いのちの不思議

金治勇先生

いのちはいのちから生まれるのですから、われわれ個別のいのちも、基づくところは根源的普遍的な永遠のいのちであるといわなければなりません。これをいのちのいのちといってもよいわけですが、もちろん、それを見ることもつかまえることもできません。どこにあるというような在り方をするのではありませんから、言葉で説明することもできません。いわば知性の届かないものでありますから、それはただ感得するよりほかないのであります。

地上世界を構成するいきとし生けるもの、仏教ではそれを衆生と申しますが、その衆生の姿は千差万別であり、千差万別の姿に応じてその生き方もみなちがいます。いのちの現れは全く多種多様、一つとして同じものはありません。

昨秋、広島県の野呂山道場へ参りましたときのこと、夜の電灯に照らし出された障子の上に、一匹の枯葉蛾(かれはが)が止まっているのを発見しました。はじめは、こんなところに小さな枯葉がくっついているなと思って、なにげなく払い落とそうとして手をのばしたのですが、それが一匹の蛾であったことを知っておどろきました。その羽は色も形も枯葉そっくりですが、ただちがうところは、それが動き出したということであります。生きている枯葉だったのです。

それでわたしは、一体このような蛾がどうして生まれてきたのだろうかと、不思議でなりませんでした。生物学上では突然変異とか自然淘汰とか、いろいろ説明がつくのかもしれませんが、わたくしがこの蛾を発見したときの感じは、ただ不思議というよりほかありませんでした。わたくしはいのちの不思議におどろかされたのであります。

昔、フランスにファーブルという昆虫学者がいました。一生昆虫ばかりをみつめて生きた人であります。一匹一匹の昆虫の生態をじっとみつめていると、いつまでたってもあきがこない。とうとうそれだけで一生を終わったのでありますが、彼が書き残した『昆虫記』は不朽の名著として、今日なお多くの人びとから愛読されています。

彼が生涯をかけて、それほどまでに昆虫をみつめつづけてきたゆえんのものはなんでありましょうか。それは彼が、自然のいのちの不思議にとりつかれたからではないでしょうか。彼は昆虫のいのちにふれ、昆虫のいのちを通して、生きとし生けるもののいのちの不思議を感じとったにちがいありません。その意味で、彼の『昆虫記』は単なる昆虫記ではなくして、大自然のいのちの微妙さを書き綴った書であるといってもよいでしょう。

しかし、ファーブルはただ昆虫を通して、外に現れ出たいのちの不思議を見たのですが、いのちのいのちまでにはふれえなかったようであります。もちろん、いのちの現れは不思議であります。しかし、そのような不思議を現すいのちのいのちは、さらに不思議でなければなりません。そのようないのちのいのちの不思議さに触れていくところに、宗教的世界が開かれるのでありましょう。いかなる宗教を問わず、およそ宗教と呼ばれるもので、いのちのいのちを問題にせぬ宗教はありません。根源的いのちに帰るいとなみこそが宗教なのであります。

イエス・キリストも、

「自分のいのちを自分のものとしたものはそれを失い、
わたしのために自分のいのちを失ったものはそれを自分のものにします」
(「またい伝」10の39)
といっています。「自分のいのちを自分のものとする」ことは、自分のいのちを私有化して、根源的な永遠のいのちから切り離すことです。そのときも私有化されたいのちは根を失った切花のように、やがては滅んでいくよりほかありません。これに反して、「わたしのために自分のいのちを失う」ということは、キリストの福音を信じ、永遠なる神のいのちの中へ自分のいのちを没入することです。そのとき、人は真実のいのちを得ることができるというのです。

だからキリストは、また別のところで、

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人は新しく生まれなければ神の国を見ることはできません」
(「ヨハネ伝」3の3)
とも言っています。「新しく生まれる」とは、自分のいのちを私有化することをやめて、永遠のいのちに帰るということです。「神の国」は永遠のいのちの国ですから、新しくそこに生まれて、始めて永遠のいのちを得ることが出来るのでありましょう。

要するに『新約聖書』は、新しく生まれ変わって神の国に入る道を説く聖典であります。その為にはまず自分のいのちを捨てよと教えるのであります。自分のいのちは個別化され、私有化されたいのちでありますから、これを捨てることによって、人は始めて根源的な永遠のいのち、すなわち、いのちのいのちに復帰することができ、永遠のいのちを生きることができるというのであります。このように考えるとき、『新約聖書』はいのちの聖典であるといってもよいでしょう。

しかし、それはキリスト教の『新約聖書』だけではありません。仏教の経典もみなことごとくいのちの聖典でないものはありません。ただ仏教では直接「いのち」という言葉を使わないで、涅槃とか、仏性とか法性(ほっしょう)とか、法身(ほっしん)とか、如来蔵(にょらいぞう)とか、その他さまざまの難しい熟語を使いますから、話がわからなくなるのです。

専門的な立場からみれば、それぞれの熟語にはまたそれぞれの意味や性格の違いがありまして、それだけまた捨てがたい味わいがあるのでありますが、わたくしは要するに、これらの言葉は、いのちのいのちをいろいろの角度から言い表したものではないかと思っています。もう一ついうならば、仏とか如来というのも根源的いのちを人格的に象徴した言葉なのではないでしょうか。

金治勇先生ご経歴:
1908年に生まれられ、1997年にお亡くなりになりました。 四天王寺女子大学教授などを歴任される一方、金子大栄師を恩師と仰がれ、法隆寺で唯識学を修められる中で、井上善右衛門先生、白井成允先生とご親交を持たれました。




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