一すじの仏道

井上善右衛門先生

『正法眼蔵随聞記』に胸に沁みる一節がある、その要を抄訳してみると次のようである。

あるとき、仏道を学んでいる人が来って道元禅師に問うた。 「自分は長い間仏道に専念していますが、いまだ悟りに達することができません。悟るには聡明であることを要しないと聞いておりますが、しかし用心しなければならぬ点があるなら、どうか聞かせていただきたい。」

これに対して道元禅師は示して次のように言われている。

「あなたの言われている通り、悟るには智慧も学問もいらない。しかしわざと痴人になれというのも歎かわしいはからいである。仏道には有知高才を要しないから、下根劣機であることをいささかも心配する必要はない。真実の仏道というものは至って易いものである。ではあるが、自分が学んだ大宋国の実際にてらしてみても、一人の師匠の門下何百何千人の中で真に得道の人はわずか一人二人に過ぎない。そこには何か心がけねばならぬ大切な問題が潜むといわねばならぬ。

今これについて考えるに、要は志しの問題であると思われる。換言すると仏道に切なる欣求の心をもつということである。たとえば強い敵にうち勝とうと思い、また美人に憧れるものが、寝ても覚めてもその事を思いつめるように、絶え間なく心に懸けつづけていると、きっと思いをとげることができる。道を求める志しが痛切であれば、必ず必ずその志しの前に一すじの道が開かれるであろう。これぐらいの心を起こさないで、無始以来の生死の輪廻をこの度び断とうとする大事をどうして成就することができようか。この心さえあれば、下智劣根であろうと、愚痴悪人であろうと、必ず悟りを得べきである。

さて、こうした仏道への志しは、この世の無常を思う心と表裏するものである。その無常を思うとは、無常観を修することでもなく、またわざと無常を思うことでもない。無常はまことに眼前の事実であって、聖教の文を待つまでもない。朝に生まれ夕に死し、昨日見た人の今日は亡き世界である。この事を自分の身に引き当てて思うことである。我々は生きている間、憂え悲しみや怨愛で大騒ぎするのであるが、無常ということを正しく見極めてみれば、たとえどうあろうともそのまま過ごしてゆけるはずである。高齢の人、人生の半ばを過ぎた人は今後何年生きるつもりであろう。まことに当てにならないこの世にあって、さまざまと生活の利害に没頭し、その上さらに人に対して悪事をたくらんで、無駄なときを過ごすのはまことに愚かなことである。くれぐれもこの道理を忘れないで、ただこの日一日、今ある命と思い、仏道を学ぶ覚悟さえ出来れば、その後のことは何事もいと易く、性の上下、根の利鈍ということは全く問題にならないのである。」

以上のごとく語られる道元禅師の言葉は、不思議にも『大無量寿経』の教えを聞く思いがする。「聖道の難行」といわれるが、ここにはそうした言葉も心も全く見出されない。道元禅師は繰り返して真実の仏道というものは、易いものであると述べられている。盤珪禅師の語録にも、そうした言葉がたびたび現われる。それは仏道の真実が我が手で捉えるものではなく、与えられてあるものだからであろう。ただそこに、そのおうけなき賜物を遮っているものがある。我々にとって問題は、それを如何にして越えるかということであろう。そのために智慧や明敏さは必要なのではないといわれる。『唯信抄文意』に親鸞聖人が、「下智は智慧あさくせばくすくなきものなり、高才は才覚ひろきもの、是等をえらばずとなり」といわれているこころに一致する。では問題は何処にあるというべきか。

今それをまさしく仏道への「志し」と示されている。『大無量寿経』に依って親鸞聖人が、「たとえ大千世界にみてらん火をもすぎゆきて、仏の御名をきくひとは、ながく不退にかなうなり」と和讃に誦されたのは、まさしくこの「志し」の問題を取り上げられたのであろう。しかしそれは決して、強いて発起せねばならぬような志しなのではない。

『大経』下巻に諄々と説き示されたこの世のはかなさと我が心のさ迷い、それを思うとき湧き起こらずにはおれぬ止むに止まれぬ志しなのである。けだしそれは、人間にとって必然の願いという外はない。人間が人間の願いに生きるほど自然なことはない。ただ我々は当てにならぬこの人生で、よしなき利害の願いに翻弄され、真実の願いを忘れていることが多い。実ならぬものを満たしても、それは夢のごとくうたかたのごとく、まことの生甲斐に達することは出来ぬ。そこに人生のそこはかとなき淋しさがやどるのである。

我々はまず真実の願いにたち帰らねばならない。その根本の願いを忘れ、ただ安易を欲して易行を求めるところに脱線がおこる。本願他力に対する非難の源はここに潜むといってよい。仏道は一すじである。道元禅師の胸にも親鸞聖人の心にも一すじの道が通うている。その一すじの道が一切の抽象性を離れ、最も具体的に完成の光を放って顕現しているもの、それが大悲本願の一道である。鈴木大拙博士が浄土真宗を「宗教としての完成形態」と言い切られた所以がそこにあると思われる。




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