと思います。

この迷いがある限りは私の悩みは尽きません。悩みから解放されるのが悟りであり、信心獲得した姿でありますから、念仏を称えながら悩んでいるのではそれは親鸞聖人の至られた境涯ではない、親鸞聖人が願われてい る私たちの姿ではないと、米沢先生は仰りたかったのだと思います。

苦悩と言う言葉があります。この言葉は、苦と悩を分けて考える必要があるのだと思います。苦は、生老病死の四苦とその他にも好きな人と別れる苦、嫌いな人と一緒に居なければならない苦、欲しいものが手に入らな い苦、この体が有ることから生じる苦などがありますが、これは私たち生きている限り無くなることは有りません。しかし、その苦に依って落ち込んだり、自殺したり、苦から逃れる為や、鬱憤を晴らす為に他の人に害 を及ぼしてしまうのを悩と云うのだと思いますが、この悩は悟りに依って避けることが出来ると考えるのが仏法だと思います。

転迷開悟はそう簡単には為し得ることではありませんが、唯一の方法を米沢先生は、法話の中で「自力無効の目に遇うことだ」と仰っています。そして、「迷っているのは自分だけで、、まわりのものは、全部仏である 。つまり私以外は、全部私を助けるための仏であると見えてくるということが大事なのであり、浄土真宗の信仰なのであり、そこに最も謙虚な姿というものが現出するわけであります。私は悟った、これから教化して人 を助けねばならぬと云うことではなくて、私こそ私だけ助けられねばならぬ。拆伏では、私が助けてやらねば危ないと云うのと非常な違いがあります。」(拆伏は法華宗で行われていることですが、これを批判されている のだと思われます)

そして、
「浄土真宗では、その危ないというのは私であって、後は全部私を助けて下さる仏であるというように、全部私によって拝まれる存在なのであります。私によって全部拝まれる、これが浄土であります。拝まれることに よって、拝む私も仏にならしめられる。これが浄土真宗の信仰である。」
と結ばれています。

一般の方々が考えられている浄土真宗の信仰・信心とはかなり異なるものと思いますが、これが親鸞聖人の教えそのものだと私も教えられ共感させて頂いたことであります。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1127  2011.08.29
『葉っぱのフレディ』から学んだこと

少し前のコラムで、童話絵本『葉っぱのフレディ』のことに触れましたが、今年100歳になられてもなお現役医師を続けながら終末医療等に携わられている日野原重明氏(〝葉っぱのフレディ〟を音楽劇に仕立て上げられた)は、 『「フレディ」から学んだこと』(童話社出版)と云う著書を2000年に出されています。
副題に〝ー音楽劇と哲学随想ー〟とありましたので、どのような哲学的考察をされているのかを知りたくて読ませて頂きました(定価は1350円ですが、アマゾンの新品同様の中古本で送料込みの341円で購入しました)。

葉っぱのフレディでは、全てのものは変化すること、私たちが怖がる死もまた変化の一つであること、葉っぱはいつか死ぬが木の命は永遠に生きてゆくように、命は循環しながら生き続けること、楓の葉っぱがどれ一つ同じものは 無いように人間も一人一人異なること等を教えてくれているのですが、この『葉っぱのフレディ」(原作は1982年初版)の作者、レオ・F・バスカーリア博士は南カルフォルニア大学の教授などをされた方(1924年~19 98年)ですが、この『葉っぱのフレディ』を書く4年前に日本を含むアジアを旅され、日本では鎌倉の禅寺で坐禅も組まれたそうであります。 バスカーリア博士はキリスト教徒でありますが、仏教の無常と云う考え方や流転輪廻思想の影響を受けられての『葉っぱのフレディ』ではないかと思いました。

