2001.08.13

歎異鈔の心―第3條の2項―

今回のコラムで丁度100回目となりました。会社がピンチになると同時に始ったコラムですが、今もって会社のピンチは続いています。しかし、曲がりなりにも、会社も続いています。どうなるかは誰にも分かりませんが、運命は天に任せて、心安らかに自分の出来る範囲の努力を積み重ねたいと思います。これは、自力頼りではなく、他力にお任せしていると言う事かも知れません。
これからも続けられる限り続けたいと思います。

本文:
そのゆへは、自力作善のひとはひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、彌陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみまつれば、眞實報土の往生をとぐるなり

参考コメント:
自力で頑張ると言う事が立派と言うのが世の中の考えであるが、自力とは、自分の努力と言う解釈ではなくて、人間の考えでの善悪、正否の判断で物事を進めることと解釈して良い。 そして他力は、現代人が他力本願と言う場合の解釈は間違っており(あの石原慎太郎さえ間違っている)、他人の力ではなく、大宇宙を動かしている力の事であり、真理と言っても良い(佛様と言っても良い)。ここを間違えるとこの歎異鈔の理解から遠く離れてしまう。

私の現代解釈:
その訳は、自分が正しいと思い込んで、善い事を積み重ねようとしている人は、大宇宙を動かしている真理と言うものがあるとは思っておらず、阿弥陀仏が救い取ろうしているお目当てではないから往生は出来ない。しかし、自分の考えは正しく無い、他力の存在を認識し、頼るようになると、往生を遂げる事が出来るのである。

あとがき:
自分の力がチッポケである事に気付かされた事は、誰にもあると思うが、大自然には敵わないと思う瞬間も経験する。しかし、私達人間はいい気なもので、それでも自分を頼りにする。何とか出来るように錯覚してしまうものである。俺が俺がと言う想いは、きっと死ぬまで持ち合わせてしまうだろう。絶対他力を信じ切る事は出来ないだろうと思う。信じる瞬間はあっても、それでは一度信じたら、瞬間瞬間、常に他力を意識して、自力は捨てられるかと言うと、そうではないと思う。だから私達は、どうしょうもない凡夫の身分を捨てることは出来ない。しかし、一旦そう言う自覚が為され、佛様の事を心に思うようになったら、何時かは念佛が口からほとばしる瞬間が来るのだと思う。その瞬間が来ていない場合は、未だ自分を頼みの綱としていると言うべだろう。


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2001.08.09

小泉首相の靖国神社参拝

小泉首相が終戦記念日の8月15日に靖国神社に参拝すると言う事が賛否両論、マスコミを賑わしている。国民のアンケート調査でも、賛成・反対半ばのようであるが、私は参拝を取り止めるべきでは無いと考えている。一部では、中国側から日にちを変えたらどうかと言う妥協案が非公式に与党幹事長団に示されたと言うが、私は8月15日に予定通り参拝すべきだと考えている。それが日本の自立国家としての再出発であり、ひいては中国・韓国との心の通う外交関係に導くものと考えるからである。

小泉さんは自民党総裁選の時から靖国神社参拝を宣言しているだけに、中国・韓国そして国内的にも大問題になった今、熟慮していると言う事ではあるが、もし取り止めた場合は、変革・変人がキャッチフレーズの小泉首相の存在価値は無くなり、構造改革への期待感も一挙に萎み、株式市場も暴落に近い状況になると思う。小泉首相もこの点は分かり過ぎているはずで、外圧を知りながらも結局は予定通り参拝する事になるのではないか、私はそう思う。

私が参拝を取り止めるべきでは無いと考えるのは、取り止めてしまえば、逆に、中国・韓国との溝を埋めるチャンスを逸すると思うからである。私は小泉首相が靖国神社を参拝する本当の心情をマスコミを通じてしか窺い知る事が出来ないのだが、小泉首相が参拝後、『私が日本の首相として靖国神社に参拝したのは、あの戦争で亡くなった方々の御霊(みたま)に、戦争に突き進んだ反省とその犠牲に対する深謝の念を捧げるためでした。そして、日本はもう二度と戦争をしないと言う誓いを致しました。そして、戦争の犠牲者は、我が国だけに止まらず、多くの外国の方々の尊い命も犠牲に致しましたので、これから各国の戦争の犠牲者の墓苑にも参拝し、同様の深謝の念を捧げ、そして不戦の誓いをさせて頂こうと考えています』と言うコメントを世界に向けて発信すべきだと思う。そうすれば、はじめて中国・韓国両国の不信は理解と信頼に変わるだろうと思う。参拝を取り止めただけでは、不信・誤解が解かれる事はないと思う。不信と誤解と言う溝に蓋をしただけでにしかならないだろう。

