2001.03.22
煩悩について
除夜の鐘は、108の煩悩を消すと言う事で、108回鐘を鳴らすと言われる。108の煩悩の一つ一つが何かは存じませんが、細かく数えれば、そうなるのかも知れません。或いは、 それ程人間の煩悩は多いと言う事を108と言う数字で表わしているのかも知れません。
仏教では、3大煩悩として、貪欲(とんよく)・愚痴(ぐち)・瞋恚(しんに)を挙げています。貪欲とは、欲深く求める事であり、満足と言う事を知らないが故に、常に不足・不満の生活を送ってしまうのです。仏教は欲を捨てよとは申しておりません。『小欲知足(しょうよくちそく)』と言って、ほどほどの欲にして満足する事を知りなさいと言う事ですが、なかなかこれが難しいのです。私もお酒が好きですが、ほどほどにしていれば良いものを、ついつい飲み過ぎて、翌日は二日酔いに悩まされてしまいます。腹八分目で、満足すべきなのです。
趣味としてテニスをたしなみますが、これもほどほどにしておけば良いものを、ついつい楽しさに自分の体力を忘れて、やり過ぎまして翌日は階段の上り降りに四苦八苦したりします。 貪欲に悩まされます。給与も幾ら貰っても、直ぐに足りなくなり、もっともっと貰いたい。 家ももっともっと大きい家に住みたい。欲望には限りがありません。自分の欲深さに悩まされます。これが最初の煩悩です。愚痴とは、済んでしまった事を今更どうしょうも無い事を後悔して繰り返し言う事です。人間は後悔の動物とも言う人がありますように、『ぐちぐちと愚痴を言い』です。『あの時ああしていたら、こんな目に遭わずにすんだものを』とか、ひどい場合は『この世に生まれて来なかったら、こんな悲しい目に遭わなかったのに』とか、言っても何も好転する訳も無い事が分かっているのに、ついつい愚痴りたくなりますが、この愚痴がますます自分を苦しくしてしまいます。些細な事から人生の節目での選択まで、考えて見れば、後悔の連続かも知れませんが、それでは煩悩に苦しむ不幸な人生に終始致します。
瞋恚とは、瞋恚の炎を燃やすと言いますが、怒り狂う事です。他人が自分にした行為に対して、腹を立てる事です。腹を立ててすっきりするかと言えば、そんな事はなく、却って自分を苦しめます。腹を立てた事に悩み、腹を立てる事で周りを暗くして周りの人を不愉快な気持ちにさせます。私も何回かどうしようもない怒りを爆発させた事がありますが、それで気持ちはすっきりするどころか、逆にますます気分が悪くなった記憶があります。些細な事でも、例えば車を運転していて、無理な割り込み、追い越し運転をされますと、『なんと言う事を!』と、反射的に腹が立ってしまう事があります。それで気持ちがすっとするかと言うと逆です。しかし、だからと言って、次回から腹を立てないようになるかと言うと、やはり繰り返します。
この貪欲・愚痴・瞋恚の煩悩は、私達人間に遺伝子的に埋め込まれた本能だと言っても良いでしよう。現われ方は異なるとしても、全員が持っているものです。そしてこれが苦の根源です。苦の根源を断ち切れば、苦の無い世界に生きる事が出来ます。しかし、この苦の根源の煩悩を無くそうと努力しても、無理です。ではどうすれば良いでしようか?その道を教えてくれているのが、このコラムで解説して来た般若心経です。
この世の一切の現象は、因縁によって起っており、また常に止まる事なく、移り変わって行くものだと言う、『一切皆空(いっさいかいくう)』と言う宇宙の道理を体得する事(言い換えれば、般若の智慧を磨く事)だと、般若心経は説いています。
