No.1080 2011.03.14
東日本大震災に思う
先週の金曜日にマグニチュード9.0の大地震が東北・関東地方を襲いました。
無相庵読者の中にも東北地方にお住みの方々もいらっしゃいます。ご無事をお祈り致しますと共に心からお見舞いを申し上げます。今回の大地震のエネルギーは16年前に私が経験した阪神淡路大震災の180倍(マグニチュード8.8の時点)と聞いておりますので被害は甚大なものになるものと思われます(宮城県だけで死者が1万人を超えると県警の発表がありました。)。 大津波のまさに進行形の映像を拝見していまして、自分がその場に居るかのような恐怖を覚えました。この世で現実に起きている事とは思えない程の文字通り想像を絶する凄まじい自然災害であります。
人生何が起こるか分からないと申しますが、それが本当に現実になりました。私はたまたま地震の二日前に東京出張がありましたが、クライストチャーチの地震がありましたので、出張前に「関東大震災に遭遇することもあり得るかも知れないな・・」と思いつつ出かけましたが、まさか二日後に大地震が実際に起こるとは・・・と云う想いであります。
私は平生から地球は決して人類の為にのみあるのではないと言い聞かしてはおりましたが、大津波が駐車場や民家を街並みを飲み込み洗い流していく様を見ながら、不謹慎ではありますが、これは大自然が見るに見かねた末の人類へのメッセージではないかと云う考えが過(よぎ)ってしまいました。
この大震災は日本国民全員の共業(くごう、共通の宿命)だと受け止めるべきものであります。将来振り返った時に、この大震災は国民全員の人生を大きく変えたことになるものと思います。 先ず今回の大震災は混迷を深める日本の政治状況に〝待った〟をかける事になると思います。今回の大震災がなくとも日本は挙国一致して立ち向かわねばならない難局に立たされているにも関わらず、与野党の政治家達は党利党略の無用な意地を張った舌戦を繰り返しているだけでした。このままでは対立軸も無いまま結果的には民主党政界再編の道しか見えない解散総選挙しかなかったと思いますが、それは今や許されないことになりました。ひょっとしたら統一地方選挙も延期になり、東京都知事選挙も延期されるかも知れません。否、そうすべきでありましょう。
10兆円は超える損害を齎す今回の震災に加えて政府の示す予算の執行が為されなければ、東北・関東だけではなく日本中の国民生活は成り立たなくなりましょうから、国会は捻じれている訳にはまいりません。この状況になったからこそのこの際、密かに高い志を持つ与野党議員が一致団結して党派を超えて国難に立ち向かって貰いたいと切に願うばかりであります。そして志の高い一流国家への転換点にすることが、今回の大震災で命を失われた方へのせめてもの供養になるのではないかと思います。
しかし、まことに残念なことですが、今朝の朝刊記事に『政権対応へ批判―自民党本部で噴出』と云う見出しがありました。まさか、この期にそんなことはしないだろうと思っていた私は大きなショックを受けると共に、日本が誇り高い国家になるのには数十年は掛かる程に落ちぶれてしまっているのだと大震災のショックが倍増した次第でありました。
ここは、やはり党派を超えて若い政治家達の奮起を望むしかありません。合掌ー尽十方無碍光如来(じんじっほうむげこうにょらい)
No.1079 2011.03.10
愚か者
私は一昨日66歳になりました。
私は26歳で結婚し、36歳で初めて全身麻酔の手術(胆のう摘出)を受け、46歳で脱サラし、56歳で全従業員を解雇する経営危機に遭遇しましたので、『?6歳』が人生を左右する年回りのように思っています。こう云う考え方は親鸞聖人の教えにはそぐわない、迷信に惑わされたり、真実真理に基づかない外道の考え方であることは頭で分かっていながら、消し去ることが出来ない私です。結果はどうなるか分かりませんが、『6』が重なる66歳、悪い方では 死ぬことも有り得ますし、善い方では10年続いている経営危機を脱出することになるかも知れないと思っているのが実態ですので、仏法に学びながら、仏法を発信しながら、入試合格を神頼みする人々を批判出来る人間ではないなぁー、愚かな奴だな ぁーと思っているところです。
でも、多分、親鸞聖人はそう云う愚か者に「私もそうだよ」と寄り添って下さるだろうとも思っています。そして何事も『なむあみだぶつ』と受け取って行くことだな、と思い直すと心は軽やかになっていますのでご安心下さい。
合掌
No.1078 2011.03.07
『本能寺の変―427年目の真実』に学ぶ
表題は本能寺の変(1582年)が起こった427年後の2009年に明智光秀の子孫が出版した本の題名です。私はこの本を読んで『本能寺の変』が生じた経緯が簡単なものではなかったことを知ると共に、織田信長の一瞬の行為が信長自身の人生を変え、また日本の歴史をも大きく変えてしまうことになった事に大きな驚きを覚えました。そして、歴史がそうであるように、私たちの人生も、私たち自身の一瞬一瞬の選択や言動が私たちの人生を決めて行っていることにあらためて気付かされた次第です。