バスカーリア博士も日野原氏も医師であり、終末医療に力を注がれた、或いは注がれている方ですので、死をどう受け止めるかの視点からの童話とその哲学的随想だと思い、私が親しんでいる親鸞仏法とはやはり人生や死に関する 受け止め方は微妙に異なるのではないかとも思いましたが、バスカーリア博士の名著『〝自分らしさ〟を愛せますか』(草柳大蔵訳、三笠書房出版)を読まれて日野原氏は、次のように感想を述べられています。

『愛は生きる力として学習されるアートであるということが、この中に述べられている。愛を理解するには、まず生活している自分自身を振り返って見ることで、そこから新しい自己を創り出すことが出来るという。そして、自ら の人生に感動しながら、積極的に社会生活に参加し、博士のいう〝自己抑制〟を外して、自分そっくりになりなさいという。「自分らしさーアイデンティティー」「自己認識」の中に生きることこそ本当の生き方であると博士は教 えている。また、訳者の草柳氏によると、博士は、〝愛〟を呼びかければ必ず人から〝愛〟を引き出せるものであり、お互いが小さい自己抑制を捨てて付き合えば、必ず新しい人間関係が創造出来ると解説しておられる。自分の中 に、また相手の中に愛をどうすれば見出せるか、その秘訣を、博士は情熱をもって語られたのである。』と。

親鸞仏法の他力的な表現ではなく、キリスト教的・倫理道徳的に考察されていますが、殆ど同じ人生の受け止め方だと共感を覚えた次第であります。私も見付けられれば、『〝自分らしさ〟を愛せますか』(草柳大蔵訳、三笠書房 出版)を読みたいと思います。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1126  2011.08.25
日本を何とかしなければ・・・

来週月曜日には、また新しい総理大臣が生まれます。ここ数年毎年のことであります。
     2006/9/26安倍
     2007/9/26福田
     2008/9/24麻生
     2009/9/16鳩山
     2010/6/08菅
     2011/8/30(?)

カダフィ大佐が40年間君臨し続けたリビアも、親子で60年間も独裁する北朝鮮の政治状況は異常でありますが、この日本の政治現況も同じ位に異常です。その異常さに政治家達は気付いていないのです。気付いていたとして も、何も手が打てない人達が日本の政治を動かしているのだと思います。
バブルが崩壊して、失われたと言われる20年を遡って歴代総理大臣達を思い浮かべますと、宮澤、細川、羽田、村山、橋本、小渕、森、小泉の8人の顔が並び、20年間で14回のリーダー交代が有ったのでありますが、 5年間の小泉さんを除けば、この20年間と云う長きに亘りまして1年毎にリーダーが交代して来たことになります。

これはもう異常としか言えませんが、黙ってそれを許している国民も慣れっこにはなっているとは言え、国民も異常と言われても仕方無いのではないでしょうか。でも、これを異常と思わない政治家達こそ異常だと思います。次々 と首相を代えることが政治家の仕事位に思っているのではないかとさえ思ってしまいます。今回も誰がえらばれましても1年限りであることは間違いありません。民主党の挙党一致は小沢氏が居る以上は有り得ませんし、政権奪還 、総理大臣の椅子奪還しか考えの無い自民党との大連立も考えられません。 こう云うことになった真因は何処かにあるはずです。私は政治の専門家ではありませんので分かりませんが、専門家の国会議員達には分かっているのではないかと・・・(選挙制度?議院内閣制?公務員の身分制度?日米安 全保障条約(アメリカとの同盟関係)?その他?)。少なくとも、その真因を見付けて対策を講じるのが国会議員の最も重要な役割ではないかと思います。1年毎に総理大臣選びをして貰うために国会議員がある訳ではあり ません。

なかなか勝てないプロ野球の阪神タイガースの監督でさえ1年で首を切られることはありません(2年乃至3年です)。もし1年毎に監督が代わる球団があったとしたなら、ファンは監督のリーダーシップだけを問題にはし ないでしょう。もっと根本的な原因(監督を選ぶ球団幹部の資質、戦力不足、スタッフ・コーチ陣の技量、選手の待遇、契約更改の有り方、球場等の環境等・・・)にファンの眼が向けられるでしょう。プロ野球の場合、そ んな球団を20年間もファンは許し続けないでしょう。

