奇行
井上善右衛門先生
学校に通勤する汽車の中でのことである。向いの席の窓ぎわに一人ゆっくり座を取っている客の横へ一人の肥満した乗客が来て腰を下した。二人は肩をすり合わせて如何にも窮屈な姿勢となる。 窓ぎわの客はまだ10p位窓の方へ席の余裕があるが、それを詰めて二人の席を平均させようとしない、最初の姿勢のままである。肥満した客はそれを知ってか余計に譲れと言わぬばかりに肩を張る。 二人の間は愈々(いよいよ)せり合ってまえで見るさえ窮屈である。なぜ席を平均させようとせぬのだろう。どうして好んでこんな姿勢を維持して共に窮屈な目をするのか。
人間は妙な事をするものであると思いながら、フト私は窓ぎわの男の心になってみた。すると不思議にもその男の心が私にはよく解るのである。いや、私自身が曾(かつ)て何時か、何処かでそれと同じ事をやった気がする。 こんどは肥満して肩を張っている男の心になってみた。すると私自身がこの人と同じ経験を味わって憤然と肩をいからしたその時の気持ちが、何処からかよみ返ってくるのである。
妙な事をやる得体の知れぬ人間の心だと思うたことが、実はちゃんと私の内に生きている。嘲りが苦笑と変わる。苦笑が慚愧に変わる。慚愧の中から念仏が出る。
買う品物が積み重ねてある。それを上から取って買えばよいのに、わざわざ一つ返して中のを取る。これは百貨店での風景である。上のが傷でもあるかというにそうではない。この客の行為は妙である。 外から見ると奇妙な振舞をフト我が身に還ってみると、己れ自からが知らずして行うているのだから愈々不可解である。
外出すると人間の不思議な行為は随処に散見される。それが一つ一つ己れの中に宿っていることが味われる。貪欲と我執の奇行である。されば此の世界は法を聞く道場である。
無相庵の読後感想
私は、井上先生の心になってみました。すると私自身も、どちらの乗客の気持ちもよみ返ってきました。そして、井上先生の立場になった事もよみ返ってきます。
私たちは、他の人の奇行を嘲り苦笑するし、他の人の違法行為を警察官になった如く咎(とが)めるが、自分の姿は見えないものです。井上先生のような(法を説き、高潔な方と尊敬される)立場の方は、ご自分の過去の奇行や違法行為をわざわざ披露されることは有りません。 でも、その場でのご自分の心の動きを「嘲りが苦笑と変わる。苦笑が慚愧に変わる。慚愧の中から念仏が出る。」とも披露されて、私たちに、法に照らされることとはどう云うことかを、教えて下さいます。 何時かの法話の中で、『他所から届いた封筒に貼られた切手にたまたま消印の跡が無いことに気付き、「剥がして転用しようか」と云う心が湧いた事がある』と披露されたことを思い出しました。 法に照らされますと、ほんのちょっとした自分の煩悩が慚愧されると云うことではないかと教えられた気がした事を思い出します。
帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