また、『煩悩を断ぜずして涅槃を得る』とも言い、仏教では、この煩悩を排除せよと言っている訳ではありません。むしろ煩悩こそが、涅槃のへの(悟りへの)種(出発点)だと言う位です。
仏教では、蓮の花を悟りの象徴と致しますが、蓮は泥池の中から美しい花を咲かせます。泥池が煩悩を表わしています。煩悩があるからこそ、悟りの花が咲くと言う訳です。
私達を悩ます煩悩を放置していては決して幸せは来ないでしょうが、煩悩の根源を求める事により、悟りへと導かれるのだと思います。
2001.03.19
般若心経の解説ーIー
引き続き般若心経の解説を続けさせて頂きます。
『故知般若波羅蜜多。是大神呪。是大明呪。是無上呪。是無等等呪。能除一切苦。真実不虚』本に記載されている和訳は、下記の通りです。
(こちはんにゃはらみた。ぜだいじんじゅ。ぜだいみょうじゅ。ぜむじょうじゅ。ぜむとうどうじゅ。のじょいっさいくやく。しんじつふこ)『故に知る、般若波羅蜜多は、これ大神呪なり。是れ大明呪なり。是れ無上呪なり。是れ無等等呪なり。能く一切の苦を除く。真実にして、虚しからず』ここでは、『ハンニャハラミタ(般若波羅蜜多)』と言う言葉が、神秘的で不思議な力を持つマントラ(真言、しんごん)だと賛辞しています。
呪は、呪い(のろい)とも読みますが、呪い(まじない)とも読みます。仏教語としては、マントラ(曼怛羅)を漢字に翻訳したもので、真言(真実の言葉)を指します。
日本仏教に、真言宗と言う宗派がありますが、その真言は、上記のマントラと言うところから来ています。
繰り返し申しますが、般若は智慧と言う事で、これは悟りに至る智慧と言うもので、通常私達が、『智慧を働かす』と言う智慧ではなく、この宇宙の真理・道理を知ると言う事です。
そして、この真理・道理とは、『この宇宙のすべての現象は、因と縁によって起る』と言う単純な事です。この単純な道理は、頭では簡単に理解出来ます。しかし、私達は、自分の身に起る事に関しては、なかなか因縁と言う事を悟りきれないのです。『この世に生まれたからには、何れ死ななくてはならない、今日かもしれない、明日かも知れない』と言う厳然たる道理は、頭では理解出来るのですが、なかなか死を受け容れる事は出来ません。私は、今小さな会社を経営していますが、会社の死とは倒産です。この厳しい情勢の中で、多くの会社が倒産に追い込まれています。私の会社も数ヶ月先が読めません。そして、会社を続ける限りは今後もずっと常に死(倒産)と隣り合わせの状態が続くでしょう。必死で頑張っても倒産する時は倒産する、と言うのは道理ですが、なかなかそうは悟れません。
『天命に安んじて、人事を尽くす(結果は運命に任せて、自分はやるだけの事をやるだけだ)』と、カッコイイ事を言ってみても、やはり心には不安・恐怖が忍び寄ります。だからまた、必死で頑張るわけです。
般若の智慧を頂いて、心平穏に暮したいものですが、やはり人間は、死ぬ程の経験や苦難に遭い、それを乗り越えて初めて、般若の智慧が体に入って来るのではないでしょうか?単に仏教書を読んだり、法話を浴びる程聞いても、体験が伴わないと般若の智慧は我が身に染み込まないのだと思います。しかし一方、体験さえすれば、般若の智慧が得られるかと言うと、決してそうではないと思います。理論を知って、実践を通して、初めて自分の智慧となるのだと思います。
そう信じて、私は頑張りたいと思います。
次回でいよいよ、この般若心経の解説も終わります。
2001.03.15
主権はどこに?
