白井成允先生を偲んで−前編

井上善右衛門先生

私が白井先生のお導きを受けるようになったのは、昭和6年、旧神戸商大の学生時代のことでありました。当時、商大には佐々木圓梁先生を中心とした仏教青年会があり、わたくしもその一員でありましたが、佐々木先生の発願(ほつがん)で、先生の親友であられた白井成允先生をお招きして、ご法話を承るようになったのであります。白井先生はその頃、京城(ソウル)帝国大学の教授であられ、二ヵ年のドイツ留学を終えて、昭和5年の11月帰朝されたばかりでありましたが、お留守中、ご家族が神戸にお住まいになっていた関係で、その年の夏休中、先生も神戸にご滞在でありました。

はじめて先生にお遇いしたわたくしどもは、あの先生の人格から流れ出る不思議な寂(しず)けさに、思わず引き寄せられ、続いて先生のお話を承らずにはおれない気持になりました。それで、仏教青年会の集いにも再三お越し願っただけではなく、ついには有志と共にお宅まで押しかけて、その夏『歎異鈔』の講義をお願いすることになったのであります。そしてこれが機縁となって、わたくしと先生とのご縁は、先生がお亡くなりになるまで――戦中戦後、応召やシベリヤ抑留などの期間を除いては――ずっと続いて、その間、変わらぬご教化をいただいたわけでありますから、考えて見れば、白井先生なくして今日のわたくしはありえなかった、といわなければなりません。

ご承知のとおり、白井先生はまことにもの静かで謙虚な、そして柔和そのもののようなお方でありましたが、一面また、奥深くに厳粛さを湛(たた)えられた、非常に自己にきびしいお方であられました。そのような先生のお口から漏れ出るお念仏に、わたくしどもは深い感銘を受けずにはおられなかったのであります。それは誰しもが感じたことでありまして、若くして亡くなった野間景豊君などは、その代表的な人であったといってよいでしょう。

先生はご法縁のあるところ、あちこち招かれてお話になる機会も多かったのでありますが、晩年はお声も低く、聞き取りにくいところもありました。しかし、法座に集まる多くの人が、「お話は聞こえなくても、先生のお顔を拝ましていただくだけで、自然に心がなごみます」といって、よろこんでおられた姿を思い出すのであります。それだけ先生のご人格から発する無言の魅力が、どのようなものであったかがわかるでありましょう。

そのような先生でありましたが、前にも申しましたように、内面、自己を律することの非常に厳しい、潔癖とさえ思えるお方でありまして、先生が東大に入って倫理学を専攻されたのも、なるほどとうなづかれることであります。もちろんそれには、先生のお父さまが漢学の素養高いお方であった関係で、子供の頃から儒教的な教養を受けられたからではないかと思います。中学5年の時、校友会誌に「孔子伝」を書かれたということで、わたくしは以前、先生の母校の盛岡中学校(現在の盛岡高等学校)の校長先生に頼んでそれをみせてもらったことがあるのであります。

道を求めるに真摯(しんし、真面目で且つひたむき)で、自己を律すること厳しかった先生のご性格が、先生の深い道徳精神となって、その頃すでに現れ始めていたのでしょう。先生の願いは聖賢の道を求め、人格の完成を期することにあったのでありまして、それだけに、並みの青年とはどこか違った風格が、おのずから身についていたと思われます。

22歳で大学に入られた年の12月、友人に誘われて島地大等(しまじだいとう)師の土曜会に出席されたとき、島地先生が笑いながら、「やぁ、仙人もとうとうきたか」といわれたそうですが、土曜会は島地先生を囲む盛岡出身の同郷学生の会であって、島地先生は東大の仏教学の講師でありましたから、白井という一風変わった学生のいることは、かねてから知っておられたのでしょう。

とにかく、これが島地先生とのご縁の始まりでありまして、その後白井先生は、下宿と大学の研究室と島地先生のお宅とを、ぐるぐる往復する生活が始まったといっておられますから、島地先生への傾倒ぶりは、ただならぬものがあったようであります。しかも、島地先生のお宅では、夜の更けるまで教えを乞われることが多かったと聞いております。このようにして、教室では、主として倫理学や西洋哲学を学びながら、一方では島地先生のお宅に通って仏教の教えに浴されたのであります。昭和2年、島地先生が亡くなられた後、白井先生が中心となって、その他門弟の方々と共に、島地先生の遺稿を整理し、『真宗大綱』『思想と信仰』『仏教大綱』その他5巻の書物を刊行されたのも、偏えに師恩に報いたいとのご念願からであったでありましょう。

島地先生は、盛岡の自坊願教寺で、毎年夏季講習会を催しておられましたが、白井先生もその講習に参加され、やがて島地先生のお勧めで講壇にも立たれるようになられたと聞いております。島地先生のご逝去の後は、しばらく途絶えていましたが、昭和31年より白井先生を中心に再び講習会が開かれるようになり、それ以来わたくしも先生の晩年まで、一緒にお供をして願教寺へ参ったものであります。それだけに、白井先生にとってもわたくしにとっても、願教寺さんは懐かしい思い出の寺でありまして、昭和48年の夏、白井先生がお亡くなりになった本葬は願教寺で執行され、ご遺骨は、同寺境内の白井家のお墓に亡きご令室と共に葬られたのであります。そのとき、わたくしも、ご遺骨を奉じて、遺族の方々と共に願教寺へ参らせていただき、島地和上の墓塔にも参拝したのでありますが、思えば、白井先生と島地先生とは、遠く三世を貫く深いご縁に結ばれておいでになったのでありましょう。

