二つの家庭
井上善右衛門先生
此の春結婚した若い某君の家庭の出来事である。というのは某君のお母さんとお嫁さんとがどうもうまく行かない。波乱は次第に深まるばかりである。中に立った某君の憔悴が傷々(いたいた)しく私にうつる。 ところが某君の家はもともと仏教と深い連り(つがり;つながりの意)にある家柄であり、その母上は大の仏教信者を以て自任(自分の能力などが、それにふさわしいと思うこと。自負)している人である。 然るに確執は愈々(いよいよ)つのってとうとう離婚話まで持ち上がってきた。
姑さんは私に向かって言われる、「仏前で仏教の話を嫁に聞かそうとするとプイと横を向く、その傲慢(ごうまん)は言語の沙汰ではありません。親を親と思っておりません」と。そしてお嫁さんに対して、「お前が仏法を聴かないから家が治まらない。 すぐ仏法を聴きなさい。今すぐ聞かねばならぬ。」と、これに対するお嫁さんの言い分はこうである。「いじめながら仏法を聞けといわれるお母さんの仏法がどうして聞けましょう。言われれば言われるほど聞く気になりません。」
どちらが是か非か知らぬけれども、この両者の争いの中には慚愧(ざんき;「慚」は自己に対して恥じること,「愧」は外部に対してその気持ちを示すこと。自分の見苦しさや過ちを反省して、心に深く恥じること)という姿をいささかも見ることができない。 仏法を聞くというのは、まずこの身が法に照らされて、今まで知らなかった自分の姿を知らしめられることに始まる。自分の身が法に照らされず、知識として法を聞くならば、仏法が人を批判する道具となるであろう。
それはただ相手の心を刺すばかりである。刺されると自然に防御態勢という人間の本能が起こる。法を聞くとは己れを知ることであり、己れを知るとは己れを忘れることであるとは道元禅師の言葉である。己れを忘れる心とは慚愧の思いに外ならない。 仏法の慚愧はジメジメと暗い陰鬱な反省ではなく、慈光の碧空(あおぞら)の中にカラリと晴れゆくそら模様である。
名古屋大学のK博士は深い念仏行者である。ところがその家庭が又非常に美しい。以前は仏法を聞かれなかった奥さんが今は博士と一つの信に安らうておられる。どうしてあんなに美しくゆくのかとK博士と信交のS先生が或る時尋ねてみられた。 「どのようにして家庭を仏法に導いておられますか」と。博士の答えられるのはこうである。「私は仏法は口で語るべきものではないと思っているので、かつて家庭でとりたてて仏法を語ったことがありません」と。 S先生は感銘をもってこの話を伝えて下さった。私はまた深い感銘を受けてこの話を忘れることが出来ない。
二つの家庭が私に大きな教訓を与えて下さる。諸仏は三業を以て説法したまうと聞く。若し法を説くことが口舌だけの動きなら、そこには仏法の何ものも存しないであろう。法は言語ではないからである。 そこには仏法の顔をした我執が現れているというべきであろう。この我執が心を刺す、刺された人は我執を見ずして使われた仏教を見る。かくのごとき説法が実は謗法(ほうぼう;仏法をそしること)なのではなかろうか。 現に某君のお嫁さんは他の宗教に走ろうとしている。私はそぞろ恐ろしいことだと思う。
K博士は口に仏法を語られなかったけれども身に仏法を現ずることを以て説法にかえられた。博士は身業説法を以て念仏を家庭に獅子吼(ししく;釈迦の説法・教説。獅子がほえて,百獣を恐れさせる威力にたとえていう。) されたように私には感じられる。しかも博士に説法などという意識はどこにも無いであろう。家庭が仏法に靡(なび)くというのは法にいつとはなしに潤(うるお)されるのである。
人が人を化するのではなく、人に於いて実現された法が人を化するのである。正法は摂取(せっしゅ;阿弥陀仏が慈悲の力によって衆生を受け入れて救うこと)であり、裁くのは人間である。 「善、不善の心を起こすとも菩薩は皆な摂取す」これは親鸞聖人が念仏を帰結(きけつ;最終的にある結論・結果に落ち着くこと。)したまうた『華厳経』の偈(げ;経典中で、詩句の形式をとり、教理や仏・菩薩(ぼさつ)をほめたたえた言葉。 4字、5字または7字をもって1句とし、4句から成るものが多い)である。摂取と慚愧とによって融かされぬものはない。問題はただ各自がこの正法を家庭に実現するか否かである。
無相庵の読後感想
私も某君の立場になったことがあります。1972年12月(結婚して1年7ヶ月)に長男が生れ、長男が1歳になる前後の約半年間、妻のお腹に長女が宿った時期と重なります。母が65歳、妻が24歳頃です。
私の立場は某君と同じく、母と妻が仲良くやって欲しいの一心だったと思います。しかし、若い私は、母から妻の至らぬところを告げられれば妻を庇(かば)い、妻から母の厳しい指導を訴えられれば母を庇うと云う、愚かな行司役を演じてしまいました。 最終的には、私の知らない間に、離婚も有り得る事態になりましたが、義父母の冷静なご対応もあり、また、幸いにも、母との同居をタイミング良く解消することになった私の転勤もあって、離婚を免れたと云う経緯がありました。某君の母親と同様、私の母も自他共に認める仏法信者。それだけに、当時は母に期待を裏切られた思いがありました。「仏法を聞きながら、何故?」と母の煩悩を責めたこと(私の親鸞仏法の取り違いだったと今は思っております)もありました。 母はこの件に関してその後何も語ることは有りませんでしたが、月日が経ってからですが、妻にちょくちょく服を買い与えていました。一方、妻は、某君のお嫁さんの対応をすることなく、今では毎晩、法話を聴きながら眠りに就く生活を送っています。 母はお浄土で、阿弥陀様と目と目とを合わせ、微笑んでるのではないかと安堵しております。
二つ目の家庭を知り、私も名古屋大学のK博士のように有りたいと思います。家庭で家族に仏法を強制したことは私も有りません。今後もしないと思います。でも、私が亡くなった後、私の親族で引き継ぐ者が出て来るかどうか、あの世で、そっと見守りたいと思います。
帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ>