往生とは

井上善右衛門先生

ご講演:平成9年1月19日
(先生は、翌年の5月3日に亡くなられました)

今日は、「往生」という題を出させていただきました。仏典の中には、至るところにこの往生という言葉が出て参ります。親鸞聖人がお書きくださいました漢文のご著書、和文のご著述の中にも、また蓮如上人の御文章にも、 往生という言葉が、至るところに気をつけてご覧になりますと出て参ります。仏典読誦の最後は「願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国」(がんにしくどく    びょうどうせいいっさい どうほつぼだいし ん おうじょうあんらくこく)という句で結ばれます。

ところが最近感じることは、往生という言葉が、浄土真宗の方々におきましても、薄らいで行っているのではなかろうか、また一般のご法話におきましても、往生ということに触れられたお話が極めて少なくなってきている のではなかろうかと思うのです。

現実の人生という限られた枠内で、私どもの心の不安をどのように始末するか、そういうようなお話が多くなって参っているように思われますが、これも確かに大事なことです。しかし現在ただ今をよそにして往生という問 題を、往生の何たるかを、私どもの命を正しく間違いのない状態に受け取っていただくということが、殊に浄土真宗の教えをお聞きになっている皆さまにとって極めて大事なことと思うのであります。

思いますに、人間の目に見えたところという観点で世界を眺めますと、科学とともに現実的、物質的、それは同時に時間と空間という枠の中の現象に現代人の関心が集中して参りましたので、その観点から往生という問題が 疎んじられ、関心が薄くなってきたのではなかろうかと思われます。

しかし、私は浄土真宗の信心というものは、往生という事に対する確(しか)とした命の御受け取りがなければ、それは浄土真宗の教えを誠に受け取られた方とは思いません。いつぞやも申したと思うのですが、この前、金 治勇先生がお亡くなりになりまして、色々な弔辞をいただいたのですが、その中に最後に、安らかにお眠りくださいという言葉で終わっておるのがありましたが、その気分は分かりますが、それでは往生は寝に行くのか、お 浄土は寝室かとなってしまいます。

いよいよこれから大いなる活動の出発点という、そういう未来に対する広大無辺な、宇宙的な壮大な展望を、私どもは信心と共に與(あた)えられるところに、仏教の仏教たる所以があるのです。人間感情だけでことを処理 して、それで誠に達しられるかというと、決してそうではないと思います。

仏教は宙に浮いたお話ではなしに、現実の人間の一つ一つ押さえまして、一歩一歩辿るべき正しい方向を辿らせていただくところに仏法の道を味合わせていただくことが出来る、まことに私どもの命に頂戴することが出来る のでありまして、決して現実離れした夢のお話を聞いて楽しむと云う様なこととは、全く本質を異にしたものであることを私どもは心得ておかねばなりません。

第一に思うことは、私ども自身、これは一体何者であろうか、私ども自身、命というものを現在いただいて生きているのですけれど、一体これはこのままでよいのであろうか。私どもはいささかその点に気がついて参ります と、己自身を振り返らざるを得ないものです。

そういたしますと人間というものは実にちっぽけな存在で、身体の上においても、心の上においても、有限な限られたものとしか己のことを思うことが出来ない、そういう存在であることを先ず感じます。私どもの身体は有 限でございますから、生れて参りましたなら必ず死なねばならない、もうこれははっきりとした有限なるものの姿でございます。しかし、それだけなのであろうか。私どもの日々の働きをつかさどっている、この私の命と心 というものは一体どのような働きをしているものであろうか。

そういう点に触れて、私ども己を振り返ってみます時に、仏様が私どもにお示しくださいました迷いと云う世界に生きている私であり、その迷いの中に私の心が動いておる、結局人間というものは、あるべからざる自己を固 執して所謂エゴを中心として離れられない生き物でございます。

私は戦争に参り、挙句の果てはシベリヤへ4年間抑留されまして、いやもう戦争ほど馬鹿げたものはない、生きて帰って来ましたが、戦後50年、戦争は止みませんね。ソ連が崩壊するとたちどころにバラバラに分かれ、ど ういう別れ方かというと、結局エゴが、民族という形になって分かれて行くのです。

日本人も中国人もアメリカ人も、みんな平等な人間であると、心では解っているのですが、実際のところ私どもの命がどのように働いているのか、どうしても民族中心という葛藤が現れてくる。他国との協調ということが出 来ない。最近もユーゴ―のサラエボで非常に悲惨な戦争が起こったことは、みなさまも新聞などで既にご存知と思います。

このままでは、人類から戦争は絶対になくならないと思います。また人類は、自己中心のエゴから自然を破壊するのです。一言で言えば、人間の欲です。自然が破壊されれば、人類が人類自身を破壊することになってくる、 これは目に見えたことです。人間は理性が発達して、色々科学的な思考が現れてきておりますが、結局大きく眺めてみますと、理性が欲望に負けております。欲望が優先しています。欲望に支配されて、理性がうごいている 。だから、公害とか汚染とか自然破壊が日々続いております。

こういう筋道を変えずにこのまま進みますと、悲しいことですが人類は滅亡する時が来ると言わざるを得ません。しかし現在、人類の歴史はせいぜい数百万年でございまして、あの恐竜でも何億年も前の生き物ということで すから、人間の歴史は短いものです。

その中で私どもが築いてゆかねばならない人類の進歩発展、豊かなる人類生活の形成という所に本当に精神を集中して、真剣に考えねばならぬ時と思うのですが、そのようになってはおりません。このことは、私どもよくよ く考えなければならないと思います。そんな人類全体の大きなことを言わずとも私どもの家庭というもの一つさえ、穏やかに豊かに幸せに暮らしておるかと申しますと、悲しいかな、これまたそうは参らぬのです。

皆さまに、人生は楽なところか、難しいところか、とお尋ねしたら、異口同音に難しいところです、とおっしゃると思います。そのように自らが自らを疎外するような出来事がどうして起こってくるのか、これは結局先ほど から申しております迷いの世界に私どもが、自己中心に動いておるゆえ、それが微妙に関係し合って人生の難しさをつくり出しておるその根元に、まず私どもは気付かしてもらわねばならぬ。それを気付かずに人生の苦しさ だけから逃れようとするところに、迷信というものが起こる。

迷信と云うものは、必ずお金と結びついております。迷信に入り込むことのできぬ性格の人は、悲しい自殺を遂げられる。私どもは何としても、事柄の源、根源というものから気付いて参らねばなりません。

親鸞聖人のお言葉を少し引かせて頂きますが、みなさん自身の心を顧みられて、私は清い人間です、と申し得られる方が何人おいででしょうか。別に悪いことはしておりません、と誰しも思いますけれど、わたしのその心の 底には、親鸞聖人のお言葉で、「欲も多く、怒り腹立ち、そねみ、ねたむ心多くひまもなくして、臨終の一念に至るまで、とどまらず消えず絶えず、」とおっしゃっておられる。

実際これは、そんなことはありません、と申したいが申せませんな。現にこの私、確かに欲も多く怒りや腹立ち、嫉み妬む心多くひまなくして、しかもこれが一時のものならまだしも、臨終の一念に至るまで、止まらず消え ず絶えず、と聖人がよくもおっしゃったと私感じ入るのですが、これは『一年多念証文』の終わりの方に出てくるお言葉です。

その私どもの現実の中に先程から申します、迷いの世界というものを、己自身の中に気付いてみなければならない。その迷いの世界から救われる道が、仏法です。その迷いを脱して、悟りに向かわしめられ、運ばしめられる のが、仏道であり、ここに真の救済というものがあるのです。

もうひとつ、私どもが反省して置くべき事は、現代の私どもはややもすると、死ねばおしまいという観念が非常に強く根ざしておりますね。死ねば焼いて灰になる、灰になったら何もなくなる。それで万事が消滅と、こうい う観念です。しかし、これは、人間の目に見えた限りはそうかも知れませんが、例えば私どもが氷塊を見ている。氷は融けたら無くなります。けれども、私が気付かない水がそこに形を変えて現れております。とにかくいか に科学的と申しましても、人間の見るところは、時間と空間に制約され、拘束された理解しか持ち得ないのです。ただ人間の常識的に思うことだけを、己の信条にしているということは、もう一度考えてみなければならない のではございませんか。

往生ということは、昔の方は、伝統的に現代人と違いまして、命が変化しながら変わる永続性というものに関する観念を持たれた。ですから、迷いというものも、ただこの世だけのものではない。命終わって後に現れる迷い の恐ろしさ、そういうものが感じられていたのです。

親鸞聖人が比叡山を降りて、六角堂に百日の参籠されて、これは恵信尼文書にございますが、「その暁(あかつき)出(い)でさせたまいて、後世(ごせ)のたすからん≠クる上人にあいまいらせんと」、それで法然上人 の所へお行きになられたのですね。後生(ごしょう)の助かる、そういう所に真の救済の世界があることに、昔の方々は案外伝統的に敏感であったと思うのです。

現代人に、極めてそれが薄くなっている。死ねば終いと云う、人間の目に見えただけがすべてではない、もっと私どもはよく目を開いて見なければならない。仏教というものは、宇宙論的な教えです。釈尊の教えは現実を越 えて大いなる宇宙的真理に目覚められたお方の教えでございまして、その教えを受けた私どもですから、私どももまた小さな人間の常識の中だけに止まっておるという立場を超えねば、真の命の喜びというものに達すること はできないのではないでしょうか。