歴史を紐解きますと、その時代、その時代で、権力を持つ集団・人物が歴然としていました。
実在するのかどうか別として、卑弥呼のような権力者が居た古代社会、天皇家が中心の律令国家時代、僧侶や公家の一部が権力を握った時代もありました。平安時代後期、公家集団から平家の武家集団に権力が移動しました。武家社会はその後永らく続きましたが、やがて、明治維新で、はっきりと士農工商の最上位の武家は、全く力を失います。そして、近代社会では、政治家が権力を握ります。それを支えたのは、農業であり、工業であり、商業でした。しかし、昭和の後半からテレビの普及に伴って、教育面でもテレビの影響は計り知れず、今や国をリードしているのは、主権在民の国民ではなく、勿論政治家でも無く、一部マスコミ集団であると言って良い状況になっています。マスコミが政局を造り、政治家を動かしているように思えてなりません。内閣支持率にしても、マスコミが繰り返し流す森批判しか知らない純朴な庶民は、森首相を支持するかと聞かれれば、支持しないとしか答えられないと思う。今や、マスコミは、首相の首を握っているし、スター造りも、スター降しも思いのままである。マスコミに逆らうと、とんでもない事になる。
将来、この平成時代を歴史的に振り返った時、マスコミ主導社会と言う事になるだろう。マスコミにあらずば、人に非らずと言う事になるだろう。
教育界に身を投じる人々の質が今日の日本のマスコミ(オピニオンリーダー)の質を決めた。そしてそのオピニオンリーダー達によって、日本そのものの行方が決ろうとしている。この流れは、歴史の流れなのかも知れない。
歴史的には、常に民衆は犠牲者であった。民衆の代表は誰なのか?見極める必要がある。
2001.03.12
般若心経の解説ーHー
引き続き般若心経の解説を続けさせて頂きます。
『三世諸仏。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提』
(さんぜしょぶつ。えはんにゃはらみたこ。とくあのくたらさんみゃくさんぼだい)本に記載されている和訳は、下記の通りです。
『過去・現在・未来の仏達も、深遠なる悟りの智慧を得ようと実践したために、この上無い崇高な悟りを得ました』菩薩は、悟りを得ようと修行している立場の人を表わします。一方仏は、すでに悟りを得た存在を表わします。前の文節もこの文節も、般若の智慧を得る事が最高の悟りに至らしめると言う事を重ねて説いているのです。
お経と言うのは、難しい漢字を並べていますから、非常にとっつき難いのですが、これは、旧いインドの言葉の音を漢字で表わしている事が多いからです。この文節の、阿耨多羅も、サンスクリット語の発音で『アヌッタラ』と言い、『この上無い』と言う事です。また、 『三藐』もサンスクリット語の発音で『サミャク』と言い、『偽りの無い、真実の』と言う意味です。『三菩提』も『サンボーディン』で、『等しく覚る』と言う事です。
ここで、諸仏とありますので、仏教とキリスト教の根本的な違いについて、言及したいと思います。
元来仏教は、キリスト教のごとくむ、神は一つだと言う一神論(いっしんろん)に立っている宗教ではなく、無量無数の仏陀の存在を主張する汎神論(はんしんろん)に立脚しています。キリスト教では、私達は神の子で、決して神にはならないのですが、仏教は、仏になるのが究極の目的と言っても良いのです。いや、『衆生本来仏なり』と言われ、もともと私達は仏であるのだけれど、私達が仏であると言う自覚をしていないだけだ、と考えているのです。 さぁ自覚するにはどうすれば良いでしょうか?智慧を磨く事、宇宙の真理を知る事だと言うのです。因縁果の道理をしっかり心に刻み込む事です。
それには、日常の経験を洞察しつつ、仏教の話に耳を傾ける事だと思います。
2001.03.08
無有恐怖(恐怖有る事無し)