戦国時代に関する歴史の詳細を殆ど知らない者でも明智光秀と云えば『主君織田信長を裏切り、闇に乗じて本能寺を急襲して殺害した謀叛人』と云うことだけは知っていると云うのが現実であります。それ故に、明智家の子孫は明治になるまで、『明智(あけち)』を名乗らず、『明田(あけた)』として生き延びてきたと云うことも私は今回知った次第です。
『本能寺の変―四百二十七年目の真実』(プレジデント社出版)は、『謀叛人』『逆賊』と云う修飾語が付いてしまう〝明智光秀〟が織田信長に対する私怨だけから本能寺の変を起こしたのではない事を、明智憲三郎氏(64歳、現在三菱電機系の会社常務取締役)と云う光秀の子孫が当時多く書き残されていた文書(日記や日本見聞録等)を綿密に比較調査研究した末に著わされた力作であります。
明智憲三郎氏は、光秀が本能寺の変を起こした理由は、通説となっている私怨【信長から悉く蔑(ないがし)ろにされた恨み】からだけではなく、場合に依っては親族や曾ての味方をも攻め滅ぼす信長に対して、光秀は土岐明智氏と云う由緒ある氏族の血が断たれるかも知れないと云う危機感を抱いていた故に、自分が信長に討たれる前に先手を打たねばならなかったからだと云うことが大きな経緯としてあり、そしてその光秀の背中を最後の一押ししたのが、本能寺の変の数日前の足蹴(あしげ)事件(何かの会議の席で信長に異を唱えた光秀を激怒のあまり足蹴にしたと云う記録が残っている)だったと云うのであります。
私は今回初めてその足蹴事件が事実だった事を知ったのですが、想像するに、上司と部下の関係において、それまで良好な関係にありながら急に足蹴にするはずがなく、それまでも足蹴にすることはなくても事ある毎に厳しく叱責していた可能性はあると考えます。しかし、その足蹴と云う光秀には極めてショッキングな行為が光秀の背中を一押しして信長暗殺を決心させたのだと思います。
人間と云うものは、何か特別な事をする場合の理由や原因は一つだけではない場合が多く、背中を一押しする決定的なキッカケともいうべき出来事があるものだと思います。もし織田信長が光秀を足蹴にしなかったら本能寺の変は起こらず、本能寺で殺されたのは徳川家康だった可能性が高かったのです(元々は天下統一の為に信長は徳川家康を三河から安土や大阪、堺に招き、最後は本能寺に招いて明智軍勢に殺害させようと云う計画でした)。そうすれば、織田信長の天下が続き、豊臣秀吉の天下も無く、江戸幕府も生まれず、260年もの鎖国時代もなく、明治維新も無かったかも知れません。
一つの足蹴が日本の歴史を大きく変えてしまったと言っても過言ではないでしょう。勿論、この一つの足蹴に至る無数の縁も働いている訳でありますが、一つの出来事が左右するのは国の歴史だけではなく、私たちの人生もまさに一瞬一瞬の出来事や言動、その選択が私たちの人生を大きく左右していることは人生を詳しく振り返りますと実感出来ることではないかと思います。
一瞬一瞬が人生を決めていると常に考えて日常生活を送ることは出来ませんが、自分が生活している日本の将来もまた自分の人生も、今目の前の一瞬一瞬に依って大きな変化を起こすものであることを時々は思い出したいものであります。
この『本能寺の変―四百二十七年目の真実』は小説よりも人生の勉強になります。明智憲三郎氏は本能寺の変前後の史実を私たちに提供してくれながら、明智家の子孫としての戦国時代を読み解いておりますが、私たちは私たちなりにその史実から別の視点から推測出来ることもあります。 秀吉が、本能寺の変の4か月後に部下に書き残させた『惟任退治記(これとうたいじき)』と云う書物があるそうです。〝惟任〟とは明智光秀が朝廷から賜わった苗字だそうです。この書物は信長の弔い合戦で秀吉が光秀を討ち取った宣伝書だそうで、これに依って光秀を逆賊に仕立て上げたと明智憲三郎氏は考えていますが、この著書に示されている色々な史実を知ることに依って、私たちが抱いている豊臣秀吉や徳川家康のイメージが全く変わることも有り得ます。是非読まれることをお勧め致します。
合掌ーなむあみだぶつ
No.1077 2011.03.03
死よりも大切な覚悟
左眼緑内障の手術治療に専念させて頂きましたので、永らく無相庵コラムをお休みしておりましたが、漸く退院して通常生活に復帰することが出来ました(入院期間:2月16日~3月1日)。
