仏心

井上善右衛門先生

我々は真実を追いかけようとします。しかし真実は追いかけられて捉えられるようなものでありましょうか。もしそうなら真実に追いつけずいつまでもその外に取り残されているものがあるわけです。かつて私は道元禅師の伝記を読み、つくづく自分の不敏が悲しくなった思い出があります。こんな自分はとても仏を求める柄ではない。遂に仏心に触れることは出来ぬであろうと。

しかし真実の仏心は私の予想したものではなかったのです。法然上人は「月影の至らぬ里はなけれども眺むる人のこころにぞすむ」と詠じられました。月の光りと人との関係は、人が月の光りを追うのではなく、その光の中にこそ己れを見いだすという関係でありましょう。真実なるものは全体である。そとに残すものがあるものは全体ではなく部分に過ぎません。部分の中に究極の真実はない。それが真実なればなるほど洩らすところがないのです。我々の頭で、真実を思い浮かべると、何か高嶺の月のように、世の迷いや濁りには超然と独り澄み冴えているものの如くに思われますが、果たしてそうしたものであろうか。観念に思い浮かべる真実と、生きて働く真実とには大きな違いがあるのです。

『涅槃経』には仏心の真実を、「譬えば一人にして七子あらん。是の七子の中に一子病に遇えば、父母の心は平等ならざるに非ざれども、然も病子に於いて心即ち偏に重きが如し」と語り、さらに「如来」は一切の為に常に慈父母となりたまえり。当に知るべし、諸の衆生は皆是れ如来の子なり。世尊の大慈悲は衆の為に苦行を修したまうこと、人の鬼魅に著かれて狂乱して所為多きが如し」と語り告げられています。このような真実そのものにやどる大悲の境地を一子地という。それは一子を思う親心に託して真実心の姿を示してものであります。

如来という二字にもこれと同じこころがさながら宿っています。如来の如とは真実そのものを「あるが如くに」と示した言葉です。如来の原語tathagataは「如のままに行ける」とも「如のままに来れる」とも二様に訳せるのですが、漢訳では「来れる」をとって「如来」と訳しました。即ち真如より来生せるものと解したのです。

これは味わい深い訳であります。もしその「如」がただの如に止まっているなら、「来」の字は無用です。来とは来至せる状態を示すものであって、その来至とはどこに来たのでもない。この私の只中に只今来たりたもうてあることに外なりません。それはこの私を捨てておくことが出来ないからです。即ちその来たりたもう所以は、如に迷い如に背けるものを、如に摂取し如に同化せんがためであり、来至がそのまま如に帰せしめる働きなのであります。

如来を真如のままに現れる義と釈されていますが、ただ現れるだけであるなら描写的な意味に終わるでしょう。迷えるこの私の上におり立ち、私の只中に来現したもうてある如来にお会いしなければならぬ、否、私がお会いするのではなく、摂取に抱かれ温められてとうとう如来の真実心中にある自分に目覚めしめられるのです。たとえ天地が顛倒しても、如来の真実心から離れることは出来ない。如来は常時にこの私の上に来至してまします。それはさ迷えるこの私を見捨てておくことが出来ないからです。如来の二字を「じっとしておれぬまごころ」と翻じてみます。一子地とはまさしくそのじっとしておれぬ親の心に外なりません。

私どもは他人の子を見て哀れだとも思い気の毒だとも同情致します。しかしそうした哀れみや同情は、ただそう思い感じるに止まる。いわばその心はある距離をへだてて見ている感情です。ところが自分の子に対しては見ている感情では済まされない。他人の子と自分の子はここに違いがあるでしょう。例えばわが子が悪友に誘われて堕落に瀕している。それを可哀相に、気の毒にと親は見てはおれない。 必ずその子の中に飛び込んでゆく。狂おしい気持ちになってその子のうちに飛び込んで行く。そうより外には仕方がない。その子から罵倒されようがどうしょうが、親はじっとしている事が出来ないのです。距離をへだてて見ている心と、じっとしておれない心と、いずれがより真実の名に価する心でしょう。

私には忘れられない思い出があります。それは中学3、4年の頃であったかと思います。秋の日の短い時分、3時に学校が終わってから、運動場で何か遊びか競技に夢中になっていると何時の間にか夕暮れになる。それから電車に乗って家に帰ると暗くなって電灯のつく頃になる時がありました。そうすると電車通りまで母が来て立っているのです。私は電車を下りて母の顔を見るなり言いました。「何でこんな所に来て佇んでいる。停留所まで来たって、帰るものは帰るし、帰らないものは帰らない。つまらん事をしなさんな」こんなことを言うと、それでも母は頷いてやれやれといった顔をして一緒に家に帰ってゆく。

実際その頃私は思いました。馬鹿なことだ、この寒い夕方にわざわざ出で来て何になろう。風邪を引くぐらいが関の山、出て来たとて早く帰るわけでもあるまいしと。そして母に「これからはきっと来なさんな」と言ったものです。ところがまた遅くなることがあるとやっぱり来ているのです。いよいよ愚かだと腹立たしく思いました。

母が亡くなってから50年、ようやくこの頃になってその時の母の心がわかる思いがします。その私の愚かさが偲ばれるのです。母は何も行けば早く帰ると思うて来ていたのではない。15、6歳と言う年頃の子が帰ってこぬ。そう思うとじっとしておれなかったのです。どうしても、部屋で火鉢にあたっておれなかったのでしょう。そう思うて母を偲びますと私は頬に涙がつたいます。




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