我執

井上善右衛門先生

私ども人間の上にはいろいろな惑いがあって、それが私どもを苦しめ苛(さいな)むと言うことになってくる。その惑いというものの起こってくる一番根底、そういうところに潜んでいるのが、有の観念である。それは只今申しましたように、平易な言葉で申しますと、『無いものを有るように思う心』といういい方で、私ども味わってみることが出来るかと思います。

人間が常識で決め込んでおりますような事柄の中には、実に種々な妄想や錯覚や勝手な思いが随分たくさん入り込んでおるのだということを、気付くべき必要があろうと思います。そしてそういう無いものを有るように思う『有の観念』、即ち法執(ほうしゅう)というものが土台になりまして、その上に乗って私ども人間誰しもが、これまた先天的にもっております意識ですが、俺が俺がという自我意識が成り立ってくるのであります。

私ども誰しも自己というもの、自分というものを意識しております。また自己と名づけられるものがあることはあるのでございますけれども、しかしその自己というものを、私どもが意識いたしております意識の仕方が問題でございます。それが決して開かれた自己ではなしに、人間の持っております自我意識というものは、極めて閉ざされた自我意識ではございませんか。

閉ざされたということはどういうことかと申しますと、自分と言う殻に閉じこもり、それをいつも中心とし、何ものにも優先させようとしていることです。人よりもまず我が事です。今日の言葉で誰しもがよく使いますのはエゴという言葉です。あの人はエゴのかたまりだというような言葉を使いますが、特定の人がエゴのかたまりなのではなしに、私ども誰しもの心の中に、自己と意識しております自分の中に、エゴとでもいってよい自己中心的性格がある。何かコンクリートで固めたような、そういう自我意識を私どもが抱いておるということは嘘ではございません。

私は人間と言うものの中身には確かにそういうものがあると思います。なぜそういうものが私どもの上に成り立ってきたのかということは、これまたなかなか容易な問題ではございませんけれども、とにもかくにも現実の事柄として、私どもの心の中に深い鎖された自我と言うものが根を張っておる。そしてそれが争いのもとともなるし、他を顧みない利己心の原因ともなる。自分と言うものを何よりも優先させるのですから、そこに他と対立が生じ矛盾が起こることは当然です。諸悪の根源は実に閉ざされたエゴにあるといって過言ではありません。そのエゴが個人のエゴに止まらず集団のエゴになって働く。これは現代世相の顕著な姿の一つではございませんか。そして理屈というものが、その優先させようとする自己を正当化するために使われる。

理屈が多くなってくればくるほど、だんだんと世の中が難しくなってくる。昔から誰言うとなしに語られておる言葉に『賢い人は怖い』という。これは奇妙な言葉です。賢いというのは良いことです。みな賢くならねばならん。ところが賢い人が恐ろしい怖いと言うのは、これはどういうわけでしょうか。けれども、人間の持っておる知性の利口さというものを、只今申しますような、自己だけを優先させようとするエゴの手先に使いまして、いろいろと理屈を考え、策略や議論を組み立ててゆくということになりますと、これは如何にも賢い人は怖い。どんな理屈で攻め立ててくるやらわからない。そういうことになってまいりましょう。今日のただ人間を賢くするだけの知識教育というものは、よほど反省しておかねばならない問題を含んでおりましょう。それを一言で言えば知識や理屈の使い手である人間そのものの教育が置き忘れられているということです。

学術の研究と人格の陶冶という言葉は、これは大学の入学式でもきっと述べられる言葉です。ところが学術の:研究はあっても、人格の陶冶というのは言葉だけあって実がないんです。実際にやっていることは、何か科学的知識をより多く頭に積み重ねる人間を作ろうとしておる。ただそれ一途です。そう言って憚らぬと思います。ですからその人間の持っておる知識の使い手というものを方向付けず整理せず、野放しにほったらかしにしておいて、どこに教育というものが正常化されましょう。

本当に知るということは、これは尊いことです。学問の世界というのは真理へ奉仕することです。自分の得手勝手な理屈を使うのではなく真理に忠実なる人となることです。そのような人は己れ自らのなかにも真実を追究する人とならざるをえません。そういう人であってこそ私は真理に仕える人だと言いうると思いますが、そうしたところに何か混乱が起こっておる。そういう時代ではございませんでしょうか。

話を元に戻しまして、先程申した『有る』という虚妄な観念に、人間の自我の意識が結び付きますと、そこに執われた自我意識が生まれ出てまいります。私どもの、俺が俺がと言う思いがそういう構造をもっておるということ、我執の奥に法執が潜んでおるということは、ほとんど私どもは気付きません。気付きませんけれども、よくよく仏教の教えに耳をかたむけると、なるほどと頷かれてまいります。我執は『有の観念』を根としているのですから、縁起の真理に反する迷妄の自我意識となるわけです。縁起の中に生きるべき真実の己れを隠し鎖して、あるべからざる自己の殻に固執する自己たらしめるのです。いわゆるエゴはこのような本質をもつものですから、そこに矛盾と混乱と争いを起こす根源となる所以があります。

エゴというと単に利己心と解され、物欲にかかわるもののごとく思われますが、それはまだ浅い執われです。さらに深刻で執拗なのは精神的エゴであります。果てしない自己主張、それに結合する思想の囚われ、仏教に『見取見』というのがそれです。自己の見解を執取する意見です。これが『一切闘諍の所依』であると『成唯識論』に説かれているのは鋭い洞察ではありませんか。そうしたものを生み出す根源となる自我意識のことを仏教では我執と申すのであります。

法執と我執とは大乗仏教になりまして、鮮明にされてまいりました誤謬と惑いの根源です。その教えに深い真理性を感ぜずにはおられません。この我法二執を深く胸の中にかいばさんでおりますのが人間と言う存在です。この人間の中に潜む根源的な誤謬をそのままにして、前へ前へと進みますと、人類の歴史は決して楽観を許さないものになると思います。

本来あるべからざるものをあると思うような意識は、当然矛盾を孕んでおります。人間関係で申しますなら、甲の人も乙の人も皆自己が一番大事で、他の人を退けても自分が先に立とうとし、また思想の面でも自分の思いが絶対正しいと考えるようになれば、そこに統一が求められましょうか。争いより他に行く道はありますまい。争いということは混乱です。そういう混乱が起こってくるのは、人間がお互いに幸せになりたい、共々に楽しく生きたいと思いながら、その自分の願いを裏切るような矛盾したものをお互いがお互いの心の中に気付かずに持っておることに起因します。

こうした矛盾を何とか処理するために民主主義という形態が生まれてきたのですが、根源の我執は制度や組織によって処理尽くせるものではありません。それは精神が自体の迷いに気付いて、我執を超える大いなる真実に摂取されるより外に道はないのです。その事に気付かずに現代の文明がそのままで進みましたら、きっとこの矛盾はさらに深刻な厳しい問題になって、人間の上に跳ね返ってくるでありましょう。




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