No.1110  2011.06.27
自我と自己

仏法の悟りは『自我と自己』を明らかにすることと言ってもよいかも知れません。禅門、特に曹洞宗では「何かの目的を持って坐禅をしてはいけない」、「ただ坐るだけだ」と言われるようであります。それは、何か目的を持つと云うことは、 自我そのものだからでありましょう。

昨日の『こころの時代』で、兵庫県美方郡にある曹洞宗の安泰寺の第9代ご住職(堂頭;どうちょう)である〝ネルケ無方〟と云う43歳のドイツ人の方が出で居られました。安泰寺は無相庵では度々登場して頂いてる西川玄苔師や青山俊董 尼が師事された澤木興道師や内山興正師が歴代の住職を務められた修行専門道場でもあります。

そのネルケ無方師が番組の最後に語られていたのは、『迷いと悟り』なのですが、これが『自我と自己』であり、『凡夫と仏』と言うことです。そして、驚いたのは、「迷いを否定して残るのが悟りではなく、迷いがはっきりするのが悟りだ 」や「私ほど悪い人は居ないと云う自覚がなければ、悟りに向かって歩めない」と云う親鸞仏法と全く同じことを言われていたことです。これは内山興正老師が「自我がはっきりすることが悟りだ」と説かれていたことと一致致します。

ネルケ無方師の言われる〝迷い〟と云うことは、多分〝不安〟〝不満〟〝不信〟等の感情を言うのだと思います。また、「迷いを否定するのではなく、迷いのカラクリを知ることだ」と言われていましたが、これは、「迷いは自分が一番可愛 いと云う自己愛が根本にあることを知り、その自己愛はどのようにして生まれ出ているのかを知ることだ」と説かれたかったのではないかと推察しております。

さて、私たち人間は生まれた直後には自我はありません。徐々に自我が芽生えてまいります。赤ちゃんの時は、お母さんと他人との区別がつきませんし、自分と他人の区別もつきません。しかし、一歳位になりますと、その区別が付き始めます 。しかし、競争意識は未だ育っていません。人それざれで時期の早い遅いがありますが、多分、小学生の高学年位から競争意識が芽生えるのではないでしょうか。その頃から、自分を他人より大事だと思い始め、自分が一番可愛いと言う自己 愛が芽生え、成長するに従ってその自己愛が強くなって行くのだと思います。そして、最後には「自分さえ良ければいい」と云う自己愛にまで到達するのだと思います。

多少の強弱はあるにしましても、この自己愛を持たない人間は居ないと言ってもよいと思います。 そして殆どの人が、不安、不満、不信に悩み苦しみながら人生を終わります。それは、自我が芽生え、その自我を大きく育て、その自我を満足させる為に色々と努力はしても、悩み苦しみが、自己愛と云う自我から生まれ出ていることに気付 くことなく、人生を終わってしまうからだと私は思います(このことを学校では教えられないことですから致し方ありません)。

ネルケ無方師が言われたのは、このところだと思います。自我に目覚めること(自分の自我に気付くこと)から、悟りに向かう道が始まるのだと云うことだと思います。幼い子供たちも、人間以外の動物も大脳の発達がありませんから、 自我を持ちませんから、自我に目覚めることもないし、悩みも持ちません。私はむしろ〝自我が目覚めても〟〝自我に目覚めなければ〟人間に生れた意味が無いと思います。自我に目覚めることによって、自我の奥底にある『本来の自己』、 に目覚める、つまり、仏法の悟り、安心(あんじん)に至るのだと思います。

ネルケ無方師が、浄土門でよく例に上げられる『松影の暗きは月の光かな』と云う古歌を引用されていました。〝松陰の暗さ〟とは『迷い』『煩悩』『自我』を表し、〝月の光〟は『悟り』『仏』を表します。月の光が強い程、松陰が暗く なります。それと同じで、松陰の暗さ、つまり自分の自我がはっきりしないと悟りと云うものがどういうものかも分からない、悟りが分かるから、いよいよ自我がはっきりするのだと云うことだと思います。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1109  2011.06.23
『非現実的な夢想家として』(村上春樹氏のスピーチ)を考察する――(2)

前回に引き続き村上春樹氏のスピーチに関連して、原発問題、核エネルギー問題に付きまして、私の考え方を申し述べたいと思います。

今もなお福島第一原発は収束出来ていない状態にあります。そして、政府は今後の原子力発電に関する考え方を変えたのか、或いは変えないのかも明言しないまま、菅首相は菅政権の実績としたいと云うことなのでしょう、 再生可能エネルギー(太陽光、風力、バイオマス等・・)の開発に関わる再生エネルギー特別措置法案の成立に意欲を示しているようであります。 私は誰が首相でも難しい局面に立たされた菅首相の花道として、与野党共に配慮するべきだと思っております。首相と云うのは我々日本国民のトップです。誰が首相であれ、国民の代表である首相の首を取るだけが目的化 している政界の動きには共感出来ません。

さて、原発問題に関する私の考え方は、核兵器問題と無関係に論ずる訳には参らないと云う立場に立ったものにならざるを得ません。そして、核分裂エネルギーを利用し、それを兵器に応用したり、発電に利用する技術を 既に獲得した人類である事を前提にしなければ、それを無視した議論はそれこそ非現実的であり、無意味だと思います。しかし、それは決して村上氏を夢想家として批判するものではなく、むしろそれを現実化する努力を 促すものだと思っています。