さて、只今申しましたように、私ども自身の心の清らかでない迷いをお感じになったお方は、何とかしてもっと清い心になりたいものだと思い立たれることは、正しいことであり当然のことと思うのであります。つまり言葉 を変えますと、自分の迷いを自分の努力で超えようとする。こういう思いをお持ちになると云うことは、当然であると思います。

しかしながら、なかなかこういうことは、単なる思いで果たされるものではないのでありまして、もしそれを、実際にやってみようとお思いになるお方があるならば、これは仏教でも聖道門という門戸が與(あた)えられて いますから、そこへ行って励んでみられるのも結構ですが、ただしその時は、命懸け、己を捨てるという心根をもって向かわれるのでなければ、不可能なことだと思います。

家庭生活をし、一方に欲の楽しみを願いながら、自分の力で自分の迷いを超えようというようなことは、あまりにも勝手過ぎます。迷いというものは、そんなに根の浅いものではございません。
しかし、これは人間として一度はそんな思いが起こってきても決して無理なことではないと思います。そういう志をお持ちになるということ自体が尊いことであると思うのです。

しかし、それは実際におやりになってみてお解りになることなのですが、私はいつも喩えとして申すのですが、自分が今乗っている板を、自分の手で持ち上げることができましょうか。私どもは今迷いという板の上に乗って いるのです。その迷いの中から奮い起こす力というものは、迷いの汚れを拭い得ないものになる。自分が乗っている板を自分で持ち上げるような矛盾を、私どもはきっと身にしみて感じざるを得ない時がやってくる。

親鸞聖人が20年のご修行の後、叡山を降りられたというのは、やはりこういう矛盾をお感じになられたのではなかろうか、到底私どもの思っておるような生やさしい求道(ぐどう)ではなかったと思います。それでいて、 やはりこういう悩みをお持ちになったのです。その時代に、法然上人が既に早く浄土の教えをお説きになっていられた。吉水の草庵で、念仏の教えをお説きになっておられたということは、親鸞聖人もずっと以前からご存じ だったのです。しかし、おいそれと良いことを聞いたから直ぐに行くというようなことをなさるお方ではなかった。ご自身でいよいよ行かざるを得ないところまでやってみられて、そしてついに歩みを法然上人の所へ向けら れた。

六角堂で百日、観音様に参籠されたと同じように、また百日の間、降る日も照る日も欠くことなく法然上人のところへお出かけになって、教えをお聞きになった。これ程の厳しさがなければ、浄土真宗の道は歩まれません。 他力の易(やさ)しい教えだから、誰でもおいそれと行けるようにお思いであるならば、これは誤りです。そんな生易しいものではない。

人間の迷いというものそれ自体が、私どもに気付かないほど根深いものでありますから、その私どもが辿るべき道は、決して噂とか、或いは話とか、何かの書物に書いてあったとか、そんなことで仏法の道を辿るのではない。 みなさん、己自らを偽ってはなりません。決して夢を見ているのではなく、己を偽(いつわ)ることなく、己れを見つめながら、己が行かざるを得ない方向に歩みを進める、そこに仏道の辿りというものがあることを確心し たいのであります。

その時の法然上人のお教えは、念仏の御(み)教えでありましたが、現代的に言い換えてみますならば、私どもは現に迷いの世界に蠢(うごめ)いていおるものではございますが、不思議というか有難いというか、言葉では 言い尽くせませんが、私どもは宇宙の真理というものの外(そと)に出ることの出来ないものなのです。いかに迷っておりましても、この私どもは宇宙的真実というものに包まれておる。そのことを今まで気付くことが出来 なかった。 その真実のお働きが、光寿無量(こうじゅむりょう)即ち光明と寿命となって、私どもの上に働き続けて、そして私どもの命を摂(おさ)め取ってくださる。この道が念仏の教えに外ならないということになります。

どうしてこのようなことが私どもに起こるのか。不思議と言えば不思議、また何と有り難いことかと思われるのですが、真理というものは、末徹った真実そのもの、常に全体を包んでおるものです。これは西洋の人であります が、ヘーゲルというドイツの哲学者を皆さまもご存知と思いますが、その著書の中に、「真実なるものは全体なり、」という言葉がありますが、これは動かぬ言葉だと思います。部分的なものの中に真実はない。それが真実 であれば、日本の国でもアメリカでも、アフリカでも何処へいっても、それは変わりのない働きを、私どもの上に及ぼし続けるものである。

それを今お釈迦様が確(しか)と体験され、実感され、体得された、それが即ち光寿二無量であったのです。その光というのは言うまでも無く、人間の目に見える光ではありません。しかし、私どもの心の闇を照らして、心 の闇を包んでおられる。この事が気付かれた時ああそうであったかと、心の目が開ける。開眼(かいげん)と言ってもよろしいでしょう。その私どもの命に開眼をもたらすものですから、それは闇を抱いて闇を破る光なので す。

