八正道

井上善右衛門先生

さてこの八正道ということ、これをどういうふうに私どもの身の上に味わってゆくかということですが、この私の上に正法(しょうぼう)と申してよろしい、或いは実法(じっぽう)と申してよろしい、 或いは今日の言葉では少し抽象的ですが、真理と申してもよろしいかと思いますが、そういう正法という今まで迷妄に覆われていた真実が、雲を破って月が水に影を宿すように、私どもに映じて来ると き、それを「正見(しょうけん)」という言葉で示されておるのであります。

正見というのは、今日の言葉で申しますと、正しい見解、誤ったものの見方ではなく、あるべきものをあるように見る正しい認識。虚妄なるものを払って真実なるものの光りを受け取ったという、そう いう私どもの状態、そういうものが正見という言葉で示されておると思うのです。この正見という光が私どもの上に道を開いてまいりますと、必ずそこに、これは自然のきまりでございますが、「正思 (しょうし)」という働きが現われ成立してくる。

正思、或いは正思惟と申しますのは正しい思考です。さらに広くいえば、思考を中心とした意識活動を表わすといってもよいでしょう。仏教では身口意(しんくい)の三業と言いまして、意という字で 心の作用全体を表わしますが、今はその意識活動を思惟が代表として表わしていると見ることができると思います。私どもが今まで邪なことを心に抱いていた。そういう私どもに正しいことを意識し、 思考する精神活動が開かれてくる。それを正思として示しているものです。この正思という内面活動が生じると必ず次いで「正語(しょうご)」という働きが言葉の上に現れる。

正語と申しますのは、これは私どもの正しさにかなった言葉でございます。荒々しい言葉を使ったり、ツッケンドンにものを言ったりしていた。これは内なる邪な心が自ずと言葉に現れるのであります。 即ちそれは実のない虚しい妄言です。それに対して、正しい言葉とは実のある言葉です。言葉の働きに真実が滲んでくる。それが正語であります。この正語には「正業(しょうごう)」が続きます。

正業というのは、私どものいろいろ実際に身で行いますところの行為でございます。実践行為、行動であります。私ども人間というものの働きを眺めますと、心で意思するか、口で言うか、身で行うかど れかです。これを身口意の三業と申しますが、これは確かによく見届けられた分析だと思います。正見という正法に照らされたるものが、私どもの命の中に顕われてまいりますと、必ずそこに正思・正語 ・正業という人間の働きの全体が私どもの上に身口意の三業にわたって顕現してくる。そこに生活の全体が正しいものなってくるのを「正命(しょうみょう)」と申します。

正命といえば私どもの生活全体の正しさでありますが、人間というものは昔から社会的動物であるといわれておりますように、独りぼっちで生きているものではございません。人間というものは人間関係 の中で生きる、これ人間の約束でございます。ですから正命という言葉の中には、具体的な私どもの生活、社会生活、人間関係を含めた生活活動全体の意味合いが正命というところで位置づけられておる と申すべきであろうと考えます。

正思、正語、正業ということになりますと、必ずそれが正命という全体的具体的な生活として顕現してくる。やはりこれも、ただそういうふうに言葉を並べたのではなく、そうなる必然性がございます。 そして、私どもの命の全体が、正しさを得てくるということは、そこに一つの安定、先ほど申しましたような、矛盾、葛藤というような状態ではなしに、極めて安定した、どっしりと落ち着いた、そうい う生活世界が顕現してまいります。

すると必ずその次には、「正精進(しょうしょうじん)」と言われておりますところの人間の本当の生き生きとした前向きの向上の活動が現れます。ここにもまた強い必然性があると思うんです。よく皆 さんお聞きの、幼い子供が欲求不満に陥るという。親子の関係も機械化文明化されてまいりますと、子供の人間としての自然の欲求というものが阻害される。子供というのは親の肌に抱かれて、その親の温 かさを感じて、そして、スキンシップという言葉もございますが、親の乳房を口に含むという時に、本当に幼児は幼児としての落ち着きを得るのです。

それと同じように、幼稚園なら幼稚園の時代には、正しい人間としての要求を満たしてやる用意を持たねばならぬ。過剰な欲求まで満たすと云うのは、あれはこの頃のお母さんの思い違いで、決して欲求 不満を解消する所以ではない。正しいあるべき要求を満たしてまいりますと、子供が精神的に安定する。安定すると活動が鈍って眠り込むかというと、決してそうではない。