一度手にした技術を放棄することは出来ないと思います。核兵器廃絶を声高に宣言したアメリカのオバマ大統領がノーベル平和賞を貰いましたが、未だ廃絶した訳でもないのにオカシイと云うのは誰しもの意見だと思いま す。アメリカもロシアも核兵器(それぞれ1万発前後の核弾頭を保有)を減らすことは有っても、全て放棄することは決してないと思います。オバマ大統領の核廃絶宣言は、これから核兵器を持とうとする国を牽制しただ けのものだと私には思えます。

仮の話として、世界の全ての国が約束に従って全ての核兵器を放棄したと致しましても、技術は残ります。どこかの国の核武装が引き金となって、また元に戻るしかないと私は想像致します。原子力発電もそうです。一度 安いエネルギー獲得手段を手に入れた限りは、全世界全ての国が同時に原子力発電所を閉じることはないでしょうし、この効率の良い方法を人類が永遠に放棄することにはならないと思います。

とすれば、人智を尽くして、原子力発電技術を安全なものに完成するしかないと思います。現在の原発は、効率を優先して見切り発車しているのです。つまり、使用済み燃料棒の安全で安心な処分方法が決まらないまま、世界 の原発は増え続けて来ているのです。そして、高い放射能を放出する可能性のある使用済み燃料棒が世界の各原発の保管プールに積み上がり続けていると言うのが現実であります。福島第一原発で汚染水の清浄化試運転が 始まっていますが、汚染水から取り除かれた放射能物質(セシュウム)はゼオライトと云う石に濃縮された状態で吸着された状態であり、これをどう処分するか、どこに保管するかも決まっていないと云うのが現実です。

私は、核分裂エネルギーの利用を考え出した人類には使用済み燃料棒の安全で安心な処理方法を確立させる能力はあると思いますし、責任もあると思います。そして、日本はその先頭に立つべきだと思います。原発を否定 するのではなく、核分裂エネルギーを再生可能エネルギーにする技術を日本がアメリカ等と共同開発すべきだと思います。今回の東日本大震災の犠牲者と、原発事故に依り強制避難させられた福島県民の為にも、日本の技 術を結集させる責任があると思っています。

そして、核分裂エネルギーを再生可能なエネルギーにすることは、牽いては核兵器の製造技術をも確立することになると思います。今回の原発事故で分かったことは、もしどこかの原発が爆発したら、またどこかの国が核 兵器を使用したなら、全世界がその被害を蒙り、ひょっとしたら人類滅亡の危機にかるかも知れないと云うことであります。

日本は核兵器を持たずとも、核分裂エネルギーをコントロール出来る技術国になることで、核保有大国と対等な立場になり得るのではないか、そして再び世界のリーダーとして真の平和に貢献出来る国になれると思うので あります。 その平和とは、村上春樹氏の言う効率を否定すると云う表面的なことに依ってではなく、人間には自我をコントロールする能力(これが仏法が説く『本来の自己』と云うもの)が与えられていることに目覚めることに依っ て実現され得るのだと思います。即ち村上春樹氏が夢想する平和な世界が実現するのだと思う次第であります。

帰命尽十方無碍光如来ーなんまんだぶつ


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No.1108  2011.06.20
『非現実的な夢想家として』(村上春樹氏のスピーチ)を考察する――(1)

表題は人文科学の分野で国際的に活躍した人に贈られるスペインの「カタルーニャ国際賞」と云う賞を受賞された村上春樹氏の受賞スピーチの題名でありますが、私は村上春樹氏のスピーチを、私の仏法的立場から考察してみたいと思い、 2回に亘りまして申し述べたいと思います。

三陸地方を襲った大地震と大津波は多くの尊い命を奪い、そして、家と家族と仕事を失うと云う筆舌に尽くしがたい被災を齎したのですが、それだけに留まらず福島第一原発事故と云う近隣の県民だけではなく、世界のエネルギー政策に も多大な後遺症を齎しました。
村上春樹氏のスピーチ(毎日新聞社がを掲載)はこの原発 事故に関するものです。『我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の意見です。』と云う村上氏の言葉はスピーチを締めくくるにあたって述べら れたものですが、多くの批判はこの言葉だけを切り取って、「事が起こってから言うなよ!」と云うものではないかと私は推察しております。

村上春樹氏の父君は住職の息子だったからだと思いますが、スピーチの中に『無常』と云う言葉が出てきますし、仏教的な人間観と世界観を背景に持たれているように私は我田引水的に読み取り、村上氏が『非現実的な夢想家として』こ れからも小説家として〝夢〟を語り、世界の人々とその〝夢〟を分かち合いたいと締め括っておられるのは、今回の大震災に遭遇し、自分が選んだ職業に生まれ甲斐を感じたからだと思います、否、生まれ甲斐を見付けられたからではな いかと私は思いました。

村上氏は人類がこれまで追い求め続けてきた『効率』や『便宜(べんぎ)』への反省を述べられています。自誡を含めて(だと私は思います)、人類皆がここで立ち止まって自らの生き方を見直すべきだと提案されているのだと思います。

しかし、効率の良いとされている原発を日本が廃止したら、電力が決定的に不足して企業の生産活動は殆どが止み、我々の生活も文字通り暗いものになることは間違いありません。ですから、核をノーと言うことは原発を全面停止せよと 言うことであり、非現実だと批判されることは間違いないところです。従って村上氏は、防御的に自分を『夢想家』と名乗ったのでしょう。