日本国民に取って日本の政治は自分の人生に大きく影響する問題であります。国民は今こそプロ野球や高校野球に寄せる以上の関心を政治に寄せて、日本の政治を変え、真のリーダーの輩出の為に立ち上がる必要があるので はないかと思います。

昨日、中国の漁業監視船『漁政31001』が尖閣諸島近海の日本領海内に侵入したと云うニュースがありました。意図的であり、日本の中国大使が中国政府に抗議したが、中国政府は、「尖閣諸島は中国固有の領土だ。領 海侵犯したことにならない」と言い張ったと云うことである。
これに対して、日本政府は具体的行動を起こしたと云うことを聞いておりません。多分、尖閣諸島に中国が国旗を立てても、今の日本のリーダーは何も行動を起こさないでしょう。政治は国民の生活と領土を護る為にありま す。震災被災者、老齢者、障害者、失業者等の社会的弱者の衣食住を護る為に政治があると言っても過言ではないと思います。

今、民主党代表選に立候補しようとしている政治家の胸に、上述の社会的弱者の姿は映っているでしょうか?尖閣諸島、竹島、北方四島の光景が浮かんでいるでしょうか?党利党略ならぬ自己の名誉と保身しか頭に無いと思 われます。今何とか致しませんと、日本はまた望まない戦争に巻き込まれ、本当に国が亡ぶ可能性を否定出来ません。国民一人一人が目覚めねばならないと思います。

仏法は政治に関与すべきでないと云う考え方があるかも知れませんが、それは特定の団体が政治に影響を与えてはならないと云うことです。親鸞仏法は、我が宿業(しゅくごう)を引き受けて行くことを説きますが、決して 政治は政治家に委ねて、あとは成り行き任せでその時その時の状況を受け取っていけばよいと云う考え方をするものではありません。『宿業』を引き受けて行くと云うことは、自分個人の宿業(不共業)と日本の宿業・人類 の宿業(共業)を引き受けてゆくことでありますから、日本の政治は自分の人生に無関係では有りません。そして、他力と申しましても、全てを他人任せにすることではありません。他力本願の説く人生に関わる教えは、将 来に向けて自分の描く理想に向けて精一杯努力した後の結果は自分の努力だけでは何ともならない多くの条件(縁)が有ってのことだと結果を受け止めて、更に努力すると云う考え方でありましょう。

宿業を引き受けて生きてゆくと云うことは、『運命』とか『宿命(しゅくめい)』とは、若干ニュアンスが異なる考え方だと受け取って頂きたいと思います。『運命』は、広辞苑で「人間の意思にかかわりなく、身の上にめ ぐり来る善悪・吉凶。人生諸般の出来事が必然の超人間的偉力によって支配されている信仰または思想に基づく」と説明されており、両親や祖先から受け継いだ血筋や遺伝子とか、生れついた環境や育った環境などは一切関 係なく、自分の意思も関係なしに人生が決まっていると云う人生観でありましょう。 『宿命』は、「前世から定まっている運命」と説明されていますから、『運命』よりはほんの少し『宿業を引き受けて生きる親鸞仏法の人生観』に近いと思われますが、〝定まっている〟と云う考え方が運命論的であり、違 うと思います。

そこで、日本のこれからを私たちの意思で何とかしようと云う考え方を持つべきだと云うのが、私の考え方であります。私個人のこれからの人生にも、また皆さんの人生にも、日本の有り方が大きく関わるからであります。 その時その時の成り行きに任せて生きていくと云うのが、親鸞仏法の考え方ではないと云う事を強調したいと思います。

帰命尽十方無碍光如来ーなんまんだぶつ


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No.1125  2011.08.22
万有蔭力(ばんゆういんりょく)の法則