我が家に、『無有恐怖』(むうくふ、と読む)と書かれた妙心寺派管長、故山田無文老師の色紙があります。現在解説中の般若心経の中に出て来る言葉です。
『空(くう)』を悟れば、この世に怖いものは無くなる、と言う事です。私達の最も怖いものは何でしょうか。多分『死ぬほど怖いものはない』と言う事で一致するかも知れません。 『死んだ方がまし』と自殺する人もいますから、死よりも怖いものが、人によっては、また場合によっては有るのかもしれません。しかし普通は死が最も怖いものです。
逸話だと思いますが、禅宗のある老師様が病気になられた時、首を傾げる主治医の先生に、『私は、坊主ですから死の覚悟は付いている、本当の事を教えて下さい』と、告知を促したものの、癌を宣告された数日後、自殺されたと言う話を聞いた事があります。
人間は、死に直面した時、どんな様態を示すでしょうか。私は、恐怖に打ち震えると思います。実話の話しとして故井上善右衛門先生から聞いた事ですが、第二次世界戦争の戦場に行って敵と相対し、銃の攻撃を受けた時、思わず野に生えている一茎の雑草の陰に隠れたと言います。『人間は切羽詰った時、普通ではとても考えられない事をしてしまうものだ』と付け加えられた事を思い出します。体が隠れるはずも無い、しかも雑草の茎が弾を遮断する訳がありません。しかし、もし自分が戦場で同様の立場になれば、同じ事をしそうに思い、思わず恐怖を感じたものです。
人間、偉そうな事を言っても、本当に厳しい状況になった時に、どうするかがその人間の値打ちを決め、人生の通知簿が明らかになります。
人生には、何回かそんな厳しい状況が訪れます。死ぬほどの事ではないにしても、自分の名誉がかかる、人生の分かれ目ではないかと思う時が、私にも数回ありました。他人から見れば、そんなに大した事では無いし、自分が振り返った時も、そうでも無かったと思うのですが、その時は真剣にそう感じたのは事実です。
横綱の曙が引退する少し前、数場所休場した後に出た場所で、初日から三日目までで、1勝2敗で4日目負けると即引退と言う瞬間がありました。あの時は、曙にとっては、凄い辛い瞬間だったと思います。私達から見れば、引退しても年寄としての立場が保証されているし、人生終わりと言う事ではないと思えますが、当事者の曙としては、名誉がかかっていたと思います。その修羅場を乗り越えて、数場所後には見事優勝をされました。
人間は、こう言った節目節目を通って、人生の深さを知って行くのかも知れません。
『無有恐怖』は、『天下無敵』でもあります。それは多分、強風に負けずに踏ん張る大木では無く、風の吹くままになびいて決して倒れない『竹』の姿を指していると思います。
節目節目で決して逃げずに、真剣に対処する事によって、初めて天下無敵の竹になるのだと思います。
2001.03.05
般若心経の解説ーGー
引き続き般若心経の解説を続けさせて頂きます。
ここからは、いよいよ締めの部分です。『菩提薩捶。依般若波羅蜜多故。心無ケイ礙。無ケイ礙故。無有恐怖。遠離顛倒夢想。究竟涅槃』
(ケイと言う字が私のソフトにありませんので、カタカナにしました)
(ぼだいさった。えはんにゃはらみたこ。しんむけいげむけげいこ。むうくふ。おんりてんどうむそう。くっきょうねはん)本に記載されている和訳は、下記の通りです。
『菩薩は智慧の実践により悟りの境地に安住しているから、心にわだかまりが無い。心にわだかまりが無いから、恐れというものを感じる事が無い。そして一切の誤った考えから遠く離れているので、永遠に平安の境地に安住出来るのです』この心経の冒頭で、観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時、とありました。菩提薩捶は、菩薩(ぼさつ)を詳しく表現したまでで、観自在菩薩と同じとお考え下さい。悟りを求めて修行している人で、殆どはもう悟りの境地に至っている人と言って良いでしょう。しかし、大乗仏教では、菩薩は、自分独りが悟りの世界、即ち、死の無い世界に生まれる事を良しとはしていません。私達のような、欲の深い、そして、自分の欲深さにさえ気が付いていない大衆(これを凡夫と言います)と共に一緒に悟りの世界に行きたいと思っている人を菩薩と申します。 この菩薩は、智慧即ち、空を知り、因縁果の道理を知っているから、心にわだかまり、即ち、あれが嫌、これが好きと言う『こだわり』がありませんから、不安や恐怖と言うものを感じないのだと言う事を言っています。