さて、私は夢想家〝村上春樹氏〟の見解を批判する立場にはありません。むしろ共感を覚えております。
今の日本、否、世界の現実、言い換えますならばこの世の現実(核差社会、対立、戦争、テロ、自殺、犯罪、災害、交通事故、疫病・・・)を作り出したのは、私も人類が『効率』『便利さ』『利益(お金儲け)』を追い求めて、科学と 技術の進歩に邁進して来たからだと思っています。これを人類が求めて来た『文化』だと私の尊敬する米沢秀雄先生は仰っておられますが、考えて見れば、テレビのコマーシャルは全て『効率』『便利さ』『利益(お金儲け)』を訴える ものばかりです。そして、私たちが頭の中で考えることも、『効率』『便利さ』『利益(お金儲け)』、或いはそれに関係する事柄ばかりではないでしょうか。

村上春樹氏は『自我』と云う言葉を使われませんでしたが、『効率』『便利さ』『利益(お金儲け)』を追いかけるのは私たちの心の裡(うち)にある『自我(エゴとも言ってよい)』だと仏法は考えます。そうしますと、『効率』『便利さ』を否定 しようとされている村上春樹氏がご自分を〝非現実的な夢想家〟と自称されていることは、極めて仏法的なのだと私は考えています。それは『自我』の否定だからです。 浄土門仏法では〝自我の無い世界〟を『浄土』と云い、〝自我を張り合う世界〟を『地獄』と申すのだと私は思いますが、村上春樹氏は『浄土』を夢と捉えて、「これからその夢を語っていこう、皆で浄土を求めて歩んで行こう」と言わ れたのではないかと推察している次第であります。

そして問題はこの世が本当に浄土になるかどうかであります。今この世に生きている人間は、自我なんて絶対に無くならないと云う現実論者と、人類を滅亡から救う為に自我を失くそう、きっと失くせると云う夢想家に二分されるのだと 思われます。
私は、と言うよりも、私が人生を学んでいる親鸞聖人の教えは、その真ん中の立場を取るのではないかと考察しています。親鸞聖人は生きている間、自我は無くならない、煩悩を断じ切ることは出来ないと考えて居られました。しかし、 自我と煩悩を積極的に認めて居られた訳でもありません。そして、有名な『正定聚の位』と云う、浄土に一歩足を踏み入れたも同然の世界をお考えになられたのではないかと思います。

そして、親鸞仏法が考える地獄とは自分の自我に気付かずに自我を張り合う世界だと捉え、自分の自我がはっきりと見え、お互いの自我を容認し合い、「共に凡夫のみ」と、許し合い譲り合う世界を浄土と言うのだと、私は教えられて参 りましたが、正に今の日本の政治の世界は自我を張り合う地獄の現実世界ではないかと思います。

次回、私は原発問題、核エネルギー問題をどう考えるかを申し述べたいと思います。

帰命尽十方無碍光如来ーなんまんだぶつ

追記:
村上春樹氏の全スピーチはユーチューブに録画されていますのでご興味を持たれたかはご覧下さい。


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No.1107  2011.06.16
本願とは?

今回は、『他力本願』の『本願』に付いて考えたいと思います。

インドから中国そして日本へと受け継がれて来た浄土門で云うところの『本願』は、『大無量寿経』と云う経典に説かれており、仏自身が法蔵菩薩という名で修行をしている際に、師である世自在王仏の前で立てた〝誓い〟を云い、 その本願が成就して、私たち衆生はその本願の働きにより、浄土へ往生出来るとされています。従いまして、『本願』は働きを持っていますから、それは『本願力』と云うものであり、即ち『他力』と云うことになるのではないか と思います。

一方、広辞苑では「仏・菩薩が過去世において発起した衆生済度の誓願」と説明されていますが、これでは一般の方々には何の事か分からないと思います。私も若い時から法話の中で、「仏・菩薩が過去世において発起した・・・」 と教えられて来ましたが、「そんな架空の話を聞いても信じられない」と思って参りました。勿論、私はその事、その話を今も信じてはいません。でも、『本願』は信じております、と言うよりも、『本願』、或いは『本願力』を この私の心身が感じていると表現してもよいのではないかと思っております。その私が感じている『本願』は、親子関係に於ける〝親の願い〟に喩えればお解り頂けるかも知れません。

私たち誰にだって両親があります。その両親は子供に願いを抱いております(最近の親はかなり怪しくなって来ましたが・・・)。通常は「何とかして幸せな人生を送って欲しいなぁー」と云う願いであります。〝幸せ〟がどのよ うなものであるかは夫々の親の考え方で異なるでありましょうが、〝親の願い〟、それは『子供の幸せ』であると言ってよいでしょう。私も親になり、また親の親になり、子供と孫の幸せを願わない日は一日もありません。子供は 親を忘れますが、親が子供や孫の事を考えない日は殆ど無いと言っても過言ではありません。そして、その考える事は子供や孫の幸せでしかありません。

反対に子供の側から申しますと、常に〝幸せ〟を願われている〟訳でありますが、もう既に両親共に亡くなって、親と云うものがこの世に居ない私は一体どうなるのでしょうか・・・。

