2001.09.17

歎異鈔の心―第6條―

まえがき:
宗教は人を幸せにするためのものだと思うが、宗教戦争と言う言葉がある通り、宗教を持つが故の戦争が人類の歴史から消える事が無い。宗教は基本的に排他的であると言う事であろうか。異教徒で、相性の合う人間関係は存在しないかもしれない。浄土真宗及び禅宗を信奉する私は、同じ仏教の日蓮宗、創価学会、キリスト教を否定はしないが、やはり相性は悪い。これらの信者さん達に対して何故か親愛の感情を持った事が無いのも事実である。
恐らくは、異教徒同士の結婚は有り得ないのではないか。最近、異なる政党の議員同士の結婚が話題となったが、全く異なるイデオロギーの政党同士ではない。多分共産党と自民党の議員同士が結婚する事は先ず有り得ないだろう。宗教・宗派が異なると言う事は、イデオロギー以上に人と人を離す力を持っているのだろう。しかし、私は、宗教そのものに問題があるとは考えていない。
今回アメリカを直撃したテロリスト達は、イスラム教原理主義の一派であり、中近東のイスラム教国を敵視する、キリスト教国のアメリカを狙い撃ちしたのである。今回のテロは確かに宗教戦争なのである。そう言う事から、この世に宗教が存在する限り、平和は来ないのかも知れないと思いたくもなるが、問題は、宗教にあるのではなく、宗教を持つ人間の心に問題があるのだと考えたい。宗教だけに限らないが、相手を尊重する心、相手の言う事に耳を傾ける真っ白な気持ちを育てれば、戦争は撲滅出来るはずである。
アメリカは、政治・経済・軍事においては立派な国であるが、世界のリーダーとしては、もう少し対話姿勢が必要だと思う時がある。仏教国、日本が多少とも、その補完的役割を果たせたらと思うが……。
今回の歎異鈔は、同じ親鸞信奉者の間でさえ、争いがあった事を窺わせるが、親鸞は、この條で、争いを避けるべき心得を述べているように思う。

本文:
専修念佛のともがらのわが弟子、ひとの弟子といふ相論のさふらうらんこともてのほかの子細なり。
親鸞は弟子一人ももたずさふらう。そのゆへは、わがはからひにて、ひとに念佛をまふさせさふらはばこそ弟子にてもさふらはめ。弥陀の御もよほしにあづかりて、念佛まふしさふらうひとを、わが弟子とまふすこと、きはめたる荒涼のことなり。
つくべき縁あれば、ともなひ、はなるべき縁あれば、はなるることのあるをも、師をそむきてひとにつれて念佛すれば、往生すべからざるものなりなんどいふこと、不可説なり。如来よりたまはりたる信心を、わがものがほにとりかへさんとまふすにや。かへすがへすも、あるべからざることなり。
自然のことはりにあひかなはば、佛恩をもしり、また師の恩をもしるべきなり、と。云々。

現代解釈:
念佛を唱える集団のなかに、これはおれの弟子だ、あれは他人の弟子だと言い争っていると聞きますが、これは全くとんでもない心得違いです。
この親鸞は、弟子と言うものは一人も持っていません。何故かと言いますと、私の力で、その人に念佛を唱えさせたのなら、私の弟子といっても良いかもしれませんが、阿弥陀様のお計らいで念佛を唱えるようになった人を指して、自分の弟子と言い張るのは、本当に厚顔無恥だと思います。
本来、この世における離合集散は、すべて深い因縁によるものですから、師弟の関係と言いましても、勝手にきめられるものではありません。つかねばならない縁ならば、連れ立って行くでしょうが、離れる縁が起れば、別れる事もあるでしょう。それにもかかわらず、これまでの師匠に背いて他の人について念佛すれば往生は出来ないなどと脅かすのは言語道断です。そんな事を言う人は、如来から頂いた信心を、如何にも自分が与えたもののような顔をして、取り返そうと言う心積もりなのでしょうか。そんな事は断じてあってはならない事です。
師弟の関係は、そんな事で結ばれるものではありません。自然(じねん)の理(ことわり)、即ち本願の思し召しにかなうようになれば、おのずと佛の御恩もわかるようになり、ひいては、師匠の御恩もわかるようになるものだと思います、と、親鸞聖人は仰せられました。

あとがき:
親鸞聖人は、自分の信心と師匠である法然上人の信心は同等であると同僚達に言った事があるそうです。同僚達は、それはおかしい、師匠と弟子の信心が同じなどとは思い上がりも甚だしいと、法然上人に親鸞の言葉を伝えて、問いただしたそうです。すると法然上人は、『親鸞の言う通りだよ。私の信心も親鸞の信心も、如来から賜った信心であるから、全く変わらないんだよ』と言われたそうです。自力の念佛ではなく、他力の念佛だと言う事です。弟子についても、念佛を唱えるようになったのは、自分が教えたから念佛を唱えるようになったのではなく、本願を信じて、自然と念佛を唱えるようになったのであるから、自分の弟子と言う事はないと言う訳です。
こういう他力に徹した考え方は、本当に素晴らしいと思います。またなかなか出来ない考えです。こんな考えが広まれば、戦争も起きないのでしょうが…………。