私達は、『こうならなければならない』とか、『これが欲しい、これは要らない』、『こうしたい、あれは嫌』と言う、心のわだかまり、執着がありますから、悩みが尽きません。悩みは執着から来ます。執着が無ければ、悩みはありません。
この文節でも、空を知りなさい。因縁果の道理を知りなさいと念を押している訳です。成る程そうだなぁと、思います。しかし、なかなか私達は、現実の日常生活で起る様々な現象に対しましては、その様には対処出来ません、と言うのが実状でございます。多くの人は、キリスト教でも、仏教でも、教会・お寺で教え(お説教)を聞いた時は、成る程そうしなれけば!、そう出来る!、と思いますが、現実生活に戻りますと、死ぬのが怖い、病気は嫌、 子供には良い大学へ行って、一流企業に勤めて欲しい、出世がしたい、自分の悪口を言う人は許せない、こんなはずじゃ無かったと、不平不満、愚痴のオンパレードの凡夫に戻ってしまいます。私は会社を経営していますから、やはり倒産は嫌、精一杯頑張った挙げ句に倒産するなら仕方が無いと、自分に言い聞かせはするものの、本当にすっきりと割り切れません。 不安から遠い存在にはなれません。恐怖無しと言う心境からは程遠いのです。
しかし、これは私が未だ因縁果の道理を体得していないからであり、言い換えますと、私が未だ、自分の力を頼りにしているからであり、自分の刀が折れ、矢が尽きた時に、初めて自分を放り出して、すっと泳げるようになるのかも知れません。何とも難しいですね、体得と言う事は!
2001.03.01
中道を歩む
『中道を歩む』、これは仏教の考え方である。道の真ん中を歩けと言う意味では無い。資本主義と共産主義が道の両端にあるとしたら、その中間的な考えをせよ、と言う事でも決して無い。決して偏るなと言う事であり、ある時は、資本主義的な考えを良しとし、ある時は、共産主義的な考えをしても良いと言う事である。
世の中には、各分野、各方面で両極端な考えがある、『学歴主義と実力主義』、『唯物論と唯心論』、『管理主義と放任主義』、『理想主義と現実主義』、『楽天的考えと悲観的考え』『加点評価方式と減点評価方式』その他色々あるだろう。
『中道を歩む』とは、どちらかに凝り固まっても駄目だと言う事である。若い時は、得てして、どちらかに偏り、激しく争うものである。若さゆえの情熱・純粋さとも言える。1960年代の学生の安保闘争は、激しいものであった。私の高校時代の友人も全学連の委員長になって、激しく政府に立ち向かった。今は、政府の在り方に激しい批判行動を起こすエネルギーを持った若者もいない。一面では、我々一般民衆が色々な情報を得る事が出来る時代になり、色々な角度で物事を捉え、判断出来るようになったからだと言えるかも知れない。あの安保反対、自衛隊違憲と言っていた社会党ですら、自衛隊を認め、安保を容認する様に変わったのである。物事を一面からだけ捉えるのではなく、もう一方の面からも見る訓練が出来たからかも知れない。
しかし、『中道を歩む』を間違えると、『どうせ、どちらでも大した事はない、どちらでも良い』と言う緊張感の無い考えに陥る危険性もあるので、注意が必要である。無党派層と言われる我々が陥り易いところである。