私は幼くして父を亡くしましたので、母親の願いしか知りませんが、その願いは「勉強して、一流大学に入り、出来れば一流企業に入り出世して幸せな人生を送って欲しい」では無かったかと思います。勿論、母は念仏者でしたか ら〝仏法を聞きながら人生を渡って欲しい〟と云う願いも抱いていたのだと思いますが、しかし、この世間の厳しい競争社会に於いては勝ち組に名を連ねて欲しいと云う母の願いを私はヒシヒシと感じておりました。おそらく、世 間一般のご両親は、私の母親と大同小異でありましょう(そう云う母ではありましたが、「先ず、健康!」と云う標語で街の賞を貰ったことがありますが・・・)。

さて、私の幸せを願ってくれる母はもう居ません。しかし、今の私は特定の誰かからと云うことではないのですが、私は〝本当の幸せ〟を掴む事を願われているように感じております。はっきりとした感覚ではありません。そう思 わざるを得ないと云う感じのものなのであります。 どう云うことかと申しますと、願われているからこそ私は仏法を求め、仏法の法話を聞き、仏教書を見開き、そして無相庵ホームページを開設し、こうして仏法を発信させられているのだと感じていると云うことであります。嫌々 させられているのではなしに、〝せざるを得ない〟のであります。

今の感覚を少し誇張して説明致しますならば、2500年前にこの世に居られたお釈迦様を始めとして、親鸞聖人も、道元禅師も、井上善右衛門先生も、山田無文老師も、西川玄苔師も、米沢秀雄先生も、そして念仏者であった祖 父(塩田万市)も母(大谷政子)など沢山の仏法に関連して影響を受けた方々は勿論でありますが、これらの方々をこの世に生まれさせ、仏法を今の私に届けさせしめた宇宙の働き、つまり〝他力〟を、すなわち〝本願〟を感じざ るを得ないのであります。その『本願』とは、私に「人間に生れて来てよかったぁー」と云う実感を掴ませたいと云う強い願いだと思うのです。つまり、私に『人間としての生まれ甲斐』に出遇わせたいと云う働きの事を浄土門の 先輩方は『本願』と表現されたのではないかと私は考えております。

お釈迦様は小さな国ではありますが、その国の皇太子として生まれられ、29歳までは家庭を持たれ、幸せな生活をされていたと想像致しますが、永遠の本当の幸せを求めて城を出られました。その決心をさせたのが、まさに『本 願』の働きではなかったかと思われます。

また、親鸞聖人が20年間にも及ぶ比叡山でのご修行を経て、法然上人に出遇わせたのも、『本願』の働きではなかったかと思います。親鸞聖人が、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、親鸞が一人のためなりけり」と仰ら れたのは、宇宙誕生から親鸞聖人にまで至るまでの仏法の歴史を辿られた時に『本願』に行き着かれた慶びと感謝の表白ではなかったかと思います。

この私の無相庵コラムを読まれている読者の方々に仏法への関心を持たしめたのが、まさに読者の方々に『人間としての生まれ甲斐』を感じさせたいと云う『本願力』の為せるところだと思っている次第であります。

帰命尽十方無碍光如来ーなんまんだふつ


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No.1106  2011.06.13
他力とは?

これまでの三連続コラムで『往生』、『浄土』、『信心』、と、親鸞仏法の〝キーワード〟と思われる熟語の中で、世間一般に誤解されているであろうと思われる言葉を選びまして、私がこれまで多くの先生方に教えて頂いて来たところを 説明して参りました。何せ素人が申し述べているものですから、専門家の方達から見れば間違いがあるかも知れませんが、現時点での私個人の受け取り方であるとご寛容願いたく思っております。

そして今回は、親鸞仏法の〝キーワード〟中の〝キーワード〟とも言える『他力』に付きまして、説明させて頂こうと思いますが、この言葉こそ誤解されている代表かも知れません。
特に『他力本願』と云う四字熟語になりますと、知識人と言われている方(代表的には石原東京都知事)でさえ、本来の意味から離れた使い方をされております。しかし、広辞苑までも「もっぱら他人の力をあてにすること」と解説して いますから、浄土真宗で定義する意味と異なるからと言って批判することは出来ません(批判しても意味が無いことでもありましょう)。

信心の問題でありますから、親鸞仏法に関心を持たれていない方に誤りを指摘したり、批判致しましても詮無いことでもありますが、一番の問題は浄土真宗の信者と自認している方々が誤解している場合でありましょう。と云う私も、信心 を得られた方からしてみれば、全く間違っていることはないにしましても、不十分であることは確かでございますので、未だ未だ学んで理解を深めたいと思っているところでございます(前置きはこれ位に致します)。

『他力』を仏教語として捉えた広辞苑の説明は、「他人の力。ほかのものの助力。仏・菩薩の加被・加護を指す」となっております。全くの間違いではないと思いますが、仏とか菩薩と申しますと、一般の方はキリスト教の神様と同格の固 有名詞としての存在の様に受け取られかねないと思います。親鸞仏法の『他力』とは、宇宙全体まで広げて考える場合に私たち人間の感覚(視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚、第六感)で捉えられ感覚出来るあらゆる存在、現象、働き、力は 勿論のこと、私たち人間の感覚を超えた、すなわち第六感さえも超え私たちが量り知ることの出来ない働きをも含めた〝他力〟を指さすものであります。
第六感さえ超えた他力とは、端的には〝私に息をさせている力〟を私たちは何かを説明出来ません。また地球が何故自転しているのかさえ明確に分かっておりません。