国内問題として考えても、多くの良識ある国民は、首相の靖国神社参拝が即軍国主義復活の兆しとは受け取らないのではないだろうか、日本はもうそう言う風潮では無くなっていると思う。少なくとも私はこれまでも毎年、閣僚の参拝が私的参拝か公的参拝と言うマスコミの議論には興味も無かったし、どちらでも良いと思って来た。無関心だったと言っても良い。しかし、今年の小泉首相の参拝には非常に興味を持たされてしまった。A級戦犯が合祀されていると言う事すら、今回初めて知ったと言う不勉強さ、無関心さであったのに、である。それは小泉首相が敢えてタブーを破って参拝宣言をし、参議院選挙でも野党に恰好の攻撃材料を与えた上に、田中外相の反対表明もあり、世論を喚起したからだろう。一般人にとっては、靖国神社に関する歴史と問題点を知る上では、良いキッカケとなった事は間違い無い。しかし、中国と韓国が何故あれほどまでの抗議行動に出るのか理解に苦しむ事も確かである。確かに戦争では多大な迷惑と苦しみを与えた事は分かるが、50年以上前の事であり、ある程度風化しているはずである。別の狙いがあるように感じるのは、不謹慎だろうか。

私達日本人は、世界で唯一の被爆国である。多くの犠牲者が今も存在する。真珠湾攻撃と言う奇襲戦法で日本が仕掛けた戦争だったし、原爆を落される原因を作ったのが日本だからと言う訳ではないと思うが、原爆を落したアメリカの大統領が原爆を投下した航空隊の戦士達のお墓に献花しても、日本人は政府も民間もあからさまな抗議はしないのではないか?

8月6日の広島市の記念式典では、世界平和、核廃絶を祈るが、アメリカを攻撃する言動は見当たらない。そう言う日本人の国民性だから、中国・韓国の心情が分からないのかも知れないが…………。

末尾の法句経一節は、小林寺拳法の競技に先立って詠われてもいる有名な句であるが、自己の心を信じて、自分の信念を貫き、この機会に小泉首相のすっきりとしたコメントを期待したいものである。

蛇足ではあるが、私と靖国神社とは縁が深い。実は私の兄が靖彦(昭和18年生まれ)、私が国彦(昭和20年生まれ)。靖国神社から1字ずつ拝借したと言う事を聞いていたから因縁浅からざりし関係にあるのだ。しかし父がどういう想いで息子達に靖・国と言う文字を授けたかは分からない。両親共に他界した今は、確認する術が無い。しかし多分、国の役に立つ人物になってくれと言う願いから命名したのだと思う。決して、軍隊に入って国の為に死んで欲しいと願ってのものではないと信じているのだが……。

法句経―おのれこそおのれのよるべー

おのれこそ
おのれのよるべ
おのれを措きて
誰によるべぞ
よくととのえし
おのれこそ
まことえがたき
よるべをぞ獲ん

このお経は、自分しか頼りにならないのだと言う事を諭している。他人に色々教えて貰っても、実践するのは自分である。悟りの道を聞いても、聞くだけでは悟りは開けない。悟るのは自分なのである。『他はこれ吾にあらず』である。喩は俗っぽいが、お金儲けの方法を聞いても、お金持ちにはなれない、自分がお金を儲ける努力をしないとお金持ちになれないのと同じ事である。
人は場面場面で色々と迷い、そして他人に意見を求める時がある。他人は意見を言ってくれるだろう。しかし、誰も自分に代わって解決はしてくれない。自分しか頼りにならないのだと言うわけである。
ただ、前提として、心身を能く整えた自己こそ、真に得難い頼りなのだと言うのである。