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2001.09.13

アメリカの同時多発テロ

11日夜、アメリカから凄いニュースが飛び込んで来た。木曜コラムとして別のテーマを用意していたが、このニュースを無視する訳にはいかない。
現時点では、死者の数は報道されていない。1万人は超えるとも推定されているが、分からない。兎に角、記憶にあるテロとしては、史上最大のものである。しかも、軍事力では最強を誇るアメリカの政治・経済・軍事の中枢地を直撃された事は、素人にとっても大きな衝撃である。飛行機そのものを武器として標的に突入した事から神風特攻隊を思い浮かべた人も多かろう。その方法に関しても大きなショックを受けた人も多いはずだ。
どんな組織が、何のために起こしたテロかが問題であるが、許されない行為である。悪魔の行為である。
凄く恐くて寒気がするテロであるが、これも私達と同じ人間がした行為である。単純に非難だけに終わらせる事も出来ない部分がある。人間は、こんな悪魔にもなり得るし、他方、世界中で神様のようなボランティア活動に励む人々もいる。人間の顔をした悪魔もいれば、神様もいる。いや一人の人間の中にも悪魔も住んでいるし神様も住んでいると考えるのが親鸞聖人である。縁が整えば、人はどんな事だってすると言う。今回のテロを憎悪する人々には、広島・長崎の原爆は今回以上の人々が一瞬の中に命を奪われた事も思い出して欲しい。戦争だから許されると言う訳ではない。何の罪も無い無抵抗な人々の命を一瞬に奪った事においては何ら変わる事はない。むしろ広島では、10数万人、長崎では7万人と、奪われた人の生命は比較にならない位多いのだ。今回のテロも広島・長崎の原爆投下も、人間が人間の考えで人間の生命を奪った結果としては全く変わらない。
キリスト教では、このテロも神の啓示と受け取るのだろうか?仏教では、人間の業(ごう)として捉える。何故こんな事が発生するかについては、『無記』と言い、私達人間には到底分からない事であり、人が原因を詮索する事を超えた出来事だと言う。
運命だから仕方無いと、厳しい現実問題から逃げている様にも見えるが、そうではなくて、発生した現実から目を背けずに、しっかりと受け容れて、対処し、出来る限りの再発防止対策を講じると言う立場である。亡くなった人々の無念を想い、平和な世界の構築に努力を傾ける事だけが、私達に出来る供養だと捉えるのが、仏教の立場だと思う。
恨みに、恨みを持ってしては、また恨みしか残らないとお釈迦様は、今から2500年前の紀元前に説かれている。米国が報復措置を取るようだと、世界中は混沌として、21世紀も、人間が破滅の道を歩み続ける世紀となるだろう。仏教国、日本は、アメリカを単純に支持する事はせずに、世界平和のために、東奔西走すべき時ではないか。それが被爆国でもある日本の役割である。


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2001.09.10

歎異鈔の心―第5條―

一昨日から雨模様、今朝(9月8日土曜日)も地面は濡れ、空はどんより曇り空で、すっきりしない天気のようだ。
会社の行く末は依然としてはっきりしない。今は、全ての可能性を検証している。即ち今持っている『淡い希望』を一つずつ消して行く作業をしているところでもある。人間追い詰めらても、あの人が助けてくれるのではないか、こう言う逃げ道があるのではないかと、淡い希望を抱くものである。それらの淡い希望は文字通り、淡く、幻想に過ぎない事が多いのではないか。これは終着駅に着く寸前に気が付いては遅いのだ。早めに事実を確認して、本当に頼りにして良い希望かどうかを確認しておかねばならない。残念ながら、今一つ一つ消し込んでいる最中である。人生の厳しさを味わっている最中でもあるが、こう言う人生の真実・事実を体感する機会は、そう何回もある訳ではない。客観的に人生を見詰めている瞬間・瞬間でもある。

本文:
親鸞は、父母(ぶも)の孝養(きょうよう)のためとて、一遍にても念佛まふしたること、いまださふらはず。
そのゆへは、一切の有情はみなもて、世々生々(せせしょうじょう)の父母兄弟なり。いづれもいずれも、この順次生(じゅんじしょう)に佛になりてたすけさふらうべきなり。
わがちからにてはげむ善にてもさふらはヾこそ念佛を廻向(えこう)して、父母をたすけさふらはめ。ただ、自力をすてヽ、いそぎさとりをひらきなば、六道四生(ろくどうししょう)のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもて、まづ有縁を度すべきなり、と。云々。