ニュートンが林檎が木の枝から落ちるのを見て(逸話と云う説があります・・・)発見したのは『万有引力の法則』ですが、ニュートンよりも約450年前に『万有蔭力の法則』に気付かれたのが親鸞聖人だと思い、 今日のコラムの表題と致しました。

『万有蔭力の法則』と云う言葉は、勿論、私得意の駄洒落造語であります。私たち人間が、今こうして地球上に生れて日々生活出来ているのは、万有引力があるからこそでありますが、その引力だけでは生活出来ま せん。生きていることは出来ません。太陽がなければ零下数百度で生物は生きて居られませんし、空気が無くても雨が無くても私たちは生存出来ません。生存出来ないと云う前に、この地球上に生れ出ることが無か った訳です。

私たちが今呼吸出来ているのも、そう、眠っている時にも呼吸出来ているのは、私たち人間には説明出来ない大きくて不可思議な力が働いているからであります。その力(はたらき)は私たちの眼には見えません。 私たちに見えない力ですから、その力(働き)を仏法では蔭の力と言い、或いは親鸞聖人は他力と呼ばれたのです。私はそれを『蔭力(いんりょく)』と洒落てみた次第であります。

引力も蔭力も、私たち人間の眼には見えません。ですから、すごく大事な力、恩恵を受けている力であるにも関わらず、私たちは引力も蔭力も忘れて生活してしまっています。

ニュートンは林檎が落ちるのを見て引力に気付いたのでありますが、親鸞聖人は自分の心の中にデーンと居座り、その自分を悩まし苦しめる煩悩を見て、蔭力、つまりは他力に気付かれたと思うのであります。
その煩悩は親鸞聖人よりも約1500年前に生れられたお釈迦様が苦の原因として気付かれたものでありますが、親鸞聖人は煩悩があるからこそ、私たちは他力に依って救われることに気付かれたのです。煩悩に寄 り添うように働きかけている他力に依って、つまり蔭の力に依って生かされて生きている自分に目覚める事で始めて心安らかに生きていける道を親鸞聖人が示されたのだと私は思っております。

お釈迦様は煩悩を消し去る方法として八正道を示されました。親鸞聖人は比叡山で、20年間その八正道にチャレンジされましたが、幾たびか跳ね返されて29歳の時に他力浄土門の法然上人の門を叩かれ、他力本 願の教えに出遇われました。そして、それ以降約80年間ご自分の煩悩と対峙されまして、煩悩を断ち切ることなく、心安らかに生きていける道に気付かれました。お釈迦様の八正道は出家者がお釈迦様と同じ悟り に至る道でありますが、親鸞聖人の道は私たち普通の世間で日常生活を送る一般人が心安らかに生きていける道です。
それを米沢秀雄先生はお蔭さまの世界を生きることだと申されています。そして、日本の言葉である『お蔭(かげ)さま』を中国語で『帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)』と云い、 インドの古い言葉で『ナムアミダブツ(南無阿弥陀仏)』と云うのだとも申されています。

引力と蔭力に依って生かされている私の今日の命を見詰めたいものであります。

帰命尽十方無碍光如来ーナムアミダブツ


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No.1124  2011.08.18
天下一品

昨日の神戸新聞の発言欄(朝日新聞の声の欄に相当する)に、『病気あっての自分受け入れ』と云う投稿がありました。

兵庫県宍粟市の市臨時職員の山木美香と云う方の投稿で、「私は膠原病(こうげんびょう)の一つである〝全身性エリテマトーデス〟を9年前に発症して以来、何度か入退院を繰り返しています。先日も急な入院をしてしまい、 職場の方々に大変ご迷惑をお掛けしました。何か頑張ろうとすると、それをあざ笑うかのように、いつも病気が邪魔をしてくるのです。そんな自分に嫌気がさしていたとき、中学時代の恩師からメールをい ただきました。その中に〝今はそれ(病気)もあってのあなた〟という言葉があり、目が覚めました。確かに難病を抱えながら生きていくのはつらいです。でも、自分で自分に見切りをつけたらそこで終わ ってしまいます。恩師からの言葉のように、病気を含めた自分を受け入れ、これからも自分らしく歩んでいこうと思いました。」と云うものです。