小泉首相も、靖国神社参拝の是否について、各方面の人々に虚心担懐に意見を聞いているそうであるが、ご自分の心の奥底に問い、結論を出せば良いと思う。小泉さんの心が真理に添っているものならば、相手国からも理解を得られるに違いないと思う。
単なる外交上のバランス感覚を取り入れて妥協しても、何も生まれないと思う、日本の国益にもならないと思う、小泉首相の株も下がりこそすれ、上がる事はないと思う。


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2001.08.06

歎異鈔の心―第3條の1項―

本文:
善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを、世のひとむつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をやと。この條、一旦そのいはれあるにたれども、本願他力の意趣にそむけり。

参考コメント:
あなたは、自分の事を悪人と思いますか?善人と思いますか?何が悪で何が善ですか?
殺人などの犯罪者は悪人で、普通に生活している善良なる市民の自分は善人だと……簡単に割り切って言えるかどうか。心の中で人を殺すのは悪ではないのか?自分ま宗教を持つ人はすべて善人か?深く考えるとなかなか難しいテーマである。

この條は、一般の方にも知られており、歎異鈔と言えば『善人なおもて……』と言う位に有名な箇所です。悪人正機説(あくにんしょうきせつ、悪人が本当のお目当てと言う説と言う意味です)と言われる基となる一節だと思います。
最初に出て来る善人と悪人の解釈を世間一般的なものにしてしまうと、理解出来ないおかしい事になります。
私は、取りあえず悪人とは、『自分を悪人と自覚している人』と解釈した方がすんなりと理解出来ると思います。反対に善人とは、『自分を善人と思い込んでいる人』と読んだら抵抗が無いと思います。
後の善人・悪人は世間的な意味の善人・悪人と考えて良いでしょう。

私の現代解釈:
自分を善人と思い込んでいる人ですら往生出来るのだから、自分を悪人と自覚している人は当然往生出来ます。だのに世間一般の人々は、反対に『悪人ですら往生出来るのであるから、ましてや善人は往生出来て当たり前だ』と言います。これは一見当たっているように思えてしまいますが、親鸞の本願他力の教え(阿弥陀様が立てられた、煩悩の激しい私達を何とかして救いたいと言う願いを心から信じて、念佛しようと思い立ったその瞬間、往生が確定すると言う)からは全く外れているものです。

あとがき:
悪人を『自分を悪人だと自覚している人』と言う解釈をした方が良いのではと言いましたが、実は、この『悪人の自覚』と言う事は、簡単なものではありません。人は、自分を悪人だと思う瞬間もあるとは思いますが、その時の悪人の自覚と、ここで言う『悪人の自覚』とは次元が全くと言って良いほど異なります。本当に悪人の自覚が出来た瞬間、阿弥陀仏の本願が信じられ、お念佛が口からほとばしるのだと言うのが、本願他力の教えなのかも知れません。更に進めて、自分を悪人とすら思えない私達凡夫を憐れんで、常に救済の願いをかけ、働きかけているのが、他力即ち阿弥陀仏即ち私達人間では説明出来ない、宇宙を動かしている大きな力、真理なのだろうと思います。


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2001.08.03

法句経(ほっくぎょう)――仏の目を畏れてー

7月31日に福岡の義母が亡くなりまして、水曜日、木曜日と福岡に参りましたので、コラムが1日遅れてしまいました。義母は、3年間の寝たきり入院の末に84歳を直前にして亡くなりました。昨日発表された平均年齢ですから、天寿を全うしたと言えますでしょう。 冥福を祈りたいと思います。

アツラよ
こは 古より謂うところ
今日に始まるにあらず
「ひとは黙して座するをそしり
多くをかたるをそしり
また 少しくかたるをそしる
およそこの世に
そしりをうけざるはなし」
ただ 一向に
そしらるる
ただ 一向に
誉めらるる
かかるもの
過ぎゆきし日にあらざりき
今もまたあらざりき
やがて
来ん日にもあることなかん

現代訳:

お釈迦さまのところへ、ある日、アツラと言う青年がやって来て、他人がああ言うこう言うと、人の噂を気にしての悩みごとを訴えた。それをじっと聞いておられたお釈迦様が最後にさとすようにおっしゃった言葉がこれである。