参考コメント:
お正月、お彼岸、お盆には、亡くなった父母のお墓に参り、掃除をしてお参りするのは日本の良い慣習だと思う。私も家族と共に、年に3回はお墓参りをして南無阿弥陀仏と念佛する。父母の冥福を祈ると言う自然の感情からであるが、親鸞は、そんな気持ちから念佛を申した事はないと言う。如何にも親鸞らしい人の意表を突く逆説的説法である。本当は、父母の墓前で念佛はしていたと思うが、この世の生きとし生けるものはすべて、父であり、母であり、兄弟であるから、特に自分の父と母だけの為に念佛するのではないと言う訳である。地球上の生物はすべて親戚だと言う考え方を西暦1200年代の親鸞が断言したのは凄い(それよりもずっと2千年余り昔のお釈迦様がそう言われているのだが)。遺伝子DNAから考えても、先祖を辿れば、絶対に同じ祖先に行き着くはずであるからだ。

現代解釈:
この親鸞は、亡くなられた父母の追善のためと思って念佛した事は、この歳になるまで 一遍もありません。
もとより父母の事を思わない訳ではありませんが、いったい父母と言えば、この現世の父母に限らず、生きとし生けるものは、生まれ変わり死に変わりしているうちに、いつかの世で、みんな父母ともなり、兄弟ともなったに違いありません。ですから、この次の生に佛になった上で、だれもかれも助けなければならないと思います。
およそ、この念佛が自分の力でつくりあげる善根ででもあれば、それこそ自分が念佛を唱えた功徳を差し向けて父母を助けてあげることでしょうが、自分で作り上げた念佛ではあれませんから、そんな道理は通らないと思います。ただ自分の計らいを捨てて、往生すると同時に悟りをひらく身にさえなりましたら、六道四生と言う迷いの境界にさまよいながら、どんな苦痛な果報に沈んでいるものでも、神通自在の手段を尽くして、先ずは縁の深い父母兄弟を手始めに、すべてのものを済度することが出来ると、親鸞聖人は仰せられました。

あとがき:
六道四生と言う聞きなれない単語が出て来ましたが、今は人間としてこの世に生を受けているけれども、私達(魂は、と言っても良いのかも知れません)は、植物、動物と流転輪廻して来た存在だと言う訳です。この流転輪廻するところから、早く脱出して到達した世界が悟りの世界である。流転輪廻の輪の中にある間は、迷いの世界である。仏教では、この流転輪廻の輪から、脱出する事を第一と考えています。
この輪にいる以上は、父母を助ける事は出来ない、先ず自分が、悟りを開く事だと親鸞は言っているのだ。そしてこの人間である限り、悟りを開くのは難しい、他力の本願を信じて念佛を申せば、往生して、次の世では、流転輪廻の輪から抜け出せるのだと説いているのだと思う。
私も未だ、この流転輪廻の世界に住んでおり、この親鸞の考え方を本当は完全に理解出来ていない。悪人の自覚が足りない事は分かっているのだが………。


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2001.09.06

天からの手紙

『病気は天からの手紙』と言う言葉があり、かなり以前のコラムでも触れた事があります。 病気とは『君の人生の歩み方は間違っている、しばらく休養しながら、何が間違っているのか考えたまえ』と言うメッセージが、天から(神様から、仏様から)届けられたものだ、と言う訳です。これは勿論、暴飲暴食、夜更かし等の健康に悪い不規則な生活習慣の誤りを反省しなさいと言う事でもありますが、もっと根本的に、人生の考え方、価値観(何を大事にして生きるか)を問いただしていると受け取るべきだと思います。

私は、これは病気だけではなく、私達が人生で遭遇する色々な出来事に関しても、それは天からのメッセージと受け取って常に前向きに生きていく事ではないかなぁーと思います。私達は、自分に都合の良い事、嬉しい事、思い通りの事に遭遇した時は、勿論前向きに生きていくのですが、不幸な事、辛い目に出会った時には、なかなか直ぐには前向きに生きる事にはならないものです。先ず、何故私がこんな目に遭わなければならないのかと過去に遡って愚痴を並び立てる後ろ向きの人生を歩もうとします。勿論、これは皆が皆そうかと言えば、そうでは無い様に思われます。

私は最近、人間は2種類に分かれると思う様になりました。人類学的、生物学的にと言うのではなく、人生の受取り方・歩み方に付いてです。特に逆境に遭遇した時、『くよくよ考えても仕方が無いよ、愚痴を言ってても始まらない、やるだけの事をやるしかないよ』と、悩む事も無く淡々と乗越えて行くタイプと、一方『何故私だけがこんな目に遭わないといけないんだろう、別に悪い事もしていないのに、そうそうあの時あの人がこうしていてくれたら、こんな事にはならなかったのに………』と災難を災難として受け取れずに、何故災難に遭ったのか、どうして自分にこういう災難が訪れたのかに神経をすり減らすタイプがあると思います。