『これだけは許さない、妥協出来ない』と言う激しさも持たねば、本当に中道を歩いているとは言えない。中道を歩む人を大人と言うが、どちらにも賛成も反対もしないと言うのが大人ではない。政府の外交面では、アメリカの世界戦略を容認する部分もあるけれども、断固反対すべき場面や事柄もあるだろう。常にアメリカ追従でもだめだろうし、すべてアメリカ反対も如何かと思う。
会社経営でも、ある事柄については、ルールを大切にする管理主義、ある事柄に関しては、従業員の自由に任せる放任主義的な施策をするのが、中道を歩むと言う事だろう。 中道を歩むには、正しい見識、広い見識が必要である。見識は、歴史に学ぶ事や現実世界で起っている様々な事件・事故・紛争の経緯・結果を正しく考察する事から身に付くだろう。
2001.02.26
般若心経の解説ーFー
しばらく中断致しましたが、般若心経の解説を続けさせて頂きます。
『無智亦無得。以無所得故』
(むちやくむとく。いむしょとくこ)本に記載されている和訳は、下記の通りです。
『智も無く、また得も無し、無所得を以っての故に』この文節は、『一切は空』と言う事を説く最後の文節です。般若心経は、般若の智慧を説くお経ですが、『無智亦無得』は、この智慧も元々は『空』だ、と言うのです。そして、智慧が、何か悟りの世界のような良い境地を得る事になるかと言うと、それも『空』だと言う訳です。一切が空だと宣言しているのです。そして、『以無所得故』は、『何故ならば、空の中では、何かを所有して執着すると言う事が無いからです』と説明しています。
般若の智慧とは、しばしば説明して来ました『因縁果(いんねんか)の真理に目覚める』と言う事ですが、『空』と言う世界では、その智慧にさえ、囚われてはいけないと言う訳です。 徹底した無執着が空と言うのです。悟りに執着してもいけないと言いますと、私達はどうすれば良いのでしょうか?
色即是空の世界観から空即是色の世界観に微妙に且つ劇的に転換する瞬間があると思うのです。これが『あっ、そうなのか、そうだったのか』と言う悟りの瞬間だと思います。これは悟ろうとして悟ったのではなく、果実が熟して、自然と大地に落ちるような瞬間ではないかと思います。禅の悟りも、浄土門の安心決定(あんじんけつじょう、他力宗での悟りの事)も、同じ境地であると、私は理解しています。禅宗のお坊さんは、悟りを求めて、座禅を組み、難行苦行も致します。しかし、悟りを求めて努力するたけでは、なかなか悟りを得られないそうです。悟ろう、悟ろうと言うのは、執着心ですから、悟りの世界からは程遠いと言う訳です。この努力は、笊(ザル)で水を汲み取る作業に似ていると言われます。ザルは、網かごですから、水を汲み取る事は出来ません。 しかし、笊(ザル)に水を満たす事は、いとも簡単に出来るのです。水を汲み取るのではなく、笊(ザル)を水中に浸せば、笊に水は満ち満ちます。悟りを説明するのに、良く使われる喩えですが、『あ、なんだそうか!』と言う感じがします。何か分かるような気がします。
前にも、似たような喩で、水に浮く(泳げるようになる)には、水に浮こう、浮こうとしても、なかなか浮けない、水に体を一切任せれば、自然と浮くものですが、これは言葉でいくら説明しても、その人が本当に水に任せる事を体得しないと、分からないものです。
一旦コツを掴みますと、何とも簡単な事です。『一切は空』、『色即是空、空即是色』も、これを体得する瞬間は、或る日突然と、忽然とやってくるのだと思います。ただし、求めていればと言う事は前提だと思いますが。
2001.02.22
朝日新聞への投稿文
えひめ丸の事故に関しては、私の想いをコラムにさせて頂きましたが、その後のマスコミの 執拗な森首相下ろしの記事に堪らず、愛読している朝日新聞に対して、怒りの声を投書致しました。勿論、これが新聞紙上に掲載される訳がありません。せめてコラムの読者に披露しておきたいと思いました。
