浄土の真実
井上善右衛門先生
親鸞聖人の魂を私どもに伝えて下さった著述はご承知のように浄土の真実を顕わす『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』であります。従って申すまでもなく浄土は聖人の教えの土台であり、その信の依り処だと申して差支えないでしょう。
ところが今日、この浄土という問題が私どもにどう受け取られているであろうか。最も大切な、それが無くしては総てが崩れるであろう根本の浄土という問題が、実は最も曖昧に取り扱われておるのではないかという感じがするのであります。 またさらに浄土という問題を避けて通ろうとする動きさえあるかと思います。今日、青年達の真宗に対する躓(つまづ)きは何よりも浄土に対する疑念にあるといってもよいでしょう。浄土は夢にすぎない。あるいは幻想であって本当にあるもの≠ニしての実在でもない。 そうした疑惑が根本的に青年達の心を躓かせているという問題点を感じるのです。しかも現代の青年達の問いに応える用意と努力は十分になされてはいない。この問題に道を開くのでなければ、親鸞聖人の教えの面目を明らかにすることはできないと思うのです。
最近『歎異抄』の受け取り方一つにしても、様々な理解が語られ書かれています。しかしその根本である浄土という問題への曖昧さがいろいろな解釈に尾を引いているのではないかと思われます。 こうした点から親鸞聖人の信の土台をなしている浄土という世界を現代に生活するものとして如何に受け取るべきであるか。そういう気持から「浄土の真実」と題したわけであります。
もしこのような点に皆様が同感して下さるならば、私の申す事をお受け取り下さるか下さらないかは別として、皆様一人一人の心の中にもう一度浄土という問題を噛みしめて、それがどれだけ己れの命に触れているか。 殊に宗門大学ではその言葉に慣れて何とはなしに語ってはいるが、しかしここから生きた息吹がどれだけ私どもの命を潤(うるお)しているであろうか。こういう反省が私どもに必要な時代ではないかと感じられます。。
このような特に若い方々の浄土に対する疑念というものが現れてきた背後には、当然、時代の精神というものが動いていると思われます。その時代の精神とは何かと言えば、その一つは何としても西洋に勃興した科学です。 現代の青年諸君は兎にも角にも科学の洗礼を受けて教育され、その科学的知性というものが浄土に対する大きな一つの問題を提起する動機となっていると思います。 また現代の文明というものは科学を離れては考えられないものであります。これを機械技術という言葉で言い表す場合もありますが、そうした科学文明のなかで生活している我々に浄土という問題が素直に受け取り難い状態におかれているということです。
科学と云うものは人類に大きな効用をもたらしました。だから私どもは現代に生きるものとして科学を尊重しなければならない。しかし科学というものを通して見る世界が世界の唯一の見方であろうか。 先年フランスの文化使節としてマルセル【ガブリエル・マルセル(Gabriel Marcel、1889年12月7日 - 1973年10月8日)はフランスの劇作家、哲学者。キリスト教的実存主義の代表格】が来日しましたが、 そのマルセルが東京の講演で「科学の進歩による人間の智慧の堕落」と題した話をしましたが、その中に「現代の文明というものは、主軸をなす主音の欠如した音楽のようなものである。 しかしそれは決して科学の罪ではなくして科学至上主義あるいは科学主義哲学というものの責任といわねばならない」と語っておりましたが、これは現代の文明を批判する当然の問題点だと思います。
科学は尊重されなければならない。けれどもはたして現代の青年諸君が正しく科学を尊重しているのか、あるいは盲目な科学の心酔者なのか、ここのところが問題だと思われます。 認識論的な根拠にまで一度おり下がって、そして科学の正当性と同時に科学の持つ限界をしっかり踏みしめた上で、科学を尊重しているのか、あるいはマルセルの言葉にもあるように哲学さえもが科学主義哲学に形を変えつつあるのではないか。 そこに私どものもう一度振返り見なければならない問題があると思います。換言すれば、科学がここ数百年間に示した長足の進歩に人類が魂を奪われているのではないか。まずこうした点から反省の歩を進めてみる必要があると思うのです。
科学の根本性格は外界を、すなわち私どもの外側の世界を正確に観察、把握する認識であります。従って私どもの外側に何が有るかということを対象的に把握するという点においては科学に信頼してよいのです。 しかし働く人間の主体の内的自覚の世界の深さや心情そのものは科学の対象に成り得ない。何故ならそれを科学の対象としようとした途端にそれは外側に持ち出され、生きた姿を失うたものにすり替えられてしまうからです。