これからも引き続きまして木曜と月曜日のコラム更新をさせて頂きますので、宜しくお願い申し上げます。入院中のベッド上の生活は午前6時起床、午前7時朝食、午前8時診察、正午昼食、午後6時夕食、午後9時消灯と云うサイクルで一見忙しそうではありますが極めて退屈でありまして、三度の食事が何よりの気分転換でございます。殆どはテレビ視聴 で時間を穴埋め致しましたが、数冊持ち込んだ書籍にも時々眼を通しました。今日はその読書の中で印象深く心に残っている、鈴木大拙師の著書『日本的霊性』の中から、「死ということ」と云う一節を転載させて頂きます。仏法を求める私たちは、「 死に対する覚悟さえ出来れば、平気でこの人生を渡っていける」と考えがちではないでしょうか・・・。少なくとも私はそのように考えていた時期がありました。「死は一番恐れることだから、死さえ乗り越えられたら怖いものは無くなるだろう」と云う考 え方は極一般的だと思いますが、その考え方を覆してくれたのが、下記の鈴木大拙師のお言葉であります(昭和19年初夏の講演内容ですから太平洋戦争中のお言葉です)。
鈴木大拙師の著書からの転載―
近頃よく「死ぬる」ということをきく。「死にさえすればいいんだ」と、こういうふうに思っている者が多いようである。前線にいる兵隊さんなども、ただ死ねばいいんだと、死ぬことの競争をするというようになっている傾向もあるということだ。そ れから銃後(じゅうご:直接戦闘に加わらない一般国民)の人でも、年とった者はとにかくとして、純粋な心の子供までもやはりただ死ぬるということについて無闇な考えを持っていることがあるようである。
まだ国民学校をも出ないと思う子供らのうちさえ、敵が上陸でもしたら、どういうようにして自分達は死のうかしらというような、そういう話を子供がしているということを聞いた。これははなはだしい間違いだと自分は言い切っておく。戦(いくさ)に行けば、 もちろん死ぬることでもあるし、また死ぬるについてかれこれと躊躇(ちゅうちょ)すべきではあるまいが、これは消極的な考えである。それからここではまだ十分に我というものが、取れていない、自分というものが出ている。宗教的な考えを持つ人ならば、そんな 消極的な捨鉢的(すてばちてき)な考えには動かされぬ。なぜ、ただ死ぬると云うことを言わないで、自分の持っている任務・所作・仕事・職責などというものを遂行するのが第一義だと考えないのだろう。自分の任務を果たすということが、どこへ行っても第一番に考 えなくてはならぬことで、それから出てくる死とかいうようなことは、第二義の事で、そんなことに心を煩わすべきではないのである。
当面の仕事に対して全幅の精神を投げ込む、その仕事に成りきる、三味(ざんまい)の境地に入る、無念・無相になる、それがいちばんだいじなことで、死のうが生きようが、そういうことはその場合においては問題でないのだ。こういうふうに考えてゆくのが、 非常時のみでなく、いつでも、われらの当然もつべき覚悟だと自分は信ずる。非常時であるから死を恐れないとか、平和な時であるから死を怖れるというように、問題を死の上に注ぐことをしないで、平時でも、戦時でも、また常時でも、非常時でも、なんでもかまわない、すべきことはいつでもあるのだから、そのすべきことに 三昧になって、それに成りきってそのほかの事を考えない、結果は死ぬことになるかも知れず、生きることになるかも知れず、苦しいかも知れずあるいはそうでないかも知れない。そういうことはどうでもよいので、すべき仕事をする。これがいつでも 人間の心構え、集団的生活をしているわれらの心がまえとして、一般に妥当性を持つものである。
―転載終わり
すべき仕事をすることが一番大事だと云うことであります。仕事と云うことですから、「ひとに仕える事、つまりは人の役に立つ事」であります。死を覚悟することよりも、只今目前の仕事に没頭する覚悟を持つ、これが『仏法の求める心』、『禅の心 』、『自然法爾(じねんほうに)の心』なのだとあらためて鈴木大拙師に教えられたことであります。
合掌ーなむあみだぶつ
No.1076 2011.02.14
先ずは憲法改正
自民党は党是として『憲法改正』を謳っているが、結党以来一度も手を付けていないし、現在も棚上げしている。国民の支持が得られないと考えているからであろうか、それとも、日本を守ること(国防=国民の命と財産を守り、領土を守ること) が一番重要なはずなのに、日本の最重要課題を経済に絞っているからなのであろうか・・・。
昨日の或るテレビ番組で、憲法改正の是非に関するディスカッションが放送されていたが、司会者2名とパネラー8名の合計10名全員が憲法改正を積極的に支持していた。その理由と根拠は、「自分の国は自分で守るべきだと云う事」と、「日本 国憲法は戦勝国アメリカから押し付けられ、自分で自分を守ろうとしても手足を縛られているから守れない屈辱的なものである事」が一致した見解であった。