「アツラよ、こういうことは昔からあった事で、今に始まったことではない。人と言うものは黙っていればいるで、あの人はダンマリで何も言わない、少しはなんと言えばいいのに、と悪口を言うし、そんなら少ししゃべればよいかと言えば、それでもまた悪口を言う。たくさんしゃべればよいかと思えば今度は口数が多すぎると言う。どうあっても、悪口を言うのが人の口というものだ。そしられるだけの人、ほめられるだけの人などというものは、かつてもなかったであろうし、これからもないであろうし、今もないのだよ」

私の所感:

紀元前のお言葉であるが、人の世は変わらぬものである。現代でも何にも違和感が無く通じるお言葉である。
人の噂を気にしていたら限が無いのである。こちらで誉められているその同じ事が、あちらではけなすもとになっているというのが、私達凡夫の世界の姿である。
政治の世界にその極端が見られるだろう。同じ政党でも、野党の時と与党になった時では、自民党の政策に対する姿勢・コメントが正反対になっている。いい加減なものだと思うのは私だけではないだろう。
しかし、凡夫はやはり人の目・噂を気にして行動しがちである。
小泉首相の靖国神社参拝に対して、中国・韓国の政府は大反対である。両国民の一部も抗議行動に出たりしているようだ。日本国内でも賛否両論だろう。反対派の意見を気にすれば、止めざるを得ない。
どうすれば正しいのだろうか?国の評価が掛かっているだけに難しいが、他国がどう言うからではなくて、こうあるべきだと言う真理があるはずである。小泉首相が心の底から正しいと思う道をえらぶべきだと思う。それが仏の目をのみ畏れて決断するという事だろう。
公約的に言ってしまったから、何としてでも参拝すると言うのもどうかと思う。中国と韓国の反対が怖いから取りやめるというのも如何かと思う。8月15日の参拝後のコメントは、小泉首相の政治生命に関わるものとなるだろう。


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2001.07.30

せんたく

今回は歎異鈔解説を一休みします。
今日29日は参議院の選挙の日。コラムを更新する頃には大勢が決っている事だろう。午後4時の投票率は40%を切っており、選挙への関心が高まっていると言われた選挙前半の予想を大きく下回っている。選挙戦後半、株式市場の株価最安値問題、田中外務大臣周辺で起り続ける様々なマスコミ報道などで、若干小泉人気に陰りが見え始めたように感じるので或いは自民党圧勝も無いのかも知れない。結果は興味深い。

選挙は政府与党の政策に関して国民が支持か不支持をせんたく(選択)するものである。今回は小泉改革宣言に対してYESと言うのか、或いは改革後の国の姿・経済の姿が見えず痛みだけが強調されている事にNOと言うのか、国民にとって重要なせんたく(選択)である。

敢えて『せんたく』としたのは、人生は選択と洗濯の繰り返しだと思ったからである。人は生まれて直ぐに、産湯(うぶゆ)に浸からされて洗濯される。それから死ぬまで風呂の世話になる。死ぬ時も綺麗に身体を拭いて貰う。体だけではない、毎日身に付ける衣服・下着は洗濯なしでは済まない。それに、ちょくちょく『生命(いのち)の洗濯』も必要である。心身共に健康を保つためにはリクリエーションと言う洗濯を忘れてはいけない。日曜日と言う安息日即ち生命の洗濯日をもうけたのは人類の智慧である。夏の長期休暇も洗濯に精を出そう。