ところが今日の教育というものは科学的合理的知性を身に付けることに集中されているので、若い青年諸君の心の中には何処か言わず語らず科学がものを見る目の総てであり、 科学の窓を通して見ないものは総て偽りであり幻であり夢でしかあり得ないという先入主的(先入観的を古風にした表現)な科学至上の意識が産み付けられています。もし科学的認識が真理への唯一の通路であって、 それ以外のものは絶対に認めないという立場を取るならばそれまでです。けれどもその根源へ我々がもう一度立ち返って、一体科学の対象的な認識が真実を見る総てでそれ以外に道は無いのかと問うてみる必要がある。 ここに私達に残された問題があります。浄土の問題についても常に上述のような先入的意識がいつも頭をもたげているように思います。
よく聞く言葉ですが、科学的に浄土という世界はどこにも無い。天文的にもこの宇宙にそんな世界があろうとは信じられるものではない。それは結局淡い人間の感情の描いた影にすぎないのではないか。 こういう思いが浄土に対する根本的な疑念になって心の奥に動こうとする。しかもそれを正当に超える道を今日の教育の中には与えられていないのであります。
しかし浄土というのは今さら申すまでもないことですが、太平洋の向こうにアメリカがあるというように空間的な延長の拡がりの中で存在する世界として語られているのでは決してありません。
いま浄土を仏典を通してたどるならば浄土の真実ということが必ずや明らかになるでありましょう。我々は常識的な実在という視野をもう少し深めて見る必要があります。実在の視野を科学の視野に閉じ込めることがはたして正当かどうかという問題であります。 では一体、仏教が浄土とは如何なる世界を語ろうとするのであるかということになりますが、この問題に入るのに喩えを一つ申し上げたいと思います。
私は神戸で六甲山の山裾に近いところに住んでいます。運動とてとくに心得もないので、秋のすがすがしい晴れた日に閑があると、犬を連れて浦山を1時間ばかり散歩するのですが、山裾の小高い丘を登って行くと六甲の峰々が色づき、 目の前に大阪湾が澄んで見えます。海の向こうには河内の山々が見え、西の方を見ると淡路島がぽっかり浮かんでいる。神戸は非常に景色に恵まれた所であります。
こういう美しい景色を見ていますとフト連れている犬に、まあそう走り回らずに一寸ここへ来てこの景色を見るがよいと言いたくなるのですが、犬には全く見ようとする気配もない、ただもう道端をクンクン嗅ぎ廻って行ったり来たりするだけです。 そういう姿を見ますと、人間に生れてよかったなあと感じるのです。
そんな時にふと犬の目玉をのぞいて見ますと、人間に映っているのと同じ山が映っております。山が映っているのだからきっと海も淡路島も映っているに違いない。私の見ているのと同じものが映っているのですが、 しかし犬には美しい世界というものは映っていないのであります。
人間は美を感じます。人間は価値を意識します。人間は自由を知ります、その故に人間は責任を感じます。人間は真実を求めます。人間は果敢(はかな)さに対して永遠なるものを憧れます。そして理想の世界をもつのです。 しかしこのような事は犬にはない世界でしょう。犬にはない世界だからといって、人間の前に顕現しているその世界を嘘だといえるだろうか。責任というようなものは夢みたいなものだといえるだろうか。芸術的な美に接した時それを幻想だと思えるだろうか。
犬に映っている世界と人間の前に顕現している具体的な世界といずれがより真実に近い世界なのであろうか。この事を思えばこそ、人間に生れて良かったと思うのです。もしそうでなければ犬になっても良いはず、しかし犬になろうという気持ちは起こらない。 何かそこに人間たる我々の前に顕現している具体的な世界のより深い真実性をすでに認識しているのではなかろうか。
犬の前に現れている世界は犬にとってはそれより他にあり得ない世界です。人間の前には人間の世界が厳然として存在している。それを疑うわけにはゆきません。それは決して単に空間的な存在としての世界のことではありません。 ただ眼の水晶体に映っている限りでは犬と私と同じものが映っているので、決して世界が二つ並んでいるのではない。けれども世界が一つだとはまた決して言えない。
竪(たて)に重なっているというか、あるいは私はこれを見るものの前に現れる世界の奥行きとでも言い現わしてみたいと思うのですが、その世界の奥行きにわけ入る認識というものがあります。 犬にも映っている、人間にも映っている一つの共通の平面で、奥行きを無視している。即ちこれは物質の世界というものであります。