日本国憲法が当時の日本政府が起草したものではないことを知っている国民は案外少ないのではないかと思う。若者に至っては日本がアメリカと戦争して敗戦したことさえも知らない者も居るだろう。日本国憲法は平和憲法だとして死守しようとす る一部政党もあるが、この日本国憲法は戦争に突っ走った日本の過ちを咎め、今後一切武力を行使させないことを目的にアメリカが起草し敗戦国日本に押し付けた憲法なのである。しかし、半世紀以上経過した今、アメリカは日本が武力を持つこと を放棄させた憲法9条を改正して、日米同盟を普通の同盟(お互いに守り合う対等な関係)に進化させたいと考えていることも国民は知らねばならない。
それは、オバマ政権の中央情報局(CIA)を統括する国家情報長官を務めたテセニス・ブレアー氏の提言が2月8日の神戸新聞に『憲法9条の改正促す』と云う記事に掲載されたこと等からも明らかなのである。私も憲法改正論者であるが、それは武力を保有して戦争を外交の最終的な手段と考えるからではない。様々な考え方を持つ国々を相手にする外交交渉に当たって素手と云う無防備では、国民の生命財産と日本固有の領土を守れないことを歴史が証明しているから である。
ただ、憲法改正に当たって、アメリカが日本を対等な同盟国としてではなく、軍備に要する経済的負担と人的負担を衰えたとは言え今なお経済大国である日本に求めているだけであることも知っておかねばならない。アメリカが日本をアメリカの第51番目の州にしたいだけな のである。憲法改正に当たっては、アメリカ軍基地をどうするか、中国、北朝鮮、ロシアの核に備えて核保有を認めるかどうか等などを国民の総意で決めておく必要がある。
その上で、外交能力を高めて、アメリカ以外の国々とも安全保障条約を結び、世界の平和に貢献する国にならねばならないと思っている次第である。
水曜日から入院し、退院は3月初旬になりそうです。それまではコラムはお休みとさせて頂きます。
合掌ーなむあみだぶつ
No.1075 2011.02.10
普通の有難さ
3年前の10月に引き続いて昨年11月に2回目の緑内障治療手術を受けました。緑内障と診断されて約10年になりますが、初期の頃、会社が大ピンチの時と重なり、治療費を支払う費用をケチりました結果、眼圧が高いまま過ごした為に視野をどんどん失っていたことになります。今や視野は8分の1程度で、その見える範囲も霧がかかったようで、緑内障の左眼だけでは歩行は困難と云う有様です。
来週もう一度手術を受けますが、手術を受けましても視野が回復することはなく、視野が今以上に狭くなっていく速度を少しでも抑えるための施術であります。幸い片目は今のところ健全で、日常生活に決定的な不都合はありませんが、遠近感覚が損なわれた為に車の運転は出来そうにありませんし、得意のテニスはとても出来ませんので、普通に生活出来ていたことが如何に凄いことであったかをあらためて知らしめられています。失って初めて知ると偉そうなことを申したことがありますが、失わないと本当のところ、分からないものですね。
それにこの度、眼の構造と眼が見えている原理を知ることとなり、眼が如何に精巧に設計されているかも知らされました。眼だけではなく、人間の全ての部位は人間の想像を超えた精密な設計が為された結果です。これを設計したのは人間ではありません。知れば知るほど人間業(にんげんわざ)で出来ることではないことが分かります。その精密設計の働きを仏法は『仏(ほとけ)』と呼び、インドの言葉で「想像を超えた」と云う意味の『アミター』を漢字に音訳した『阿弥陀(アミダ)』と私たちは学んで来た訳であります。
私たちは日常生活をしていてついつい色々と不足・不満を感じてしまいますが、やはり、今を有難く受け止めて歩いて行きたいものであります。
合掌ーなむあみだぶつ
No.1074 2011.02.07
仏法に聞くー大相撲の八百長問題
大相撲の八百長問題がマスコミを賑わしています。これまでも幾度となく八百長を認める元力士の告白や告発があっても日本相撲協会は一切認めて来ませんでしたし、裁判になっても証拠不十分で協会側が勝訴してきました。しかし今回は文明 の利器である携帯電話の存在に依って動かぬ証拠が突き付けられた大相撲協会も、さすがに八百長があったことを認めざるを得ませんでした。しかし、その協会理事長(放駒親方)の「過去には一切無かったことで、新たに抱かれた問題と認識 しています」とのコメントは組織のトップが云うべきものでは無かったのではないかと思います。
一つの組織のルールを作る場合、性善説・性悪説が問題になりますが、性善説・性悪説の二者択一の問題ではなく、人間と云うものは誰しも自分が可愛いいと云う自己愛煩悩を持っており、縁に依っては、どんな行動を起こすか分からない存在 でありますから、そのような縁が整わない工夫をする責任があると思うのです。これまでの歴代協会幹部も含めて八百長なんてしない力士ばかりだと本当に思い込んでいたとしたら、自己分析すら出来ない異常な人間の集まりだったとしか言え ないと思います(そんなことは有り得ないと私は思っていますが・・・・)。