恐らく、生命とは何か、生命は何故、どう云う原理で生じたのかも、人類には永遠に量り知ることは出来ないでしょうし、誰もが納得出来る説明も出来ないのではないかと思います。
この人間には説明出来ないと云う意味を昔のインド語(梵語)で、「ア・ミター」と云うそうであります。「ア」は、後に続く言葉を打ち消す言葉で、「ミター」は、量(はか)ると云う意味だと聞いております。ですから、「ア・ミター 」は、現代和訳しますと「量り知ることが出来な⇒説明することが出来ない」となるのでございますが、この「ア・ミター」が、中国で漢字に音訳されて「阿弥陀」となったようでございます。

従いまして、「他力」は、人間には量り知ることが出来ない力、人間が説明することが出来ない力なのであります。

さて、悟りに至るための仏道には自力聖道門と他力浄土門と二つの道があると言われております。現在の日本の仏教宗派として禅門と浄土門に二分されますが、一般的に禅門は自力、浄土門は他力と言われますが、禅門の方々は、ご自分が 歩まれている仏道を自力の道とは申されませんし、思ってもいらっしゃらないのです。
私が二十歳位まで法話を通してご指導頂いた妙心寺派管長であられた山田無文老師は、無相庵カレンダーのお言葉にある「大いなる ものに抱かれ あることを 今朝吹く風の 涼しさに知る」と詠まれていらっしゃいますが、この中の〝 大いなるもの〟とは〝大いなる力〟であり、〝量り知れない力〟、つまり〝他力〟に目覚められた歌を詠われていらっしゃるのであります。実際、ご法話の中では親鸞聖人のお言葉をよく引用されておりました。
また、南禅寺派官長をされていた柴山全慶老師も、禅の悟りと浄土真宗の妙好人のご信心は全く同じであるとはっきりと申されていたことを覚えております。
お二人共に、禅門の方でありますから、立場上、「禅門の悟りは他力に依る」とは申されませんでしたが、至られた境地は親鸞聖人と同じ、多くの妙好人方と同じものであったに違いないと推察しております。

最後に、もう誤解されることはないと思いまして親鸞仏法の〝他力〟を言い換えますと、広辞苑に説明されている「仏の力」、否、「仏」そのものだと言ってもよいと思います。

禅の大家である鈴木大拙師が、自力と他力に関する妙好人の浅原才市さんの下記の詩を紹介されています。自力と他力の捉えるべきところは、この詩に尽きるのだと思います。

        たりきには
        じりきもなし たりきもなし
        ただ いちめんの たりきなり
        なむあみだぶつ なむあみだぶつ

帰命尽十方無碍光如来ーなんまんだぶつ


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No.1105  2011.06.09
信心とは?

昨日の夕刊の一面に、『ソユーズ打ち上げ成功―古川さん、宇宙に出発』と云う見出しが踊っていました。東日本大震災のニュースが多かったからか、或いは私の関心が宇宙に無かったからか、前以ての情報を得ていなかったので、 「ほほぉー」と云う冷めた受け止め方しか出来ませんでした。しかし、古川聡さんが、47歳と云う比較的高い年齢で、宇宙飛行士に選ばれてから約12年4ヶ月かけて激しく厳しい訓練を続けた後の初めての宇宙飛行であること を知り、また彼の宇宙飛行士を目指した動機と、約12年間待ち続けた心情(信条でもあると思いました)を知り、深い感銘を受けました。そして、「これも親鸞仏法が捉えている信心と言えるのではないか」と思いましたので、 今日のコラムの表題に至ったのであります。

古川さんが飛行士になったキッカケ或いは経緯は、『先ずは、5歳の時にテレビで見たアポロ11号の月面着陸が子供心に印象に残っていた事、そして、中高生の時は、天文学や宇宙工学を勉強してみたいと考えていたこと、そし て、多分大学受験を前にして将来を選択しようとしている時、医師である叔父さんの「患者さんが良くなって退院していくときが一番幸せなんだ」という言葉に感銘を受け、自分も人の命を救う医師になることを目指すようになっ たそうです(東大医学部に入学し、東大病院の医師として勤務を続けていた)。しかし、医師になって9年経ったある日、テレビのニュースで日本人宇宙飛行士を募集していることを知り、脳天に稲妻が落ちたような衝撃を受け、少 年時代に抱いた夢が一気によみがえり、「是非宇宙飛行士になりたい」と決心した。』と云うことであります。

そして、12年間、宇宙に飛び立てる日が来るかどうかも分からないまま厳しい訓練に耐えて待ち続けた心情(信条)は、『自分でコントロールできないことは悩んでもしょうがない』と云うことだったようです。

私が上述の経緯と心情(信条)を聞いて、これも親鸞仏法の信心ではないかと思いましたのは、「信心とは何か?」と問い掛けられたら、自分はどう答えるだろうかと自問自答していたからであります。これまでお読みになられたお 方は一度ここで、「自分ならこう答える」と云うお答えを探してみて頂きたいと思います。

