仏恩報謝―(2)念仏申すこころ
井上善右衛門先生
この事については、『歎異抄』の第十四章が私どもに非常にはっきりとその心をお示し下さっておると思うのでございますが、親鸞聖人以前の初期の浄土教におきましては、「念仏を申して、尊い仏の功徳のこもっている念仏を申すことによって罪を消し、徳を積んで往生を期する」という姿勢で人々がお念仏をしておられたことが、非常に多いようでございます。それはつまり、念仏を励むという姿勢ですから、これもまた尊いことでしょうが、何かそこに私の言葉で申しますと隙間がある。何かそこに至り届かない問題点が残されている。その隙間あるいは問題点を只今申しました『歎異抄』の第十四章が非常にはっきりと言い表しておられると思います。
それはこういうお言葉です。
もし然らば、一生の間おもいとおもふこと、みな生死のきずなに非ざることなければ、いのちの尽きんまで念仏退転せずして往生すべし、ただし業報かぎりあることなれば、いかなる不思議の事にもあひ、また病悩苦痛せしめて正念に住せずして終らんに念仏申すこと難し。その間の罪をばいかがして滅すべきや。と申されています。・・・・・柔らかい言葉のようですけれども、非常に鋭い言葉だと思います。只今の『歎異抄』の文の意味は、十分お分かりのことと思いますが、もしそのように念仏を励んで自分の罪を消し、賜った徳を積み重ねていって、そうして往生を期する、往生を仕上げていくというのであるならば、我々人間の一生というものは、「思うこと為すこと生死のきずなに非ざることなければ・・・・」と申されていますが、これはまことにその通りです。お念仏を申しているかと思うと腹が立つ、お念仏を申しておるかと思うと欲しいと思う、可愛いと思う。私ども一体、純粋に念仏だけして日々が送れるような存在でしょうか。
「一生の間思いと思うことみな生死のきずなに非ざることなければ、いのち尽きんまで念仏退転せずして往生すべし」と。もしそのようになお念仏によって、人間の浅ましい心を一つ起こせば一つ消してゆく、一つ鉛筆で書いてはそれを消しゴムで消してゆくというような仕方で、私どもの往生が全うできるものであるならば、「いのち尽きんまで」、生命が終わる最後の最後まで「念仏退転せずして」念仏を申し続けて始めて往生は成就するであろうと。
けれども人間の身と言うものは決して自分の計画通りにこの人生が動いてくれるものではない。「業報限りあることなれば」各自に、私どもにとってどうすることもできない業というものを現に只今背負うておる身の上であるから「如何なる不思議のことにも会い」というのは、どんな思いがけない災難が向こうから起こってくるやも知れぬ。これは全くそうでございます。
又「病悩苦痛せしめて」思いもかけないような病気が生じてきて、その病気の苦痛のために全く心がしばり上げられ、乱されてしまって、「正念に住せずして終わらん」と。とてもとてもお念仏を申しておるような余裕はなくなってしまう。これはそうだと思います。達者な時には、お念仏を申してその静かな心を継続するのだと私どもは思うのでございますけれども、私どもちょっとでも病気いたしましたらもう駄目です。苦しみの方が勝ちまして、お念仏をするような殊勝な思いと実践とが継続し得るものではございません。
もしそうであるならば、「その間の罪をばいかがして滅すべや」、そのお念仏できない間に作っている自分の罪はどうする積もりなのか。そう言われますと確かにお念仏を励むという心は、殊勝な心ではございますけれども、何かそこに大きな隙間がある。自分の命終わる最後までお念仏を続けることができる自分であるかのような予想がそこに前提されておるということです。
ところが、そういう予想というものが自分の思う通りに行われ得るという保証はどこにもない。逆に私どもは、思いがけない出来事に遇うという業を各自それぞれが背負っているものであって、どのような妨げが起こって、お念仏はとても出来ないというような事態に私どもは陥るやも知れない。もしそうなったらそのお念仏をすることの出来ない間の罪を一体どう処理する積もりなのか、といわれておるのです。宗教的な世界というのは予想では成り立ちません。もっと厳しい現実というものを、私どもは見つめておかねばならぬのではないかと思います。
―次回に続く