信心
井上善右衛門先生
信心という言葉が一般に甚だ誤った先入観念になって受け取られていることがあります。たとえば壁を隔てた向こうの我々には解らない事柄を無条件に信じ込んで動揺しないといったふうに思われていることがある。したがってそんな事は信じられないとか、まだ信じ方が足らぬとかいう言葉が出て来ます。しかしそのような我々には目隠しされたものをどうして対象として信じ込むことが出来ましょうか。たとい一時的に信じてみても、それはいつでも別のものに替わる可能性をもつものです。
気分的に思いこむ、感情的に信じ込むという心理が即ちそれであります。そこには何ら信そのものに、根拠がない。たかだかあわい感傷の慰みと病的な陶酔があるだけです。しかし人間の健全な精神はそうした幻想を許すものではありません。信じられないことこそ当然であります。その信じられないものを強いて功利の代償として信じようとするなら、それは自己の精神を踏みつけて欲求を追うものでしょう。
真実の信心は全くそれとは反対に、信を外の対象に求めるのではなく、先ず自心に目覚め、自己の精神の底に何があるかを感じることから始まります。即ち、自己自身を自覚するものにとって、その底に宿る矛盾と不安とをそのままにすることは出来ません。
己(おのれ)を問題にすればするほど、自己の知情意の限界が見えてきます。情意の濁りが感じられるとともに、知性は自己の限界を知ってさらに深い精神の根拠にその座を譲らずにはおれなくなります。人間的知・情・意を支えている精神の土台を仏教では個人的アーラヤ識と名付けてますが、このアーラヤ識は天地の真実に通う開かれた精神態ではなく、自体への固執性の上に成立しているような閉ざされた精神態であります。従ってこの精神が自らの固執に由来する矛盾と不安に反照されてくればくるほど、それ自体の状態に止まっていることが出来なくなります。それは同時により深い根拠から真の自己が喚び覚されてくることであり、換言すれば、アーラヤ識が自己転換を促されてくることに外なりません。ここに信への通路が拓かれるのであります。
ところが自我の固執性を本質とする有限な人間精神は、自己の限界と不安とを感じながら容易にその体質を転換することができないのです。我執の迷いをあわれむ真実者の慈悲のましますことを聞いても、知らず識らずのうちに、我が心を純一にしてその慈悲を受け取るのだと思う。だから努力によって心の安心状態を生み出そうとする、しかし不安を本質とする人間の心にはそれは果たされぬことです。如何なるものをも洩らさぬ絶対の大慈悲であると想念してこの窮地を超えようとするけれども、それがいつしかわが心の影となってしまう。唯識の教学では独影境(どくようきょう)といわれます。
独影境とは主観が独り勝手に描いた影法師ということです。聞法がこの影法師に始終するかぎり、ゆけどもゆけども自己の影であり、そのかぎり果てない不安がつきまとう。そうするとその不安と焦燥を、さらにまた我が心を励まして拭い去ろうとする。信心が徹底しない、真面目さが足らぬと自己を鞭打つのがそれであります。まことにこれは真面目さの悲劇ともいうべきものであって、自己が自己をさいなみ、努力が自らの目的を裏切る結果となる。如何に真面目であっても、その真面目さの奥に執があるかぎり、人間的なものの積み重ねの上に絶対を期待するという迷謬を免れない。このような積み重ねの信心には遂に無碍の光耀朗かな浄信はおとずれません。
『後一代記聞書』には次のような面白い問答があります。「人の心得のとほり申されけるに、わが心はただ籠に水を入れ候ふように、仏法のお座敷にては有難くも尊くも存じ候ふが、やがてもとの心中になされ候と申され候ところに、前々上人仰せられ候。その籠を水につけよ。わが身をば法にひてて置くべきよし仰せられ候ふ由に候」と。ここにわが心と真実の法との関係が巧みに喩えられています。わが心で法を掬おうとするかぎり籠で水を汲む歎きを免れません。掬えども掬えども我が手には止まらないのです。それは法と我が心との関係を誤っているからに外なりません。
蓮如上人はこれに対して、「その籠を水につけよ」と申されている。籠は漏るのがあたりまえ、それを漏らぬ籠に工夫するのではなく、籠は籠のままに水にひたされるとき水に充たされた籠になる。そこに有限な我が心と真実との離れえぬ関係があります。このことをまた次のようにも喩えてみることもできるでしょう。我々が如何に大きな円を描いてみても、人間の描く円は有限な半径のもので、無限大の円を描くことはできない。ところがフト眼を転ずると無限大の円の中心は随処にあるのです。即ち、随処が無限円の中心であり、個々の我々の今あるこの場所がことごとく無限円の活動の中心となっているということです。
人間的なものに執するかぎり、我々は何とか背伸びして大きな円を描こうとするが、それはことごとく有限に終わってしまう。もっと利口になれば真如の法を理解することができるであろうと思い、もっと真面目になれば仏慈に触れうるであろうと焦る。しかしゆけどもゆけども有限の反復と積み重ねに終わってしまう。自己の不敏に悲涙し、不真面目に懊悩する外はない。しかしフト気がついてみれば、その悩むこころこそが親の涙の滴るところであったのです。この己れの分を知らぬ悲泣と懊悩とを捨てておくことができず、片時も離れず如来の真実心が寄り添ってましましたのです。その如来の絶対の大悲が遂にこの私の相対汚濁の心水に、美しくその光の姿を宿してこられたところこそ、如来よりたまわりたる信心なのであります。