結構難しいと言いますか、なかなか言葉に纏めることは至難の技だと思われます。「信心とは・・・だ」と一般の方々にも分かり易く明言された先師・先輩・先生方にお出遇いしたことは私自身にも記憶にございません(それほど表 現が難しく、自分自身が体得すべきことだと思われます)。では、何時もの如く広辞苑にはどのように解説されているか調べましょう。
広辞苑では、『信心』とは「神仏を信仰して祈念すること。また、その心。信仰心。」となっておりまして、親鸞仏法でよく使われる『信心決定(しんじんけつじょう)』は、「疑念をさしはさまぬ信心。弥陀の救済を信ずる心が確 として動かないこと。」と解説されています。

米沢先生に『信とは何か』と云うご著書がございますが、これを読ませて頂いても、親鸞仏法の『信』や『信心』は、これこれだと試験問題に対する正解が分かったとは参りません。米沢先生も、ある法話で「私は香具師(やし;人 を騙して粗悪なものを売り付ける、テキヤみたいな商売人)の様に本当の事を隠している卑怯者だ」と言われています(勿論これはジョークですが)。でも試験問題に対する正解のようには表現出来ないことだと云うのが、親鸞仏法 の先生方の間の一般的な考え方ではないかと思います。

ただ私は仏法の素人として、私と同じ素人の一般の方々に少しでも分かり易い正解を求める努力を続けておりましたので、古川聡さんの経緯と心情(信条)が気になった次第であります。

私の最近の正解案は、『信心』とは「自分が人間に生れ出た意味を知り、それがゆるぎ無い心」であり、『信心決定』とは「自分が人間に生れた意味を知り、日々生まれ甲斐を実感し、毎日穏やかに眠りに就けるようになった状態」 と考えております。
この考えから申しますと、古川聡さんは、自分の生まれ甲斐は、自分が最も興味がある宇宙で、自分に与えられた能力で為し得る宇宙での仕事(東大病院の医師だった知識と臨床経験を生かした医学関係の実験等)をすることで、そ れがまた多くの人の役に立てる一番幸せな事だと確信されているようでありますし、また、自分より若い二人の日本人宇宙飛行士に先を越されても、「自分がコントロール出来ない事は悩んでもしようがない」と云う、仏法で説く『 縁起の道理(世の中は、自分だけの意思ではなく、その他色々な縁で動いており、自分の思い通りに動いていない)』を生きてゆく判断基準、信条にされていると思われますので、『信心決定』されているのではないかと考察した次 第であります。

米沢先生にしましても、井上善右衛門先生(『往生とは』と云う法話をお読み下さい)にしましても、『信心』とは「真実の自己に出遇う事、気付くこと」と云う表現を されています。「自分の自我を見詰め、その自我に押さえ付けられて隠れてしまっている真実の自己に気付 きなさい」と云うことであります。真実の自己とは、仏心とか仏性とも言われているのですが、真実の自己に出遇えたとしましても、自我が無くなってしまう訳ではないともお二人の先生は申されています。勿論、親鸞聖人も、「欲 も多く、怒り腹立ち、そねみ、ねたむ心多くひまなくして、臨終の一念に至るまで、とどまらず消えず絶えず」とおっしゃって居られます。従いまして、日常生活の真っ最中には、自我から起こる様々な感情が湧き起ることまで親鸞 仏法では否定されてはおりませんが、でも夜眠りに就く時までも引き摺り、悶々として穏やかに眠りに就けないと云う事になりますと、それは自身の心の中で一つの決着が着かないと云うことになりますので、未だ信心を決定してい ないと云うべきではないかと思います。古川聡さん、多分、自分が為すべき事をしっかり見据えて来て居られ、自分がコントロール出来ないことは悩まないと云う一つの決着を毎晩付けられて来られた故に、12年間を待ち続けられ たのではないかと思います。

競争社会であるこの世間で生きる私たちの場合、「縁に任せる」と云うのは何処か消極的なニュアンスがありますので、古川聡さんの「自分でコントロールできないことは悩んでもしょうがない」と云う一つの決着の有り方の方が、 心穏やかに眠れるかも知れません。人夫々に一つの決着となる自分自身の心にぴったり来る言葉を見付けられればと思っているところでございます。親鸞仏法では、それが「なむあみだぶつ」「なんまんだぶつ」「なまんだぶ」と云 うお念仏だと思うのでございます。
私は、親鸞聖人が掲げられておられた『帰命尽十方無碍光如来』と云うお名号の文字を思い起こしながら、時には感謝、時には懺悔の「なんまんだふつ」を口ずさむことがございます。

帰命尽十方無碍光如来-なんまんだぶつ


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No.1104  2011.06.06
浄土とは?

前回のコラムで『往生(おうじょう)』に付きまして「私のこの個体としての〝いのち〟が、永遠の〝いのち〟から偶々生まれ出たものであることに目覚め、納得・得心すること」すなわち、「自分の命が永遠の命であることに目覚めること」 であると仏教らしからぬ説明を致しました。 今回は『浄土(じょうど)』に付きましてまたまた仏教らしからぬ説明をさせて頂きますが、今回の説明も、私が多くの先生方の法話をお聞きして、私が今こうだと思っている『浄土』でございます(真宗学ご専門の先生方には間違いだと言 われると思いますが、悪しからず)。

広辞苑では、「五濁・悪道のない仏・菩薩の住する国。十方に諸仏の浄土があるが、特に西方浄土往生の思想が盛んになると、阿弥陀仏の西方極楽国を云う」と解説されています。 しかし、お釈迦様は死後の世界に付いて論じられなかった、つまり否定も肯定もされなかったそうですので、浄土思想はお釈迦様が亡くなられてから七百年位してから生まれた大乗仏教思想でもあると言われておりますので、広辞苑の解説はお 釈迦様の仏法そのものでは無いとも申してよいと思います。

