理想と現実
井上善右衛門先生
我々は現実の中で生きねばならぬ。しかも一方、理想の声を聞かずにはおられない。そこに人間というものがある。理想へのつながりを断って、現実に没入して生きることが出来るなら、我々の生活は楽でもあろう。 しかしそこには最早や、人間として生きるに値する生き方は消滅する。生き甲斐なき生に堪えられないのもまた人間である。
現実とは何であろうか。それはいま我が足で立っているこの地上のありのままの姿である。そこには煩悩が狂い、我執が衝突し、利害が渦巻く、そこで共同の生活を営まねばならぬのが人間である。
理想とは何であろうか。我々の求めずにおられない、より人間らしい生き方である。
その望む生き方と、現実の事実とが厳しく矛盾し衝突する。ここに避けられない人間の悩みがある。理想に生きて現実の自己を捨て得るかというに、それが捨てられない。 現実に生きて理想を放棄するかというに、自己を裏切るさびしさが身にせまるのである。結局どちらともつかぬ中で、ほどほどの誤魔化しをして生きているのが我々の偽らぬ姿のようである。しかしそこに言い知れぬ人間の心もとなさとわびしさとがある。理想は捨てえない。しかしその理想が如何に現実と触れ合い、現実を導くかは大きな問題である。それは理想の生まれてくる母体と深い関係をもっている。
人間はまず人間独特の理性に目ざめる。そしてその理性を通じて理想の光が生まれ、それが命令となって身を導く。ところがその導きは厳しい断言的な指示であって、それに背くものは拒否し反するものは排撃して、一切を従わしめようとする。 かかる理想に目ざめるとき、現実との間に激しい闘いが起こることは必定である。何故なら一方の現実は容易にこの理想に従うような素直さを持ってはいないからである。人類の遥かなる古から現実界を生み出して、働き続けてきた惰勢(だせい)は底力をもっている。その闘いは必ずや惨憺(さんたん)たる様相を呈するであろう。 理性の命法はどこでも自己を主張し、現実を敵視してやまない。かかる理想に生きる人々が自己の内と外とにわたって「闘い続ける精神」を道徳的人間の本質として挙げるのは尤もなことと思われる。
理想と現実とは衝突という以外に触れ合う道をもたぬのであろうか。我々は現実に罪を帰するのであるが、問題はそこにのみあるのではない。正しさを主張して相手を責めたてることが相手の心を硬化させ、遂に抜き差しならぬ争いとなって、 自他共に傷つくことがある。正義をもって自任していても、そこになお未熟さの反省が生じないであろうか。人間の心というものは、物理関係のように初めから決まったものではない。 こちらの動きによって相手の動きが決まってくる。現実の人間関係は常に未決定の動態である。その底に執拗な煩悩が動いていることを自他共に気付かないのである。
煩悩が硬化するにも理由がある。貝殻をつつけばいよいよその口を鎖(とざ)すように、自分に対立してこれを排撃する力に逢うと、煩悩は決して後退しない。対人関係においてこの事実を見るし、自心の内面にもこの事実を感じる。 理性の命ずる理想の中にも、何かこうした対立をかき立てるような要素が伏在してはいないであろうか。
理性の中にも姿を変えた我執が残存しておらぬとは言えぬ。こうした対立的な状態をそのまま保存して、さらに理想を磨いてゆくと、「汝の敵を愛せよ」という立場に到達するであろう。
しかしそこには敵がある。敵があれば憎しみがあり、憎しみがあればこそ、これを愛すべしと云う犠牲的な命法が下される。それは如何にも高い道徳的精神ではあるが、その本質は対立性を越えていない。 闘い続ける精神の姿が如実にそこに現れている。自己を離れて道に生きることは大切であるが、純粋に道に心を捧げているのか、我知らず道において「我」を主張しているのか、それは問題である。 この関門を正当に乗り越えなければならない。人間たらんとして努力しつつ、煩悩の果(はて)ない深さと、理性の越えられぬ限界に行き当たって、さ迷わざるをえぬこの己れに、奇しくも新しい生命が光をなげかける。生きとし生けるもの総てを包む大いなる光が、煩悩と理性とにさまようわが心を確(しか)と抱いて捨てぬ。そこには最早敵視と排撃はない。ただ、悲心の涙と慈育の摂取とがある。理性は歓喜してこの光に座を譲る。
ここに今までとは異なった母体から輝き出る理想が身をつつむ。この理想は煩悩と激突するような触れ合いをしない。しかしそれは決して煩悩と妥協するのでもない。煩悩の深い必然性を知って、これをあわれみ、かなしみ、はぐくむのである。
如何程煩悩が狂うても、反抗しても、この光はたじろがない。どこどこまでも、これを追い、これにつき添って離れぬこと、一子をあわれむ親心のごとくであるから、この心を一子地(いっしぢ)とも名づけられている。人類の歴史を今、苦悩せしめているものは何であろう。今日、歴史を導こうとしている精神の奥に何が宿っているであろうか。我々はまことの理想の生れである真実の心源と母体をこそ求めねばならぬ。 現実の一切をいだき育む大いなる天地のまことの大調和と統一を歴史の上に実現せしめてこそ、人類は救われるのではないか。一個の人間としての自己を救うことは、そのまま世界史に対する我々一人一人の使命を果たすことである。
帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