仏恩報謝―(2)続−念仏申すこころ
井上善右衛門先生
―前回からの続き
私どもが、只今生きておるこの現実というものを見つめておりませんと、いつか私どもは絵を画いておることになります。そしてその絵を画いておる中で自分の往生を予想しておる。このようなことになりますならば、折角の念仏というものも遂に真実を期することはできません。そのような私どもであればこそ、阿弥陀仏がやるせない弘誓(ぐぜい)をたてられ本願を成就されたのであります。もし善根功徳さえ示しておけば、それを各自が自分で励んで、そうして自分の往生を各自が仕上げるという事であるならば、阿弥陀仏の本願というものはもっともっと簡単なものでよい訳であります。そういうことでは救われない私であることをかねてしろしめして、その私のために光明無量、寿命無量のおん寿(いのち)のすべてをナムアミダフツに結晶させて我々にふり向け、その光明無量寿命無量の中にこの私を摂めとるという本願をお建て下さったのです。したがって同じく第十四章には、
弥陀の光明に照らされまいらする故に一念発起するとき、金剛の信心を賜りぬれば、己に定聚の位に摂めしめ賜ひて、命終すれば諸の煩悩悪障を転じて、無生忍をさとらしめたもうなり、この悲願ましまさずば、かかる浅ましき罪人、いかでか生死を解脱すべきと思いて、一生の間申すところの念仏は、皆悉く如来大悲の恩を報じ徳を謝すと思うべきなり。と語られておるのでございます。
そこのところをかえり見させていただきますと、阿弥陀仏の第十八の願がましますということは、決して故なくしてましますのではない。それがなければ、結局私どもはおぼつかない希望とか予想とか期待とかいうものの中で、流れ去って行くような一生となりおわるであろう。そのものをどこまでも見捨てておくことが出来ぬという大いなる宇宙的真実のまことが、ここに阿弥陀仏の本願となって私どもの上に光被して下さっているのであります。
したがってその弥陀の光明に照らされて、そしてその光明の中に摂めとられるその時に「定聚の位に摂めしめたまひて」という言葉が、そこにでてまいるのでございますが、これは実のところこれより外に私どもの救われる道というものはございませんし、また阿弥陀仏の真実というものの徹底が、このような道をお開き下さらずにはおられなかったという所以を私どもは頷きうるのではないかと思います。
しかも光明に摂めとられるということと、大きな大悲にお任せしきるということとは、全く同時のことでございます。そしてそのとき私どもは定聚の位に摂めとられるとともに、如来の徳に行われもてゆく身の上に変わるということです。ここのあたりがやはり、人間の常識的生活というものと宗教体験的更正というものとの、非常に大きな相違もあり、転回点でもあろうかと存じます。
そうした光寿二無量の中に摂めとられる身の上になった人の主体的感情と申しますが、大きな宇宙的真実の中に摂めとられたその人が、その光の中に生きるときに、その人の生命感情を通じて現れる思いというもの、これが「仏恩報じる思いあり」と親鸞聖人が和讃におっしゃったその心情だと申さなければならないと思います。
私どもの意識の上で申しますときは、何と言ってよいでしょうか、有難さのあまりというような感情が、生活の大地になってくる。そうして私どもの生活実践の一切が、そこから流れ出るということになってくるのではございませんか。言い換えると、それは生命の源が明るみの中に甦った心情でありましょう。だから意識的に報謝という感情にならなくても、あるいは先ほど申しましたように、ふと申す念仏も、あるいは風呂に入ってお念仏するような場合でも、あるいは『御一代記聞書』にありますように「蜂を殺してただかわいやと思うてふと申す念仏」さえも、やはり報謝という本質から流れでてくる念仏であると申されております。そういうところに、私ども人間に与えられる唯一つの「無我の行」というものが実現してくるのであります。
―次回の無我行に続く