その頃は未だ宇宙の存在も分かっておりませんし、地球が丸いことも把握出来ていない時代のことですから、地球から遠く遠く離れたところに浄土と云う国が有ると言われれば或いは素直に信じられたのかも知れませんが、現代の私達が『浄土 』とは西方十万億土離れたところにある国だと言われましても、俄かには信じることは出来ません。ですから、「死ねば西方十万億土の浄土へ参りたい」とは私も思えません。 しかし、「娑婆即寂光土(しゃばそくじゃっこうど)」と申しまして、悟りを開いたり、信心を頂ければ、私達が住んでいるこの世界(地球)が浄土なのだと云う考え方もその後には出て来たりしている訳であります。従いまして多少は科学 的思考も加えられて来ているのでしょうか・・・。

私は『浄土』は「区別・差別・競争のない世界」を表現した哲学上の世界だと受け取っています。言い換えますと、『どの命(いのち)も一つの寿(いのち)の世界』です。「自分の命が永遠の命であることに目覚めて、そして私の個体として の命が無くなってから還る世界だ」と今のところ考えております。

私達人間には科学的知識がありますが、人間の眼に見える世界だけが真実のものでは無いと私の敬愛する故井上善右衛門先生が申されていました。確かに私が死ねば、水と二酸化炭素と若干のリン酸カルシュウムと云う無機物(骨)になります が、無くなった訳ではありません。現象的には、氷が解けて水になったようなものであります。魂と云うものがあるかどうかは分かりませんが、この宇宙全体の真実は人間の知識では到底量り知ることが出来ないと考えるべきであります。 だからと申して、浄土が実在するかも知れないと云うことではなくて、量り知れないと云うことで、梵語の「ア・ミター」から『阿弥陀』と云う観念が出現したのだと思います。

私達は生きている中に『往生』致しますが、しかし、肉体がある限りは、煩悩が完璧に無くなることはありません(親鸞聖人も、死ぬまで消えないと申されています)。煩悩が消滅するのは肉体が無くなってからであります。往生の完成した世 界が『浄土』である、『一つの寿の世界』であると私は考えたいと思っております。多分、肉体を持っている中の往生を親鸞聖人は『正定聚の位』と仰ったのではないかと私は考えております。そしてその『正定聚の位』は、仏道を歩む私達の ゴールではなくて、浄土往生へのスタートであり、色々な経験を通じて『一つの寿の世界』を深めて行く仏道のバージンロードと云えるかも知れません。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ

追記:
後日、故井上善右衛門先生のご法話『仏道偶感(往生とは)』(平成9年1月19日ご講演)を法話コーナーに転載させて頂きますので、ご覧頂きたいと思います。


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No.1103  2011.06.02
寿(いのち)の命(いのち)

大木こだまと云う漫才師の有名な「往生しまっせぇー」と云うギャグは皆さんご存知だと思いますが、この『往生(おうじょう)』と云う言葉は広辞苑に「死ぬこと」、「どうにもしようのないようになること」と説明されてもいますが、 勿論元々は仏教用語であります。その広辞苑の仏語としての説明には「この世を去って他の世界に生れかわること。とくに極楽浄土に生れること」となっておりますが、これは仏法本来の、つまりお釈迦様のお考えでは無いと私は思って おります。

前回のコラムで私は、仏法は『宗教』ではなく『いのちの学問』だと申しましたが、その立場から致しますと、『往生』とは、「私のこの個体としての〝いのち〟が、永遠の〝いのち〟から偶々生まれ出たものであることに目覚め、納得 ・得心すること」と云うことになりましょう。すなわち、「自分の命が永遠の命であることに目覚めること」だと思います。永遠の命を『寿(いのち)』と言い、私の個体としての命を『命(いのち)』と申します。

この世のすべての生物を生かしているのが『寿(いのち)』であります。私を呼吸させているのも、街路樹が芽吹くのも、同じ宇宙全体を動かしている同じ一つの〝はたらき〟に依ってでありますから、私と街路樹は同じ〝いのちの仲間 〟だと言えると思います。また、地球を太陽の周りを廻らしているのも、同じ『寿(いのち)』の働きであるとも言えましょう。仏教で、「天と地と我は一体だ」と悟りの心を言い表すことがございますが、これも『寿(いのち)』のこ とを言っているのだと思います。

私は今、頭ではそう理解していますが心の底からそう思えていないと思います。日常生活で私と他人を区別しています。同じ一つの〝いのち〟とは思っておりません。それが証拠に他人の言動に腹立ちもしますし、国会の揉め事にも不愉 快になります。それは私がこの世に生れてから自我を育てて来たからです。そしてその自我を育てて来たのは人間に生れ『大脳』と言う自我の温床を授かった必然だと考えます。しかし、この自我は犬や猫、草木には無いと思われます。 自我の温床である大脳は『寿(いのち)』を感じさせてくれる人間だけに与えられた大切なものでもあると思います。

人間に生れた限り、生きている間に「私の命は寿から頂いた、貴重な命であること」に目覚めたいと思います。否、目覚めて欲しいと云う願いがこの私の命に籠められているのだと思います。そして、その願いを親鸞聖人は『本願(ほん がん)』と仰ったのではないかと思いますし、是非とも生きているうちに親鸞聖人が為されたであろう『往生』をしたいと思っている次第であります。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1102  2011.05.30
仏教は宗教では無く・・・