一方、人の人生は選択の人生と言っても良い。毎日選択に迫られている。いや一瞬一瞬が選択の瞬間と極論しても良いかも知れない。受験する学校選び、就職、仕事選び、友人選び、結婚相手選び、住む家選びと大きな選択もあるが、小さくは買い物での品選びもある。もっと小さくは、女性が能く迷っている、今日着て行く衣装選びもある。選択の余地が無いのは、無意識にさせて頂いている呼吸位かも知れない。呼吸しようかしまいかを選択する人はいない。
そして毎日の選択の積み重ねが知らず知らずその人の人生を決めていると考えるべきだと思う。私には現在、知輝・紗那・咲京(さちか)と言う孫3人いるが、この3名は、私が大学を卒業して就職先を選ぶ時、かの有名なチッソ株式会社を選び、水俣に赴任して、水俣の女性(現在の妻)との結婚を選択したからである。更に私は中学時代にテニスを選択し、そのテニスに大学1、2年生において没頭しそして留年をした。留年をしたからチッソ株式会社に縁があったのである。チッソは私がまともに卒業したであろう年は募集人員がゼロだったからである。
しかし選択は何を根拠に決定されるのだろうか。瞬間的に選択している場合が圧倒的に多いのだが、頭脳が瞬間的にめまぐるしく回転してシュミレーションした結果、答えを出しているはずである。遺伝子DNAが関与しているのか?幼い頃から頭脳に刻まれた体験学習がソフト化されているのかも知れないが、仏教の因縁果との関連を含めて興味深い。

選挙は、自民党の圧勝に終わった。投票率が56%と前回より下回ったのはどうしてか気になるが、多くの国民は、痛みと引き換えに閉塞感を打破したいと意思表示したものと考えるべきだろう。
この選択は、どう言う日本の運命をもたらせるだろうか?これも興味深いが、私達中小零細企業にはピンチかもしれないが、智慧を絞ればチャンスかもしれない。


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2001.07.26

明石花火大会、歩道橋の事故

JR朝霧駅と大蔵海岸を直接結ぶ唯一の道である歩道橋で10人の命が失われた。色々な意味で後味の悪い事故である。ご遺族にとっては後味が悪いどころか、無念と後悔、持って行き場の無い怒りと淋しさ悲しさの極みだろう。
深く哀悼の意を捧げたい。
私の家からもそう遠く無く、またJR朝霧駅は昔住んでいた町の最寄り駅であり、場所関係を知り尽くしている関係上、よそ事とは思えない事故である。
勿論昔は歩道橋が無く、朝霧駅からは目の前(10メートルの段差があったと思うので眼下のと言うべきか)の海岸通りに行くには数十分を要したため、海岸へ行こうと言う気持ちすら起らなかったものである。歩道橋が出来た時には、よくぞ造ったものだと感心したものだ。
それだけに、大蔵海岸で花火大会があれば、歩道橋に人が溢れかえる事は容易に想像出来る。
しかし…………。

事故の刑事責任について検察の調査・捜査が始まっているが、沢山の要因が重なって発生した事故である事は間違いが無い。私達人間の常として、事故が起ってからは、『人災だ、防げた事故だ』と識者達、マスコミの結果論に等しい論評が並ぶ。そして、いつしか何も無かった如くに忘れられ、そして同じ事故が場所を変えて、人を換えて再発する。非常に虚しい想いがする。こんな事故が発生することを未然に予測していたら、予知していたら決して発生はしなかったはずだ。多分誰も思いも掛けなかったに違いない。誰もと言うのは言い過ぎかも知れない。担当当事者の誰かが心配して上司に具申したかも知れないが、一笑に伏されたのかも知れない。だからこそ、事故は起るのである。

企業では、KY活動と言って、安全第一をスローガンに、危険と思われる場所、作業を点検し事故を予測する。Kは危険のローマ字頭文字、Yは予知のそれである。この危険予知活動によって、ある事故は防げているかも知れないので、KY活動を無意味なものとは言わないが、それでも、予測しない事故は発生し続けている。そして、その事故は必ず予測可能な事故である。

安全第一と言う標語は何処の職場にも掲示されている。その安全第一を守り、促す立場の警察、警備会社ですら、今回の事故を予測しなかったのである。予知出来たのに予測しなかったのである。

他の動物には鋭い危険予知能力があるように思う。本能的なものだろう。頭脳の進化した人間には、奢りがあり、常に死を予知し回避すると言う本能を失ってしまったのかも知れない。だからこそ、人類の滅亡に繋がるであろう地球温暖化についての防止対策案に合意が難しいのではないかと、この花火大会の事故死から飛躍してしまった。

自分の命は自分で守しかない。他人が、国が、命を守ってくれるというのは錯覚でしかない。
皆がそう認識する事でしか、事故は防げないと思う。
さぁ、家庭、職場で真剣に危険予知を働かそう!そして、子供たち、老人の危険は予知してあげよう!