今日は、賭けゴルフだったと言う事にまで、エスカレートしています。マスコミは完全に役割を放棄しています。マスコミの絶大な影響力でもって、森首相を退陣に追い込むよりも、このえひめ丸事故の原因究明をアメリカ政府に求め、従来の隷属外交を打破させる位の援護射撃と言うか、後押しをすべきではないかと思う。日本のマスコミは、アメリカの政府、国民からも冷笑されているに違いありません。誠に歯がゆい想いです。
未だ行方不明の9名のご家族を始めとして、事故に遭われた方々の無念の想いをアメリカ政府にぶつけるのが、マスコミの仕事ではないのかと思う。そんな残念無念・歯がゆさを下記の文面に表現した積もりです。えひめ丸事故に想う
えひめ丸の沈没事故で最も責められるべきはアメリカ海軍であり、アメリカ大統領である。にも拘わらず、朝日新聞を含むマスコミ、そして野党は、その情報を受けた森首相の対応振りを一番の問題にして、日本の代表者である首相をサンドバックにして倒れるまで、叩き続けている。私は、こんな国は世界に見当たらないと思う。
朝日新聞の天声人語も、一昔前は、公平で冷静な見識があったと思います。私は、現在、55歳ですが、代々朝日新聞しか取っていませんので、非常に残念で堪りません。
森首相だけをサンドバックにしているのなら未だしも、もう、ここ何代かの首相を袋叩きにして来ましたよ。或いは、橋龍とか、ブッチホンとか、私達の日本の代表者をこき下ろす事だけに、エネルギーを使って来たとしか、言い様がありません。
マスコミ、野党の言い分は、そうするしか仕方の無い位に御粗末な首相が続いていると言われるのだと思いますが、人物を批判・批評するだけで禄を食むと言う情けない立場から、政府・与党の政策をサンドバックに見立てて、日本の再生に手を腕を、智慧を貸すと言う、私達一般庶民をうならせる報道・質疑が出来ないでしょうか?
一般庶民の中には、これらマスコミ・野党の体制批判に喝采する方々も多いとは思います。
しかし、一方眉をひそめている人々も、私以外にもきっといると思います。こんな声は、とても採用はされないとは思いますが、せめて、天声人語氏には、読んで頂きたいし、社主にも読んで頂き、朝日新聞が、他の大衆新聞の域から、早晩脱出を試みて頂きたく、このメールアドレスを利用させて頂きました。
私は、20世紀の後半、マスコミが世の中をリードする事になった。主権在報になったと思います。民衆の意見を代表すると言うより、民衆の意見をリードしているように思います。それだけに、今の状況が続くと恐ろしい限りです。
ものの本質を見極めて頂きたいと思います。
今回のえひめ丸事故では、もっともっとアメリカの在り方を正すべきです。
事故の犠牲者とその関係者は、これで森首相だけが、座を降りても、決してすっきりはしないでしょう。
サンドバックにすべきは、森首相ではなくて、アメリカ海軍の指揮権を有するブッシュ 大統領でしょう!
2001.02.19
般若心経そして凡夫
般若心経の解説は、今回もお預けとさせて頂きます。最近、昔私の母と永く縁のあった浄土真宗の信者殿ご夫婦に、久しぶりに我が家に来て頂く機会がございました。お会いした後日に頂いたお便りに、我が家のご仏壇に般若心経の経典を備え、またホームページで、拙いながら般若心経を解説している事をお知りになられて、多分抵抗を感じられたのでしょう、老婆心ながらとお説教を賜りました。
浄土真宗の開祖である親鸞聖人は、浄土三部経を大切にされており、般若心経には、一切触れられていない事、また浄土真宗は、阿弥陀仏が御本尊である事、そして、ご仏壇は法事の時だけに必要なものでは無く(我が家では、平素は扉を閉じております)、常に生け花を飾り、毎朝夕に礼拝読経するものだと、切々と訴えられ、お叱りを受けました。