2年前の年初から米沢先生のご著書を読み進めて参りました。これからも読み続け、勉強し続けて参りたいと思っておりますが、今何を勉強して来たかと振り返りますと、「仏教は宗教ではなく、人間に生まれて来た限り誰でもが習得 しなければならない学問である。強いて命名するとしたら〝命の学問〟だ」と云うことを教えて頂いたように思っております。

「仏教は宗教ではない」と申しますと突拍子もないことだと思われるかも知れませんが、『宗教』と云う熟語を広辞苑で、「神または何らかの超越的絶対者、或いは卑俗なものから分離され、禁忌(きんき)された神聖なものに関する信 仰・行事またはそれらの連関的体系」と解説されております事を根拠にして申し上げております。
そして、『学問』は科学・哲学の総称でありますから、世界・人生の究極の根本原理を取り扱う仏教、特に親鸞の仏教は寿(いのち)と命(いのち)を命題にした〝いのちの学問〟と分類した方が、正確ではないか、そして その方が親鸞仏法を学ぶ私自身、親鸞聖人の歩まれた仏道を迷うことなくマッシグラに進むことが出来るのではないかと現時点では考えております。

親鸞聖人の教えは、決して仏様とか阿弥陀如来とか云う絶対者を信じることではありませんし、そして何かを信じることでもないと私は思っています。宇宙の仕組み、宇宙の働きと自分との正しい関係を、過去に実在した釈尊や七高僧や 親鸞聖人等の先哲が残された考え方を通して、自ら学び進めてゆくべき哲学の道だと私は思います。信じるとか信じないとかではなく、考える力を頭脳に持って、人間として生まれでた一つの存在として、生きているうちに必ず自分なり に究めなければならない学問だと思います。

学問でありますから、これで終わりと云うことはないと思います。頭脳の働く限り学び続けて参りたいと思います。そして、私はその勉強過程をこの無相庵ホームページで公開して参りたいと考えている次第でございます。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだふつ


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No.1101  2011.05.26
ただなんとなき念仏者

浄土真宗には念仏者の有り様として「ただなんとなき念仏者」と云う表現があるそうです。如何にも念仏者らしい風情を見せる人ではなく、しかし他の人からその方が念仏者であると聞いた時、「ああ成程、そう云えば、 どことなく普通の人とは少し違う感じがしていた」と思える人のことだと思います。

私は信心深い念仏者ではございませんが、いわゆる普通の日常生活に於けるビジネスの上での付き合いは勿論ですが、友人・知人との付き合いでも、仏法を拠り所にして人生を生きている事を表面に出すことなく参 りました。そしてそれは現在も変わっておりません。お付き合いに宗教を話題にするべきではないと云う考え方を持っておりますし、また付き合う上で宗教の話をする必要が無い場面ばかりだからだと思います。従いま して、無相庵ホームページを開設していることも殆どの方は今もご存じでは無いと思っております。特に現在住んでいる街では、塾もしていましたし、今は小学生達のテニスのコーチ等もしていますので、付き合いは結 構広くなっておりますし、自宅で宴会をしたり、クリスマスパーティー等に近隣のご家族を招待することも多いのですが、私が仏教を発信している人間とはご存じでは無いと思います。

でも、私自身は「ただなんとなき念仏者」には程遠いと自覚しております。「ただなんとなき念仏者」になるには信心を深めてゆき、自然にそうなって行くものだと思います。「ただなんとなき念仏者」になる為に頑張ると云 うのは若干方向が間違っていると思いますが、目標では無く、念仏者の理想の姿として忘れずに生きてゆきたいと考えております。

私の敬愛する井上善右衛門先生は、学者であり、大学の教授を職業として居られましたが、晩年には神戸商科大学(現在は、姫路工業大学、兵庫県立看護大学と合併して兵庫県立大学と云う総合大学になっています)の 学長までされましたから、宗教臭さがあれば、周りの人々から敬遠されるのが世の常でありますから、一般の方からは「ただなんとなき念仏者」として尊敬される存在であられたのだろうと思っております。

米沢秀雄先生も医者と云う職業を持たれていましたが、「ただなんとなき念仏者」と云う言葉が非常に好きだとご著書(米沢秀雄著作集第八巻)の中で申されています。「私は後生ねがいである念仏者であるという看板を かかげるのでなくて、そういうものを消して消して、〝ただなんとなき念仏者〟、そういうところまで至りませんと、真実に信心に目覚めた人ということが出来ないのでないかと、こう思われます」とも申され、禅門で も道元禅師が「悟ったという迹(あと)を消して消して消して、生き続けていくかぎり、悟ったというところに腰を落ち着けないことだ。悟り悟っていって、しかも悟っていない初めと同じであるけれども、何か違うの である」と云う意味の言葉を残されていると仰っておられます。

千利休が茶道を究める道筋に『守破離(しゅはり)』と云う三段階があると言い残しているそうです。辞典には『剣道や茶道で、修業上の段階を示したもの。守は、型、技を確実に身につける段階、破は、発展する段階 、離は、独自の新しいものを確立する段階。』と説明されていますが、念仏の道も、最後は念仏臭さ、仏教臭さから離れなければならないと云うことではないかと思います。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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