聞くところによりますと、関取の月給は横綱282万円、大関235万円、関脇・小結 169万円、平幕 131万円、十両104万円、幕下以下は月給ゼロだそうです。今回八百長を認めた二人は主として十両の下位、つまり月給ゼロ円の幕下に転落する可 能性が高い地位で相撲を取っていた関取です。104万円がゼロ円になるなら、例えば、負け越しが決まるかも知れない後半戦、一勝が欲しい為、相手関取がもし勝ち越しか負け越しが決まっていたら、相手関取に数十万円支払っても幕下に落 ちるよりましですし、相手もお金が入る訳ですから交渉は纏まり易い状況になります。
大関と三役の差は66万円、三役と平幕の差は38万円、平幕と十両の差は27万円。サラリーマンでは考えられない月給差である。7勝7敗の力士の勝率が79.6%と云うデーターを協会幹部達が勝利への執念に依るものだと安直に考えて いるとしたら、今回の問題は再発すると思います。私の会社で曾て経理担当者の不正経理処理がありましたが、「経理処理作業は必ず二人で行わせて間違いが起こらないようにチェックし合う態勢にしておくのが経営者の知恵と部下への愛情であること」を京セラ創業者稲盛氏の著書から教えら れ、経理担当者を責める気持ちを抱いていた私は大いに反省させられ、社長であった私の責任であると思いましたし、今も時々後悔の念が湧いてきている次第であります。
大相撲は数名の力士に八百長の疑いを否定出来ない限りは場所を開けないとして3月の春場所を中止致しましたが、元の力士達の中には殆どの関取が八百長相撲をしているとさえ告白・告発している。協会幹部達が八百長を起こさせた自分達自 身の責任に思い及ばず、力士を除名処分するだけで事終われりとするようでは、大相撲に将来は無いことになると思います。日本が誇れる伝統文化である国技でありますから、歴史的な大変革を行って存続出来るように努力する責任が、現在の 協会幹部と既に引退した歴代幹部にもあると私は思います。
膿を出し切らないと本場所は開けないと理事長が言っていますが、何を以って完全に膿を出し切ったと言えるのでしょうか。プロが見れば八百長相撲かどうかは分かるはずだと思われます。審判委員とは別に無気力相撲と八百長相撲を見極め る審判を置くとか、大相撲ファンが納得する何らかの有効な対策を構築出来た時、再出発すればよいと私は思います。
自分の中の煩悩に目覚め、他の人にも同じ煩悩がある事を認めることが、対人関係を明るくする唯一の道であることを仏法は説き聞かせてくれます。また、煩悩を無くすことは出来ませんが、煩悩を暴走させてはならないとも仏法は教えてくれ ます。
合掌ーなむあみだぶつ
No.1073 2011.02.03
快適な人生を過ごすためのソリューションー追加編(2)
〝快適な人生を過ごすため〟と申しますと仏法から縁遠い話のように感じて居られるかも知れませんが、実はそれを仏法的に申しますと、禅門的には「悟りを開くために」と云うことでありますし、浄土門的に申しますと「信心獲得(しんじんぎゃくとく) するために」と云うことであります。
そこで仏道を歩み始めた時に、「自分にも悟りが開けたと思える決定的な一瞬があるのではないか」と思い込む人が多いのではないでしょうか。実際、私が20歳頃の時にお聞きした臨済宗妙心寺の官長を務められた山田無文老師が何回かされた法話の中で、 「白隠禅師は夜明けの鐘のゴーンと鳴る音が聞こえてきたときに忽然と悟った」とか、「中国のある禅僧は庭の掃除をしていて、掃き集めたゴミを竹藪に捨てた時に、小石が竹に当たった〝カチッ〟と云う音を聞いた瞬間に悟った」と云う話がありましたの で、「禅門だけでなく、仏法を学んでいると悟る瞬間のようなことがあるのだろう。浄土真宗でも信心獲得の瞬間があるのかも知れない」と漠然と考えるようになっていました。その瞬間を『回心(えしん)』とも言いますが、私は今もその〝回心の瞬間〟があるかも知れないと云う気持ちを完全に失くした訳ではありません。私の敬愛する故井上善右衛門先生は、NHK教育テレビの『こころの時代』のインタビューで「その瞬間が おありになりましたか?」と聞かれた時、「私が鈍感なのか、そのような瞬間はありませんでした。でも、確かに池山栄吉先生(大谷大学教授、初めて歎異抄をドイツ語訳された方)のように何年何月何時何分にその瞬間があったと言われる方もいらっしゃ います。それぞれではないでしょうか。」とお答えになっておられました。本当に夫々、個人個人ではないかと思います。
ただ、その瞬間を求めて坐禅をしたり、聞法を重ねると云うのは如何なものかとも思っております。むしろ、「聞法が私の楽しみ」とか、「坐禅をするのが私の生きがい」と云う気持ちを抱きつつ人生を歩み始められたら、それで十分ではないのかなと私は 思っております。そういえば、もう何年か前のことですが、無相庵コラムを読まれた或る仏教団体の方から、信心獲得の資格証明を出したいと云う申し出を頂いたことがあります。勿論丁重にお断り致しましたが、そう云う資格を大切にする仏教教団もある のですね。勿論、禅門には『印可』と云う師匠が弟子の悟り具合を認定する儀式があるようですが、飽くまでも私の個人的な見解ですが、悟りも信心獲得も他人が判定するものではなく本人が感じるもので、極論すれば他の人から信心獲得していないとか、 悟りには程遠いと思われてしまうことに殊更気遣いする必要はないのではないかと思います。
