凡夫の自覚

井上善右衛門先生

凡夫の自覚というと、凡夫の殻に閉じこもる意識であるかのように思われていることが多い。親鸞聖人の教えは、凡夫のわれわれが仏の大道を歩ませていただく教えであって、凡夫に閉じこもる教えではない。聖者が仏道を実践されるのが聖道門で、凡夫の歩ませていただく仏法が浄土門である。それは共に同じ仏道であるからそこには自ずと一つの菩提がさしそう光がある。

その妙なる光に念仏者の歓喜があり、汲めども尽きぬ楽しみがある。この楽しみを曇鸞大師は、「智恵所生の楽しみ」と釈され、「此の楽しみは仏の功徳を愛するより起る」と申されている。『聞書』に、法敬坊が歳90まで存命して飽き足ることなく聴聞を楽しみ、金森の善徒が80に余るまで徒然を知らず心面白きこと充満するとよろこびに溢れたのもこのためである。

そこには最早、凡夫に閉じ込められているという姿は無い。生々と法が凡夫の上に働いていてくださる様子が感じられる。ここに聖道浄土の対立を超えた一すじ道が現れる。それがすなわち誓願一仏乗である。

凡夫の自覚とは凡夫にとじこもって萎縮することではない。凡夫たる自己の全分を知らしめられて自己を超えしめられる事である。煩悩にうづもれている凡夫は自己を知らない。自己を知らぬのは己れを超えて己れを照らしているものを知らぬからである。その照らすとは摂取されていることである。ここに自己を超えしめられる道がある。この摂取を知らぬために自己にうづもれるのである。だから真に自己を知らしめられることは超える所以で無ければならない。この超えることを道元禅師は「自己を忘れる」と申されている。

源信僧都が「妄念はもとより凡夫の自体なり」と横川法語に申されているが、この言葉を拝すると何か、妄念に閉ざされていた扉が開かれて菩提の光を仰ぐような気がする。妄念は妄念と知らぬ闇の中で踊るのである。盗人は盗人と気付かれぬときに盗みを働くのである。妄念はもとより凡夫の自体なりという自覚は、妄念が真実の光に捉えられて動けなくなったときの姿である。如来の智恵に煩悩が捕捉された様子が感じられる。即ちそれは煩悩にうずもれ、妄念に操られていた心身が法の摂取に転換するときの消息である。

そうすると機の深信とはどういうことかと問われるに違いない。機の深信とは自己が無力になって法が有力になるときの自覚である。その無力になった自己が照らし出されている姿こそ機の深信である。 だからそれは照らしている法の深信と別のものではない。それは自己が自己を意識するという反省とは本質的に異なっている。自己が自己を意識するならば、如何に深く反省してもそれはただ程度の違いである。理想主義は自己の理想に基づくことを原理とする。それは自己を超えているのではない。理想主義を如何に押し進めても真の「凡夫の自覚」には達し得ない。否、本質的にはいよいよ遠ざかる結果となるであろう。自己の世界から法の世界に転換するとき、始めて凡夫の自覚が現れるのである。

自己が転換するとき、今まで眺めていた世界もまた一転する。ここに不思議な自在の世界が現れる。この世界が空といわれる。自己も世界も空といえば何か漠たる虚無に帰するごとく思われるがそうではない。空は執われた世界が転じて、真実の世界に入れ替わることである。その真実なる法に躍動する姿こそ空であり、自己が天地と共に生々と冴えることこそが無我である。この奇しき世界の真実が、南無阿弥陀仏の信に輝いている。そこに凡夫の自覚の風光がある。




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