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2001.07.23

歎異鈔の心―第2條の5項―

本文:
詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうへは念佛をとりて信じたてまつらんとも、またすてんともとも、面々の御はからひなり、と。云々。

参考コメント:
この項を読むと私はいつも、浄土真宗の宗派性格を形成させた根が現れていると感じるのである。浄土真宗は、あまり信者勧誘に熱心ではない。他宗の中には執拗に勧誘活動をしてくるものがある。私自身も同じ姿勢である。第一に浄土真宗が唯一絶対の教えを説いているとも思っていない。それぞれの人と宗教色には相性と言うものがあると思っている。キリスト教がしっくりとする人もあれば、神道がしっくりと来ると言う人もいるだろう。禅宗が自分には合っていると言う方もおれば、日蓮宗が良いと言う人もいて当然である。どの宗教を選ぶかと言う場合にも縁が働くのだと私は考えている。いやこれは浄土真宗的なのかもしれない。
醒めていると言えば醒めている。鷹揚と言えば鷹揚。冷たいと言えば冷たいのかも知れない。 しかし、信仰はやはり他の人から強要されて何かを信じると言うものでは決してない。宗教心に関しては、信じると言う行為も他の人の言う事を聞いて、それを信じるというものではない。疑う余地が全く無く、喩1000人の敵がいても我行かん、と言う揺るぎ無い心境なのだと思う。
この項の親鸞聖人のお言葉は、そう言う揺るぎ無い心境を物語ったものと受け取るべきであると思う。

私の現代解釈:
とことん自分の考えを突詰めてみると、私の信仰の心はこういう事になります。この上は、念佛の道を確信を持って歩まれようとも、又念佛を捨てて他の信仰の道を歩まれようとも、それは皆様方自身がお決めになることです。と、親鸞聖人は仰せになりました。

あとがき:
親鸞聖人の晩年の私生活面の状況を聞く限り、決して平穏で幸せなものとは思えない。長男である善鸞を義絶(子供を勘当し、親子の縁を断ち切る)しなければならなかった事、妻の恵信尼とは別居生活であった事は、想像するにあまりある不幸である。しかし、だからこそ親鸞は、阿弥陀様の摂取不捨の他力の本願が、いよいよ有り難く、信心はより確実なものになっていったものだと思う。『親鸞一人が為の本願』とまで言わせる程の信心になったのだと思う。世俗的に幸せに満ちた環境だけで信仰はここまで深まらないだろう。
勿論、苦労して信仰を深めるよりも、幸せで豊かな生活を送って、そのまま死んで行きたいという声も聞こえるが、果たしてそれでこの世に生を受けた値打ちはあるだろうか?いや果たしてその様な幸せだけの人生があるだろうか、苦労・悩みの無い人生は有り得るはずが無い。だからこそ、世俗の我々と同じように、結婚もし、子供も持ち、同じような苦労を念佛一つで乗越えて人生を終えた親鸞の存在が頼もしいのである。
折角人間の命を頂いたこの世で、親鸞ように、信仰を深めて永遠の命を実感する道を歩みたいと思うのは、決して現実離れし過ぎている事は無いと思う。


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2001.07.19

法句経(ほっくぎょう)―愚(おろか)を知るー

おろかなるものも
おのれ愚かなりと思うは
彼これによりて
またかしこきなり
おろかなるに
おのれかしこきと思うは
彼こそ まこと
おろかといわるべし

私の現代訳:

愚かな人と言っても、自分を愚かだと思う人は、実は賢いのだ。逆に本当に愚かな人は、自分を賢いと思い込んでいる、まさにそう言う人こそ、愚か者なのだ。

私の所感:

愚かと言うのは他人事ではない。この自分の事である。しかしなかなか自分を愚かとは思えない。『自分はこう言う馬鹿なところがあるが、こんな良いところもある』と思うのが精々である。愚かとは、勉強が出来ないとか知識が少ないとか智慧が浅いとかの事ではない。目標も目的も無く、これと言う信念も無い暗闇の人生を歩んでいる、その事である。
5欲の満足を得んがためだけに、汲々とした日常生活を重ねている私の事である。目の前の現象に囚われて、一喜一憂したり、短気を起こしたり、諦めたりしている自分の事である。
私も頭では、愚かとは自分の事だと考えてはいるが、本当に愚かと思っているかと言うと、そうではない。
自分を本当に愚かと思えたら、『愚禿(ぐとく、愚かな、そして僧でも無い単なる禿げの)親鸞』『罪悪深重、煩悩熾盛の凡夫』と自分の事を徹底して顧みられた親鸞上人と同じ心境になったと言えるが、とんでも無い事だ。
仏教では『松影の暗きは月の光なり』と言う詠が能く引用される。『真っ暗ならば、松が立っている事も、松が黒い影をひいている事も全く分からない。闇は闇を照らし出したりしない。
闇を闇と照らしてくれるのは、光によるのである』と言う事を比喩的に表現した見事な詠である。
闇は愚かの比喩。光は仏様の教え、お釈迦様の教え、仏教の説く真理の事である。真理を体得しない限りは、愚かな日常生活を重ねるだろう、愚かな人生になるだろう。
お釈迦様の教えを浴びる程聞いて、闇からの脱出を試み無ければならない。


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2001.07.16

歎異鈔の心―第2條の4項―

本文:
弥陀の本願まことにおはしませば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしませば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然のおほせそらごとならんや法然のおほせまことならば、親鸞がまふすむねまたもてむなしかるべからずさふらう歟(か)。

参考コメント:
ここでは、浄土経の正統性について順を追って説明しているのである。阿弥陀様、お釈迦様、中国の善導大師、そして法然上人の言う事が正しいならば、この親鸞が言う事もまた間違っているはずが無いではないかと、説き伏せているところである。例の畳み掛け、相手に逃げ場を与えない説得手法である。
しかし、根本は弥陀の本願が信じられるかどうかである。親鸞は既に弥陀の本願を信じている。私は親鸞が弥陀の本願を信じるようになったのは、法然を信じたからだと思う。
信仰は、知性から来るものではない。知性とは対極の感性というべき働きによって、ある時瞬時に成立するものだと思う。また、信仰が確定したらこのような自信に満ちた宣言が出来るのだと思う。
学問、知性を磨いても信仰には至らない。むしろ知性は信仰には邪魔だと言っても良いと思う。この宇宙の存在、宇宙を動かしている力、宇宙の現象の万分の一も解明する事の出来ない人間の知識・智慧・知性は、自分の知性で理解出来ない信仰の対象を信じる壁としてしか作用しないのだと思う。
当時智慧第一と言われる位に、比叡山、南都(奈良)、そして比叡山に帰っての合計30年を経典の勉強に費やした法然が、ただ念佛するだけで救われるという境地に立てたのは、人間の知識・智慧の限界を思い知らされたからに外ならない。
親鸞もまた、勉学・修行・念佛三昧の20年間の自力に頼った時間を費やし、自力の限界を味わいつつある時に法然に出会って、他力の本願を信じられる境地に至ったのである。

私の現代解釈:
阿弥陀様の本願が正しいのであるから、お釈迦様のお説きになった教えが嘘のはずがない、お釈迦様の教えが正しいから善導大師(中国の浄土系祖師)が間違った事をおっしゃる訳が無い。善導大師のおっしゃる事が正しいのだから、その教えを戴いた法然上人のおっしゃる事はまた真実である、法然上人が正しいからには、その教えを信じた親鸞が申し上げる事は、決して間違いではないと言ってよいのではないでしょうか。