その人が本当の自分に気付き、充実した人生、つまりは快適な人生を過ごしている実感を抱きつつの日常生活が実現しているかどうかは本人自身のみが感じられるものだと思います。信心獲得の証明が欲しくて、他人の前でそう見えるように繕ろおうと思え ば出来るのではないか・・・でも、自分を偽ってまでそんなことをしても何にもならないのではないかと思います。何のための仏法かと云うことではないかと思います。
「往生は一人一人のしのぎなり」と蓮如上人の言葉がありますが、そのような事を言われているのではないかと思います。
合掌ーなむあみだぶつ
No.1072 2011.01.31
快適な人生を過ごすためのソリューションー追加編
一旦完結させ得たと考えていた『快適な人生を過ごすためのソリューション』でしたが、一昨日のNHK衛星第一テレビの番組、『イチロー 僕の歩んだ道~特別対談「大リーグ10年」』を視聴した後で追加編を書きたい気持ちになりました。 私は、『快適な人生を過ごすためのソリューションー(1)』で、イチロー選手よりも親鸞聖人の方が快適な人生を過ごしたのではないかと申しました。しかし、どちらが快適な人生であるか何て比較すべきものではないと考え直しました。
ここであらためて快適な人生に付いて私の考え方を申しますと、それは決してイチローのような高額所得者(イチローの月給は約1億2千万円)になることではありません。「自分はこれをやる為に生まれてきたのだ」と云う仕事や役割、生き方 に出遇い、且つ、自分だけではなく、周りの人々とその喜びを分かち合える人生を云うのだと思います。その観点からしますと、好きで得意な野球に出遇い、バッティング道を究めたいと云う情熱を燃やし続けているイチロー選手は番組でも充実 感一杯の表情をしており、また自信に満ち溢れており、私たちが快適な人生を過ごすためのヒントを与えてくれているのだなと考えたのでありました。
冒頭の番組の中で、イチロー選手が200本以上のヒットを10年連続達成と云う大リーグ記録を達成したことに関して、ある元大リーガーが、「イチローのような記録を打ち立てるには、才能だけでは駄目で、才能以上に強い〝欲望〟が要るし 、そしてそれ以上の〝情熱〟が不可欠だ。」とコメントしていました。また、イチロー選手の安打に多くの内野安打(普通の選手は一塁でアウトとなり、安打にはならない)が含まれていることに関して、「足が速いと云う才能に恵まれているか らであることは勿論だが、内野ゴロを安打にするには運にも恵まれていると云うことだ。」とも発言していました。
私はこれまで3編に亘ったコラム『快適な人生を過ごすためのソリューション』では、「自分の得意な事、好きな事を見付けることが快適な人生を過ごすためには絶対に必要なことだ」と申して来ました。そして、それだけでは必要十分条件では なく、人間関係能力と運も必要であり、自分の命がどのようにして今在るか、自分とは何かを訪ね、オンリーワンの命に目覚める必要があると付け加えましたが、未だ少し言い足りなさを抱いておりましたが、その言い足りなかったことが上述の 『欲望』と『情熱』と云う単語を聞いたときに、「これだ!」と膝を叩いたのでありました。
そして、快適な人生を過ごす為に必要なことを言い直すならば、『才能・素質』、『欲望』、『情熱』、そして『人間関係能力・人格』、そして『運』だと云うことになるのではないかと考察致しました。さて、上述した中のその『欲望』ですが、これは、誰にも出来ない事をしたい、後世に名を残したい、有名になりたいと云う名誉欲であったり、そして多額の報酬を得てお金持ちになりたいと云う金銭欲等が主なものです。
仏教は元来、食欲、性欲、睡眠欲も含めてこの『欲望』を否定するものではありません。不必要なまでに欲望を膨らませる『煩悩』をさえ、積極的に肯定はしないまでも、この煩悩があるからこそ、仏法を求め、菩提(悟り)を求めるのであると 云う考え方を致します。欲望があるからこそ、良い学校に進学したいと勉強するのですし、将来は有名なプロ選手になりたいと願って、松坂選手、浅田真央選手、石川佳純選手、斎藤祐樹選手、石川遼選手のように小学生時代から、好きで得意な スポーツの練習に励むのではないでしょうか。私は彼達、彼女達とはレベルはかなり異なりますが、軟式テニス(現在はソフトテニスと言われています)界で有名選手になりたいと小学生の時から努力して、熊本県と兵庫県のトッププレーヤーに なりました。そして次の『情熱』です。