膠原病とは、私たちの体の細胞と細胞を糊付けしている結合組織の構成成分の一つである膠原繊維(コラーゲン繊維;コラーゲンを音写したのが膠原だと思われます)に同じ病変が見られる病気をまとめて〝膠原病〟と名付けられていますが、結合組織は全身の至るところに あり、細胞への栄養分を補給したり細胞から老廃物を排除するなど、新陳代謝に関わっており、この結合組織に炎症が起きると細胞が死滅していきますから、とても恐ろしい病気なのです。しかも現時点で は原因も特定出来ておらず(遺伝性も無いと・・・)、完治させる治療方法が未だ見付かっていない難病なのです。

私の娘の幼馴染の一人が30歳前に発症し、私が常に気に掛かっている病ですので、この方の投稿が目に留まった次第ですが、この方の恩師の「今はそれもあってのあなた」と云うお言葉は、仏法が説く〝 天下一品のあなた〟と云うことだと思いました。〝天下一品〟とは流行のカタカナ語で〝オンリーワン〟と云うことですが、私たちの遺伝子DNAは、誰一人として同じものはないそうですから、オンリー ワンの組織体であることは確かであります。しかも、育った環境(地域、人間関係)も、与えられた素質・能力も異なりますから、喩え同じDNAを持つことがあったとしても、天下一品であることは間違 いないところです。私たちを生かしている命は他の生命体と繋がっていますが、天下一品です。

天下一品と言われましても、病気より健康体が良い、容姿は醜いよりも、美しい方がいい、貧乏よりも金持ちが良い、頭が悪いよりも、頭が良い方がいいと思ってしまいます。私もどちらを選ぶかと問われ れば、絶対にいずれも後者を指さします。でも、それは私たちには選ぶことの出来ないと云うのが現実であり真実です。植物も同じ植物なら雑草よりも薔薇が好ましい、動物も蛇よりも犬が可愛らしく好ま しい。でも、お互いに取って代われるものでもありませんから、夫々が与えられた命を生きています。
私たち人間もお互い取って代われるものではありませんが、私たち人間には自分が生かされている命を自覚する能力を与えられています。他の生命体との命の繫がりを感じる力が与えられています。天下一 品の命である事を実感出来る素晴らしい大脳を与えられて今生きている訳でありますから、その人間としての命を生きたいものだと思います。それが天下一品の花を咲かせると云うことではないかと思います。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ

追記
インターネットで調べますと、山木美香さん(1976年生まれ、立命館大学卒)には『まあるい思い出』と云うご著書があります。天下一品の花を咲かせていらっしゃるのだなと敬意を表します。


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No.1123  2011.08.11
無相庵も盆休み

9日(火曜日)の朝、博多に住む長女と孫二人(小学1年の男児と幼稚園年中女児)が里帰りして参りました。13日(土曜日)には嫁ぎ先の実家に移動しますが、それまでは我が家近くに住む長男の孫三人(中三男子、中に女子、小五女児)と仲良く テレビゲームをし、寝起きも共にするのが恒例になっております。そして、その食事係りが私で、妻が洗濯・掃除係りです。老体にはかなりキツイのですが、私たちの両親も同じ思いをしながら精一杯の世話をしてくれていたのだと・・・毎年、両 親への感謝と共に、こちらがそれに見合う親孝行をしていなかった事に申し訳なく思うことです。そしていつも、窪田空穂さんが70歳を過ぎて詠まれた『今にして 知りて悲しむ 父母が われにしましし その片思い』と云う歌を思い出すので ございます。しかし一方、こうして孫達が集ってくれてその世話が出来ている事が日常の幸せなんだと夫婦で語り合っても居ります。

