生の根本問題

井上善右衛門先生

われわれは現に今、生きているのであるが、この生を如何にあらしめるかということは、何としても人間の根本問題である。生をおろそかにするところから、思想も宗教も生まれない。人間が本当の人間となる道は、生とは何かと問い、如何に生くべきかを尋ねるところから開ける。

ギリシャの哲人アリストテレスがわれわれに極めて示唆に富む言葉を残している。それは人間が、ただ生きるだけでではなくよく生きる≠アとを願う存在だという言葉である。如何にも、ただ生きるだけなら動物も生きている。そこには人間と動物とを区別する何ものもない。人間はただ食べて生きるだけの生に安んじうるであろうか。

われわれが生きることに追われているとき、あたかも生きることがすべてであるかのように錯覚することがあるが、はたしてそうであろうか。人間には生き甲斐という願いがある。この生き甲斐への願いが全く絶望におちいったとき、人間には自殺と言う出来事が起る。

たとえば、食物も衣服も十分に給して身体は何不自由なく生かしておくが、しかしそれ以上の何事も許さない。考える事も、思う事も、読む事も、すべてが奪われたとしたら、どうであろう。そのような状態におかれて死を決意した人があったとすれば、われわれは同情し同感するであろう。現に生きて居りながら、その生を自からの手で絶つということは、ただ生きるだけがすべてではないという証拠である。

人間の生は、たといそれを意識しておらずとも、ただ生きるだけではなく、そこに何かがプラスされている。そのプラスされているものこそが、よく生きることを求めるといわれる所以である。われわれはこのよく≠ニいう二字が何を指しているかを探らねばならぬ。然らずんば人間の生は満たされず、人間たるべき生き甲斐を全うすることは出来ないであろう。幸福と言う問題も実はこのよく≠フ二字の意味するところを探り当てることなくしては果たされない事柄である。

われわれはよく生きる≠アとの内容を先ず環境の中に求めようとする。富とか名誉ということが第一に念頭に浮かぶ。もとよりそれらはよきものであろう。しかしそうした環境的なものが直ちによき生≠サのものとなりうるかが問題である。

テレビに蒲団(ふとん)店の広告が現れる。曰く(いわく)、人生は三分の一を寝て暮らす。この眠りを安らかにするものは軽くて柔らかくて温かい三拍子揃った当店の蒲団(ふとん)、この最新最良の蒲団から人生の幸福を得て下さい。……そして画面に美しい女性が柔らかな蒲団で安眠している姿が映し出される。こうした広告を見ていると、われわれは、ふと「良き蒲団から良き眠り」という言葉をそのままに受け取るような気分になる。

しかし、振り返ってみると、良き蒲団にくるまりながら、眠れずに困っている人は幾らでもいる。健康な身体と安らかな精神を抜きにして、蒲団から安眠を獲得しようとする企ての如何に誤まったものであるかは誰にでも分かる。しかもわれわれは解りきった事柄を容易に飛躍するような錯覚に陥るものでる。

もとより良き蒲団が不必要なのではない。身体を持つ人間に環境を無視することは許されない。この意味において環境の向上は大切である。われわれは少しでもその改善に努力しなければならぬ。しかしだからと言って環境を直ちによき生≠フ内容とすることは飛躍である。環境はどこまでも助けとなるものであって、良さ≠サのものではない。これをよく≠キるものは自己である。

富はよきもの≠ナあってもよさ≠サのものではない。財あるために怠惰となり、或いは堕落する人間が何人あるか分からない。財がその人間の禍となる例はいくらでもある。立派に用い得た時はじめて富は輝く。だとすれば富がよいのではなくして、その良さを握っているのは使い手である。「持つ人の心によりて宝とも仇ともなる黄金なりけり」という俚諺(りげん、民間で言われていることわざ)には真理が含まれている。名誉とて同じことであり、その名に値しない名誉ほど空しく頼りにならぬものはない。真に己のものでないものを頼りとし、それに生を託していると、いつかは必ず躓き(つまづき)の日が来る。よき生に足らぬものを頼っていた迷妄が、それ自らを必ず暴露するのである。

外なるものや環境によさ≠求めていた心は、ここに翻さざるを得なくなる。そして生そのものの主体の中に、焦点を向けざるを得なくなるのである。その生そのものには幾多の問題が蔵されているが、そのうち最も根本的なものを取上げてみよう。

