生き甲斐ー@生き甲斐への要求ー
井上善右衛門先生
@生き甲斐への要求
ご承知の大学紛争(この法話は昭和45年頃のもの)を通じまして、体制打破とか人間疎外とかいうことが盛んに叫ばれました。ところが最近はやや転じまして、学生たちの口から『生き甲斐への要求』という言葉がよく聞かれるようになったのです。これは学生だけでなく社会においても、やはりこの声が新聞紙上等におきましても現れ始めていると言う感じを持つのです。
体制打破とか変革と申しますと、容易には従うことの出来なかった一般の学生諸君にも、『生き甲斐への要求』ということは、非常に魅力を持つ言葉でございまして、多くの青年達がどこかでそれに共鳴しておる。これは注目すべきことだと思うのです。しかもそれが現代社会に対する不満の声として叫ばれているとしますならば、それは科学文明を支えにして成り立っています今日の社会の盲点とでもいうべきものを指摘している言葉とも考えられるのであります。『生き甲斐への要求』ということに全く無感覚な若人がもしおるといたしますならば、これまた別の意味で、危険人物だと、申さねばなりません。
人間と言うものは生き甲斐を求めずにおられない生き物で、ご承知かと思いますが、キリシャにアリストテレスという哲学者がございましたが、このアリストテレスの『ニコマコス』という『倫理学』の書物のなかに、人間というのはただ生きることを願うておるのではなしに『よく生きる』ことを願うておる生きものだと、こういう事を申しています。その『よく生きる』ということ、ただ生きるのではない『よく生きる』ことを願うているのだと言いましたこのことばは、非常に味わってみるべき、含蓄のあることばだと思うのであります。
ところが今日の私どもの現状を振り返ってみますと、身体的にただ生きることがすべてであるかのような感じがどこかでするのであります。身体的に生きるという事の拡大・充足ということが、もし『よく生きる』ということの内容でありますならば、これは取りも直さず衣食住の豊かさということになってまいるでしょう。衣食住の豊かさということだけで、人間の生き甲斐というものが満たされるかということなんですが、次のような状態を想像してみたらどうでしょうか。
身体として生きていくうえには、なに不自由のない至れり尽くせりの状態が用意されている、食べるものも、住まいも着るものも豊かに充足されておると。ところがその場所は一つの座敷牢であって、それ以外のことは一切許されない。自由に考える事も、美を楽しむことも、また真理を追究することも禁じられておる、ただ身体が何一つ不自由なく生きるということだけが許されておる。そういう状態が私どもに与えられたと致しますと、我々はそこからどのような気持ちが現れて来るであろうか。そのような生き方をするくらいなら、死んだ方がましだと言って自殺する人があったとしても、私どもは不思議とは思いますまい。
それがこの私自身であっても、おそらくその人と同じ思いを起こしたであろうと、言わざるを得ないのではなかろうか。だとしますと、ただ身体として生きることだけが許されて、その点の豊かさということだけが与えられて、それ以上の生き方が許されないという状態に私どもがおかれるということは、結局人間の生きるという意思を失わせることであり、人間を最早生きておれない状態に追い込むことに他ならない。
生きるということが、生きておれないという状態をもたらすような生き方が、はたして『よく生きる』と言い得ましょうか。このように考えてみますならば、『よく生きる』というその『よく』の内容は、決して私どもの身体的な生活の豊かさだけをいっておるのではないということ。否むしろ、それを超えたところに、私どもの人間として本当に願っておる何ものかがあるのだということを、指している言葉だと、私どもは受け取らざるを得ないのではなかろうかと思います。
A科学と「人」に続く。