実相

井上善右衛門先生

実相(じっそう)という言葉を聞くと何か絵巻物でも見るように宇宙の真相が目前に映(うつ)るかのように私どもには思われる。しかし実相というものはそんなパノラマのようなものではないらしい。 『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の現成公案(げんじょうこうあん)に道元禅師はこのようなことを言っておられる。

「法もし身心に充足すればひとかたは足らずとおぼゆるなり」と。法もし身心に充足すればというのだから、真実の法が身のうち心のうちに入り充つるというのである。さればその時こそ実相に接するにちがいない。 ところが、どういう景色が顕われるかと言えば、「ひとかたは足らずとおぼゆる」と言われている。「ひとかた」とは一方であり、何処か足りないところが感じられて来るものだといわれる。
まだまだこれではという気がして来るものだと申されるのである。

        ※        『実相』とは、「1一般的な意味としては、実際のありさま。ありのままの姿。 仏語としては、不変の理法。真如。法性(ほっしょう)。」
        ※        『現成』とは、「眼前に隠れることなく、ありのまま現れていること。自然にできあがっていること。禅宗で用いる。」
        ※        『公案』とは、「禅の祖師達の具体的な行為・言動を例に取り挙げて、禅の精神を究明するための問題(なぞかけ)。」

同じく『正法眼蔵』の弁道話に「証にきわなく、修にはじめなし」という言葉がある。証にきわなく(際無く;限りが無い、果てが無いと云う意味)、修にはこれまでという窮極点がないという意味である。 そして「仏法には修証これ一等(不二)なり」と言い、「こゝをもて釈迦如来、迦葉尊者ともに証上の修に受用(じゅよう;受け入れて味わい楽しむこと)せられ、達磨大師、大鑑高祖(古仏の事、昔の高僧・先師) 同じく証上の修に引転(心の流れを替える、証から修に気持ちも姿勢も替える)せらる」と言う。

これを一言でいえば、証(さとり)とは修行せずにはおれぬ境地だということである。そうすると実相というのは静かな美しい画のようなものではなく、あくまでも動的に自己の心の底に働いて止まぬものだということがわかる。 しかもそれは足らずと自己を知らしめる働きとして現れて来ると知らされる。実相は在るものでなく働くものである。しかもそれが自己の無なる姿に即して内に自ら感じられて来るのである。

「法もし身心に充足すれば・・・」という先の文は次の言葉に先立たれている。「身心に法いまだ参飽(さんほう;十分に会得すること)せざるには法すでに足れりとおぼゆ」と。 法すでに足れりと思うことが、法の未だ入り充たぬ時の意識であると示されている。我々は自己を足れりと知って満足しようとする。自己が何処までもたらざるものとなってしかも安らい得る消息は不思議である。 かかる不思議こそが実相の風光に外ならない。念仏者こそはこの風光を味わう人である。「名号は実相法なり」と申されてあることが身に沁みて有難い。

蓮如上人は「心得たと思うは心得ぬなり。心得ぬと思うは心得たるなり。弥陀の御たすけあるべき事の尊さよと思うが心得たるなり、少しも心得たると思うことはあるまじきことなり」と申されている。 妙なる符節の一致ではないか。名号の信を通じて難解の『正法眼蔵』が私にもわずかに味わわせていただけるように感じる。 ※『符節』は『割り符』とも言い、「木片などの中央に証拠となる文字を記し、また証印を押して、二つに割ったもの。当事者どうしが別々に所有し、後日その二つを合わせて証拠とした。符契。符節。割り札。わっぷ。」と説明されています。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ ※『符節』は『割り符』とも言い、「木片などの中央に証拠となる文字を記し、また証印を押して、二つに割ったもの。当事者どうしが別々に所有し、後日その二つを合わせて証拠とした。符契。符節。割り札。わっぷ。」と説明されています。

無相庵の読後感想
「これを一言でいえば、証(さとり)とは修行せずにはおれぬ境地だということである。」と云う井上先生のお言葉から思うのです。私たちは誰でもこの人生で、習い事であるとか、スポーツとか、研究や学問、芸術を習得し、究めようと頑張ることがあります。 その中から、一生の仕事にして頂点を目指し、やがて自他共に一流のプロと言われる達人になる人々も居ます。 例えば、あのアメリカ大リーグのイチロー選手がそうですが、彼は多分、これから先も、バッティング技術の極意を掴んだとは決して言わないでしょう。そして、毎日毎日、バットを振り続けることでしょう。 大相撲でも、昭和と平成の名横綱と言われる大鵬、千代の富士、貴乃花、何れも、仲間力士の中で一番稽古量が多かったと聞きます。先場所優勝回数30に届いた白鵬もそうです。頂点を極める人は、練習、稽古をせずには居られない人々です。

学校の試験勉強で思い出すのですが、勉強すればするほど、不安が増すものです。優等生程勉強します。勉強が出来ない者程、試験前も悠々としているものでした。

聞法も聞かずには居られないと云うことになりませんと、まだまだと云う事なのでしょう。逆に、法話を聴きたい聞きたいと云うことになれば、仏法信者の仲間入りしたと思っても良いのではないでしょうか? そして、お念仏が思わず知らず口に出るようになれば、安心(あんじん)近しなのかも知れません。お念仏が出ない私は本当にまだまだなのだと思ったことであります。




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