あとがき:
私も未だ信仰には至っていない。自力に頼っている。お仏壇の前、お墓の前ではお念佛もする。しかし、もとより信仰の証の念佛ではない事は自分が一番良く知っている。
心の底から、『自分は生かされて生きているのだ』と感謝する心が本当に芽生えたら、報恩感謝の念佛が、いやでも湧き出るのだと思う。まだ自分の努力で何とかしよう、自分の頑張りで何とかなると思っているうちは、形だけのお念佛しか唱えられないのだ。自力の限界を知るまで頑張るしかないのかも知れない。
記念の日に:
私は、縁起を担ぐ方では無いと思っていたが、数字に拘るところがあるようだ。年齢では、6の付く年齢で何か特別な事が起るという事を以前のコラムで触れた。同じように、月日に特別な事が起ると言う人もいるだろう。偶然と言って一笑に伏す人もいるだろうが、自己暗示を掛ける人もいるだろう。
先日7月14日は私にとってこの数年何らかの特別な意味がある記念日となっている。1998年の7月14日は、世界的にも有用な特許技術となった多孔性体製造技術を開発する発端となった日である。弊社に、ある会社が、ある製品の生産協力を求めて来た日である。
2000年7月14日は、弊社の主取引先から弊社の売上高の7割を占める製品が中国製に奪われる事が通告された日である。この日から今日まで、苦悶・苦闘の1年を過ごす事になった。一方その前日の7月13日から偶然にもこのコラムの執筆を開始した。コラムもちょうど1年経過したのである。
さて、今年の7月14日であるが、多孔性体商品第2号であるゴルフシューズのインナーソール(中敷き、通気性と色々な形状の足裏に自然フィットするのが特徴)の量産の目途が漸く立った日であると共に、ある決断をした日である。
私はアルコールが好きであるが少し最近は深酒気味であり、何とかしようと思っていたが、この記念日に『週1回、しかも客接待(公私)の為に必要な日のみ』の決意をした。家族の為、会社の為に少しでも長生きをする義務があるからである。
たばこは1996年11月3日に完全に止める事が出来たが、今度は相当の辛抱が必要だ。 しかし破る事は無いだろう。


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2001.07.12

石原慎太郎と法華経

小泉総理と並んで政治家として人気絶大な石原慎太郎東京都知事の著書『法華経を生きる』(幻冬舎出版)が、25万部を突破したと言う。石原氏は、能く民放テレビに出演して、時には失言が問題となるが、あまりマスコミの執拗な攻撃は受けない。きっとマスコミが攻撃出来ないのだろう。それ程の迫力と言うか、誰も批判し切れない真実を語っているのではないかと、私は思って来た。
私は、石原氏を軽薄な小説を書く『もの書き』と捉えていたし、あまり石原氏に対して良い印象は受けていなかった。石原裕次郎と言うスターの兄と言う立場を利用して、政界にまで入り込んだ、したたかさを感じていた程度である。ただ、『宣戦布告、NOと言える日本経済』と言う本を読んでから、割合と自分を持った男だと見直したものだ。
そして、東京都知事になり、なかなかの着眼点とリーダーシップを発揮しており、こりゃ本物だと尊敬の心も芽生えて来ていた。
そこに、この『法華経を生きる』と言う本の存在を知ったのである(1997年6月から1998年5月の執筆だから、知事になる前のものだろう)。石原氏と仏教はとても結び付かなかったから、心底驚いたし、嬉しくもあったのは事実である。それは、宗教の本がたとえ人気者の著書とは言え、25万部と言うベストセラーに迫りそうな勢いを知って、日本もまんざらでは無いし、私が21世紀は宗教の世紀と言っている事の根拠が示された様に思い、我が意を得たりと言う、自己愛から来ているのかもしれない。
ただ、私は排他的な日蓮宗は自分の肌に合わないので(宗教と言えども、どうしても相性があるものだ)、その帰依の対象である法華経にもあまり興味を持つ事が出来なかった。しかし、石原氏のこの本を読み出して、『考えて見れば、法華経に排他的と言う責任はなく、日蓮が排他的だけであったのだ』と考える様になった。

私は学生時代に一度法華経を勉強しようと思った事があるが(紀野一義の『法華経の探求』)、やはり心に染み透る事はなかった。それは当時の私の選り好み(幅の狭さ)によるものであったのではないかと思うようになった。この際、法華経を勉強して見ようと思う。

ただ法華経は、どちらかと言うと、シャープに論理的思考の出来る人に肌が合うと言う事は確かだろう。NTT、JRの民営化に辣腕を奮った、臨調リーダーで有名な土光さんが有名な法華経信者であった。何処か石原氏とダブるところがある。断行すると言う姿勢が共通と感じられる。

どちらが良いと言う問題ではないと思うが、浄土経と法華経に微妙な肌合いの違いがあるのは確かだろう。

興味のおありになる方は、是非、石原氏の『法華経を生きる』を読んで頂きたい。


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