これも確かに一つの世界の姿ではあるが、しかしそれは極めて抽象的な世界の一面でしかありえない。そのように申すことが勝手な言い分であるか、あるいはそれを認めないことが勝手であるのか、その点をもう一度ふり返ってみる必要があると思うのです。
仏教では世界を大きく分けて、十の世界に区別します。即ち、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、仏ですが、この仏教の世界観を前述したように共通の単なる平面に還元してしまって、 空間の中にあるもの以外は見ないという立場をとるのは、真にあるべきリアルな世界を見る所以ではありません。
抽象の平面で見るのに対して、奥に掘り起されるべき世界、即ちこれを自覚の世界とか、行の世界とかいう言葉で示すべきかと考えますが、要は知の世界ではなしに、もっと深い次元の世界に働く自覚の道が現代の教養の中では忘れ去られているのです。
犬にも人間にも映るという抽象の認識に釘付けしてものを考えようとする。その意識が今日我々の周囲にいろいろな問題を起こしていると思います。原子爆弾を科学的法則を以って造ることは出来ても、その原子力を真に生かす世界を開く知恵が無い。 即ち前述したマルセルの「主音の欠けた音楽の如き文化である」といわれる所以でしょう。外を見る眼があっても、内には欲と怒りと自己中心の世界だけがあって、他に世界があることを認めない。それで真実の世界を主張しえましょうか浄土という世界が仏の目覚めの前に顕現する具体的な世界であることは『維摩経』仏国品にも明解に示されています。では一体その仏の世界即ち浄土という世界は私どもが現在生きている世界と如何なる点において根本的に異なっているかを省みたいと思います。
まず我々人間は五尺の肉体に仕切られた自己が存在の中心になっています。従ってこの肉体的な自己の外側のものは自己に対する他者になります。自己中心とはすべての行為の目的が自己自身の満足のためであると考え、 自分以外のものがどうなろうともそれは自分には関係がないとする生き方です。
そうした意味において自己が全てだという意識が固定してくると、いわゆるエゴイズムというものが人間存在の本質に結び付いたものになります。それは考え出された思想ではなくて、人間存在そのものの原点に結び付いた根深いものです。 社会的組織制度が人間の意義を規定すると言いますが、それよりも更に根源的なところで人間のエゴイズムは成り立っています。そしてそれが様々な思想や行動となって現れるのです。
我々においても身体的な自己のみが自己であるという意識の大前提に立って、それを当然のこととして生きている自分を振り返ることが出来ます。そしてそれ以外に自己がないということを疑う余地のない明白なことと思っているのです。 ところが人間の経験上不思議なことが起こるのです。
それは誰もが経験することですが、我々が親になってみると、「子供の幸せを離れて親の幸せは無い」ということを体験するのです。親である自分が一個の人間として如何程恵まれた能力があり地位があり何の不足の無い生活をしていても、 もし自分の子供が世の落伍者で世間から白眼視され、所知らずさまよっている哀れな人間であったら、親は果たして幸せという感情が持てるであろうかということです。
では何故そうなるのでしょう。子供は私からすれば外側の存在であり他者です。子供が死のうが、私がそれによって死ぬのでも殺されるのでもない、だとすれば親になるまでの意識の前提からすれば、五尺の身体に包まれた自分が自分であり、 それ以上を求める必要はないはずであるのに、親になると不思議にも「子供の幸せを離れて親は幸せを感じられない」のです。
即ち子供というものは身体の上では、他者として自分の外側にあるけれども、親の側からすると、その子供は最早や他者ではない。親は子供の中に自分を発見しているのであり、子供を包む自分に自分が拡大しているのです。
即ち以前の自己とは変わってきているのに気付くのであります。そうした事実を私どもは否定できません。しかし悲しいかな、さらに一歩進めてみようとしても、人間の自己拡大はそこ迄です。 自分の子供と他人の子供とはどうしても一つにならない。自分の子供の為には夜も眠られないことがあっても、他人の子供に対しては夜も寝ないような同情をしようと思っても出来ない。そこに人間のどうにもならぬ自己拡大の限界があります。ところが仏の境界というのは、我々が閉じ込められているような自己中心の殻を無限に脱ぎ捨てていかれたものといえましょう。そしてその究極に仏の目覚めと仏の世界とが顕現してまいったものといえましょう。 そしてその究極に仏の覚めと仏の世界とが顕現してまいったのであります。その世界とは『法華経』譬喩品に語られている有名な言葉、「いま此の三界は皆是れ我が有なり、その中の衆生は悉く是れ吾が子なり」 という大自覚の境地でありますその境地は我々のささやかな親子の体験を通じても窺い仰ぐことのできる世界であると思います。