このような島地先生との深いご縁のほかに、白井先生はいくたのよき師にめぐりあわれたお方でありまして、近角常観(ちかずみじょうかん)師・多田鼎(かなえ)師・前田慧雲師・足利浄圓(あしかがじょうえん)師・臼杵祖山(うすきそざん)師等の方々に親炙(しんしゃ、又はしんせき)して、親しく教えを受けておられますが、これも先生の、生涯を貫いて変わらなかった救道心(ぐどうしん)の結果でありましょう。

中でも、特に先生のおこころを動かしたのは、近角先生の本願他力と如来大悲のみ教えであったようであります。東大在学中、先生は毎日曜、近角先生の求道会館へ通われたそうでありますが、求道会館は東大の赤門の前にありました関係で、東大の学生がよく集まっていたようであります。先生もその一人であったわけですが、熱情をこめて話される近角先生のご法話にひかれて、毎回通いながら、どうしても信心が得られない。中にはご法話の後、立ち上がって、涙ながらに信心の告白をする人があるのに、自分にはどうしても素直に信じられない、どうしてだろうか。これはまだまだ自分が不真面目だからにちがいない。だから、いくら聞いてもお慈悲がわからないのであろうと、先生は自分自身を責めながら、心の苦痛に堪えかねて、ある日、そのことを近角先生に訴えられたそうであります。

そのとき、近角先生が、温情あふれるお言葉で、しかもまた厳しくおっしゃったことは、「君はもう久しく私の話しを聞いているのに、まだそんなことをいっているのか、真面目になって信を得よと、何時私が言ったことがあるか。自分が真面目になって掴もうとする信心ならば、そんな信心は当てにはならぬ、そんな信心をえて何になるか。一体、君はいつ真面目になれるのか。親鸞聖人も罪悪生死・煩悩具足の凡夫とおっしゃっているではないか。しかも、そのような凡夫なればこそ、救わずにはおかない本願をおたて下さったのが如来さまである。それがわからず、自分の思いで信心をつかもうとしている限り、いつまでたっても信心の得られるはずはない。」という意味のお言葉であったということであります。

それを聞かれて白井先生は、一度に胸のつかえが下りたような気がして、それからは、不真面目な自分の姿に気がつくたびに、お念仏申さずにはおれなくなったといっておられました。これを思うに、近角先生のこの教えが、先生にとっての大きな転回軸になったのではないでしょうか。

話しは後戻りしますが、このようにして、先生が本願他力の浄土真宗に帰せられたのも、考えてみれば、幼くして(先生満十歳のとき)死別されたご母堂への思慕の情が、その遠因になっているのではないかと思われます。お母様は三男ご出産の後、産褥熱のため32歳の若さで急逝されたのでありますが、それ以後、亡き母上を偲んで、先生の心の痛みは消えることがなかったようであります。

仙台の第二高等学校在学中、先生は一時キリスト教にこって、洗礼を受けるまでになっておられたのですが、キリスト教では、イエス・キリストを信じるものは天国に入ることが出来るが、信じないものは地獄におちて、永遠の刑罰を受けなければならないと説いてあるのを、ふと思い出して、「たとい、わたくしがキリスト教徒になって天国に招かれたとしても、キリスト教を信じていなかった母が地獄におちて苦しんでいるならば、わたし一人がどうして天国に安んじえようか」と思い直し、ついにキリスト教を去ったのだ、と語られたことがありました。

これを思えば、後年先生が、一如平等・倶会一処(くえいっしょ)を説く浄土の教えにはいられたのも、本はといえば、亡き母上の冥々のお導きがあったればこそではないでしょうか。おそらく先生ご自身、そのような感懐の切なるものがあられたことでありましょう。 ついでに申しますと、先生のお母様は、ご生前中和歌の道にも親しんでおられたらしく、遺詠も多少残っているそうであります。先生が折りにふれて、情緒あふれる数多くの歌を詠まれたのも、そのようなご母堂の血を承けておられたからかもしれません。

またご尊父は、前にも申しましたように漢学者であって、自ら詩文を作って楽しんでおられた人のようでありますが、殊のほか、皇室尊崇の念の厚いお方であったと、承っております。そのようなご尊父の影響もあったのでしょうか、白井先生の内に静かな憂国の至情と、皇室尊崇の念とを蓄えられた人であって、お言葉の端々にもそれがよく現れておりました。昭和22年、新年の御題「あけぼの」に詠進された先生の一首が入選の栄に浴したときは、先生も大変およろこびになったようですが、そのときのお気持ちは「おおけなきことの記」によく表れています。そこにも先生の、父を思い、国を思うて、万世の平和を念じられる喪心の至情がよくあらわれているのであります。

―続く




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