いま生きているわれわれは、自分が気付いていなくても、その生きることを何等かの意味で受け取って生きている。即ち生きるとはどういうことかを自ら前提して生きているのである。生きているということほど分かり切ったことはないと、無条件に自分の思いを肯定しているが、その根本的な生の思いそのものに誤まりがないであろうか。一般に思われている生とは、それ自体である時間をもって継続し存続するものと思われている。そのように肯定された生の上でわれわれはいろいろな営みをなし、それを人生と名付けている。

ところがそのように受け取られた生は、必ず死に結び付くことによって崩壊せざるを得ない。死は生に対立し、生の営みの一切を容赦なく破壊する。生はその死の前で全く無価値に帰するのである。だから、「命あってのもの種」という諺(ことわざ)がある。人間が無上に欲する金銭さえ、命と引き換えには誰も求める人はない。地位も権力もまた同様である。だからそうした生を生としているものにとって、死より怖るべく忌むべきものはない。しかもその死を避けることが出来ないという矛盾をもっている。

それで一体人間はどんな生き方をするかというと、その不可避的に結び付いてくる死をわざと見ないようにし、逃避できないものから逃避の姿勢をとってそれに触れまいとする。目隠しして事が解決するのではないが、そうするより仕方の無いところに、人間の哀れな姿がある。

落語に、死の音に通ずる言葉を忌み嫌う旦那を、元日に丁稚がからかうという話があるが、矛盾のある生き方は誰にでもからかわれるような弱点をもっている。しかしわれわれは自身の内面にもこれと同じ盲点のあることが思われる。しかしこのような窮地に生が立つのは、われわれの抱いている生そのものの思いに、根本的な見誤りがあるからではないかと反省してみなければならぬ。われわれはもう一度率直に生に直面して、生が如何なるものかを疑視す必要がある。

ギリシャにまたエピクロスという思想家があった。エピクロスは非常に高い意味での快楽主義者であったが、生の徹底した快楽を追求すればするほど生の矛盾に直面せざるを得なかった。死の怖れにさいなまれる限り、まことの快楽をわがものにすることは出来ない。そこでエピクロスは、何らかの意味で死を解決しなければならなかった。彼は死の怖るべきでないことを説き、「われわれの存するかぎり死は存在せず」と言った。つまり生きている間は死んでおらぬから死のことを思う必要はない、死んだときは最早生きておらぬからまた問題はない。死を怖れるのは妄想に過ぎないと言って生死(しょうじ)の問題を超えようとしたのである。

しかしそれで問題が解決したであろうか。われわれが常識的に考えているように生がそれ自体で一定の長さを保障されているものなら、エピクロスの言うように生は死と無関係だとも言える。しかしそれでわれわれは安心出来るかというと出来ない。生は事実死と無関係ではないからである。否、われわれのこの生は、そのどこを押さえてみてもその裏に死が連がっている。生は保障されていない。人間は年齢順には死なぬのである。

よく船乗りが船板一枚下は地獄だ、だから度胸を据えるんだと言うように、いかにも船板一枚下は常に水に接している。底知れぬ大海に連がっている。丁度そのようにわれわれの生もその随処が死に通じている。決して一定の間それ自体であるような意味合いのものではない。生の随処は死に関係している、それが無常といわれてある事実である。死を離れて生があるのではなく、死とともに生が成り立っていると言ってよい。生は死との否定関係を離れて成り立たない。死と無関係に生きている人は誰もないのである。

それを水と船との関係に喩えてみることが出来ると思う。水の上に浮かんでいるのが船である。それを陸に揚げてしまえば、最早や厳密な意味では船ではない。水に浮かんでこそ船であるならば、水を離れて船を理解することは出来ない。 だから、真に水を知り得たものが真の船乗りになり得るのでる。水を知らずしてよき¢D乗りになることは出来ない。

これと同様なことが生と死についても言い得る。仏陀が無常ということを教えられたが、無常とは生が決してそれ自体であるようなものでなく、その随処に死に関係しているという生の構造をわれわれに明示して下さったものである。生が死を離れて単独に対立的に執じられたとき、そこに、真実の生の在り方は失われている。

