静かなる心
井上善右衛門先生
「しずけさや岩にしみいる蝉の声」芭蕉は蝉の声に静けさを感じている。山形の立石寺(りゅうしゃくじ)に立ってこの句を詠うたと言われているが、蝉の声で静けさが破られると感じる人もあろう。蝉の鳴くのを聞いてわれわれは暑苦しさと感じたり、追い立てられるようなせからしさを覚えることもある。その蝉の声に芭蕉は静けさを感じている。それは何によるのであろうか。
静かな人があり、慌(あわ)ただしい人があり、せからしい人がある。それはその人が活動的な人であるか否かということとは別である。静かでしかも能率的な人もあれば、慌ただしいだけで一向仕事の出来ぬ人もいる。静かな人は慌ただしい環境をも静かに受け取り得る人であろう。慌ただしい人は常に自らを慌ただしい世界に置いている。慌ただしく感じ、慌ただしさの中に住んでいるから、その人の生活も自ずと慌ただしくなって来るに違いない。
では慌ただしいとはどう言う事であろうか。何かしなければならぬことが心に懸かっている時、まだその事に携わっていなくても心は決して静かではない。試験がやって来る。調べがさっぱり出来ていない。試験期を迎えて幾度か私は落ち着かぬ心の慌ただしさを経験した事がある。さていよいよ勉強に取り掛かってゆくのに一向解らないとなると苛立ちは身に迫って来る。これは丁度時計を見ながら駅に駆けつける時の気持ちに似ている。この時、私達の心は何ものかに追っかけられている。
この状態は程度の違いはあっても、慌ただしい心には共通する事柄である。病気をして早く 癒りたいと思う。しかも一向病状が好転しない。落ち着きたい静かになりたいと思うても騒ぐ心を如何ともすることが出来ない。こんな時、身は横臥(おうが)していても決して静かな人となることは出来ない。
何事かに急き立てられ、迫られている時、静かになり得ないと言うだけではない。もっと深く探ってみると、何ごとかを対象とし、何ごとかを期待し、何ごとかを求めている時、その心は本当の意味において静かではない。若し芭蕉が蝉の声を聞きつつ、これを一つ良い句に作り上げようと考えていたなら、そこに真の静けさは現れて来なかったであろう。それはその時の心が促われたものであるからである。対立するもののある時、心は割れている。割れた心で、完き全体を見ることは出来ない。対立するものを越えた時、古池の水音が永遠に通うものとなって現れる。そこに俳句の智慧がある。
その時、まことの静けさが心を満たすであろう。割れた心で対立者を追うている時、心は常に欠乏の中にある。ドイツの詩人ヘルマンヘッセが、『シッタルタ』という小説の中で、仏陀の遊歩したまう御姿(みすがた)を美しくも見事に描き出している。仏陀の御姿はかくもあったろうかと彷彿とされて、その文章を読んだ時の感激が忘れられない。原文の深さを伝えることは出来ないが、拙い訳で紹介してみると、
『仏陀はいとも慎ましやかに、深く想いに耽けるが如く歩みを運びたまうてある。静寂に輝く御顔は悲しみと喜びを越えて、内に微笑みたまうがこどくにみえる。微笑みを宿しつつ静かに安らかに、どこか健やかな童児の天真さにも似て、しかも弟子と同じ定めの衣をまとい、一糸乱れぬ歩調でしづしづと進みたもう。その輝くかんばせに、その足どりに、静かに伏するその眼差しに、さらに安らかに垂れたまう御手とその一々の指先までに、平和が溢れ至上の完成がただようている。求めるところなく、追うところなく、不滅の安らいと光明と平和の中に静かに息づきたもうてある』
まことに真の静けさはかくの如くして生まれるのではなかろうか。静けさは対立を越えて一如に生きる自足なくしては生まれない【自足とは、他に求めず自ら満足すること】。求めることなく、追うことなく、満ち足る光明の中に生き得て始めて静けさは生まれ得る。この静けさは即ち安らいであり、平和であり、完成であり、それがそのまま健やかなる活動である。われわれの努力と共なる人間生活にこのような静けさの求め難い所以はここにある。しかしわれわれに慌ただしさのある限り、安らい得ないことも事実である。どこかにわれわれはこのような究極の静けさを求めている。
アリストテレスはわれわれの実践倫理を説きながら、人間的な倫理生活をもって最後のものとはしなかった。それは人間的実践がその性質上、どうしても自足という域には達し得ないからである。目的があり、結果があり、相手があり、諸条件がある限り、自己以外に必要とするものがある。真にそれ自体において充足しうる活動は精神そのものの観照の活動の外にはないとした。即ちわれわれの実践生活は究竟なる観照活動に達せんがための道程に過ぎないという【観照とは、対象を主観的要素を加えずに冷静な心で見詰めること】。
その観照ということが究竟の活動であるかはしばらく措くとして、究竟の生活が自足的でなければならぬというのは首肯(しゅこう、納得すること)すべきことだと思う。自足的なものは自ずと持続的であるという。そしてそれには同時に静閑(物静かな様)性が属していると言うているのは面白い。これを閑暇性と訳する人もあるが、訳語としてはどうもぴったりしない。私は寧ろ悠然性とでも意訳すればどうかと思う。
要するにそれは迫られることのない、求めることのない、その意味において真に余裕を持つ静かな心の状態である。しかもそれは沈滞ではない。自足のままに転ずる無限の活動でる。このような状態にして始めて最高の快適を味わい得るという。最高の快適とは本当のよろこび≠ノ外ならない。観照活動がこのような諸性質を持つ故に、そこにこそ真の幸福が存するとアリストテレスは言うのである。その所論全体の是非はともかくとして至福なる生き方に真の静けさが伴なうと言うことは私どもの関心を引くに足る言葉である。
これを裏から言えば、静けさへの願いの中には究竟なる境地への志向がある。真の静けさを求める願いは騒忙と迫促の中に生活する現代の私どもにとって内心の深い要求となっている。茶道の閑寂を楽しむ心にも、生け花の静美を愛する心にもこの願いは宿っている。しかしそれにも増して真の宗教的要求の底にはこの至上なる静けさへの願いが溢れている。真実の宗教は、この願いを全うし、永遠の静けさの中に騒忙の私を救い上げる。法然上人の上に、祖聖親鸞の上に、道元禅師の上に、われわれは永遠にかがやく静けさを仰ぐことが出来るではないか。われわれはそこに魂のふる里を感ぜざるにはおられない。
真の自足は満足大悲円融無碍の本願海に浮かぶことによって果たされる。『光明の広海に浮かびぬれば至徳の風静かなり』と申された親鸞聖人の胸奥には満足と静寂との映発する如々の境地が微笑んでいる。聖人は真仏弟子を第三十三の願に繙(ひもと)いてそこに柔軟心を見たもうてあるが、柔軟心とは法界をつつんで満ち足れる大悲の静けさがわれわれの上に降り立つときの姿と言い得るであろう。
そこには対立と迫促という二元の圭角(けいかく)がない。摂取して止まない無限活動がこの静けさの中に法爾(ほうに)として躍動する。自然法爾とは実にこうした風光のすべてである。自然法爾として本願海の人となって生きる念佛者には人知らぬ至福のよろこびがただよう。人として生まれ来った生き甲斐ここに全うされるを知るのである。