そんな訳で、無相庵も盆休みさせて頂きます。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1122  2011.08.08
『葉っぱのフレディーいのちの旅』を読んで

5年位前に、96歳でなお現役医師として活躍されている日野原重明聖路加病院院長(現在100歳)が、「葉っぱのフレディーいのちの旅」をミュージカルに仕立てる演出と出演をされたと云う事がテレビで紹介された事がありました。 日野原医師は、その後『フレディから学んだこと―音楽劇と哲学随想』と云う著書も出されているようでありますが、私はこの度まで「葉っぱのフレディーいのちの旅」と云う絵本を手にしたことはありませんでした。

私は今回、小児科医駒澤勝先生の『目覚めれば 弥陀の懐』で紹介されていたことで、初めて購入し読みました。読んで直ぐに、これは仏法が教えている事をたまたま外国の哲学者が絵本にしたものではないかとさえ思いました。
下記に、仏法の言葉とも言える、『オンリーワンの命、無常、永遠の命、色即是空空即是色』を言い表されていると思った内容を絵本から抜粋して紹介致します。

オンリーワンの命
『はじめフレディは 葉っぱはどれも自分と同じ形をしていると思っていましたが やがて ひとつとして同じ葉っぱはないことに 気がつきました』
『緑色の葉っぱたちは一気に紅葉しました。いっしょに生れた 同じ木の 同じ枝の どれも同じ葉っぱなのに どうしてちがう色になるのか フレディにはふしぎでした。「それはねー」と友達のダニエルが言いました。「生まれたと きには同じ色でも いる場所がちがえば 太陽に向く角度がちがう。風の通り具合もちがう。月の光 星明かり 一日の気温 何ひとつ同じ経験はないんだ。だから紅葉するときは みんなちがう色に変わってしまうのさ」』

無常
『冬が来て葉っぱたちは木枯らしに吹き飛ばされてつぎつぎと落ちていきました。「ぼく死ぬのがこわいよ。」フレディが言いました。「そのとおりだね。」ダニエルが答えました。「まだ経験したことがないことは こわいと思うもの だ。でも考えてごらん。世界は変化しつづけているんだ。変化しないものは ひとつもないんだよ。春が来て夏になり秋になる。葉っぱは緑から紅葉して散る。変化するって自然なことなんだ。きみは春が夏になるとき こわかったかい ? 緑から紅葉するとき こわくなかっただろう?ぼくたちも変化しつづけているんだ。死ぬというのも 変わることの一つなのだよ。」』

永遠の命
『変化するって自然なことだと聞いて フレディはすこし安心しました。枝にはもう ダニエルしか残っていません。「この木も死ぬの?」「いつかは死ぬさ。でも“いのち”は永遠に生きているのだよ。」ダニエルは答えました。』

色即是空空即是色
『フレディがおりたところは雪の上です。やわらかくて 意外とあたたかでした。 引っ越し先は ふわふわして居心地のよいところだったのです。フレディは目を閉じ ねむりに入りました。フレディは知らなかったのですが、――― 冬が終わると春が来て 雪がとけ水になり 土に溶けこんで 木を育てる力になるのです。“いのち”は土や根や木の中の 目には見えないところで 新しい葉っぱを生み出そうと 準備をしています。大自然の設計図は 寸分の狂いも なく“いのち”を変化させつづけているのです。』

―抜粋終わり
この世の命の真実を語り、真理を語った絵本だと思いますので、無相庵読者の皆様には是非お読み頂きたいと思います。 ただ、この絵本を読んで、或いは仏法を聞いて、この世の無常を知り、自分の命がオンリーワンの命であることを納得し理解しても、それが直ちに我が身の救いになることにはならないと思います。そう云う自分の執拗な自我(自己愛)に 目覚められ自問自答され、自力無効の本願他力の信に行き着かれたのが親鸞聖人だと私は思っている次第であります。

