天地長育(てんちちょういく)
井上善右衛門先生
理屈からでもなければ、訓(さとし)からでもない。ただその人と向かい合うていると何となく和やかな心に我れ知らずならしめられる人がある。話す対者にこのような和やかさを開いて下さる力は、その人の言葉や形からではなく、その人の住まれている世界から来る、それは争えぬ事実である。私と話すときの印象を在る学生が評して、何か叱られているようで圧迫を感じると言うたのを聞いて、まざまざと私の住んでいる世界を反省せしめられた。
禅の第三祖の言葉に、「至道無難唯嫌簡(揀)択【し(い)どうぶなんゆいけんけんじゃく】という句がある。是非をあげつろうて止まぬ心、これ正しく妄想の骨頂である。私の心の画面に豊かな白紙の部分が存しているであろうか。隅の隅まで私の画をかき尽くしたのでは、相手の入りこむ余地がない、それはただ拒否するだけではなく、相手を殺し害するものである。
慈雲尊者(じうんそんじゃ)の法語に、 「天地長育して殺さず、万物与えて奪わず、陰陽その功あり、月白く風清し、文華の徳を害するを知る。山たかく海深し、・・・・日月下土を照臨してみづから其功に誇らず、山川衆生を保育して亦みづから有せず、経に曰く今此の三界は皆是吾子なり。」と。
これ尊者その人の住みたもう世界である。その世界自然の発露が尊者の温容である。思想を支えるのは人格であると西洋の哲人が言うているが、人格を支えるものは更に何であるか。それはその人の住む世界である。
天地は万物を養い自他を育てる。その慈育に目覚めてみると、如何に愚かな自分もきっと育てられるという確信が湧く。しかも天地は主張しない。瓜生津隆英和上の学寮で勉学しておられた思い出を桂和上が語られて、先師は決して人に向かって「駄目」と言われたことがない。如何に愚かな学生に対しても、「お前は駄目だ」と言われたのを且つて聞かぬ。ただ常に「やってみよ、きっと出来る」と言われるのみであったという。
親の焦りから子に駄目だと叱責する。そして折角育つ子を親自らの手で殺してゆく。恐ろしいことである。しみじみと大悲に抱かれてゆくと自然に常不軽菩薩のお心がこの身にまで透って下さる。我執が転じて空に入り、空が転じて慈育に出づる。念仏とはそのような世界である。
理屈に流れて功徳の大宝海を忘れる人は悲しい。理屈は教室で言うものと知るがよい。人の世は理屈では育たぬ。ことに家庭というところは理屈を言うべきところではない。生きた生命(いのち)と生命(いのち)が触れ合い、育て合う場所である。
注釈:
『住む世界』という言葉を井上善右衛門先生が使われていますが、世間でよく使われる「彼とは住む世界が違うから・・・」のものと殆ど同じだと思います。私が受け取っているのは、「住む世界=価値観」では無いでしょうか。そして、その価値観の価値も、いわゆる私達凡夫が考える価値ではなく、真理・真実と言う価値なのだと思います。私は、どのようなテーマに関しましても、こうあるべきだと言う見解を持っていますが、これは危なっかしいと言うことだと思います。常に、真理・真実から物や現象を見て行く姿勢、常に白紙で見てゆく、柔らかさ、和やかさを持ちたいとということだと思います。