人間というものが安定いたしますと、子供は子供ながらに必ず正しい新しい経験活動への意欲というものが生まれる。もりもりと活動力が起こってくるといわれます。こうもやってみよう。ああも工夫し てみよう、そこに本当の人間の正しい活動の根本姿勢と力とが発現してくるということを、幼児教育なんかの場でも申されます。人間にとって、やはり大人といえども同じだと思うのです。

では具体的に、この精進というのはどういうことになってくるか。それは私どもが果てしない無限な真理の中に、いよいよ深く進み行き、その味わいを深めゆく活動であると申せましょう。絶対というも のは無限のもの、人間というものは限りあるもの、その限りある私が無限のものに触れさせられると、やってもやってもこれでおしまいということにはならぬのです。

例えば具体的に仏法を聞けば聞くほど、聞かずにおれぬという願いと楽しみが湧いてくる。真実というものは、そういうものなのです。真実ならざる我々の欲望というものは、すればするほど擦り切れて いく靴の裏みたいなものです。ところが真実というものは、それに私どもが関われば関わるほど喜びというか、興味といおうか、意欲と申しますか、いよいよその事柄の中に無限の真実を味わい進んでゆ かずにおられなくなる。そこに顕現する働きが精進となってくるのであります。今までつまらぬ日暮らしをして、ただ自分の利益々々と閉じ籠もっておりました心が開かれ、無限に自己の真実を求める( 自利)と共に、世のため人のために働く(利他)活動をせずにはおれなくなってくる。そういう精進という発動が正命の次には必ずつながり起こって来るのであります。

そしてそういう正命と精進を、こんどは裏付けるもの、それが「正念(しょうねん)」であり、「正定(しょうじょう)」であると思います。まず正念の念と申しますのは、これは憶念です。憶念という のは、あるものをいつも心にとどめて憶(おも)うことです。ただ今申してまいりましたところからいたしますと、常に正法(しょうぼう)と共に心があるということです。原語はsmatiですが、それを憶 念の念という字で表したのです。私どもの心がいつも真理と共にあるとき、常に真実を憶念せざるを得ないのです。それを人格化しますならば、仏と共にあるということでしょう。そのときその人は常に 憶念というものに裏付けられてくる。そして真実と共にあり、真実を常に憶念し、仏を常に抱き仏と共に生きるということが、実は念仏なのであります。

念仏ということが、ただ口で仏の御名(みな)を唱えるということに限られておるかのような誤用になっておりますけれども、それこそ空念仏です。本当の念仏というのは、仏と常に共にあることです。仏 と共にある憶念が、おのずと仏の御名を呼ぶということになってまいりますのでして、逆に申しますと、いつも仏様が私に付き添うていてくださるから憶念せざるをえないのです。仏と共に生きておるこの 憶念の心が正念だと申しますと解り易いのではないかと思います。古来八正道の説明というのは理屈張ったことが多いのでございますが、それでは却って解りにくくなる、私はむしろ今申しますように解さ せていただいてよいのではないかと思っております。

それから「正定」と申しますのは、真理に統一された寂念不動の心境とでも申しますか、そういうものを正定といわれておるのだと味わってみたいのです。大いなる宇宙的な真実に、この私の心が統一され て、そしてそこに自ら揺るがない静かな不動の心境が顕われてくる。『成唯識論(じょうゆいしきろん)』などを繙(ひもと)いてみますと、その関連がよく頷けるように思います。念とか定とかいうのは 別境と申しまして、特定の対象と共なる心の状態を意味します。その別境に欲・勝解・念・定・慧という五つがあるのです。

その念と定との関係をどういうふうに『成唯識論』あたりで解かれておるかと申しますと、念という憶念の正しさができると、それが定の依になるといわれております。依とは依りどころです。ですから、 ただ精神を統一しようとしても、それだけでは精神統一は出来ないんじゃございませんか。念というのが定の依、即ち所依になるのです。念は定の「所依たる業となす」といわれています。業とは働きを 意味します。ですから依りどころになる正念に乗って正定という揺るがぬ統一された精神の世界が、そこに確立されてくるという筋道が明らかにされているわけです。その最後の正定をまた依として真実 の智慧が顕現するのであります。




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