生き甲斐―D自己を尋ねる―

井上善右衛門先生

そうなって参りますと、その人生の奥行きの掘り起こし手であるこの自己という問題、この問題を私どもは捨てておくことは出来ないのでございます。そこに自己を尋ね求める姿勢というものが嫌応なしに要求されてくる。仏典のなかにこんな話があります。あるとき、お釈迦さまが静かに森で憩うておいでになった時、そのお釈迦様の前を大勢の若者がどかどかとかけて行く。その中の一人が釈尊のところへ近付いて参りまして申しますのに、今し方ここを一人の女が大きな物を背負って駈けて行ったはずだ。どちらの方へ行ったのか言えと、このように言った。あまり若者たちが目の色をか変えていますので、お釈迦様が、若者達よ一体どうしたのか、とこう尋ねられた。そうすると、その者が申しますのに、今日は休日で自分達は一人一人妻を伴うてこの森に遊びに来たのだ。ところがその自分達の仲間のなかで一人だけ未婚の男性がいて、自分だけが一人ぽっちであることを淋しがって、村から遊女を一人雇ってきた。ところがその女が、皆が楽しく我を忘れておるうちに、皆の持ち物を一切かっぱらって逃げて行ったのだと。

そのときに釈尊の申しておられるお言葉ですが、「若者よ、盗んで逃げた女を追うことも必要であろう。けれども君達どう思うか、盗んで逃げたものを追い求めるのと、己れ自らをたずね求めるのと、いずれがより大切な事と思うか」と。そう致しますと、若者達は思いもよらない質問を受けて唖然とする。しかし己れ自身を忘れて遊びにうつつを抜かしていた彼らは、はっとしたのです。仏陀は言われた。「その己れ自らをたずね求めてみるところに、今まで君達が見ることも聞くこともなかったような、実に妙なる世界が現れて来るであろう。さぁ一つ私と一緒に今まで尋ねてみたことのない己れ自らを探してみようではないか」と申されて、諄々とお話を続けられた。こういう事が仏典に録されております。私は、己れ自身を訪ねるのはこの姿勢だと思います。それがなければ、宗教の言葉は私の耳へは届かない。

道元禅師の『正法眼蔵』のなかに有名な言葉でございますが、「仏道を習うというは自己をならうなり」と申されております。この言葉もまた動かしてみようのない言葉です。「自己を習う」と言うこの視点を失って仏道を学ぶと言うことはできない。ところが今まで私どもの生きる生き方は、最初に申し上げましたように、ただ、身体として生きると言うことに掛かり果て、そのことに心を奪われておりました結果、今申します自己とともに開かれてくる世界を、私どもは今まで見失っていたのです。自己自身というものを追求することのない我々の心に、自己を見ることができないのは当然であります。

この頃自分を反省するとか、自分の過ちを自己批判するとか、こう言うことが言われてます。けれども現代人の申します自己反省というのは、合理的反省とでも名づくべきものでありまして、自分の不注意で、石があるのに気をつけなかったので怪我をした。それは自分の不注意であったから、これから足元によく気をつけようと、こういう自己反省です。或は、あの人に対して私はあのような態度をとった、その結果あの人は私から離れていった。それは結局自分の支援者を失うことになったので、これからああ言う態度を人にとらないようにしようと、こういう反省ですね。けれどもこれは結果から振り返って自己の仕草の損得を反省しておるのでして、これはいわば技術的な合理的な反省でございます。これから一歩進みますと、このごろよく流行します戦術の反省と言うことにもなります。

しかしそのような反省は真の自己反省ではございません。自己そのものと言うのは、そのような技術的な反省の場では、やはりどこかへ隠されておる。そうではなく己れ自らの心のなかに何が動いておるか、己れ自らの心のなかに何があるかと言うことを、私どもが気付かされると言うことは、生きて働く主体としての己れ自らのなかに、己れ自らが立ってみるときにのみ実感できる事柄だと申さなければなりません。

間違いはしておらんと、行いの表面で判断いたしますのが私どもの常でございますが、カントと言うドイツの哲学者が、こんな言葉を残しております。「人間というものは、如何に自ら純粋であると思っていても、その自分の行為の底に我れ知らず不純な心が動いていなかったと断言できる人は一人もない」と。こう言うことを自己反省の実感として告白しております。私はそれは深く鋭い言葉だと思うのでございます。