帰命尽十方無碍光如来ーなんまんだぶつ


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No.1121  2011.08.04
袖振り合わずとも多生の縁

一昨日東京出張があり、新幹線の往復を利用しまして、小児科医駒澤勝先生の『目覚めれば 弥陀の懐』を読了致しました。

『袖振り合うも多生の縁』と云う言い習わしがあります。この意味するところは、「ちょっとしたかかわり合いも、生まれる前からのめぐり合わせによるものだということ」だと思いますが、駒澤勝先生の『目覚めれば 弥陀の懐』 を読ませて頂いた後に思い浮かんだのが、今日の表題の『袖振り合わずとも多生の縁』であります。

駒澤先生は、『葉っぱのフレディ』と云う絵本(カナダの哲学者レオパスカーリアの作)を参考にされまして、私たち一人一人の命を楓(かえで)の木の数千枚乃至数万枚の葉っぱの一枚一枚に喩えられて命の実体を考察しておら れます。そして、葉っぱと葉っぱは同じ一本の楓の葉っぱ同士でありますから同じ生命体であると認識出来ますが、私たち人間の一人一人は人間の眼には繋がっているとは見えません。でも、人間の命も別々の命でなく、一つの生 命体(駒澤先生は〝全宇宙をすっぽり包み込んでいる大生命体〝と言われている)として繋がっていると考察されているのだと思います(駒澤先生は、その大生命体を阿弥陀仏だと捉えておられます)。

人間同士は葉っぱ同士のように目に見えては繋がって居りませんので、なかなか理解出来ないのだと思いますが、駒澤先生の〝全宇宙をすっぽり包み込んでいる大生命体〝は私がこれまでのコラムで申し上げている『寿(いのち; 永遠の命)』そのものであり、むしろ人間同士だけでなく、他の動植物とも繋がっていると考えます(これは生物学の進化論から説明出来るのではないかと思います)。

私はウォーキングしている道すがら眼にする動植物達を見ていつも思うのです。「この歩道の街路樹達の祖先を辿って行くとその歴史は私の祖先を辿って行った時の歴史と同じ長さになるだろう。つまり街路樹達と私は〝同い年( おないどし)〟だろう・・・」と。街路樹だけではありません、全ての存在と同い年だと考えています。そして、街路樹と私は寿として同じ生命体であると考えています。
それに現実問題として私と妻とは、私が島根県で産声を上げた両親から生まれ、妻は南九州(熊本県と鹿児島県)で産声を上げた両親から生まれていますから、〝赤の他人同士の結婚〟のように思ってしまいます。でも多分、数百 世代位前の(数万年位昔の)祖先まで遡れば、同じ人物に行き当たるのではないかと思っております。

そう云う意味で、私がこれまで遭っていない人たちであっても、何世代か前には同じ祖先をもつ縁の深い人たちばかりだと思いまして、『袖振り合わずとも多生の縁』と云う言葉が浮かんだ次第であります。勿論、袖振り合う関係にな った場合、特に夫婦になった場合は、それはとてもとても深い因縁があったからだろうなとも思っているところであります。

私は自分が読んで感動した駒澤先生の『目覚めれば 弥陀の懐』を無相庵読者の方々には是非お読み頂き、また合わせて前回のコラムでご紹介した駒澤先生が30年近く前に書かれました『医と私と親鸞』も読んで頂き、親鸞の信 心とはどう云うものかを知って頂きたいと云う想いを更に強くした事を申し添えます。
そしてまた、私が一番感動しましたのは、先生がご著書の最後で「人に生れたのは絶好の機会」と締めくくられていらっしゃる事も敢えて申し添えさせて頂きます。

帰命尽十方無碍光如来ーなんまんだぶつ


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