このように考えると浄土という世界が、今まで思っていたような夢物語りの世界ではないことがうなづけます。『維摩経』には、「衆生のたぐいこれ菩薩の仏国土なり」という言葉がありますが、 これは菩薩は衆生の存在する処そこに浄土を打ち立てると云うのであります。この意味において聖徳太子の『義疏(ぎしょ;注釈書。特に,経典・経論などの意義・内容を解説した書)』には、 「仏には本来己れの土無し」と徹底した釈がほどこされています。これだけが自分のものだとする世界は仏にはないということです。これに対し、私ども人間的意識を以って描く仏の世界は、 人間の世界があるごとく仏の世界もやはり何らかの区切りと領域をもって、これは仏の世界であり、それ以外は人間の迷える世界であるというふうに頭の中で描くのであります。
しかし仏典に語られている浄土という世界はこのように限られた世界ではありません。『浄土論(天親菩薩が無量寿経によってみずからの願生(がんしょう)の意を述べたもの)』には「究竟(くきょう;つまるところ)して虚空の如く、広大にして辺際なし」と説かれ、 和讃には「妙土広大超数限」と雄大な言葉で語られてあります。しかしそれは単なる雄大ではなく、私どものこの世界と仏の世界とのもっと深い関係を語っているようです。 仏の世界と我々の世界とは二つであって一つに重なっている。重なっているということは通いの道があるということであり、有限な人間の世界がそのまま無限なる真実の国に裏付けられ、浄土からの果てしない働きかけが現にいま、 私どもの胸に迫っている。
注)願生(がんしょう)とは、仏になって苦しみ多い世界にいる人を救おうという、誓願を立てて生まれること
人間の親でさえ、その心には常に子供のことが念頭にかかっている、念頭にかかっているということは子供の中に入り込んでいるということです。子供の中に入り込んでいるということは、 即ち子供を立派に育て上げなければならないという働きを包んでいることです。包むという言葉は何かすでに空間的な感じがしますが、それは空間的な包摂ではなく、質的な同化作用の摂取が絶え間なく営まれているということです。
あるべからざる殻をかぶって真実の世界を自ら覆(おお)いその故に果てしなく苦しみ、事々に行き詰まり尽きることなく自らを嘆きの淵に導いている吾が子を捨てておけないという働きかけが真実の世界から我々の上に迫ってくることは当然の事柄でありましょう。 このことに気付くとき、二つの世界の対応と緊張とが人間の世界をして真に生きた輝きを放たしめることになるのであります。
しかもこの二つの世界は決して遊離しているのではありません。しかし仏の世界が人間の十重二十重に鎖(とざ)している固執の殻を脱ぎ捨てているということは、その意味において人間からは遥かなる世界であると申さねばなりません。 また仏の覚りの前に顕現する世界相も我々の想像を絶したものでありましょう。しかしその遥かさとは、人間が思い描くがごとき空間的な距離ではありませんが、ただ人間の意識の上に表現するとき「十万億の土を過ぎて」と語られたのであります。
けれども一方その仏国は決して遠くかけ離れた世界ではない。我々の世界と一時も相離れることの出来ない国であります。だから『観無量寿経』には「ここを去ること遠からず」と示されている。まことにこれほど近い関係はないのであります。 またそれは「衆生のたぐい是れ菩薩の仏国土なり」という関係において、我々はその真実なる世界の中に現に摂め取られておるのでありまして、それほど近く切実な相互の関係はないと申さねばなりません。
同時に仏の世界は絶え間なく我々に働きかけています。その働きかけこそが浄土の存在の根本本質であると申すべきです。本来、本願と浄土とは離すことのできないものです。 本願によって浄土が打ち立てられ、その浄土が本願の具体的活動態として我々の上にいま働き続けている。そういう思いを以て『浄土論』や『論註(曇鸞大師が著わした浄土論の註釈書)』を繙(ひもと)く時、 いかに浄土の真実が我々に対して悲心あふれる活動を営みつづけているかということに今さらのごとく胸打たれる思いがするのです。
限られた殻の中に住んでいる人間は、この閉ざされた世界の中で事柄を始末しようとしますが、右に置いてみても、左に置き換えても、けりの付くものではありません。 これは人間がある年齢に達して、人生の限界を体験し苦悩を経験することが、その意味では人間にとって大変貴重なことであり、それによって自己を真に知らしめられるのです。 そのような自分が浄土の真実を仰ぎえたとき、始めてそのままに落ち着くことが出来ます。それは不思議な二つの世界の照応(二つのものが互いに関連し対応すること)の関係であります。このようにして、浄土と我々の世界とは、 切っても切り離せない関係におかれています。虚仮の世間は真実の浄土に照らされてその存在の意味を全うすることが出来るのです。