どちらのタイプの方が良いと言う事はないと思います。私見ですが、この二つのタイプは、月曜コラムで解説中の歎異鈔の中で使われている、善人と悪人と言う事に置き換えられるのではないかと思っています。
私は、間違いなく悪人タイプです。ですから歎異鈔に惹かれるのでしょうけれど……。キリスト教的に言うと、悪人は罪深い人と言う事になるのでしょうか。悩みながらの人生を送る罪深い人、それが親鸞の定義する悪人です。
私の兄は、善人タイプです。罪深くありません。親子、兄弟と言えども、他の人の心の奥底までは見る事は出来ませんから、断定は出来ませんので多分と言う事にしておきます。
兄は『考えても仕方が無いよ、やるだけや、やるだけ!』と、辛い宮仕えのサラリマン生活も殆ど悩んでいる様子はありません。私から見れば辛い局面に遭遇しているように思える時でも淡々と課題解決に邁進しているだけと言う感じです。会社を辞めようと考えた事が無いと言うタイプです。これ、間違いなく善人です。『善人なおもて往生す』の善人です。罪深い悪人から見ると、くよくよと悩まない、実に羨ましい人種です。読者のあなたはどちらですか?

善人には、天からの手紙は参りません。もし来ても、読む必要がありませんし、読まないでしょう。
悪人には、次から次からと手紙が参ります。しっかりと読んで返事を書かない限りは、途切れる事はありません。
返事は、『因縁果の道理を体得致しました。天命に安んじて、人事を尽くします』と言うのが模範解答でしょうか?いえいえ、『私には、どうしても因縁果が体得出来ません、天命に安んじる事も出来ません、どうしようもない私です、助けて下さい、南無阿弥陀仏』が悪人の終着駅、他力本願だと思いますが、『来て見れば、自力他力も無かりけり、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏』と、これが自力、これが他力と拘る事こそ、自力の世界から脱け出していないのだよと言う、もっと深い心境があるようですが、悪人の口から自然と南無阿弥陀仏が出るまでは、天からのお手紙を受け取り続けなければなりません。


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2001.09.03

歎異鈔の心―第4條―

先週の木曜コラムで、私の経営する会社と私自身が大ピンチを迎えている事をお伝えした。その状況は、今も変わらない。しかし、こうして引き続き歎異鈔解説をしようとする気持ちを失っていない事は、我ながら不思議である。第3者的に冷静に自分を見詰めている、もう一人の自分がいるのだと思う。観客と言う立場で、自分が厳しい人生の局面にどう対処するのかをある意味楽しんで『次はどうなるのか?』と言うところだろう。いや開き直りかもしれない………。
次の木曜コラムで、新たな局面をお伝えしたい。

今回の歎異鈔は、短い第4條ですので、項に分けずに解説します。

本文:
慈悲に聖道、浄土のかはりめあり。
聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。
浄土の慈悲といふは、念佛して、いそぎ佛になりて、大慈大悲心をもて、おもふがごとく、衆生を利益するをいふべきなり。
今生にいかに、いとをし不便(ふびん)とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念佛まふすのみぞ、すえとをりたる大慈悲心にてさふらうべき、と。云々。

参考コメント:
私は、未だ念佛者ではないので、この第4條を良く理解出来ていない。4條の最後に『念佛を唱える事こそ、慈悲心なのだ』とあるが、これは、もう学問・知識で理解出来ると言う世界ではなく、精神の奥深いところと言うか、信仰心でしか、意味を本当には受け取れないないのではないだろうか?
この4條に、聖道門(しょうどうもん)、浄土門と言う言葉が出ていますが、聖道門というのは、禅宗のように、座禅などの修行に励んで覚りを開く宗派を総称して言い、浄土門は、浄土真宗、浄土宗のように、念佛して、浄土に参ると言う宗派である。
歎異鈔は、浄土真宗であるから、他力念佛が末通った慈悲心のあらわれであるとして、自力で悟りに至る禅宗では、人を助ける事は出来ないと言っているのは致し方無いけれども、私は、禅宗の高僧でも、念佛を自分のものとして唱えられていた方を2名親しく存じ上げているし、そうではない禅僧も存じ上げているが、慈悲深い方々である事は変わりない。
ただ、慈悲とは何か?何が本当の慈悲かは、私のような凡夫には未だ分からないままである。困っている人にお金を差し上げるのが、単純に慈悲心ではないとは思っているが………。

私の現代解釈:
同じ慈悲と言っても、聖道門と浄土門とでは、趣のちがったところがある。
聖道門すなわち聖者相手の教えで言うところの慈悲は、この世において自分の力量であらゆるものを憐れみ、いとしく思って守り育てて行く心である。しかし、想い通りに助け切る事は、極めて稀である。
浄土門、即ち凡夫目当ての教えで言うところの慈悲は、先ず自分が念佛を唱える身となり、浄土に参らせて頂き、直ぐに佛と同じ悟りを開くことであるから、その上で、大慈大悲の心を持って、思う通りに存分に迷っている人を救おうとするのである。
この世における凡夫風情では、いくら、いとしい、かわいそうであると情けをかけてみても、 思いのままに助ける事は出来ないので、かような不完全な慈悲は末遂げられるものではない。
であるから、念佛を唱え往生をとげて成仏することだけが、末の末まで通る大慈悲心になれる道であると、親鸞聖人は仰せられました。

