白井成允先生を偲んで−後編
井上善右衛門先生
そして更に、白井先生について思い出されることは、先生のご生涯が、まことに苦難と悲しみの連続であったということであります。先にもいいましたとおり、幼いときにお母様と死別された悲しみは、生涯先生の心底に深い影を残していたようでありますが、次の不幸は昭和14年、奥様を失われたことでありました。大正8年、31歳で結婚された先生は、やがて四男一女の父となられましたが、奥様は生来蒲柳(ほりゅう、体質の弱いこと)の質だったのでしょうか、それともきびしい朝鮮の気候風土があわなかったのでしょうか。先生が留学を終えて帰国された後、昭和6年の秋からご一家を京城の地に移され、一家団欒の生活に入られたのでありますが、その後わずか8年にして、奥様が逝去されたのであります。残された五人のお子さん方を抱えて、先生がどれだけ苦労されたか、おそらく想像を絶するものがあったでありましょう。
偶々、昭和15年に広島文理科大学に転任され、19年に再婚されましたが、その矢先、翌年の8月にはあの原爆で広島が壊滅しました。そのとき先生は勤労動員で、学生を連れて海田市の軍需工場へ出向いておられたのでありますが、広島全滅の報をきいて直ちに引き返されたところ、もちろんお家は倒壊、ご家族の行方もわかりません。先生はご家族を探して、焼跡の中をあちこちとさまよい歩かれたとのことですが、そのときのお気持ちはいかばかりであったでしょうか。
あてどなくさまよい、疲れ果てた末、焼け残りの病院があったので、そこへ行ってみると黒焦げの死体がいっぱい。もしやこれがわが子ではないかと、一つ一つの死体をのぞいて廻られましたが、どうしてもみつかりません。後年、そのときのお気持ちを述べて、
「どうして、このような地獄の中をさまよわねばならぬのだろうか。泣くよりしょうがなかったのですが、泣くその中に、お念仏が出てくださるのです。そして、そのお念仏の中に西方浄土から、お浄土の光がこの地獄の境界を照らして下さっている、何かそんな感じがいたしました。」
と語っておられますが、さぞやと思われることであります。しかし幸い、ご家族は負傷はされたものの、みなご無事であったことが、後にわかって胸をなぜおろされたのでありますが、今度はいよいよ終戦となっても、学徒出陣されたご長男が帰ってこられません。聞けばシベリヤへ抑留されたというので、先生がどれだけ心配されたか、その間のお気持ちは、先生のお歌「昿劫流転」その他数首の中によく表れておりますが、やがてシベリヤであえなく果てられたという報に接して、先生は悲歎のどん底に沈まれたのであります。ご長男は東大大学院在学中に出征されたのですが、白井先生が最も将来を嘱望しておられたお子さんであっただけに、先生のご落胆はいかばかりであったでしょうか。
晩年、先生がしばしば、『涅槃経』に説く「一子地(いっしぢ)」の教えをとりあげて、計りなき如来の大悲をしみじみと語られたのも、おそらくそのようなご自身のご体験を通して、いよいよ如来のお慈悲が身に沁みた、と言う事であったのではないでしょうか。本書(青蓮華)に収録された「肉親との別れを通して」や、「一子地のこころ」など、短編ではありますが、先生のお心持ちがよくあらわれていると思います。
昭和28年、広島文理科大学を定年退職された先生は、その年京都へ移り住まわれましたが、それは先生が、一途に親鸞聖人のみ跡をしたい、聖人の晩年を過ごされた京都で、余生を送りたいとのお気持ちからでありました。はじめは右京区山田開町の古刹、浄住寺に寄寓しておられましたが、やがて近くの山田葉室町に新居を建てて、そこへ移られたのであります。
先生は終戦後、広島文理科大学の学生部長として、大学の復興に尽瘁(じんすい、力を尽くして労苦する)され、過労のために病をえて、長らく療養されたことがありましたが、京都に移られてからも再三入院されました。しかもその間、先生のお心をなやます問題は多かったのであります。殊に晩年、後の奥様が回復の望なき病気のために入院されまして以来、先生は末女の信子さんと二人淋しく暮らされました。