浄土が辺際(はて、限り)なき世界であり、分別を超えた絶対界であるということは道理として頷けます。しかしその無限とか絶対とかいことが、ただそれだけでは結局我々の思念の中だけのものになってしまいましょう。 そのような主観にえがかれたものによって真実の浄土に触れることは出来ません。人間の知能を唯一の根拠とする理性や学問の弊(へい;たるんで生じた害)はここにあります。
ではどうして浄土の真実に触れることができるのか。人間には人間固有の意識とかその制約というものがあります。そうした制約に応じ宜しきにかなうて、大いなる活動が現れ真実と触れ合い交わる道が開かれるのです。 衆生を摂取するということは、かくて真実が我々の身のうち、心のうちに浸透し来ることであり、これを親鸞聖人は満足大悲円融無碍と語られました。
仏心の大悲がこのような摂取の活動を現じ、我々の心に通うて魂の眼を開かしめるのを大信と申します。この信を通して仰ぎみる浄土の真実は最早や主観の影ではありません。 西方浄土の荘厳が肌身に触れる真実の息吹きとなってこの世を生かしこの命を育てるのであります。
仏と浄土は本来一体であり、これを依正(過去の業(ごう)の報いとして受ける環境とそれをよりどころとする身体。)の二報と申しますが、聖人はその照育の光源を仰いで浄土を無量光明土とたたえられました。 それは信体験にもとつづく確たる真実世界の認識であり、それを人間の幻であるというのは大きな顛倒(てんとう;煩悩のために誤った考えやあり方をすること)であります。
その無量光明土から、現在ただいまこの身の中に貫き通ってくる光明、それを思うと次のような光景を彷彿するのであります。
雨後の秋の夜、澄んだ月が美しく天空に輝く、葉末にたまった露の一つ一つに、もれることなく月影が宿る。大きな露には大きな月が、小さな露には小さな月が見事に輝いている。その葉末の露はやがて落ちて消えるべき運命のものです。 人間の肉体もいやがおうでもやがては死ぬべきものであります。しかもその露の中に天上の月が宿っていることにふと気付いてみると、たとえその露は地上に消えゆくものであっても、その中に宿っている光は永遠の月の光に返りつながっております。露が消えたら、中に輝いていた光も無くなるという人があるかもわかりません。今日の人々は浄土とは人間が生きている限りにおいて思念されているものにすぎない、人間が死んだら人間の思いも消える、思いが消えたら浄土も無くなると、 そのように簡単考えてしまうのでありますが、果たしてそんなものであろうか。露の中に宿っている光は地上のものでありながら、そのまま天上の月に通うております。露は消えても光はなくならない。露だけが我が身なのではなく、 そこに宿る光もまた我が命であることに気付いたとき、永遠を知る身となります。そしてやがて我が命の還るべきところを偲ばずにはおられません。浄土への思慕とはまさにこの心情だと思います。
親鸞聖人はまさしく光り輝いた露であられました。そしてかくのごとく永遠の光りに生きることのできる恵みを、身をもって私どもに知らせて下さったのであります。
闇から闇へただ果敢(はかな)く消えてゆく露の身であることに我々は腰を据えていることが出来るでしょうか。人間が自身の果敢さを覚えるということは、そのとき既に、果敢なからざるものに強く心引かれているという証拠であります。 虚仮の自覚もまた真実なるものよりの見えぬ返照なくしては生じえません。これは仏教徒であろうが、なかろうが、人間にとって避けることの出来ない根本感情です。そういうところに、仏と人間との関係が始まっているのであります。
その我々の中に永遠の月光が貫ききたって命の軸となるとき、その光に摂めとられてその光に返りゆく己れの命が自覚されてきます。 そして消えゆく己れというものは、己れの己れたるものでなくなって有漏(うろ;いろいろな欲望や迷いの心をもっていること)の穢身(えしん;けがれた身体。凡夫の身)として知らしめられてきます。そし無量光明土がふる里として思慕されるのであります。 我々はそういう浄土の真実を、おおけなくも(おそれ多いことではあるが)この身にいただき、その恵みにまことの生き甲斐のしるしを知らしめられるのであります(大谷大学にて)。
帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