ご指摘の事はすべて、浄土真宗の信者ならば、極々当然為すべき事と思いますので、ご尤もと思いました。私の生まれ育った大谷家は浄土真宗でしたので、ご先祖の法事にお呼びしていたのは、浄土真宗のお坊さんでした。しかし、私の父のお葬式に、臨済宗の山田無文老師に来て頂いたように思いますし、毎朝夕に家族であげるお経の中にも、般若心経が度々ありましたので、私の母も私も、そう言う意味(浄土三部経のみを大切にするのが浄土真宗と定義されるならば)では、浄土真宗信者では無いと言うべでしょう。また母が主宰していました、このホームページ中に説明がございます垂水見真会にも、浄土真宗だけではなく、曹洞宗、臨済宗、浄土宗の高徳の方々にも出講頂いておりました。従いまして、私は、親鸞聖人を尊敬し帰依していますが、もし、浄土真宗が般若心経を排する教団であるならば、私は親鸞聖人の帰依者ではありますが、浄土真宗即ち本願寺の信徒ではありません。
更に付け加えるならば、そもそも浄土真宗は親鸞聖人が設立された宗派でもございません。私の知るところでは、親鸞聖人は、師の法然上人の浄土宗とは別に、浄土真宗と言う宗派を創立せられたと言う事実はございません。後の親族・弟子達が、親鸞聖人の意向とは別に、宗派を建てられたものだと思います。
親鸞聖人は、般若経、般若心経を含む、いわゆる漢訳仏教経典をすべて勉強されたと思います。そして、確かにその数多くの経典の中でも浄土三部経を大切にされましたが、他の経典を否定された事実はございませんし、そんな排他的な方ではございません。
私は、親鸞聖人は西暦1000年台のミレニアムに現出した仏教者としては、お釈迦様に比類する方だと尊敬しています。私と致しましては、浄土真宗の親鸞としてでは無く、お釈迦様の説かれた悟りの世界を、現在の私達に平易に説明され、実践された方として、この現代に伝えたいと思います。現代版の歎異鈔が必要なのかも知れません。私は、浄土真宗の信者(東西本願寺の信徒)の方を批判する積もりは全くございません。是非とも精一杯信仰して頂き、心の安寧を得て頂いたら良いと思います。しかし、浄土真宗の信者でも無い人に対して、浄土真宗の教えを強要したりする事は、厳に慎んで頂きたいと痛切に思います。でなければ、親鸞聖人そのものを冒涜する事になります。もしコラムを読まれた中に浄土真宗の信徒の方がいらっしゃれば、是非ご理解の程をお願い申し上げます。
また、その方がお便りに書かれていた凡夫と言う事にも少し違和感を感じました。これは、私自身も間違って使用していた事もありましたし、間違い易い事ですので、序でと言ってはいけませんが、言及しておきたいと思います。
凡夫と言うのは、あまり一般には使用される言葉ではないと思いますので、その説明からさせて頂きます。凡夫と言うのは、何も分かっていない者の事、仏教的には、『無明の凡夫』と言ったりしますから、暗闇を歩く人と言う事で、何も諦めて(明らかに認識して)いない人の総称と考えて良いと思います。と言う事は、普通に考えますと、人間全ては凡夫であると言えるかと思いますが、親鸞聖人は、そう言う事を発言されてはいないと思います(勉強不足かも知れません、調べて見ます)。
親鸞聖人が申されているのは、『凡夫とは他人の事ではなく自分の事だ』と。決して『私達は凡夫だから』と言う事は言われていないと思います。『凡夫の親鸞』『愚禿親鸞(ぐとくしんらん、愚かなで僧でも無く世俗の者でも無く単なる禿げ(はげ)の親鸞)』と、常に自分に向けての凡夫と言う表現をされていたと理解しています。だからこそ、お釈迦様の教え、法然上人の教え、阿弥陀仏の願いは、『親鸞一人の為の事』だと宣言されている訳です。其処には、自己に対する徹底した否定・批判の姿勢がある一方、だからこそ、救われるはずだと言う徹底した信心(しんじん)、悪人正機(あくにんしょうき、悪人こそ救われるのだと逆説的な考え)の立場を建てられたと思うのです。
『あの人は凡夫だから・・・』と言う事は、私は凡夫ですから、言いたくなりますが、厳に慎まねばならないと自省致しました。