あとがき:
慈悲とは、抜苦与楽、他人の苦を取り除き、他人に楽を与えると言うことである。はた又、他人の良い時には共に喜び、他人が悲しんでいる時には、共に悲しむ心と言うところであろうか。
本当の意味では人間には出来ない事である。誰に対してもと言う意味では出来ない事と言うべきだろう。親の子供に対する心持ちは、まさに慈悲心と言って良い。しかし、残念ながら吾が子ゆえにである。最近は、子供を虐待死させる母親まで出現しているから、人間は吾が子にさえ、慈悲心を失ってしまった。
一方、インドの身寄りのない老人、子供、病人を献身的に世話をしたマザーテレサ(修道尼、ノーベル平和賞授賞)は、慈悲心そのものであったと思う。まさに、神様が人間としてこの世に現れられたと言うべきだが、普通の人間ではああはいかない。
名誉心からの偽慈悲心、相手を甘やかす無配慮な慈悲心もあるだろう。親鸞聖人は、人間には先の先まで見通した慈悲の行動は無理だと宣言しているのだと思う。そして、ただ念佛することが、唯一の慈悲心の道なんだと。私には未だこのところがしっくりと心に響いていないのである。まだまだ自力を信じているのだろう。他力に任せ切っていないのだと思う。


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2001.08.30

天命を信じて人事を尽くす

2001年8月29日は、これまでの人生で一番胸の詰まる想いの日であった。勿論今もその状況は変わらない。しかし、こんな状況でもこのコラムを書くのは、回顧録ではなく、こう言う経験中の心境を、この時点で書き記し、人生の厳しさと因縁果(いんねんか)の現実をこのコラムの読者と共に冷静に見詰めたいからである。

昨日、既に確定していた9月度の注文の大量キャンセルがあった。中国での生産が開始したからであろう。このままでは回復の余地は無い。倒産そして自己破産の現実に直面した。
夕方社員8人を集めて、状況をありのまま説明した。来月で会社を閉める可能性もあるが、野球で言えば、満塁逆転ホームランもあり得る事も伝えた。私が皆のこれからの人生を補償する力はないので、個々に就職先を探して貰って良いとも伝えた。しかし、駄目な時ははっきりと伝え、中途半端にただ働きさせる事は絶対しないので、出来れば最後の最後まで、一緒に頑張って欲しいと冷静に要請した。
現実としては、我が社が生産を止めれば、たちまち困る会社が10数社はある。
我が社が会社を閉めれば、中国に発注したある一流企業も、別の製品が調達出来無くなるので、現実としては非常に困るはずである。直ぐには世界の何処からも調達出来ないと言う製品だからである。その一流企業だけではない。弊社の製品はネジ・釘と言う、汎用の部品ではないからだ。
困るだろうと思っているだけで、本当は困らないかもしれない。しかし、そこに賭けて勝負をするしかないのである。相手も、コストダウンの為に中国製品に勝負を賭けた訳である。
切るか切られるかの真剣勝負である。こんな時『天命に安んじて』いる訳にはいかない。
今の私は『天命に安んじて人事を尽くす』と言う理想の心境ではない事ははっきりしている。
しかし『人事を尽くして天命を待つ』と言う事でも無い。やはり冒頭の『天命を信じて人事を尽くす』と言うのがぴったりである。天命とは……?。


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2001.08.27

56歳の挑戦―聖域無きダウンサイジング―

今日は、歎異鈔解説を一休みして、日本の製造業の実体を、私の会社が直面している経営実体を通して、書き記しておきたいと思う。本当は、こういう事は公にすべきものではないだろうし、こう言うコラムさえ書く心の余裕すらない状況ではあるが、逆に冷静に、客観的に自分を見つめて、嘆きを捨てて、確実に具体的に、問題を解決して行くべきだと思うからである。

『聖域無き構造改革』、『構造改革無くして景気回復無し』は小泉内閣のキャッチフレーズであるが、終に我が社にもその時が来た。構造改革と言うか、ダウンサイジング(規模の縮小、人員の削減、経費の削減、徹底した無駄の排除)しなければならない時が来た。弊社はバブルが弾けた平成3年の翌年の平成4年1月22日に設立したが、競争相手が少ない(日本でも2、3社)部品を生産していたので、日本の不況、製造業の空洞化には、あまり影響されずに今日まで来たが、やはり、中国の安い人件費と製造拠点の国際化の波に乗り遅れた取引先の戦略ミスによって、注文が75%ダウンする事になりそうである。それも、もう2ヶ月位の中にである。
1個40円の製品が、中国では20円以下で出来るようである。技術的には難しい面もあり、不良率が高いそうであるが、安い人件費であるから、全数選別と言う検査工程に金を掛けても、結局は安く出来ると言う事である。日本で製造すると、18円が材料費であるから、とても20円では生産出来ないのである。