この情熱に関しましては、昨夜更新致しました法話コーナーの『心の詩―人間成就』を先ずはお読み頂きたいと思いますが、この『情熱』は私がオンリ ーワンの命に目覚めると申した事を元大リーガーが一般的な言葉で表現してくれたことになります。本当の自分に目覚める、人間として生まれた自分の命の値打ちに目覚め、「何としてもこの道を究めたい。一生かけて究め尽くしたい」、「これ は自分に与えられた使命だ、天命だ」と言う程の気持ちが湧く事を『情熱がある』と云うのだと思います。多分欲望だけでは努力は長続きしないと思われます。中には欲望は無いが情熱だけで頑張っていると云う人も居るのかも知れませんが、そ れはレアケースであって、通常は『欲望』あっての『情熱』ではないかと私は思います。
それから『運』に付いてですが、かなり以前に『セレンビリティ』と云う単語を紹介したことがあります。意味は『思わぬ幸運に出会う能力』だったと思いますが、ここで云う『運』は、この能力です。そして、この能力は努力の無いところには 決して現れないと言われます。巷の会話で「運も実力のうち」と言われることがあますが、そのことでもありましょう。イチローの場合の『運の良さ』とは、事故や事件に遭遇して負った怪我で野球から長期間離れたり、野球が出来なくなったり しなかった事ではないかと思います。才能に恵まれ、事実活躍していた一流選手が怪我で引退したり、選手寿命を短くした例は数多くあります。
繰り返しになりますが、才能・素質、欲望、情熱、そして人間関係能力・人格、そして運が全部揃って初めて充実して快適な人生が実現するのではないかと思いますが、因みに、冒頭の番組でイチロー選手の記録にコメントをした大リーガーは、 イチローと同じく10回(連続ではありません)の200本以上の年間安打を記録し、安打数では大リーグ記録の4256本(日本記録は張本選手の3085本、しかし、イチロー選手は、日米通算記録では、既に3500本を越えている)を記 録した選手ですが、野球賭博に関わったとして、大リーグから永久追放されています。彼の場合、才能・素質、欲望、情熱は人一倍有していたと云えますが、人間関係能力・人格の欠如と、そのような不幸な人間関係に遭遇してしまったと云う不 運もあって、快適な人生を過ごすには至らなかったと云うことではないかと思います。
私はイチロー選手を〝快適な人生を過ごしている〟特別な人間だとは思っておりません。記録はとても素晴らしいけれども、誰にだってその人なりの才能・素質、欲望、情熱、人間関係能力・人格、運に依って、「自分はこれをやる為に生まれて きたのだ」と云う仕事や役割、生き方、考え方に出遇うことが出来、且つ、自分だけではなく、周りの人々とその喜びを分かち合える境遇の人生を実現することが出来ると考えております。
お互い、今からでも遅くはありません。先ずは自分の好きなこと、得意なことを見付ける努力をしてみませんか。
合掌ーなむあみだぶつ
No.1071 2011.01.28
赤ちゃんの心になるって?
木曜コラムの掲載が遅れましたこと、お詫び致します。
実は以前から患っている左眼の緑内障の治療のために今週の月曜日に再び入院し、火曜日に簡単な手術を受けまして、本日金曜日午前中に退院して来たところでございます。昨年の11月18日に手術を受けましたが、手術時の出血が角膜と水晶体の 間に在る房水と云う水溜まりに残っていまして全く目が見えない状態が続き、且つ眼圧が高く(通常は10~15ですが、30前後のまま)、このままでは視神経が損傷し失明に至る(既に私の視野は四分の一になっていましたが)可能性があること から、血が混じった房水を洗い流すことに依って眼圧を下げ、且つ目が見えるようにする手術を受けました。 一応退院は致しましたが、眼圧は未だ26と高い状態ですし、視野は多分八分の一位に狭くなっていると思われます。2月8日に視野検査をして追加の大手術をしてその視野を護る価値があるかどうかを見極めることになっています。今のままでは得 意のテニスはプレー出来ませんし、車の運転も難しいかも知れませんが、片目生活の覚悟は昨年末辺りから徐々にではありますが固まってきておりましたので、今はもう覚悟が固まっております。入院中、鈴木大拙師の『金剛経【詳しくは金剛般若波羅蜜経(金剛経) (こんごうはんにゃはらみたきょう)】』の解説を読んでいました。
