聞と信 ー聞法と二灯二依ー@

井上善右衛門先生

「人身受け難し、いますでに受く、仏法聞き難し、いますでに聞く。この身今生にむかって度せずんば、更にいずれの生に向かってか、この身を度せん。」これはご承知の三帰依文の前文でありますが、ここに「人身受け難し」と言い、「この身今生にむかって度せずんば、更にいずれの生にむかってかこの身を度せん」と言われているのは、如何なる心を語る言葉でありましょうか。言葉はただその表面の語意に止まらず、底に響く生命の声を聞かねばなりません。ではそれは何を我々に訴えているでしょうか。

仏法を聞くと言う事は、人間が人間として真に生きようとするかぎり、どうしても聞かずにはおれぬものという意味を持っています。だから人間として生きる当然の要求と、そこに起こりくる問題点を一つ一つ間違い無く押さえて行けば、人間である限りどうしても法を聞かずにおれないと言う筋道が自ずと聞かれてくるはずです。そうした筋道が魂に響く声となったところに、「この身今生にむかって度せずんば、更にいずれの生にむかってかこの身を度せん」という言葉が現れたのであると思います。先ず、我々はその筋道をたずねねばなりません。

この世の中にはいろいろな出来事がありますが、いま例えば山の上から石が落ちるという出来事を取り上げてみると、その石は必然の動き方をします。即ちその石にかかっている引力の強さ、転がる途中に横たわる障害物のあり方、そこに起こる抵抗や摩擦の力関係、そうした外的諸条件に従って、その石は嫌応のない動き方をしてころがってゆく。

自然界の出来事はすべてこのような運動をするものです。外的諸条件の力関係によって動く運動は、その条件を明らかにすることによって、前以てそのものの動き方を予測することが出来る。山から転がる石は引力や抵抗や障害物の在り方を一つ残らず知ることさえ出来れば、その石が転ぶコースと転がり着く場所とを予め測定することが出来るわけです。今日の人工衛星や宇宙船というものも、物理的必然の法則によって計画されたものであって何も不思議なことが起こったのではなく、極めて綿密な計算と正確な操作の技術によって成就したことを示すものです。その本質においては山から転ぶ石の現象と異なったものではありません。

ところがこのような事象の観察と研究とに我々の眼が慣らされてゆくと、いつとはなしに総ての出来事をこれと同じ枠に入れて考えるという態度が不知不識のうちに生まれる。現代人にはこうしたものの見方がかなり圧倒的に心を支配しているように思われます。この頃よく耳にする「何が彼女をそうさせたか」という見方は、人間の行動をもまた外的条件の関係から見ようとするものです。しかしただこのように原因を外に求めて、自己と世界を見ているかぎり、宗教への道は決して開けません。仏陀の教えは外的知識ではなく智慧の光です。然らばその智慧の道は何処にあるか。それは心が心自らに尋ねるより外ない道です。それには先ず自己が問題にならねばなりません。ではその問題とは。

外側の世界は必然の関係によって動いているのですが、ただこれのみが総ての活動の在り方ではありません。例えばいま芸術家が彫刻する場合、そこには芸術家の内から湧く創作活動というものがあり、それが鑿(のみ)の動きとなって、像を刻み上げてゆく。その一鑿一鑿(ひとのみひとのみ)を如何に振るうかということが、如何なる像を創り上げるかということを決めてゆくのです。即ち大理石なら大理石を材料にしながら、こちらからその在り方を決めてゆくという働きがある。そこにはどうしても転ぶ石と同様には考えられないそれ自らの活動があります。

これと同様な事が我々の実践活動について考えられる。我々の日々の行為は、内から出て自己と世界を作り上げてゆく。即ち自己がまさしく自己の刻み手であり、決め手であるという意味をもっています。これについてリンカーンの有名な顔の逸話が思い出されます。あるときリンカーンが同僚と共に役人の採用試験をした。同僚は採用を可なりとしたのに対し、リンカーンは一人反対した。その理由を聞くと、あの男は顔が悪いと答えた。そこで同僚達がそれは怪しからん。顔は親から与えられるもので、それによって人を評価するとは不都合だと言ったところ、リンカーンが毅然として、「いやそうではない。子供なら知らぬこと、年三十にも達するものは皆自分の顔に責任がある」とキッパリ答えたという話がある。この話を聞くとリンカーンという人の人間を見る着眼が思われます。人はどこに人たる所以があるのか。それは自己を決める自己持つということです。

女性の方々はみな化粧に深い関心をもっておられるが、これは確かに大切なことです。自己の美に関心がないような女性は女性たる資格がないとも言えましょう。ただここに問題は何を求めて鏡に向かうかということです。もし紅や白粉の色どりが美のすべてであると思うなら、それは大きな間違いと言わざるをえません。もし人形ならそうでしょうが、我々は人形ではない。人間には自己と言うものがある。その自己を無視して人間の美は考えられない。その生きた個性を真に美しく磨き上げるものは何であるか。そこにはどうしても美を担っている自己自身というものが問題にならざるをえないのであります。

人間はむもとより生身のものですから、環境の支配や影響を受けることは言うまでもありません。この意味で環境はどこまでも改善され向上さるべきものです。しかし外界に支配され環境に影響されながらも、人間の行為の最後ぎりぎりのところは、必ずその人次第というものが残されている。

我々は常識的にもこのことは認めているのです。いま同情すべきある人が、その環境の所為で盗みをしたという場合、もし外界の影響がその人の行為のすべてを決するなら、その人を罰するということは言うまでもなく不当である。しかし我々は一人前の人間が盗みをしたと言う場合、如何に同情すべき事情があったとしても環境だけでその人を許しはしない。事情は同情に値するものであっても、最後の一点にはその人次第というものがあればこそ罪を責め、責任を問うでありましょう。

続く




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