そのような生はまことの生ではないから、その上での営みはまた果敢なく死とともに崩れ去らざるを得ないようなものになる。生に執じて死を怖れつつ、しかもその死を離れることが出来ない。果てしなく生と死のわだち≠フ中で転々することが生死輪廻といわれる。現に生は繰り返されている。幾度び生死を繰り返しても、対立的に執じられた生と死の次元を脱することが出来ない。それが苦悶の生死を輪廻することである。そこにまことの生を実現する術は見出されない。

徒ら(いたずら)に死を逃避して目を覆う者は真によく生きる第一条件を忘れた者である。よく生きることが生の根本問題であるならば、先ず死の問題に眼を開かなければならぬ。死を正しく見届けたものが、真に正しく生きることが出来る。だから古(いにしえ)の先覚者達は無常を第一の問題としたのである。

道元禅師が、「菩提心とは無常を観ずる心、便ち(すなわち)是れその一(はじめ)なり」(学童用心集)と言われた言葉は深い意味をもっている。菩提心とはまことなるものに魂の眼を開いて生きようとする心である。死に立つ生の本質を見届けること、即ち無常を観ずること、そこに菩提(覚、さとり)への根本の道があることが示されている。

だとすれば、われわれが死から目を覆うてよく生きよう≠ニする企ては、根本的に大きな錯誤といわなければならない。常識的なわれわれの生き方は、この根本的な過ちを犯していたのである。死は闇ではなく、実はそれを通して生を真に輝きあらしめる元手であったことに気付かなければならぬ。

死より遊離した生に固執するものは死におののく、そこにわれわれの生が怯懦(きょうだ、臆病で意志の弱いこと)な不純な、そして哀れな存在となってゆく所以がある。この対立を越え得るならば、そのときわれわれの生は、恐れなく、美しく、堂々たる光を発揮しうるであろう。恐々として逃げ隠れ、死の威嚇の前に如何なる浅ましい業をも敢えてするような生を、どうしてよき生≠ニ言い得ようか。

死の恐怖とは単に本能的な恐れを言うのではない。本能的反射的に死を避けようとするのは、身体を持っている限り免れえない衝動であろう。いまわれわれを哀れな状態に陥れている死の恐怖とは、死の闇を解くことが出来ずその深淵の前に怖れ怯え戦く(おののく)心を言うのである。

われわれの生に潜むみじめさの根本は、実はこの生の裏なる死の未解決に原因しているといってよい。その心の闇がわれわれをして死に惑い生に迷わせているのである。

その根本の死の闇を本当に見届けて、その中から却って生を真実に輝かしめる光を見出さねばならない。それが自己を開明するという人間の生の根本的な課題である。その開明なくしてよき生≠フ実現を期することは出来ない。われわれは先ず生と死の対立的固執を越えねばならぬ。仏陀は身をもってこの真理を開顕したもうた。それは生死を一如に貫いている永遠な命の覚証にあった。

それは己の生死の外にあるのではない。生死のままに生死に際断されぬから不生不滅といわれる。無量寿とはまさにその輝くいのちを指すのである。そのいのちには無量の光がそなわる。それは、果てしない闇の生死を摂取して、真実のいのちに同化する無限の光源である。

われらの生の延長を無量寿と言うのではない。肉体を遊離する魂の永生を言うのではない。 悠久の宇宙に融ずるというような思惟思念の指さすところのものでもない。心の固執を離れたとき、そこに総てをよみがえらす永遠の光が待っている。その光がわが生死の惑いを解きほぐそうと、わが心を照らし抱き温めている。生死する我がいのちがふとその光に目覚めたとき、固執の氷が融けて大海に帰するように、法爾(ほうに)として生死の対立が越えられる。そのとき安堵が生まれ、新しい生の輝きがわが身心をよみがえらせる。

崩壊より他ない生にしがみ付いて、しかも果敢なく息災延命を祈る哀れな要求が、ある種の宗教の中心をなしているとするならば、今われわれが生と死に際断されない無量寿無量光のうちに永遠のいのちを得しめられることは、実に言いようもない幸慶である。その広大無辺の教に遭い得たことを謝さずにはおられない。

われわれが今日、執われた生の上に相争い人類が共に危機に立っているという現状の底には、生の根本的課題の未解決が潜んでいると思う。自らこの生をまことの生たらしめ、そこに人類の真の文化と歴史を新しく建設すると言う使命がわれわれに課せられている。自らのいのちにその道を開くとともに、仏陀世尊の覚道を通じて世界の歴史にまことの光明を投げ掛けねばならぬという任務を胸深く感じるのである。




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