幸い弊社では、新技術を開発し、その技術で新製品の量産が始まったところであり、売上高は、50%ダウンであるが、50%ダウンでも、生き残っていける会社は殆どないだろう。 至難の業である。
しかし、開発した技術が打ち出の小槌となって、お金を生む可能性が高く、簡単に諦める訳にはいかない。この特許技術がビジネスとして売れる可能性もあり、その可能性に賭けて、しばらくは聖域無きダウンサイジングをする事によって、食いつなぎ、再生したいと考えている。

この局面を打開出来るかどうかは分からない。神仏が守ってくれる程、人生は甘くない。いざと言う時『天命に安んじて、人事を尽くす』と言う心境で対処出来るかどうか、私の人生の通知簿が示される瞬間かもしれない。


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2001.08.23

金持ち父さん・貧乏父さん

金持ち父さん・貧乏父さん』と言う本がベストセラーになっていると言う事は聞いていたが、私自身『お金に縁の無い貧乏父さん』との自覚があるので負け組としては読む気がせずにいたが、この盆休み前に息子に読んだらどうかと言われて読んでしまった。息子としては、金儲けの下手な父さんに、少しはお金儲けに目覚めて欲しいと言う子心(親心ではなくて)だったのかも知れない。
さて、以下は私なりに感じた、この本の要旨とその読後感想である。

この本の要旨:

● 著者は、貧乏父さん(高学歴で真面目な役人)を実父に持ち、金持ち父さんを持つ友達と幼馴染だった。そして金持ち父さんの方に魅力を感じて、幼い時から指導を受け、実父の望む一流大学を目指して頑張る道を拒否し、結果的には金持ち父さんになった。そして、この著書出版で更に印税を稼ぎまくっているのだ。
貧乏父さんと言っても、今日の飯、明日の飯に困る貧乏ではなく、手持ちのお金が無く、資産は持っているが、すべて借金漬けの負債と言う財産で、一生、銀行と納税の為に働く善良な庶民の事なのだ。

● アメリカも日本と変わらない学歴信奉社会である。アメリカでもやはり高学歴を身に付けて有名企業に就職したり、役人、弁護士、医者等になって、安定した人生を送る事が大方の人々の願いであるようだ。従って、アメリカの親も日本の親と同じく、子供に『勉強、勉強』と言うらしい。しかし、著者は、それは決して子供をお金持ちにする道ではなく、ローンに追われ、必要以上の税金をとられ、銀行や国の為に忙しく働く(著者はこれを、ネズミが檻の中の回転はしごを廻す姿に喩えてラットレースと言う)能無し人生、貧乏父さんの人生だと言うのだ。

● 多くの人は、負債を買い求め、資産に投資しない。だから何時までも貧乏から脱出出来ないと言う。

● 著者が金持ち父さんになって成功したのは、お金に関するしっかりした基礎の重要性をはっきりと認識し、それを確実に築き上げたからだと言う。お金造りの専門基礎知識は、下記の4つだ。学校で学ぶ知識は、人生を生きていく上では殆ど役に立たないのだ。

  1. 会計力…(お金に関する読み書き能力)と数字を読む力
  2. 投資力…投資(お金がお金を作り出す科学)を理解し、戦略を立てる力
  3. 市場の理解力…需要と供給の関係を理解し、チャンスを掴む力。買う人がいて、売る人がいると言う市場の基本原理。
  4. 法律力…会計や会社に関する法律、国や自治体の法律に精通

● 汗水たらして働いていては金持ちにはなれない。自分の頭を働かせ、他人を働かせて、自分は金持ちになるのだ。それが金持ち父さんへの王道なのだ。

読後感想:

★ 確かに、言われて見れば、私も銀行の為に働いている気がした。また、税金を目一杯支払っているから、国の為に働いて、お金が無いお金が足りないと言って人生を終わるのかも知れないと思った。

★ デフレ状態の日本の現状では、資産価値が減る一方であるので、負債は少なくすべきであると言うのは実感出来る。借金して資産を持つべきでは無いのだ。

★ 確かに高学歴必ずしも金持ちでは無い。私も一応は高学歴だが、お金に余裕は無く、経営する会社も、私生活もローン返済に追われており、ラットレースと言われれば、そうかもと思う。社会に寄付をする身分からは程遠い。

★ 著者は確かに成功者だと思う。そして、幼い時から金持ち父さんの薫陶を受けて、お金持ちになる実地勉強も充分したし、元々能力もあっただろう。しかし、私はそれだけでは無く、成功の半分は運が良かったのだと思う。アメリカバブル以前に人生の舞台に立ったと言う運が一番だ。