ですから、これを光明と申されておる。しかもこの光明は、永遠の真実から現れ起こったものですから、それは、無限のものであり、永遠のものである。そこに光寿無量という実感が現れて参ります。そのことを今現にお聞 きしておるのです。しかし私どもの迷いの煩悩は根深いですから、常に真実の働きを遮(さえぎ)ろうとします。

その私どもが、その遮っておる迷いの中で、真実が尚且つ止むことなく、私どもに働きかけておる、摂取不捨とか、摂取光中とか申す事実を気付かして頂くのが、浄土真宗の教えであります。
そしてそのことに一度開眼されますと、私どもは今までのような思いに止まっておることが出来ないのです。前に述べた柔軟心(にゅうなんしん)というような徳をいただきます。なお聖人は現生十種の益(やく)として本 典信巻に讃えておられます。

だからと言って煩悩を離脱したのではありません。煩悩を抱きながら光明に摂取されて明るく有り難い境涯を恵まれるのです。それを聖人は『譬如日光覆雲霧、雲霧之下明無闇(ひにょにっこうふうんむ、うんむしげみょう むあん)』と讃じられました。実に巧みな譬(たと)えです。しかもこの境涯に入る時、光明の摂取は私を離れ給うことなく必ず浄土に達する真実道に乗ぜしめられるのです。これを正定聚の分に入ると言われました。そし て忝(かたじけな)くも弥勒に同じ諸仏に等しとさえ嘆じられたのです。この正定聚の分人こそ真実信心の人です。されば真実信心の人は必ず往生を遂げ真実報土のさとりを得るのです。

ここに往生浄土の重大性を確(しか)と思わねばなりません。往生という二字は翻訳語ですが、往という字があるので何か遠いところに往くように思われる。しかし往生の本来の意味は世界が変わる∞境涯が転ずる≠ニ いう義をもつものであり決して空間的にある処からある処へ往くという意味ではありません。

蓮如上人がこの世の厭わしさを「あわれ死なんとおもわばやがて死なれなん世にてもあらばなどかこの世に住みはんべりなん」と言われ、つづいて、「ただ急ぎても参りたきは、極楽浄土、願うても願いえんものは無漏の仏 体なり」と仰慕したもうています。その徳を「仏智より賜わりながら、先生(せんしょう)より定まれる死期を急がんも愚かに惑いぬるかと思いはんべるなり。」と誡めておられます。往生浄土のところにおいて、究極の悟 りの世界に私どもは入らせていただく恵みを、この身に持って人間に生れさせて頂いたのです。

そのために人間に生れてきておるのである、そのことに気付かせていただくということは、これは今まで解決できなかった問題をも解決してくださる、開眼というほかないと思うのであります。従って往生ということは、ど うぞ間違いなくお受け取り願いたい、究極の悟りにいることであり、そこに救済の究極点があるということ、本当の救済ということは、往生とともに、仏とひとつの身にならせていただく、みなさまもよくご存知の足利浄円 先生という方がいつも、仏様は一つになりたい、一つになりたい、と言っておられる、とおっしゃっておられたのが今でも耳の底に残っております。

宇宙的な真実というものは、そうなんでしょう、身体を持っている限りはまず間違いのない道に、私どもを乗せてくださる時を、正定聚と申され、その道に乗せて頂けば、必ずや涅槃の仏様と同体の世界にまで、いやがおう でも運ばれて行くのです。それが、正定聚という、もう決して退転はせぬ、脱線はせぬ、後戻りはせぬ、そういう心でございます。

私ども、その道に乗った以上は、もはやそれは仏様のお手元に行ったも同然であるという、その喜びを親鸞聖人は『末灯抄(まっとうしょう)』には、「正定の人は弥勒に同じ、如来に等し」と申されたのです。正定聚の人、 その位にあるその時の状態が、信心でございますから、その道を私どもは南無阿弥陀仏といただくのです。阿弥陀仏の真実の御働きに身を委ねる喜びが、南無阿弥陀仏と口に出る。そういうおおけなき恵みの中に、私どもは 現在ただ今摂めとられておる身の上であることを、喜ばねばなりませんとともに、その救済の究極点、そこから真の働きに入る、大いなる働きの出発点でもある。還相廻向というのは、みなさまご存知でしょうが、その味わ いもそこから出て来るのでありましょう。

色々と申し上げたいこともありますが、今日、往生という題のもとに、そのような私どもを末徹(すえとお)って救われる筋道を申し上げたかったのでございます。色々な点からそれに合わせて色々な恵みを、喜びの味わい をお聞き取りいただいたことです。どうぞ、根本の筋道を確と念頭に置いて、往生という輝かしい未来を仰いで頂きたいと思います。




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