私どもは、ただ自分に見えた行動だけで、自分を見尽くしたかのように思っておるのですが、人間の存在と言うものは、もっともっと奥を持っておる。その私の奥に如何なるものが宿っておるか、動いておるか。ひとたび己れ自らのなかに立って己れを観じてみますと、何と申しましょうか、底知れぬ暗い闇とでも言うべきものを感ぜずにおれないのです。誰が正々堂々と生きておると自ら断言出来る人がございましょうか。そして私どもの心の闇とともに動いておる弱さ醜さと言うもの、こうしておけばまた自分の為になるだろうと言う、自己中心の心と言うものが常に纏(まと)い付いておるのです。その人間存在と言うものの醜さ、そのなかに動いて止まぬしつこいエゴイズム、そのエゴによって常にけがされておる自分の心の動きと言うものを、私どもは嫌応なしに見つめざるを得ない。しかもその底は自分自身にもわからないのです。そこに仏教で言われております「迷悟染浄」という問題が私どもに立ち現れて参らざるを得ないのです。

この私の底には迷いが存在しておる、「迷」と言うのは深い闇からくる妄想に私がさ迷うていると言うことです。そして私どもの心は濁っている、その汚れと言うものがこの「染」と言う字で表されておるのであります。「悟」と申しますのは、私どもの迷いに対する覚の世界です。濁りけがれております染に対する真に浄らかなる在り方、それが「浄」と言う言葉によって表されております。迷いの自覚、自分の闇の自覚と言うものを欠いて、宗教的真理と言うものは決して私どもに立ち現れてくるものではないと思いますが、今日の宗教観のなかには、迷いと言う問題を抜きにして、よく評論家などが新聞なんかで「新しい宗教」と言うような見出しで、書いているのを見ることがあります。曰く、今までのような国家を崇拝の対象にしていたような、そう言う宗教の時代は既に終わった。これから権力に癒着することなしに、己れ自らの道を行こうと思えば、どうしてもそこに一つの新しい宗教が必要になってくる。こう言う風な言い方でもって、このごろのヒッピーとい言うような青年達のなかにも、新しい宗教が芽生えようとしておると、こう言うように論評しておることがございますが、私は大いに疑問に思います。

単に人間の持っておる可能性と言うことだけで、宗教を論ずることはこれは手違いである。迷いと言うこと、その迷いと共なる人間の闇の心情、即ち罪と言うこと。この迷いと罪との問題を解決する関所を通らずに、宗教を論ずることは極めて観念的な思考に過ぎぬと思う。人間の実体というものはそう言うものではないと思います。

さてここに一つ、私ども気付かねばなりませんことは、我々が自らの闇に気付き、自らの醜さに思い至ると言うことは、どういう出来事なのであろうか。そのとき既に何か今までなかったものが現れ始めておるのではなかろうか。「松かげの黒きは月の光かな」という古い句がございます。松かげがそこに黒く見えてくるのは、実は背後に月がのぼったということである。私どもが自らの闇を感じるということは、闇を闇と照らすもの、そのようなものが既に私に関係している、その関係が既に始まっている。自らの醜さを実感すると言うことは、浄らかなるものが背後から醜さを知らしめておるのではないか。

また他の例で申すならば、枯葉が風のまにまに散っておるとき、その枯葉に風の抵抗感と言うものはございませんでしょう。流れに落葉が浮かんで流れておる。流れのまにまに流れておる落葉には、水の抵抗感というものはございませんでしょう。枯葉に風のまにまに飛ばしめないような力が加わった時に、そのとき風の抵抗というものを感じるのではないか。凧のように糸がついておるとき、凧は大きく風をはらんで風の抵抗を感じるわけでございましょう。その事を思いますと、今まで気付かずにいたその自らの闇と汚れというものを、私ども気付かしめられてくるというのは、既に闇を照らす光り、汚れを知らしめる浄らかなる何ものかが、この私に関係しはじめておると申すべきではありませんか。

「冥加」ということばがございます。日本人には親しい言葉です。「冥」と言うのはくらい(暗い)と言うこと。「加」と言うのは手をさしのべて働きを加えると言うこと、そう言う言葉でございます。私どもの気付かないところで、大いなる働きが及びつつあること、これが「冥加」です。よく私ども小さいときに、両親から申されました。ご飯一粒の中にも気付かないお百姓さんの汗が含まれておる、そう言うものをこぼしては勿体無いと。それもたしかに冥加を知る事でありましょう。

しかし本当の冥加というのは、全く知られず気付かれないところで、大きな働きが私どもに差し伸べられておると言う事であります。西洋の宗教にこう言う受けとめ方があるかどうか。仏教においてこれを非常に大切に致して参りましたことは、非常に意味の深いことであると思うのでございます。

Eの摂取不捨と生甲斐に続きます。




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