★ この成功物語を読んで、日本のプロ野球の優勝監督が管理手法を誇示した著書を出版し、ベストセラーになる事を想い出した。昔、読売巨人軍を9連覇させた川上哲治監督も、ヤクルトを日本一にした野村監督も、西武の広岡監督、森監督、オリックスの仰木監督、最近では横浜ベイスターズの権藤監督然りだ。確かに卓越した管理能力、強力なリーダーシップも持っていた事を否定はしないが、たまたま球史に残る名選手と回り逢い、しかもその選手の最盛期に遭遇したと言う運を忘れてはいけないのだ。例えば、川上監督は、プロ野球史上記録を塗り替えた二人の名選手(長嶋選手と王選手)に同時に恵まれた運があったからこその9連覇である事も確かである。神戸の震災の年にオリックスを優勝させた仰木監督も、イチロー選手の存在と、震災と言う逆境が団結心に結び付いたと言う微妙な強運を忘れてはいけない。ヤクルト時代の野村監督も、名捕手で名バッターの古田選手と名リリーフ投手の高津選手に恵まれての日本一だ。本当に管理能力だけで日本一になれるなら、タイガースが連続最下位になるはずが無いのだ。
運と言うものがあったと言う事を、この本の著者は述懐していないが、誤りだと思う。 この著者も結局は、今の日本の不景気と同じデフレ状態だった1980年代のアメリカで、安くなった不動産投資、株式投資で利ざやを稼いだのである。運良く運用に成功したのである。

★ 著者は、齷齪(あくせく)と働き、金銭的には裕福でない大方の人生を見下しているが、人生の成功は、絶対に金だけではないだろう。勿論お金があったに越した事はないが、人が世の中の役に立つのはお金の寄付によってだけではない。金儲けと全く無縁の精神文化(学問、芸術、宗教、いわゆる真・善・美・聖に関する追求)の向上に大きく貢献する人もいる。これらの人々は決して金持ちでは無い場合が多いが成功者だと言って良い。この本には、そう言う視点が完全に抜け落ちているように思う。マザーテレサのように私有財産を持たず、無私の愛を弱者に注ぎ切って、ノーベル平和賞を受賞した人もいる。

★ とは言え、精神論ばかりでもいけない。お金も大切であるし、まして損をする必要はない。世の中の仕組みを勉強して、会社経営においても、私的生活においても、銀行の為に働く事だけは避けるべきだと啓蒙された事は確かである。そう言う意味で読んで良かったと思った。そして、4つの基礎知識は、経営者として、従業員を不幸にしないために、しっかり勉強すべきである事もまた確かである。

★ 日本の金持ち父さんになるには、デフレの今がチャンスなのだろう。お金があれば、下がり切った不動産・株式投資に工夫を凝らす事だ。本当はお金を借りてでも、今そうすべきだろうが、残念ながら、お金はもう目一杯借りてしまっており、お金を貸してくれる銀行が無いと言うのが、貧乏父さんと言われる所以なのだ。

★ お金に余裕のある方は、是非この本を読んで金持ち父さんを目指したら良い。お金に余裕の無い私と同じ境遇の人は、この本は読まない方が良い、買わない方が賢明だ。印税を差し上げて、著者を更に金持ちにするだけだからだ。


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2001.08.20

歎異鈔の心―第3條の3項―

本文:
煩悩具足(ぼんのうぐそく)のわれらは、いづれの行にても、生死をはなるヽことあるべからざるをあはれみたまひて、願(がん)をおこしたまふ本意、悪人成佛(あくにんじょうぶつ)のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり。よて、善人だにこそ往生すれ、まして悪人は、とおほせさふらひき。

参考コメント:
倫理学上で善人と悪人をどう定義しているかは知りませんが、浄土真宗では、世間一般で言う悪人を悪人とは言いません。また、善い事をする人を善人とは定義していないように思います。
ではどう定義しているかと言うと、どの書物にもはっきりとは書かれていないと思いますけれども、お寺に寄進したり、人助けをしたりして善行を積んで、お浄土に参りたい往生したいと言う人を善人と名付け、煩悩に身を焦がしながらもこれではいけないと救いを求めている人を悪人と名付けているのではないかと考えます。
それでは殺人や強盗を犯す犯罪者は悪人とは言わないのか、どう扱っているのか。また私は同じ人間でも、別に特定の宗教を信仰している訳でも無いが生まれ付き高貴な方、煩悩が無いように感じる世間的に本当に善人と言える人もいるのだと思いますが、そう言う人をどう扱っているのだろうか。その答えは何処にも書かれていないし、聞いた事もありません。多分、仏教に縁の無い人々と言う事なのだろうと思います。そして、もう少し言及するならば、他の人の事は、どうでも良いではないかと言う事だと思います。仏教は、いや宗教は、自分の心の中の問題であり、他の人がどうだと言う比較の問題ではないと言う事だと思います。
だから、親鸞聖人のお言葉に『親鸞一人の為の……』と言う有名な言葉があります。これは、お釈迦様も、古来の高僧も、法然上人も、そして仏教もただ私親鸞ひとりを救う為にこの世に現れられたのだと言う、『悪人の自覚と救われた歓び』からのものだと思います。聞き様によっては不遜だけれども、それ位に自分の煩悩を自覚され、救いを求められたからこそ発せられた言葉だと思います。
悪人、善人、自分はどうなのか?他人の事を云々する前に、自分の心と真摯に向き合う必要があります。

