生き甲斐ーB真実の願いー

井上善右衛門先生

そこでその「人」の問題の底に、今日ご一緒に考えようといたします生甲斐と言う問題がある。一体、生甲斐ということは、人間の真の本性に基づく人間の本当の願いが美しく満たされましたとき、そのときはじめて私どもは生甲斐を感じ、生甲斐を見いだし得るのであると思います。

『論語』のなかに、どなたもご承知の「朝(あした)に道を聞かば夕(ゆうべ)に死すとも可なり」という言葉がございますが、この言葉は二千年来人類の心を動かしつづけてきた言葉であります。今日、論語などと言うものは、最早や過去の観念的産物であるから、クズ籠へ捨てるべきものだというような、風潮もあるようですが、それは余りにも軽率でございます。捨てるべきものは捨ててよろしゅございますが、捨てるべからざる真理まで、捨てるというようなことは、まさに人間の自殺行為だといわざるを得ない。

私は「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」という言葉は、今日の私どもの上にも厳然として生きておる言葉だと思うのです。しかもその言葉は、身体として豊かに生きるということと、人間の本性を満たすということと、その二つのものの関係をきわめて鮮やか言い表わしておる、そういう言葉だと思うのです。

もし私どもが生きることがすべてであるならば、死んでしまえばそれで終わりということになりましょう。ところが「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」という言葉は、私どもに何を指摘しておるのでありましょうか。そこに私どもの平素忘れております大切な人間としての問題点を、私どもは気付かずにはおれない気が致すのでございます。

それを具体的に一、二の例を取り上げて申してみますと、私どもは何としましても、人間らしさへの要求を捨てることが出来ない。犬や猫のごとく生きるということではどうしても満足できない。もしそれより他に生き方が許されないと致しますならば、先程申したように死ぬ方がましだという、そういうものが必ず私どもの生活の中に出てくると思います。

人間というのは、例えて申しますと、自分自身の中から自分の行動を決めていきたい。こういう切なる要求をもっておる生きものでございます。それがすなわち人間に特徴的な自由への要求となって、あらわれてまいるわけですが、己れ自らの中から自分の行動を定めてゆきたいと、そういうような意識的な願いは、おそらく動物には見いだすことはできないのでありましょう。犬は縛られておりましても、ご馳走さえ与えておりましたらおそらく満足しておるでありましょう。人間というものは縛られて生きることは出来ない存在でございます。その自らの中から己れの生き方を定めてゆきたいという願いから、自由と言う欲求があらわれ、その自由という願いに沿って責任という自覚が私どもに必ずやあらわれてくる。

皆さんは人をご覧になりますときに、あの人は好きな人だとかあの人は嫌いな人だとか、いろいろ好き嫌いの評価をなさいますでしょう。けれども、責任を知らないような人を、如何に好きだといっても自分のよき友として選ぶことができるでしょうか。私どもが自分のよき友として人を求めるというときには、必ずそこに人間らしい人という、そういう条件を既に含めております。

したがって人の上と同じく己れ自らの生き方のうえにも、人間らしい生き方ということをどこかで踏み外しますと、それは己れ自らの人間としての持ち前を裏切ることになりますので、そこには必ずその跳ね返りが感情の上に何か気が済まんという、こういう気持ちとしてあらわれてまいります。おそらくは動物は気が済まんというような、そういう意識は持ち合わせまいと思う。私どもは為すべきことを為したときには何かこう明るいものがございます。ところがそれが身体的な豊かさには益のあることであっても、何か責任を裏切る、人の自由を無視するというようなことをしたときには、人を裏切っただけではない己れ自らを裏切ったという、そういう気持ちを拭い去ることはできない。だから私どもは気が済まぬことを気か済むようにやりなおすと、それで安心が出来る。気の済まぬというものを一杯かかえて、それでよく生きている、或は生甲斐を身につけているということは、おそらく申せないことでございましょう。

さらにこういうことがございます。ある一人の人が生きておることの意味を見失って、つまり生甲斐のなさを感じて、とうとう自殺しようと思い、それで死に場所を探しておりましてたまたま海岸にやってきた。ところがそこに溺れかかっておる人があって、思わず飛び込んでその人を助けた。その人が命の恩人だと言うて涙を流して感謝した。そのとたんに自殺をしようと言う思いがいっぺんにどこかへ消えてしまった。こういう話を聞いたことがございます。これは私やはり人間というものだと思うのです。 私のある友人に、ある一人の学生が、自分は何のために生きておるのか解らなくなった。生きる意欲を喪失してしまったと。そういう訴えをいたしてまいったそうです。そのとき友人は、「いや君何んでもよい、人がよろこぶことを、その手その足でやってごらん」と、こういってやったと申しておりましたが、この言葉も真実だと思います。

私どもは、何かのお役に立つ身体だと言うことを意識したときに、生甲斐を覚えるんですね。「さぁお部屋ができました、ここで楽々とお暮らしください」と言われただけでは満足出来ない。何か人様のために役立つ身だと言う思いが私どもに喜びの息吹きを吹き込んでくれる。これも人間というものの無視することのできない事実だと思います。

今日、人を大切にするということは、ただ身体を大切にする、社会保障と申しますのもあれは身体保障でございます。歳がいったらお金を与えて生活に不自由の無い様にと言うことですね。私は社会保障ということの本当の意味は人間保障で無ければならぬと思う。人間が生甲斐をもって生きることの出来る用意をする。にもかかわらず、身体保障をしてそれで人間保障をしたという、こう言う取り違いをするのがやはり現代の性格です。これが現代の考え方というものに我知らず流れている姿なのです。

そう言う点から考えますと、私どもは自分の利益、つまり自利、己れの利益の目標を立てて生きておるというのが誰しも人間の目指すところだと思いますけれども、そればかりではない。どこか人間には利他という、他の人の利益をこの手で支えると言う喜び、そう言うものをどこかで持っておる。仏教で二利円満と申します。二利というのは自利、利他と言うことです。しかも仏教で申します自利、 利他というのは、二つ重ねて二利円満かと言うとそうではない。利他ということによって自利が全(まっと)うできる。自利を全うしようと思えば利他を忘れることができない。自利と利他とは一つの人間の生き方のなかにある表裏。そういう関係を二利円満という言葉で示しておりますが、これは非常に意味のあることだと思います。

そういうことは、美辞麗句だと言われるかも知れませんが、よく己れ自らというものを観察してみますと、そこに私どもが忘れることのできない要求の存在しておることに気付かざるを得ないのです。しかし私ども人間が常識として持っております「利」と言いますのは、これは非常に浅薄なものでございます。殆どが私どもの身体の役に立つものを「利」としています。しかし、仏教で申します「利」と言うのは『大無量寿経』にあります「真実之利」という言葉がよく示しておりますように、この私の気付かずに抱くまことの願いを明らかに満たし、人間の本性に宿る目覚めへの可能性を全うするのを「利」と言うのです。

したがって仏教で申します「真実之利」と言うことは、ただ単に身体に役立つものを与えると言うことだけでなしに、自覚覚他という言葉がございますが、自ら目ざめ他を目ざますこと、目ざめるということはどういうことか。人間の真の願いを立派に満足させるということでございましょう。したがって仏は「自覚覚他、覚行窮満」と申しまして、その「覚」という働きにおいて自と他とを一つに全うされる。そこに仏が真実そのものを身に体して、自他一如の光りと喜びを私どもに与えて下さる存在である所以を窺うことができるのでございます。




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