金剛経の中に『応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)』と云う有名な言葉があるそうです。訓読みしますと、「応(まさ)に住するところなくして而(しか)もその心を生ずべし」と読むそうであります。「住するところなくして」 と云うことは、「何かに執着することが無い」と云うことのようです。「住するところあり」と云うことですと「特定の場所に住み着く」と云う事であり、拘りとか執着があると云うことですから、「住するところなくして」とは「何かに執着するこ とが無い」と云うことになるのでしょう。そして、鈴木大拙師は、その心を『赤児になる』と云うことだと表現されています。そして、『宗教家はキリスト教者でも、仏教者でも、儒教者でも、道教者でも、みな子供心というところを見ている。キリ ストは、赤児のごとくでなければ天国に入ることが出来ぬと言う。支邦の人も、「おとなは小児の心を失わず」と言う。』と仰っておられます。私は二十歳になるまで、臨済宗の山田無文老師から沢山の法話をお聞きいたしました。その中で印象深く今も思い出せるのは、山田無文老師を訪ねて来たアメリカのキリスト教関係の学者から「禅の悟りが無心になると言うことだとしたら、それは 赤児のような心になると云うことか?」と尋ねられて、「そうだ」と答えられたと云うことです。ただ私はこれまでずっと、「赤児の心ではこの厳しい世の中を生きていけないのではないか?」と完全には納得出来ていませんでした。 しかし今回の鈴木大拙師の『応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)』の解説を読んで納得出来た気がしました。
それは「而生其心(にしょうごしん)」つまり「而(しか)もその心を生ずべし」と云う後の言葉があるからです。この場合の『心』とは何か?この句に使われている心とは『分別心(ふんべつしん)』だそうです。
鈴木大拙師がよく使われるのが『無分別心(むふんべつしん)』と『分別心』でありますが、無分別心とは、赤児の心です。赤児は綺麗な物と汚い物の区別が出来ません。危険と安全の区別が出来ません。損と得の区別が出来ません。生まれたては、 ママとパパの区別も他人と家族の区別も出来ません。これを無分別の心と申せましょう。反対が私たち大人の心です。損得、善悪、好き嫌い、美醜、他人の子どもと自分の子供、何事をも区別・差別する『分別心』だけで生きていると言っても過言 ではありません。それに、原因と結果を意識しないのが無分別心、原因と結果を常に意識するのが分別心です。私たち大人には「私がこうしたら、こうなるはずだ」と云う目的意識が常に働いて行動します。生まれたての赤児は、目的を持った行動 をしません。大人の言動は合目的的、赤児のそれは合目的的ではないと、鈴木大拙師は言われております。「而(しか)もその心を生ずべし」の心が『分別心』だと言われますが、その『分別心』は、『無分別心』から出た『分別心』であると、難しい文章ですが、次のように語られています。
『「住するところなくして、その心生ずる」というのは、無分別心がすなわち住するところのない心が、分別意識上に働くの義である。「その心生ずる」ところは分別意識であるが、それは無分別心からでなくてはならぬ。無分別心を往々に解し て単なる分別を否定したものとするようであるが、それはそうでなくして、無分別心は分別心と共に働いているのである。無分別心すなわち分別心、分別心即ち無分別心。』かなり難しい内容でございますが、私は次のように解釈致しました。
『私たちの日常生活は損得、好き嫌い、善悪、正邪、勝ち負けの心を持たないと成り立ちません。朝起きた時から寝るまで、その分別に心が揺れています。揺れませんと落ちこぼれるでしょう。また、こうすればこうなると云う結果を得る目的無く して行動は起こせないと思います。発する言葉にも必ず目的があるはずです。しかし、その分別だけの心だけでは、結果として不安・不満・不審・不信しか生み出さず、苛立ち、焦燥感、挫折感に陥るしかありません。しかしその分別心の根っこに 、どうなってもOK、何でも受け容れると云う無分別心が有ることに依ってのみ、安らぎの心、落ち着いた心になるのだと思います。そして、これは案外、私たちが持ち合わせられる可能性は高いと思います。と言いますのは、自分が何れは死ぬ事を 考えますと、本当は夜も眠れないはずですが、誰しも多少心配することはありましても結局は眠りに就いています。一時誤魔化しているだけだと言う人も居るかも知れませんが、どこかで、死を受け入れているのではないでしょうか?死だけではな く、今盛りの入学試験結果に関しても、どこかで覚悟を決めているのではないでしょうか?私も死ぬのは嫌ですが死を思うのはホンの瞬間だけですし、今回の手術も良い結果を望んではいましたが、どこかで覚悟を決めていたように思います。この 辺りの自己の心の働きを分別心と無分別心に分けて見詰め直すことで、鈴木大拙師の言われる、分別心即ち無分別心、無分別心即ち分別心と言う感覚が我がものになるのではないかと思います。』『応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)』と云う金剛経の教えを常に思い出しながら、赤ちゃんの心を持ちつ、分別の世の中を迷うことなく潔(いさぎよ)く生きていきたいと思う次第であります。
合掌ーなむあみだぶつ