母の愛と本願(志願満足)

井上善右衛門先生

人間は感覚に対する盲目的な信頼を持っているものです。この眼で見、この手で触れることを何よりも確かな事と思う本性を持っています。なるほど現象の世界に住む生きものとしては尤もなことでもありましょう。感覚は物質の世界につくられた窓だからです。この窓を通して外の世界を探る方法に、数世紀来、急速な進歩を遂げた人間は、こうした認識と結びついた理性、いわゆる実証的な知性というものをこよなく尊重する習性を持つようになりました。これが何時の間にか教育の根底まで浸透し、人を育てることが実証的な知識を育成することであるかのような観を呈してきたのです。

そうなると知性による認識が真実を見る唯一の窓で、それ以外のものは総て虚偽であるという潜在的な観念が生まれて来るのも当然の結果と言わねばなりません。宗教への侮蔑(ぶべつ)と疑惑はこのようにして近代人の心に瀰曼(びまん、ひろがりはびこること)してきたのです。

人間はもとより肉体を持つ存在です。だから肉体と無関係に生き得るものではない。しかしそれと同時に人間はただ物として生きるだけでは満足出来ない存在です。動物的に生きることが人間の総てではなく、生甲斐ある生き方を願わずにはおれないのが人間の事実です。だから真剣になればなるほど生甲斐なき生には堪え得ません。生甲斐が全く絶望に陥ったとき人間は自殺することがある。動物的に生きることが総てなら、生きていながらその生を自分で断つということは理解出来ないことです。それは何等か、肉体的に生きること以上の意味がそこにあるからだといわねばなりません。

「朝(あした)に道を聞かば夕(ゆうべ)に死すとも可なり」という『論語』の言葉も人間の本性を深く語っていると言えます。アリストテレスはこれを「人間はただ生きるのではなく、よく生きることを願う存在である」と言っています。

ではそのよく生きる内容は如何なるものでありましょうか。よき生き方には様々の在り方が考えられる。身体的によく生きることも、もとより「よき生」にちがいありません。しかしそのような“よさ”よりも更に深い“よさ”というものがある。たとえ家は貧しくとも親愛に溢れる家庭は富貴(ふうき。或いは、ふき、財産が多く社会的地位の高いこと)に優るでしょう。

“よさ”には程度の別があり、深さの違いがあります。それに従ってわれわれの願いにもまた段階が生まれます。浅い願いを抱いているとき真の願いは隠れている。願いというものはこれを満たしたときその願いの本質が分かってくるものです。

肉体にまつわる願を懸命に追及して末徹った満足が見出されず、却って幻滅の悲哀が訪れるのは何を物語るものでしょう。われわれは真の願いを忘れています。たとえ他の願が満たされても、これ一つが満たされぬ以上、真の安らいは有り得ないという最後の願があるはずです。

まことのよろこびは真実の願いを果たし得たときにのみ生まれます。「志願満足」という仏語は最後真実の願を美しく果たし得たときの歓喜の声であります。ではその最後の願いとは何であるか。これを全うする道は如何。

如来という言葉はtathagataという梵語を漢訳したものですがtathaとは「その如くに」という副詞であって、「あるが如くに」ある永遠の真理を指します。こうした永遠の真理がtathagataという言葉でよばれ、一般に真如と訳されていますが、真如は真理よりも幅のある深い言葉で、まさに適訳というべきでしょう。Tathagataとはこうした真如そのままに来れると言う意味から成っており、その故に如来と訳されてるわけであります。

来るも去るも真如そのままなるものが如来であり、その如来の活動が仏教に外なりません。如来の体は永遠の“まこと”たる光寿二無量であり、無量の光明amitabhaと無量の寿命のamitayusの覚体なる故に、amita-buddhaすなわち阿弥陀仏と音訳されています。

この覚体が迷える我々を摂取せずにはおかぬ働きを現じたまう。それが本願です。如来の本願は我々に我々の最後真実の願が何であるかを知らしらめる。衆生の願いを満足せしめることを願いとして、汝の生甲斐ここにありと光寿二無量の世界から呼びかけられる本願に接するとき、我々は始めて生まれて来た自己本来の面目に目覚めるのです。

自己本来の面目とは他なし、光寿二無量の彼岸に通ずる摂取光中に己れを見出すことです。この摂取の大悲に遇うて志願満足のよろこびを知るのです。衆生出世の正意は「唯聴弥陀本願海(ゆいちょうみだほんがんかい)」であると言われた先徳があります。

以上のような体験に対して身体的感覚に依存する人間の常識は疑義を抱くでしょう。ある人は言うかも知れない。この肉眼にも映ぜず、知性でも捉え得ない如来や本願を如何にして実在すると言い得よう。それは畢竟、慰めの言葉であり、人間の描く夢であろうと。しかし一体われわれは現に身体的感覚や思惟だけを頼りとして生きているでしょうか。それとは異なる確かなものを体験してはいないでしょうか。

試みに問うてみましょう、われわれは一体何によってわが母を母なりと信じているのかと。自分の眼で自分の生まれるところを見定めた人がありますか。自分の眼で見届けぬかぎり母ではないというなら、われわれは皆な母なき“みなし児”となる外ありますまい。このような愚かな放言を取り合う人はないでしょう。私は亡き母のあれこれを思うと眼がうるおう、母の心は形姿を超えて胸に迫るのです。人が汝の母は母ではないと言っても、笑うて聞き流すことが出来ます。肉眼よりももっともっと確かな心証がしかと私と母を結び付けているからです。

われわれは実生活に於てこうした事実を肯定しています。如来の真実に触れることはこれにも優るまだまだ確かな心証によって知らされるのです。この確かさに安堵することが信楽に外なりません。この事実を人間の身体的な感覚に基づいて疑うのは歎かわしいことです。善導大師が、『般舟讃』の中で、「唯だ恨むらくは、衆生疑うまじきを疑う」と申されています。志願満足の光輪は今もこの私を摂取して輝いているのです。




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