このように、考えて見れば先生のご一生、まことに不幸と悲しみの連続でありまして、よくぞそれに堪えてこられたことかと、おどろくばかりでありますが、実は、それがかえって、先生の信仰を深める尊いご縁となったのかも知れません。
歌よめば悲しかりけり悲しみの 跡なき歌をよまん日はいつ先生のお歌とお念仏は、そのような悲しみの涙の底からにじみ出るお念仏であり、お歌であったのでありましょう。しかし、先生は自己を語ることの少ない方でありましたから、その悲しみを奥深く秘めて、外へ漏らされるようなことはありませんでした。したがって外目には、春風駘蕩、まことになごやかで静かなお姿だけが映っていたのであります。ただそのようなおこころの極まりが、おのずから深い短歌となって現れ出たのではないでしょうか。したがって先生のお歌は、どれ一つとしてひとのこころをうたないものはありません。先生のお歌を、草葉に宿る露に譬えるならば、その露ごとに、ほのかなる寂光の輝きが感じられるのであります。それは思うに、先生の憂い悲しみの涙が、同時に、如来讃歎の涙であったからではないかと思います。
最後に先生の学問的態度について一言触れさせていただきましょう。先生の学問の特徴は、常に主体的な自己の根本問題に立脚し、善の実現と人格の完成を追及する姿勢を崩されなかったことであります。単なる知識追求の学問や、論理的体系樹立のための学問ではなかったということであります。先生は倫理学者として、プラトンやカントに私淑してその学説を学ばれただけではなく、既に申しましたとおり、深く仏陀の教えに沈潜され、生命の根本問題を親鸞聖人によって解決し、晩年はさらに聖徳太子のお心を心として、一仏乗の世界に参入されたのであります。このような先生を、いわゆる倫理学者とか仏教学者というような範疇でもって推し量ることはできません。強いていうならば、先生は終生変わらぬ一介の求道者であったというべきではないでしょか。
世に学者と称する人は多いけれども、先生のように、人格の根本問題を己が生命裡に追求し、西洋哲学と仏教の本質を掘り下げて、三世のいのちの帰趨を明らかにした人が、果たして幾人あったでしょうか。先生の著述・翻訳は、カントの『道徳哲学』(岩波文庫版)をはじめとして、『善の実現』『信仰とその反省』『道を聞く魂』『正信偈私解』その他があり、また『聖徳太子御撰三経義疏の倫理学的研究』なる大著がありますが、いずれもみな先生の学問と信仰との結晶の書といってよいでしょう。これらをみてもわかるとおり、先生は常に一介の学徒あるいは求道者として、先師・先哲の前に身を低くして、その教えを学ぶ態度を失わなかった人でありました。
それについて一つの逸話を紹介しますと、先生は広島文理科大学時代、教室でカントやフィヒテを講じながら、また一方では聖徳太子の三経義疏の講読をなさっていたそうですが、講義のはじめにその講本をおしいただいてから授業をはじめられたそうで、そのことは当時の同僚教授であつた人から直接聞いたことですから、間違いないと思います。しかし、そういうことは大学の教壇では類のないことですから、おそらく学生や教授方の話題になっていたのでしょう。あるいは奇異に感じられていたのかも知れません。白井先生のお人柄がしのばれるではありませんか。
なお、ご退官後京都にお住まいになった白井先生は、竜谷大学でしばらくお勤めになり、その後、武庫川女子大学に転じられましたが、その傍ら、足利浄圓先生の後を継いで、自照誌発行の責任者となられ、あるいは四天王寺、法隆寺・聖徳太子会等にご出講のほか、全国各地からのお招きに応じて、法話の回数を重ねておられましたが、昭和48年7月上旬、風邪のために肺炎を併発され、京都府立病院にて8月25日の午后、遂に永眠されたのであります。おん年85歳。長年にわたる尊いご薫陶を受けてきたわたくしにとりましては、それはまことに悲しいお別れでありました。
しかしこれがうつせみの世の真実なのでありましょう。この世にお姿を没しられた先生は、行住坐臥片時も離れず、いま、わたくしの胸の中に生きておいでになるのであります。思えば、先生のご遺詠、
天地(あめつち)のきよきまことの澄み徹(とお)り なむあみだぶつの声となりぬるの1首のおこころが、しみじみと感じさせられることであります。