私の現代解釈:
煩悩まみれの私達は、どんな修行を行っても、生死を超越する(死の恐怖から逃れる即ち覚りをひらく)ことが出来ない事を憐れに思われて、何とかして救うてやろうと思われた本心は、悪人が成佛出来るためのものであるから、他力を頼る悪人こそが往生する因を持っていると言えるのである。だから、善人さえ往生するから、ましてや悪人は往生するのだとおっしゃいました。

あとがき:
私は善い積もりでも、何気なく発した言葉で著しく他人を傷付けている事もあるでしょう。もっと言うと、人に情けをかけ人助けした積もりが、却ってその人を不幸にした事があるかも知れません。私達は肉食もします、しかし他人が牛を殴り殺しているのを見ると『なんて残虐な事を……』と批判・非難します。その人は職業として、私達に代わって牛を殺して牛肉を提供してくれている訳です。とても非難・批判出来る立場には無い訳です。自分は残虐でないと思っていても、結果として残虐さを支持している訳です。残虐な人とはどんな人か? なかなか自分の事なんだと自覚出来ないものです。


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2001.08.16

首相の靖国神社参拝前倒し

小泉首相は13日に靖国神社に参拝し、昨日15日は千鳥が淵の海外戦没者慰霊祭、日本武道館の全国戦没者追悼式に出席した。私は宣言通り15日に靖国神社参拝を果たすべきとコラムで意見を申し上げたが、政治家にしろ、経営者にせよ、バランス感覚は大切であるとは分かっているし、個人の思い込み・熱情だけで突っ走ってはいけない場合もある事は理解している。しかし、多くの国民は、小泉首相にバランス感覚を期待している訳ではなかろうと思うし、私も期待していない。むしろこれまで代々の首相のバランス感覚発揮で、日本は失われた10年を経験したのであるから、小泉さんにこの閉塞感打破の希望を抱いたはずである。前倒し参拝に当たってのコメントを発表している。
http://www.yomiuri.co.jp/00/20010813i111.htm
読んで見て確かに成る程とは思うが、しかし小泉さんらしくないコメントである。私はどうしても外圧・内圧に屈したとしか受け取れない。これなら、むしろ参拝自体を止めた方が、潔かったのではないかと思ったがしかし…………。
私がこう思うのは、どうも日本人に埋め込まれた遺伝子の業(わざ)のようなのだ。昨晩NHKの番組「戦争を知らない君たちへ『2001年あなたにとって日本とは』」の中で、アメリカ人のコメントに、『太平洋戦争に突入したのも、戦後の目覚しい経済復興も、狂乱バブル、そしてバブル崩壊後の10年も、すべて日本人の特徴的な気質がもたらしたものだと思う』とあった。気質とは、感情的行動、批判精神の欠如、大きなものに服従してしまう諦め等で、これは大昔から受け継いでいるものだと言うのだ。
成る程と思った。そして私がそして日本人の多くが小泉首相に期待している心の根っ子に、その気質があるのだと思った。小泉と言う一人の人間にこの日本を委ねようとしている日本人の危うさをひしひしと感じた。番組の中で、作家の澤地久枝氏がしきりに日本人は理性的にならねばと言っていたが、まさにその通りだと思う。そうしないと経済的にも復活しないし、近隣諸国の信頼・敬愛を受けられないだろう。
私は小泉首相の15日参拝を支持していたけれど、これは間違っていたと今は思う。元々小泉さんが首相になる前から、8月15日の靖国神社参拝を予告・明言した事に日本人の理性の無さが象徴されているのであって、それを政治的決断力・改革実行力と錯覚したところに、私を含めた日本人の危うさがあると思い直したのである。
15日参拝を強行しようが、前倒ししようが、はたまた先送りしていたとしても、日本の国際的評価は変わらなかったと思う。どうしても日本人らしい行動でしかないのである。
やはり私達日本人は、正しく歴史を検証し、歴史から未来を学び取り、世界の一員としての自覚を持って、本当にグローバルな思考で物事に対処する遺伝子を育てていかないと、子孫に幸せを遺せないと思った。

靖国神社問題、教科書問題は、私達日本人の一人一人が歴史に関心を持ち、正しい認識と教訓を学び取り、国際社会にケジメを示すべきだと思う。
小泉改革にしても『構造改革無くして景気回復無し』は潔さ(いさぎよさ)を感じるが、やはり景気回復の手を打ちながら、様々なシステム・構造・組織の改革を断行していくのが、理性的な政策ではないか。野党のように政府案すべて反対と言うのも理性的ではないが、小泉人気に酔いしれて、わっしょいわっしょいするのもあまりにも理性に欠けた参議院選挙ではなかったか。
日本人に遺さなければならない情緒的な良い気質もあるが、21世紀は理性に欠けると言う遺伝子組み替え技術が必要な世紀ではないか。そんな事を今年の終戦記念日に思わされた。


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